制服のボタンが取れていた。
左手の袖口の。
何かに引っ掻けたのかも分からない。
駅から学校までのいつもの道を、他の生徒の流れより少し遅れながら、「今日はついていない日か」と落胆しながら、まこっちゃんはてくりてくり歩いていた。
ま こ っ ち ゃ ん の 袖 口 に は
白 い 小 さ な ボ タ ン が
つ い て い る
。
校庭の楠は葉の色を変え、頬を撫でていく風もいつしか冷たい。ここ数日の急激な気温の変化で風邪を引いた生徒もいる。
これからの季節、まこっちゃん達三年生は普段以上に体調管理に気をつけなければならない。来年に控える大学入試試験。その“一大イベント”は、高校最後の夏休みを終えた三年生を少しずつ神経質にさせていった。推薦試験受験者には今日や明日が本番のものもあったはずだ。昼休みや放課後になると自習する生徒の姿が目立ち始めてきた。
まこっちゃんはと云えば現時点では志望校の安全圏内に入っている。このままの調子でいけばおそらく合格できるだろう。自分の状態や成績を客観的に考えてまこっちゃんは確信を持っていた。だから自然、入試までの残り日数、というよりも、高校生活の残り日数、という視点で考えることが多くなる。三年間通った通学路、見慣れた校舎、生徒の群れ、自分がその中の一員であるという自覚。
この三年間の濃密さが自分にはまだ理解できない。ということを、まこっちゃんは知っている。
二十歳になって、就職して、結婚して、家庭を持って、老いて衰え、死ぬ間際にでも辿り着いたらようやくこの十代の輝かしさが身に沁みてくるんだろうか。ありがたく思えるんだろうか。あの頃は贅沢だったと、あの頃は何でもできたと。そう思える日が、くるんだろうか。
「そうは、思えない。てか、自分が結婚とか家庭とか、幻想世界の領域」。
靴のつま先を睨みつけるように一人呟いたまこっちゃんは、ふと気配を感じて顔を上げた。
いや、気配ではない。人の声にだ。女子の声。まこっちゃんは騒々しいことが嫌いだ。西高に入ってからというもの、常に周囲は騒々しかった気がするが、やっぱりそれは好きだから、ではない。環境と当人の気持ちは当然ながら沿わない。二者の間に違和感を感じて、人は異なる対応を取る。即ち、周囲を変えてしまうか、自分を変えるか。
おれはどっちだったんだろう。
まこっちゃんは声のしたほうに目を向けながらふと思う。
ああ、そうか。自分はどちらにも属さない。
(だっておれは、属することを、諦めるんだ)。
それだって立派に一つの回答であることにはかわりないのに、つい自嘲的な笑みが零れてしまうのは、属さないことに劣等感を感じているからだろうか。
校門が見えてくる。近付くに従って生徒の数が多くなる。
まこっちゃんは歩幅を広げ、歩くペースを速めた。傍らを通り過ぎる時、えーだってひめかわくんがー、と楽しげな声が聞こえた。続いて笑い声が追いかけてくる。ひめかわの姿も視界の端に捕らえたがあえて声を掛けない。
(のんきな奴だな)。
まこっちゃんは心の中で毒づいて、すぐ溜息をついた。自分はいつからこんなに嫉妬深くなった。ひめかわが人気者であることなんて、自分の知らない友人が多いことも、彼らが必ずしも、というかほとんど、自分とは気の合わない、ジャンルの違う人種であることも、男女隔てなく接して疎まれない彼の天然素質も、そして自分は決してそうはなれないことも、ずっと、知ってるくせに。
「あっ」。
後方でひめかわが何かに気づいたような声を出す。まこっちゃんの歩くペースが、まこっちゃんの意志とはまったく無関係に緩やかになった。名前を呼ばれる瞬間を待ち侘びて、ボタンを失くした袖口を手で握る。
しかし。
「おはよ、エース」。
ひめかわが呼んだのは別の名前だった。
まこっちゃんは、属さないことを選びながらも、人気者であるひめかわのほうから名前を呼ばれることに期待した自分の甘さと弱さと情けなさに、顔が熱くなった。
「ねえ、まこっちゃん。もしかして熱あるんじゃない?」
ひめかわから指摘されたのは一時間目の休み時間だった。理科室への移動中のことだった。
ひめかわは学年の壁を越えて校内の有名人だ。後輩の男子生徒からも気安く「ひめ先輩」と呼びかけられ、へらへら笑って手を振り返す。そんなひめかわの隣で、興味無い、といった顔を保っていたつもりだったので、掛けられた言葉は意外だった。
「顔、赤いか?」
まこっちゃんが視線を上げるとひめかわは「かなり? うん。いや、ちょっと?」と曖昧だ。
「どっちだよ」
「赤い」
「あ、そう」
「風邪、ひいてない?」
「この時期にか」
どっかのバカじゃあるまいし、と続けそうになってまこっちゃんは慌てて口をつぐんだ。ついさっき、具合が悪いと保健室へ向かった女子にひめかわが気遣う声を掛けていた記憶がまだ鮮明だ。なんてことはない、ただの、取るに足らない光景なのに。もし自分が彼女の立場だったとしてもひめかわは同じように、いや、それ以上に気遣ってくれるのだろうに、何をこんなに落ちてんだか。
(落ちてる? 何で? いや、ないないないない)。
考えを振り払うように頭を激しく振ったまこっちゃんは本当に具合が悪くなってきた。
ひめかわが困ったような表情を浮かべている。散歩中に突然立ち止まって動かなくなった飼い主を見上げる犬のようだ。もっとも、身長はひめかわのほうが高く、見下ろす形になっているのだが、不安を隠さない眼差しの種類は忠誠心にも近しく、人によっては、心配させてしまったことに罪悪感さえ抱かせる、そんな眼差しだった。
「熱だけでも、計ってきたら。おれ、先生に云っとくから」
「良いって」
「でも、ひき始めが肝心だから」
なおも食い下がろうとするひめかわを「ほんとにだいじょうぶだから」と押しとどめてまこっちゃんは自ら先を歩いた。自分を追いかけてくるひめかわの気配を感じながら、まこっちゃんは泣きそうになる。
果たしてひめかわの心配は正しかった。
三時間目の体育の後、まこっちゃんの体調はまこっちゃん本人もさすがに自覚する程度には悪化していた。熱を計ると七度を超えている。鬱陶しいことには咽喉にも違和感がある。四時間目まで授業を受け、昼休みに早退することを決めた。「荷物、持ってあげる」とまで申し出るひめかわを「や、そこまでしてもらう理由は」ときっぱり断った。すちゃっ。じゃあじゃあ、せめて校門まででもっ、と今生の別れのように大袈裟なひめかわにまこっちゃんは折れた。
まこっちゃん死なないでね、と懇願するひめかわを校門に置き去りにして、朝方通ってきた道を駅に向かって歩き出す。毎日往復しているわけで真新しい眺めでも無いのに新鮮なのは、ひとりで歩いているからなんだとまこっちゃんは気づく。すっかり慣れきっていると思っていたこの町並み、光景。他の生徒の姿が見えない時間帯に歩くとまるで知らない土地に踏み入ってしまったかのような感覚に陥る。それもこれも熱があるせいだろうか。
行く手で停車した幼稚園のバスが園児達を降ろしている。
そうか幼稚園児はこんな時間に解放されていたのか。
まこっちゃんは三年間通い続けた通学路の上に新たな発見をして気分が浮き立つ。折角だしちょっと寄り道でもしてみるか、と脇道に逸れて十分後、はい、めでたく迷子になりました。
「えーと……」。
どうしてまっすぐに帰らなかったんだおれは。
まこっちゃんは携帯電話を取り出して誰かに連絡を取ろうかとも考えるが内容がくだらないと思い直し、なんとか自力で頑張ってみることにした。
ら、深みにはまった。
電柱に貼られた住所を読み取るが聞き覚えの無い地名だ。
いや、だいじょうぶ。
ここは日本。住宅街。そして情報化社会だから。
まこっちゃんはとりあえず近くにあった公園に入って一休みすることにした。自販機でポカリスエットのボタンを押したつもりだったがコカコーラが落ちてきた。風邪の咽喉にはやばいだろ。そう思ったがやけくそになって口をつける。
ペットボトルを呷ると、左手の袖口が視界に入った。取れてしまったボタン。そこからなんだか、ついてなかった。やっぱり今日はついてない日だったのか。まこっちゃんは納得することで少し落ち着いた。落ち着くと周囲を観察する余裕が出てくる。
公園には子供がいる。老人もいる。野良猫もいる。いや、散歩中の飼い猫かも知れない。彼らの目に制服姿の自分はどう映っているんだろう。案外、どうとも思われていないのかも知れないな。
秋の空は高いと云われるが、空の高さは年中同じだ。
変わったのは、地上で生きる人間のほうなのだ。
真夏の強い陽射しが弱まり、空が見上げやすくなった。見上げる機会が増えた。だから高く感じるのではないか。
まこっちゃんは黒い炭酸飲料で咽喉を潤しながらそんなことを考えてみた。携帯にメールの着信があり、ひめかわからだった。内容を確認し、苦笑する。
「……バカだな」。
その言葉がひめかわに向けてのものなのか、自分に向けてのものなのか、はっきりしないし、はっきりさせる必要も無いだろう。
ちゃんと、心配されてる。
野良猫か飼い猫が寄って来てまこっちゃんの足にまとわりついた。ベンチの上に残り僅かになったペットボトルを置いて、まこっちゃんは両手で猫を抱え上げた。
「お前はいいな。この時間帯いつもここに来るのか?」
まこっちゃんの問いかけに答えているつもりなのか、猫が「みゃー」と鳴いた。
「そうか、そうか。おれは初めてなんだよ」
猫が今度は首をかしげる。
「猫の世界にもバカなやつはいるのか? きみはバカか?」
猫が元気良く鳴いたのでまこっちゃんは思わず吹き出した。
「あれ、まこっちゃんじゃないですか?」
その時、自分の名前が呼ばれた。まこっちゃんは反射的に立ち上がると地面に猫を放った。猫は空中で身を捻ると難無く着地してみせる。しゅたっ。
その様子を確認しながら制服についた毛を手ではらい、まこっちゃんは相手に向き直る。
「やあ。宮野暁くん。久しぶり」
確か、そんな名前だったはずだ。
「あはは。そんな慌てなくても。いいじゃないですか。猫ちゃん、好きなんですか?」
猫ちゃん。
こいつは、という目を向けたが相手は意味に気づかなかっただろう。
それより気がかりなのは、
「きみは何をしてるんだ。学校へ行けよ」
「あ、今から行きますよ」
「ならおれと逆か」
「あ、もう西高終わったんですか? さすが校風が自由な学校は違うなあ」
「……ちょっと見下してんだろ」
この校区には四つの高校がある。その名も東高、北高、南高、西高だ。偏差値がもっとも高いのは東高で、有名大学への進学率も、次点の北高を大きく引き離して高い。南高と西高の偏差値はそう変わらないが、いつからある言葉か、「日昇るところの東高、日没するところの西高」というフレーズによって西高の相対的なイメージは定着してしまっている。イメージは時に実質に勝る。
「いやいや、決してそんな意味じゃないです!」
宮野は体の前で両手を振って否定した。まこっちゃんがわざと意地悪に「ふうん」と鼻を鳴らすと今度は笑顔になった。
「もう。からかわないでくださいよ」
まこっちゃんが本気でないことに気づいた宮野は安心したようだった。
「それより、大丈夫なんですか? こんなところにいて。熱、あるんですよね」
なんだ、こいつも分かるのか。
まこっちゃんは目の前の男を見据える。
へらへらしているようで、何も観察していないわけじゃない。きっとそれは、観察というよりも、もっと自然に感受するものなんだろうが。人の変化に気づく。人の感情を察する。そういう能力は、天然由来なんだろうか。それとも。
「あ、ボタン取れてるじゃないですか」
驚くべきことに宮野はそこにまで至った。まこっちゃんが呆然としていると「ほら、ここ」と自分の左の袖口を示して見せる。
「いや、まあ、それは、知ってるんだけど……」
まこっちゃんの手を取った宮野は「はい、座って」とベンチに並んで腰をおろした。一体何を、と訝しがるまこっちゃんの隣で宮野は鞄から何か取り出す。
「裁縫セット!」
驚愕の表情を浮かべるまこっちゃんの見ている中、宮野はコンパクトタイプの裁縫セットから針を取り出し、それに糸を通す。あまりの手際良さにまこっちゃんは自ら袖口を差し出した。
「うわあ。まこっちゃんの手首、細いし白いですね」
「こんなもんだろ」
宮野の前髪が茶色に透けている。少し身を屈めて寄り添うから目の前に迫ったそれを、まこっちゃんは初めて見る生き物のように眺めていた。それでいて宮野はひめかわに似ていた。
(のろい、なのかな)。
まこっちゃんはぼんやりする頭でついにわけが分からなくなる。
空は澄んで、公園は平和。少し離れた場所で毛づくろいしながら猫が様子をうかがっている。平日の昼下がり。異なる制服を着た男子高校生が二人、ベンチに寄り添って一人は手首を預け、一人はチクチクと針を動かしている。
「慣れてる、な」
「そうかもしれないですね。うち、貧乏なんで」
「ん。貧乏は理由になるのか?」
「弟達のおさがりを繕いながらやってくわけです」
弟たち。
まこっちゃんは大所帯を想像する。
「大変だな」
「うーん? てことも、ないですけどね」
宮野は伏せた目で笑った。まこっちゃんは慌てて目をそらす。そらした後、「何故そらす!」と自分を問い詰め、また視線を戻した。
そうしている内に袖口にボタンが縫いとめられていく。
「はさみ、はさみ」
宮野の言葉にまこっちゃんは自分が求められているのだと気づき、あいている右手で裁縫セットからミニサイズのはさみを取り出して糸を切る。
「はい完成ですっ」
「……きみは、すごいな」
素直な感想が漏れる。まこっちゃんは袖口を掲げて空にかざした。以前のとは少しだけ色味の違う、白いボタン。手首には宮野の感触がまだ少し残っていて、ぬくい。
まこっちゃんはふと、帰り道を思い出したような気がした。知らないのではなくて忘れていた。知っているのに知らないふりを続けたから忘れていた。それもこれも全部。思い出した。
「ボタンも、持ち歩いているんだな」
「ええ。不測の事態に備えて」
「……モテるだろ。その雰囲気で実はマメとか」
「え、褒めてくれてんですか、それ?」
まこっちゃんはその質問には答えず「同い年なんだし、敬語は要らないんだけど」と、前回も何度か云った気のする言葉を繰り返す。
「あ、すいません。いつもは茜ちゃんからまこっちゃんの話聞いてるんで、おれと同い年ってよりは茜ちゃんと同い年って感覚があって」
「あかね、ちゃん?」
まこっちゃんの言葉に宮野は「はいっ」と一際嬉しそうに頷く。
「茜ちゃんです」
「……柴さんのことそう呼ぶのか」
裁縫セットを鞄に戻しながら宮野は「てへへ。はい、念願かないまして!」とだらしない笑みを浮かべた。
こういったタイプの人間は好きなやつの話をふられるとどうしてこうも分かりやすいのか。
まこっちゃんは、オージについて語るひめかわの表情を思い出す。
てへへ。えへえへ。でれでれ。てろろん。らららん。
いつもなら思い出したくも無い表情だが、今なら思い出しても何とも思わない。哀しくはならないし、落ちたりもしない。
「なあ、宮野。毎日楽しいか?」
「はいっ」
「……愚問だったな」
「まこっちゃんは、楽しくないんですか?」
「今は少し楽しいかも知れない」
宮野の表情が一瞬呆ける。
「……何だよ」
「や、あの、まこっちゃんもそういう素直なとこあるんだなあと思って」
それを聞いたまこっちゃんは目を細めた。
「どんな人間だと思ってんだよ」
「平凡で、いかにも人間って感じがして、本当は素直でかわいいのに、ちょっと冷めてる」
ご丁寧に指を折りながら挙げてくれる。
「って、茜ちゃんが」
「あ、そう」
「片想いしてたんだって云ってましたよ」
その時だけ宮野の声のトーンが低くなる。まこっちゃんが「は?」と顔を上げると宮野はベンチに背中を預けて空を仰いだ。そして溜めていたものを吐き出すように、
「まこっちゃんは鈍いから、って。でも鈍いまこっちゃんが好きだからそのままにしておいたら卒業式になってたんだ、って」
はて。まこっちゃんは顎に手をあてる。柴さんを好きなのはおれであって、おれを柴さんが好きだったんじゃなかったはず。だって、そうでなきゃ、おれはどんだけ自分のことしか見えてなかったんだ?
「あっ。すいません。あてつけとかそういうんじゃ、全然、無くてっ」
「うん。いや、ぜんぜんいいけども」
「話し込んじゃって、体調、大丈夫ですか?」
背凭れから体を起こして宮野が覗き込んでくる。茶色い目。姿勢も言葉も打算じゃない。そう信じたって、信じるものがただ自分が信じているという理由だけでそこにあるわけじゃないかも知れないとか云ったって、信じることすらできないんなら、人間、寂しすぎる。
「宮野くん」、まこっちゃんは立ち上がった。
「はいっ」、宮野が自分の鞄を持って倣う。
まこっちゃんは数歩先で自分を見上げている猫に話しかけるかのように云い放った。
「正直に云うとおれは今、迷子になっている」
一瞬の沈黙の後、宮野が「はい」と神妙に頷いた。
まこっちゃんは引き締まった表情で彼を振り返る。
「だから、だ。駅までの道を、教えて欲しい」
まこっちゃんが云ったのを確認した猫は退屈したようにその場をのっそりと立ち去っていった。
高い秋の空の下、まこっちゃんの袖口には白い小さなボタンがついている。
終