空は明るい青緑、地面は土。
赤い上着(借り物)を羽織った体がこちらに背を向けてしゃがみ込み、足下の土をせっせと掘り返している。
いくつかの苗を入れた箱を両手で抱えて戻って来たひめかわはその場でふと立ち止まった。
空は明るい青緑、地面は土。
ああ、チョコミントみたいなんだ。なんだかあまい風景だと思ったら。
しゃがんだ背中が丸くて小さくて、ああいう実がなる植物なんだっけ、ほらあの正月に見るやつ、と、ついてきた家猫に話しかけるが彼女は、うに、と首をかしげるばかりで答えは得られない。
さく、さく、と土を掘り返す音がする。黒い後頭部が、深い襟の陰に隠れて、少し、右や左へ揺れ動いているのが分かる。
「オージっ」。
声を掛けたくなるのを何故か耐え、ひめかわはしゃりしゃりと土の上を歩いていった。先に猫のほうがオージにまとわりつき、お、と振り返った黒い目がひめかわを見上げる。軽作業のためか白い頬が上気して薄く染まっており、ひめかわは奇声を上げたくなる。ねえ、そんなおれはおかしいかな。
「おっせえ、ばかずま……って、何にたにたしてんだよ、きもちわりいな」。
きもちわるいからしねばか、と呟いてオージはひめかわから苗の入った箱をひったくるようにして受け取る。必ず語尾に付く罵声にも慣れた。慣れたというかひめかわにとってそんなものは苦痛でもなんでもない。オージの口から向けて自分に発せられる言葉はすべて愛の言葉にとってかわる。しね。それを云うためにオージが自分のために口を動かしてくれた。ばか。それを伝えるためにオージがわざわざ舌を動かして時間を割いてくれた。かつて友人Mから「あんだけ悪態つかれてさ、プライドきずつくことねえの?」との質問を受けて、ひめかわが真顔で返した言葉がそれだ。
「……プライドがねえんだな。そもそも」。
友人がひめかわの顔に哀れむような、いやいっそ羨むような視線を彷徨わせたのも無理はない。
「本当にだいじょうぶか?」。
相変わらず立ち尽くしたままにへにへしているひめかわに、下方から抉るような視線が送られる。
「え、何っ」。
「だから。ちゃんとやり方教えろよって云ってんだよ」。
「あ、うんっ」。
ひめかわはオージの真向かいにしゃがんだ。最初に教えたとおりに畝はすでに象られている。軍手をした手からスコップを受け取り、箱から苗を一つ取ると、ひめかわは初めに手本をして見せた。オージは真剣に手順を見ている。その横で猫もひめかわを見ている。
(う、わ、何このツーショット!)。
軍手をした手を顔に当てて土の上を転がり出したひめかわを、オージと猫は不気味なものを見る目で見ていた。
「おまえの飼い主の頭だいじょうぶかよ? おばちゃん呼んできたがいいのか?」。
途方に暮れたオージが傍らの猫に質問する。
(何その組み合わせ! 何その質問!)。
するとひめかわは余計に土の上をごろごろする。
ばっかみてえ。
口ではそう云いながらオージはつられて愉快な気持ちになる。決して表情に出さないように気をつけるが、次第に抑えられなくなってくる。
西高のアイドル。
アイドル。
これが?
体中に土くっつけて寝転がってるんだけど。
へえ、これが。
ばっかみてえ。
いつもたくさんの友人に囲まれて、笑って、叫んで、どうでもいいことで何時間も悩んだりして、体調崩して、自分のことも管理できてないくせに、他人のことをいつでも最優先する、これ、が?
騙されるな、エゴだ。
自分の中でそんな声がする。
こいつは、いや、このタイプは、自分より他人を大切にできる自分が好きなんだろ、要は自分が好きなんだ、だから本当は誰のことよりも自分が好きなんだ、対価を得ない自分を上等な人間だって思うためなんだろ。
でも、と別の自分がすぐに反論する。
自分が好きで自分だけが好きで自分のことしか構えない人間でいるより、自分が好きですごく好きでだからもっと自分の好きな自分になるためについつい他人に優しくしちゃうような人間になることって、そんなにも恥ずかしくて厄介で劣ってんのか? 違うと思う。
違う。
地球には人間がたくさんいる。いろんな人間がいる。自分はその内のほんの一握り、いや、握るほどもない、握った指の間を零れていった後、てのひらに残る粉末のような数としか出会えず知り合わずやがて死んで朽ちてゆく。それでも自分が出会うそのわずかな数人すべてと通じ合えるわけじゃなく分かり合えるわけじゃない。
オージはそれをつい最近になって分かった。
何しろ、とオージは膝を抱えると服が汚れるのも構わずしゃがんだ姿勢から土の上にお尻をつけた。
「何しろお前のことさえまだよく分かんねえもん……」。
自分にしか聞こえない程度に呟いたつもりが、オージのそのセリフにひめかわががばっと体を起こす。色素の薄い髪が勢いあまって顔面を打ち、土にまみれた軍手がかきあげると顔が汚れたが本人は至って気にしない。あぐらをかいた姿勢を前に乗り出し、やや仰け反ったオージに顔を近づける。
「お、オージっ」。
「な、なんだよっ。急に起き上がってくんなよ、だいたい反応がいちいちきもちわりいんだよお前は、ばかっ」。
オージはお尻で後ずさった。
唇を引き締めたひめかわは詰め寄ろうとしたが間に今植えたばかりの苗があるのでそれ以上前進を諦める。
休戦、ぐっじょぶ。
二人の間で寝そべった猫様がレフリーの眼差しで体格差の大きな二人の高校男児を交互に見上げている。その後、平和な長いあくびをした。
「ねえ、オージさあ」。
「んだよ」。
「おれのこと、もっと知りたくなんない?」。
「は、何で。知ってるけど」。
「そうじゃなくて」。
「お前が毎朝遅刻ぎりぎりにしか起きられないこともグリーンピースが苦手なことも猫の世話にかまけて宿題しねえこともな。以前より分かったよ、どうでもいいことが」。
この家に来てから、と付け足した時、オージは気まずそうに目を伏せたが、すぐに顔を上げて勝気な瞳でひめかわを睨んだ。
お。
ひめかわは思う。
おお。
おおお。
(オージ、云い返す時、目逸らさなくなったなあ)。
指摘すると次回から意識して逸らされそうだから云わない。ほんの一年前まで、オージは自分の顔を人から見られるのを嫌がった。長く厚くぼさぼさの前髪で顔の上半分を隠し、それでも飽き足らず、コンタクトレンズやおしゃれめがねが普及した現代では稀有すぎる本気の瓶底眼鏡で鉄壁ガードを作っていた。あれはあれで今思えば顎の小ささが際立って萌えだな。そう考えるひめかわは基本的に病気であるが、目の前に存在する、ほとんど素顔のオージを改めて見ていると、やっぱりオージにはこっちでいて欲しい、と思う。見た目うんぬんの話ではなく、オージが自らの顔を隠蔽する理由がオージがまだ過去から逃れられず苦しみ続けていることの証明であるから、だから仏頂面でも良いから自分の前だけでもいいからせめてせめて日に一度でもいいから、素顔でいられる時間を持って欲しいと思う。エゴかな、と思う。だが何が悪い、とも思う。他人に対してエゴの感情さえ持つことのない人間は果たして人間として充実しているのかどうか、とも思う。
「じゃ、なくて」。
ひめかわはがくりと肩を落とした後、両手に畝を越えさせた。
オージの足首を掴んで、猫が伸びるような姿勢になる。苗の葉が顎にさわさわ当たってくすぐったい。
「悩殺ポーズ」。
意図せずこうなった経緯を一言にまとめてみると、掴んだ箇所からの振動でオージが身震いしたのが分かる。短い前髪の下で大きな瞳が半目になってひめかわを睨むがそれはひめかわの中に「か、かわいいっ。今日のオージいつにも増して超絶かわいいんですけどっ」以外の感想をもたらさなかった。
「だって、不公平だなって思う時あるもん」。
「は、何がだよ。お前いつも主語が欠けてんだよ」。
「それはね、オージに質問させるため」。
「あ。そ。で。何が不公平なんだよ」。
いつもなら呆れられて無視されるところを奇跡的に拾ってもらえたひめかわが顔を輝かせる。
「信哉さんや光さんが知ってておれが知らないことがあるのって不公平だ」。
ふいに二人の兄の名前を出され、オージは怪訝な顔をした。
「だからオージはおれにもっと自分のこと話すべき。あの二人の知らないこともちゃんと教えるべき。じゃないと不公平なの」。
伸びきったひめかわの背中に猫がよじのぼって同じ体勢をする。
何だこれは。
オージは握りかけた拳を猫の身の安全のためだけに下ろした。
「……信哉さんは、お前とは比べ物になんないくらい、別格なんだよ、ばかやろう」。
「むう」。
ひめかわが口をへの字に結ぶ。光の名前が出なかったが、オージがあの黒髪に褐色肌の兄よりも金髪頭で恐ろしいほど整った顔立ちの兄のほうを慕っていることは既知だ。どちらもオージとは半分だけ血の繋がった異父兄だ。幼少期を同じ屋敷で過ごし、数年前に起こったある事件をきっかけに三人で家を出ている。その後は借りアパートで自炊生活をし、二人の兄がそれぞれ別の高校に通い始めたことをきっかけにとある田舎の戸建てを買い上げ、信哉とオージは二人暮らしをした。ちなみに家賃はすべて元いた家に出させている。縁を切る代わりに経済的な援助を受けるという契約を取り付けたのは、十代から抜け目無かった信哉の功労だろう。そうでなくとも世継ぎとなるはずだった少女の双子の弟の扱いに困り果てていた本家にとって信哉からの申し出は望ましい解決策として歓迎されたに違いない。ついでに若き家主が異国で設けた混血の兄弟の問題も経済的な支援を約束するだけで厄介払いできるというのであれば、金に不自由しないあの家にとってこの上ない好条件といっても過言では無かったろう。
事件について、本家での暮らしぶりについて、ひめかわは詳しくは知らない。
彼の友人であるエースや松橋、まこっちゃんのほうが余程多くを知りえているようではあったが、彼らがひめかわに吹き込むことは無かったし、ひめかわ自身、オージが話し出さないことを無理に訊くようなことも無かった。
それでも、信哉と光、オージの三人がただ幸せに快適な生活を送ってきただけだとは思わない。そうでなければかつてのオージが、今だって完全に解けたとは云い難くあるものの、他者に対して異常なまでに頑なだった理由、オージに関してのみ発揮される信哉と光の恐るべき凶暴性と庇護傾向、などについて説明がつかない。さらに、学校におけるオージの「護衛役」として友情をスタートさせた桐谷コウ、通称ニコの存在も。ニコはその呼称にあるように笑顔が人懐こい少年だ。初めて会った時ひめかわは彼があれほどまでに運動神経が優れているとは思わなかった。甘い物に目が無く、平時から柔らかい笑顔で、この世の悪や醜い感情などとはまったく無縁のように見受けられるからだ。無垢。そう。ニコの笑顔を端的に形容するなら無垢が一番近いように思われる。だが、一旦「スイッチ」が入ると信哉の次くらいに恐ろしい。あいかわらず無垢な笑顔を損なわないから一層恐ろしい。相反するものを併せ持ち、一方が発露されたからといってもう一方は損なわれない。仮に対決したとしてひめかわは足元にも及ばないどころか気づいたら視界から消されていることだろう。そんな日が来るはずも無いが。
「もしかして、信哉さんに何か云われたのか?」。
黙りこくったひめかわをそれとなく気遣うようにオージが問いかける。自らの敬愛する兄が、自分以外の人間に対しては度を越して冷酷であることを知っているからだろう。
「……」。
ひめかわの沈黙が答えだった。
「……云われたんだな」。
オージは溜息を吐くとひめかわを元の体勢に戻るよう促した。すると何故かひめかわは元の位置では無くオージの隣に移ってきたが受け容れる。
「で、何を云われたんだよ」。
「……云いたくない」。
「はあ?」。
だったら最初からいじけんな、と怒鳴りつけたくなるのをオージは堪えた。自分もだいぶ成長した、と思う。まあ、この忍耐もいつまでもつか不明ではあるが。
「ああ、そ。じゃ、訊かねえよ」。
沈黙が続いた。
二人は膝を抱えていた。
目の前には畑。
手前には即席のミニ畑。オージが「おれも何か育てたい」と云ったのを聞いてひめかわが場所を取ったものだ。まだ苗は一つしか植わっていない。そういえば作業途中だった、とオージはぼんやり考える。
空は青い。
じっとしていると寒さが身にこたえる。
同じ気持ちになったか、ひめかわが自らの膝を胸に引き寄せた。
喋る、とオージは思った。
「……オージを死なせたら殺す。すぐじゃない。じっくり時間をかけて殺す」。
ひめかわの耳に低い声が蘇る。もし自分が女だったら、もし内容が愛の言葉だったら、傷つくと分かっていても落ちてしまう。そんな恋。を予感させる。声。
(声の力って、すごい)。
吹き付ける北風だけが理由ではなくひめかわは震えた。すっと細められた眼光の鋭ささえ脳裏に描かれる。
「……からかわれたんだろ」。
オージが呆れた様子になる。そんなことか、とでも云うように。
「本気の声だった」。
「……じゃ、酔ってんだ。信哉さんは案外酒が弱い」。
「おれの携帯に電話してくるくらいには酔ってなかった。呂律も確かだった」。
「……じゃ、やっぱからかわれたんだ」。
「本気だった」。
「……酔ってたんじゃねえの」。
「でも携帯を操作できる程度には冴えてた。本気なんだ」。
堂々巡りである。
再び戻ってきた僅かな沈黙の後、ひめかわが唐突にオージのほうに体を向けた。驚いたオージが身を引くよりも早く、ぐう、と音がする。何の音かと思ったら、オージを抱き締めたひめかわが肩に埋めた口から漏らした呻き声だった。
「……なんで、なんでオージちゃんと云ってくんないわけっ」。
「お、おれが何をしたんだよっ」。
「……信哉さんは電話から聞こえたオージの声だけで分かったって云ったしっ」。
「話が、見えないんだが」。
「……風邪、ひいてたんでしょ。オージ」。
ずび、と洟をすする音がした。
汚ね、と体を離したがるオージだったがひめかわの力が存外に強く身動きが取れない。勢いあまって土の上に押し倒されながら、何故だ、と青空に問うた。
(そして猫よ、どこへ行く)。
ついさっきまで辺りをうろうろしていた猫がまるで気を遣うかのように場を去っていく。
まさかそういう展開になるわけじゃないよなだってまだほら空明るいし、ってか展開ってなんだそういうってなんだ空明るいのとか理由になんねえし、いやだから何も展開しねえしっ。
げしっ
ごほっ。
オージの膝に急所を蹴り上げられ、ひめかわは呻いた。
がばっ。
びくっ。
それでもめげずに抱きついてくるひめかわにオージは身を強張らせる。恐怖や嫌悪といった感情のためではない。オージは誰へともなく弁解する。
ひめかわは、こわい。
「たかが、風邪でっ、んなのいちいち云わねえしっ。お前はおれの何なんだよっ」。
もがくオージをひめかわが体重をかけて押さえつける。
「そ、んっ、じゃ、おれも何かになりたいっ! オージの何かになるっ!」。
「わけわかんねえ。何かって何だよっ。お前がおれの何になれんだよっ」。
「……えと、伴侶とか?」。
「きゅ、急に小声になんなっ。こ、こっちが恥ずかしいんだよ……ばあか」。
オージは咄嗟に視線をそらせたが照れ隠しで最後に付け足した「ばあか」がひめかわの体のどこかにクリティカルヒットしたらしい、失いかけていたエネルギーを取り戻したひめかわが自分がいかにオージを好きであるかをめくるめく言葉の攻撃で攻めている間、オージは自分の何がひめかわをそこまで駆り立てたのか分からず一瞬気を抜いてしまった。それがいけなかった。いや、良かったのかも知れない。おとなしくなったオージを上から抑えこんだひめかわは、体のもっとも深くてあたたかい場所から、じんわわわ、と涙を浮かべた目をオージの肩口に沈めた。
二人は知らない。
昨夜から帰省していた湊が二階の窓辺から「鶏がうるさいと思ったら朝から屋外プロレスか。若いな」と微笑みながら眺めていることを知らない。覚えておこう、平和とはこのことを云う。当人達が自分達の姿を客観的にとらえていない間に繰り広げられる痴態のことを云う。平和とは。
「おれ、お前が恐い」。
ええいままよ、と身を投げ出したオージの口からぽつりと漏れたセリフにひめかわが身じろぎする。オージは構わず続けた。独白のように。迷いながらも、紡ぐように。
「自分の何が、お前をそんなに自分にひきつけていられんのか、わかんない。おれ、おれのこと好きじゃないし」。
そこでひめかわの腕に力がこもる。
「……オージは、いい子だよ」。
どうしてお前がいつも先に泣くんだ。
(てか、どうして今泣くんだ。どこにお前の泣きポイントあんだよ)。
オージは微かに息を吐いた。
温かなそれに首筋をくすぐられたか、ひめかわが、もふあっと笑う。
「互いに手間だから先に云っとくけど否定して欲しいわけじゃねえから。事実おれ、口悪い。愛想も無い。かわいくねえし、ひめかわの得になるようなもの、持ってないと思うし。……あ、黙って最後まで聞けよ。おれ今だけすごい素直だから」。
オージの首に頭を埋もれさせたひめかわは表情を見せないまま、こくりと頷いた。自分のとは違う茶色の髪から同じシャンプーのにおいがするのを、当たり前のことを、オージは今更不思議に思う。どうして同じ家に暮らしてんだろ。
「お前は、いいんだよ。お前に友達が多い理由、分かる。同い年の同じタイプの同性ばっかじゃなくて、老人とか子供とか女とか動物とかに人気なのも、すごく分かる。親切だし、壁無いし、明るいし、よく笑うし、一緒に泣いてるし、相談ごとにも乗ってやってるし、だから、おれがお前を、お前がおれを好きなくらいに好きっていうんなら辻褄が合うんだよ。信哉さんとか光さんのことだって分かるんだよ。ずっと一緒にいたから。二人は否定するだろうけど、少なからず、義務感、みたいのも、あるんだと思うし。でも、一番ありえないのは、お前がおれなんかを好きになることで、しかも、そんなに、好きになるってのは、おかしい。だから、恐い。水たまりの泥水を、これはオレンジジュースだって云いはって飲んでる奴のこと見てるみたいで、おれにお前は不可解だ」
オージはまだ何か続けるように口を開けていたが、続きがあったんだけどもう忘れた、と云って目を閉じた。
黙って聞いていたひめかわはゆっくり体を起こして肘を立てる。
動きを察し瞼を上げたオージは見上げる視線になる。
ひめかわの顔は、オージから、薄くしか見えない。背景の青が澄み渡り過ぎて。
「あーあ、残念だ。おれ、オージはもっと頭の良い子かと思ってた。買いかぶってたね」。
見下すようなひめかわの口調にオージはこめかみをひくつかせる。
「でもオージだから特別に説明してあげるね」。
「な、んだと……っ」。
「先ず、一つ目」、ひめかわの声がオージの反論を遮る。
「おれは何かが欲しくてオージと一緒にいるわけじゃない。損得とか考えたこともない。まあ、強いて云うなら、オージと出会ってからずっと得々状態」。
「……何云ってんだ」。
「二つ目。オージが口悪いのとか愛想が無いのとか、気にしてない。ひっくるめて全部かわいいと思ってる。無視されるより全然すてき」。
「……あほか」。
「ここまでは基本中の基本。で、最後な」。
ひめかわの顔がおりてくる。「今から云うことは、この先一生忘れんな」。
見慣れぬ真剣な眼差しにオージは一瞬戸惑いながら、視線をはずせずにいる。なんだこいつこんな真剣な顔するんだな、と思うことによって動揺を隠すオージにひめかわが告げる。
「自分なんか、って云うな。もう絶対、云うな。それ、間違ってるから」。
「う……わかった」。
静かな気迫に押されたオージが思わずこっくり頷くと、ひめかわはようやく安心したように笑った。ようやくいつもの空気が戻ってきてオージも安堵する。
(今一瞬、別人みたいだった)。
「そんなオージのこと好きになってるおれが、バカみたいじゃん」。
「……バカだけどな」。
「あ、バカって云ったあ。バカって云ったほうがバカだしい」。
「そういう小学生っぷり面倒くせえからやめろよほんとバカだなうぜえ」。
他愛も無い軽口で今の会話を無かったことにしたいオージだったが、ひめかわがそうはさせなかった。
「あと、オージ。おれのことすごく褒めてくれたよねっ」。
「はあ? 真昼間から幻聴とか頭めでたいな。いつのことだよ。ざけんじゃねえぞこのやろう」。
「ええ、だから、さっき!」。
「……褒めてねえよ」。
「ちょ、まじで頑張ってよく思い出して! 褒めれくれたじゃんっ」。
「……あ? ……ねえし」。
オージが何かをごまかしている気配は無い。
ひめかわは愕然とした。
なるほどなるほど、では天然でしたか。
ああでも天然なとこもオージかわいい少しずつ口数多くなってきてるちゃんとちゃんとオージ喋ってくれてるオージ頑張ってくれてるかわいいかわいいかわいいああかわいい死ぬもうめろめろのとろとろになっちゃうからオージ食べる!
「ねえ、オージ」。
ひめかわは急いで軍手をはずすとオージの頬を挟んだ。警戒しかけたオージは両頬に与えられる手のひらのあたたかさに、自分が冷え切っていたことを知る。これじゃ抗う必要も無くなった気がする。鼻の奥が、つん、と痛んだ。哀しくも嬉しくも無いのに出てくる涙は生理的で、それ以下でも以上でもないものの、見ている相手がどうとらえるかまでは操作できなくて、都合良く解釈されるのも癪だから、遮ってくれるものならばなんでもいい、とまで思い至る。
「何だよ」。
「……して、いい?」。
見られたくない物を道具無しに隠すには、ひどく遠ざかるか、ひどく近づくかのどちらかだ。
そして今は、後者が手っ取り早かった。
それだけの、こと。
だから、正しい。
オージは目を閉じる。
二階の窓から二人の様子を見ていた湊は寝惚け眼を「お」と見開いた。
数秒の硬直後、やっと息が漏れる。
「若いって、いいね」。
自らもじゅうぶんうら若い男がゆるゆると微笑んだ視線のその先には、さっきまで畑を歩いていた猫が毛づくろいをしている。
「猫も、いいよね」。
湊がちょいと手を伸ばすと、毛づくろいを止めた猫は彼の窪みに丸い毛玉となっておさまった。
fin.