1
小学校から駅までの道は河川敷に沿っていた。
白線も横断歩道もガードレールも無い、何も無い人幅の道に時々、真新しい軍手が片方だけだとか、幼児の靴下だとか、また別の日には開封されていないお菓子なんかが落ちてあって、それがどういう経緯でそこに落ちてあるのか、もしかすると置かれたのか、忘れられたのか、何なのか、ほんの十日ほど前に学年が一つ上がり年を一つ取り七才になると同時に通う小学校と自宅の場所と家族と苗字が変わったばかりの一馬には分からなかった。
(ひめかわ)。
気に入るわけがなかった。
(ひめかわ、かずま)。
新学期が始まる前に買ってもらった新しいスニーカーは初日から靴擦れを起こし、かかとを踏んで歩くようにしていた。別の靴を買ってもらうことは考えなかった。家に帰ると、へたれてしまったかかとを立てて何事も無く見えるよう細工していた。何のための努力かは、小学生の彼自身にもはっきり説明できなかった。
夕日はいつも背中から射した。
下校途中の影は前方へ長く伸びる。
踏まれても踏まれても痛みを感じない影のようになりたいと思った。窪まず、壊れず、平気でそこにありながら、常に自分の一歩先を行く影のように。
休み時間に何かのきっかけで奇跡的に会話が弾んだ同級生とも、家の方向が違えばそれきりだった。凝固しない傷口を抱えたように気分が重かった。
前方から歩いてきた雑種犬が濡れた鼻をつま先へ寄せてくる。落ち着いたおとなしい目をしている。頭を撫でようとすると、だめ、と短く鋭い声が降ってきてひめかわは慌てて手を引っ込めたが、叱られたのは自分ではなく犬のほうだった。いいのに、と云いたかったが声が出なかった。犬が行ってしまうと、なけなしの幸運も使い果たしてしまったような気がした。
立ち止まった一馬は再び歩き出した。家に近づくにつれ、歩みが重くなっていくのが自分でもわかった。一足ごとに足裏から地面へ向けて細い根が張り、あと五十メートルも行けばその場にがんじがらめにでもなってしまうようだった。ガリバーのような格好で。
正直なところ、ひめかわ、という苗字を除けば不満は無かった。
(だってなんか、女の子みたいじゃん)。
理由だってそれが正確だったかどうか。本当はもっとべつのことに基づいていたのかも知れないが、当時は、姫という文字が頭についた自分の名前に機嫌を悪くすることこそが彼にとって妥当だった。
半年前に初めて出会った、母の再婚相手は、一見無愛想で口数こそ少なかったが、それも悪意あってのことではなかった。悪意がなかったばかりではなく、後から聞くところによると、いずれは自分の息子となる少年の機嫌を損ねまいとしてかえって肩に力が入ってしまっていたらしい。砕けた言葉遣いができなくて、視線を合わせることもそうそうない。だが、彼が父親となりこの先養ってもらうことになること自体に対しては不思議なほど抵抗は無かった。
年の近い兄も持った。
名前は湊という。
父親とは対照的に人当りが良く、数年先に産まれただけとは思えない落ち着きがあった。きっと母親似なのだろうと思った。
「ごめんな、父さんが、こんなで」。
言葉と裏腹に、湊の口調には父を慕う響きがあった。
そうして、一馬と母の峰子は、姫川家に入った。
(なにが、ふまんなんだろう)。
河川敷を川の流れと逆向きに歩いていると、自分がどこか途方もない遠くへ向かっているような錯覚に陥る。引き返して、元の場所から方角を確かめなければ、もう二度と戻れないような、そしてどこへも辿り着けないような土地へ行ってしまうような。そんなわけ、ないのに。
家に帰れば湊が迎えてくれるだろう。彼は部活動に入っているが、最近は練習を早めに抜けて帰宅する。膝の調子が悪いんだというのはまぎれもなく嘘で、本当は、新しい家族に溶け込みきれない弟を気遣っているのだ。
(ぼくは、こんなに、恵まれているのに)。
早く、早く馴染まなくてはと思う。そうでないといずれのけ者にされて、自分以外の三人だけが家族の構成員となり、行き場がなくなる。そうだ、これは椅子取りゲーム。四人のプレイヤーに対し、三脚の椅子。円卓には腹が鳴るような料理が準備されていて、なんとかありつきたいと思うのに、音楽はすでに止んで、空いている席は無くなっている。
そんな、妄想をした。
夕日は赤い。
誰かの血液の中を泳いでいるみたいだ。
幽霊が見える。
それは、自分を置いてった、祖母の姿だ。
「……おばあちゃん」。
一馬は道の上で立ち止まる。
「浮かない顔してるねえ、かずくん」。
「……おばあちゃん」。
「ぐずぐずしてると日が暮れるよ。暗くならないうちにあんたの家に帰り」。
う、う、と唸るような嗚咽ががこみあげてきて、一馬は泣き出した。
しゃがみ込むと、ランドセルの甲羅に隠れたカメのようになる。ちなみに影はキノコの形になっている。見事なまでに。ただ、当の本人がうずくまった自分のシルエットを把握できることはなかった。
「帰りたくないと思ってたら、この道はずっと続くよ」。
やだ、と一馬は首を横に振った。
「じゃ、早く帰り。お兄ちゃんが、さっきから心配して、家の前に出てるよ」。
いやだ、と一馬は薄茶色い癖毛の頭を揺らした。その色は癖と同様に生まれつきだったが母とは違った。血の繋がらない父とも当然違った。湊は羨ましがるが、一馬はどうだってよかった。
「やだやだって、何がそんなにいやなんだい」。
「何もいやじゃない」。
「じゃあ平気じゃないか」。
「やだっ」。
「さて、どっちなんだい」。
「やだよ、いやだよ、どうしてわかってくんないの、何もいやじゃないところがいやなんだよっ。こうして続いていくのもっ。なんか、みんなみんな、ぜんぶ平気で忘れちゃうじゃんかっ」。
叫んで一馬ははっとした。自分の口から出た声が自分の言葉だとは当然分かっていても、もやもやとしていた胸の中がそういう感情によって燻っていたと、初めて気づいたからだった。
「……どうやらむつかしいみたいねえ、かずくん。おばあちゃんにも分かるように、もう少しだけ、教えてくれないか」。
目を丸くして一馬の言葉を聞いていた祖母は、やがて穏やかに目を細めるとことさらゆっくりと云った。顔を上げた一馬は、その目の端の染みや皺を見て、幽霊でもなんでもいいや、おばあちゃんでもおばあちゃんじゃなくてもいいや、と思った。
太陽が地平線に接した頃、胸の内を出し尽くした一馬の頬には、涙の乾いた跡があった。
「ほら、これで拭いて。そうしたら、もう二度と、同じ理由で泣かないことだね」。
一馬は祖母から受け取ったハンカチで顔を拭いた。しばらく握りしめていたが、迷いを捨てるようにそれを返す。
「……ありがとう、おばあちゃん」。
「そうねえ。かずくんは、笑っていたほうが、かっこういいねえ。私の息子に似たんだもの」。
一馬はまた泣きそうになった。
頭を小突かれて顔を上げるとそこには長い道があった。
長いけれども、行き先を自分は知っていると思った。
迷わない。迷うわけがない。
歩み出そうとした一馬のふくらはぎに、冷たい感触が当たった。振り返ると、さっきすれ違った犬が笑ったような顔で見上げている。
「おかえり」。
飼い主が叱るより前に、一馬は手を伸ばした。
お か え り サ ン セ ッ ト
「……夢じゃねえの、それ」。
春風を身に受けて気持ち良く思い出話を語っていたひめかわは、それこそ夢を打ち砕くような相槌にむっとした表情を浮かべて振り返った。
「もう、なんでそういう夢の無いこと云うわけっ」
が、
虚を突かれたような顔を上げた聞き手と目が合うと、ひめかわの戦意はたちまち喪失する。
河川敷の道の上を、振り返ると誰かの姿があって、ひめかわは今まさにあの赤い夕方と、風薫る初夏の現在が、なんのも予告も狙いも無く繋がったような気がした。
「……何むきになってんだよ。感想云っただけだし。真顔でばかじゃねえの。お前死ねば」。
彼が「死ねば」と口にする時、大抵本心では申し訳ないと思っていることが多い。素直に謝罪できない気持ちが、どういう回路をどう伝ってそうなるのか、いまだ科学では解明されていないところだが、とにかく「すまなかった」は「死ねば」に変換され口をついて出る。そのことをひめかわは知っているから云い返すことはしない。云い返さないかわりに、てくてく歩いて行ってしまう小さな背中を追いかけた。
はたから見れば、犬が飼い主にじゃれついているようにも見える。
道脇にはたんぽぽが綿毛を飛ばしており、頭上には絵の具の青のように正しい青色をした空が広がり、二人がいるのは春の名残と夏の気配がさんざめく世界だ。
だがひめかわには関係が無い。寂しい秋にも厳しい冬にも、彼の目が追うもの足が追いかけるもの手が掴もうとして伸ばされるものの姿に違いはないからだ。年を経ても想いは落ち着くどころか深まっていく一方だった。
「あーもうオージってばあいかわらず素直じゃないんだからかわいいなあもうそんなとこも大好きだから安心して悪態ついてくれていいからねそれがおれの生きがいっ」。
変態かてめえはと呟いたオージは眉を顰めた険しい顔つきをしているが、ひめかわの目にはそれすら愛らしく認識された。思い出の場所をオージと一緒に歩けて幸せっ、と幸福をかみしめスキップしていたひめかわは、ふいに立ち止まったオージの背中に勢いよくぶつかる形となった。
「……だふっ」。
オージの後頭部めがけてもろにぶつかった鼻を押さえたひめかわは、オージの手が、とっさにバッグにのばされ何かを取り出す仕草を見せたが、かろうじて思いとどまったように動きを止め、体の横に再びおろされるのをスローモーションを見るように見ていた。
どったの、と問いかけようとオージの前に回り込もうとしたひめかわを呼ぶ明るい声があった。
「ひめー!」。
「おお、やっぱひめじゃん! ひさしぶり!」。
前方から歩み寄ってきた二人はひめかわの高校時代の同級生だった。ひめかわとは別のところだが地元の大学に進学した面子で、メールで近況報告くらいは交わしあう仲だ。高三時代のクラスは前年までのどのクラスよりも仲が良く、卒業から三か月後に早くも同窓会が開催されたくらいだ。県外へ行った者も多く、大学入学後初めての試験などで多忙な時期にも関わらず出席率が良かったことがクラスの仲の良さを証明することになるだろう。か。これが五年、十年、二十年先となるとまた違った様相を呈するのだろう。
と、先の話はともかく、かつて同じ教室で授業を受けた三名はひたすらスキンシップに勤しんだ。ふざけて肩を叩き合ったり髪をかき混ぜられたりしながらひめかわは、俯き加減に背を向けたオージの様子を窺う。別の場所ならまだしも、河川敷沿いの一本道というのは身を隠すのが草むらぐらいしかない。そして、その草むらに潜るにしてもわざわざ土手を下って走る必要があった。
そんな努力を選ばなかったオージは体の向きを変え、川面を見下ろしていた。斜め後ろからの角度で表情ははっきりと分からなかったが、間違ってもそのハイテンションなやつらにおれを紹介したりするんじゃねえぞ、というオーラが全身から滲み出ている。先日切ったばかりだという髪の、襟足が、シャツの首元にかかっていて、ひめかわはできるだけ早く元同級生たちとの会話を切り上げたいと思う。
(隣ばっか歩いてたら、分からないこともあんだ)。
しかし興奮冷めやらぬ二人の勢いにのまれてしまい、ひめかわがオージに声を掛けることができたのは、およそ十五分経過後だった。
「……ご、ごめん」。
ひめかわがおそるおそる回り込むとオージは、我に返ったように瞬きをした。
「なに」。
「おこ、ってる?」。
ひめかわの探りにオージは、いや、と首を振った。
「いや、寝てたし」。
んなばかな、とつっこみたいひめかわだったがオージの顔はまさに午睡から覚めた子供のようで、それ以上何も云えなくなった。
2
「ひめかわは、分裂すればいと思う」。
本日の目的地へ向かう列車に乗る前にと駅近辺で探して見つけた新しい喫茶店で注文したアイスカフェオレを飲み干した後、水滴で濡れてテーブルに張り付いたペーパーナプキンを見下ろしていたオージがぽつりと漏らす。
窓から差し込む光を斜めに受けて街路樹の陰影が水面の乱反射に似た動きでもって揺れていたオージの顔面に見惚れていたひめかわは理解が遅れた。
「……え?」。
「そうだ。お前、分裂しろ」。
さも、災禍の只中で最善の解決方法を見つけたみたいに。
ゆえにひめかわは混乱する。
冗談とも睦言とも違う、強いて云うなら迷言。
迷わされているのは昨年の春、地元国立大学の農学部生になった姫川一馬に他ならない。
発言者はというと向かいの男の困惑顔など眼中にないようであいかわらず濡れたナプキンの重ねを退屈そうに指先でなぞっている。
ひめかわはその手の甲を、大学生というよりは中学生くらいにしか感じられない華奢なつくりの骨格を、途方に暮れた犬の目で見つめている。
だがそうしてばかりいても仕方ないので、再度問いかけるような心持で正面のオージを見た。
美容室へは、二か月に一度の頻度で定期的に通っているらしい。切ったばかりで軽い前髪の間から垣間見えるオージの白い額はひめかわにとって異性のパンチラだとか無修正のお色気動画などよりずっと価値があるものだった。県外の大学に通うオージとたまの休日がかぶり予定を合わせて再会すればしばらく見ぬ間に野菜でいうところのモヤシの速度で着々と彼は成長を遂げており、取り残されたような一抹の寂しさを覚えつつひめかわは知り合って間もない頃のオージと今現在のオージとを思い出し比較せずにはいられなくなる。手負いの小動物が自分より力の上回る獣に向かって最後の生命力を振り絞って威嚇しているかのような、健気で切実で刹那な荒々しい警戒心は今や薄れている。あるいは、場合状況によってはいつ皮膚の下から出てこないとも限らないが。
何故そんなものが、とひめかわが思うような日常的なことを恐れていたオージも。
何故そんなにも、とひめかわが悲しむほどに他者との接触に否定的だったオージも。
今になって思えば、愛するための良質なきっかけだった。
オージが何かを恐れている時、自分の中に少しでも嬉しい感情が無かったか。オージが自分を含め自分以外の誰かを拒絶する時、ほんのちょっとでも安堵を感じなかったか。
すべてにまったくノーと答えれば嘘吐きになるとはっきり自覚する程度にはひめかわも清廉潔白ではなかった。
正直に云えば、オージの成長を見るのは怖かった。会うたびにどこか変わっていく。不完全で不自然で不自由でも良いから、成長なんかしないで欲しかった。看病と愛情は近いのかもな、と思う。風邪は治って欲しいものだけど。
だが、エゴだ、そんなものは。
ひめかわは思い切って口を開いた。
「お、オージ……お、おこってる? ねえ」。
が、やっと出てきたのはそんな弱気な言葉だった。
伏せられていた瞼が初めて目の前に人がいたことに気付いたように瞬きし、小首をかしげる。
「は、何が」。
「お、おれがさっきずっと友達としゃべってたからっ」。
オージは少し黙った後、
「自惚れもたいがいにしろ、いつまでも拗ねるかよ。ばかめ」
呆れたような溜め息とともに漏らした。
「だってオージ、分裂しろって云ったじゃん。それ、死ねってことだよね」。
ううう、と泣き真似だけするつもりが本当に涙がこみあげてきてひめかわは困る。しかめっ面で「死ね」とはっきり云われた時よりも、真顔で「分裂しろ」と云われた時のほうがショックが大きいというのはいかなることか。
ひめかわの思考がよからぬ方向へ転がりだしたことを感じ取ったかオージは付け加えた。
「あのさ……ただ死んで欲しいなら分裂しろなんて回りくどい云い方はしてねえし」。
ってかなんでおれがおまえのわけわかんねえ落胆っぷりを励ますために誠意尽くして弁解なんかしなくちゃいけねえんだよまじ死ねおまえばか死ね、とオージは思ったが口に出すのを堪えた。成長した、と自分でも思った。が、残念、顔には出てしまったらしい。ひめかわが情けない悲鳴を上げて大粒の涙をこぼすのを無感動に眺めていたオージのポケットが震えた。取り出した携帯電話には、兄の名前が表示されている。
「……もしもし。信哉さん?」。
オージの電話の相手を知りひめかわは身震いする。その振動で、目の縁にたまっていた涙がぽろぽろっと転がるように膝の上に落ちていった。
「……うん、うん。……大丈夫、です。いえ、まだ駅にいて……。……ひめかわと一緒に。……はい。……いえ。……はい。はい……ありがとう、ございます。……じゃ、替わります」。
つと目の前に差し出された携帯電話にひめかわは十字架を突き付けられた吸血鬼の気分で仰け反った。
「え、やだ、なにっ」。
「信哉さんが、お前と話したいって。早く出ろよ」。
ひめかわは慄いたが、あまり待たせるのも良くないと決意しこわごわ受け取る。爆発しねえよと云うオージのセリフが過剰に緊張する自分のための冗談であるなどとは露にも思わない。真顔で「爆発、しないんだね」と確認を取った後、ようやく握りしめることができる。
「は、はい。こちら、姫川一馬です」。
知っている、と低い声が冷静に受け答える。
「すいません。……あの、この度はどういった御用件で」。
ひめかわは電話の向こうの相手に問いかけながらも目の前にいるオージにも問いかけるような気持ちで目を上げた。が、オージはすでに興味を失ったように横顔を向けて頬杖をついていた。街路樹が風に吹かれるのに合わせて、緑色の影と光がその顔の上を踊るように入れ替わる。
ひめかわは少しだけ落ち着くことができた。
「オージは、平気そうか?」。
信哉のその言葉を意外なものに感じたひめかわは返事が遅れた。
その人物をオージの過保護な保護者だとはしばらくの付き合いでとうに分かっていたが、どうも見当違いな気がしたためだった。
「……ええ、まあ」。
「最近、ほとんど薬も飲んでいないみたいだったからな。かえって心配なんだ」。
薬、という言葉でひめかわが思い出すのは、ヘアワックスの缶だ。高校時代、オージはそれをカバンの中にいくつも持ち歩いていた。ほとんどはまぎれもなく髪型を「崩す」ためのワックスが入ったものだったが、その内の二つか三つの中身は必ず、アルミのパウチに守られた、オレンジや茶色のカプセルだった。緑や赤の文字で名前が記されていることもあったが詳しく見たことはないし、見たところでそれがどういう効能を持ち、どういう症状に適用されるものであるのか、まで、調べる勇気は出なかったろう。
(本当のところは、何も、知らない)。
心臓を握られたような痛みを感じてひめかわはオージの横顔から視線を反らす。
「……心配性で悪かったな」。
ひめかわが感じていたことを感じ取ったように、受話器越しに地を這うような低音が鼓膜を震わせる。
「い、いいいえ、べつにそんなことはっ。信哉さんの心配性もある種病気みたいなもんだから長い目で見てやってくれ、って光さんも云ってたし、……あっ」。
口を滑らせてしまったことに気付いたのはほぼすべての内容が滑り出てしまった後だった。
信哉は「へえ、光が。ほお、あの光くんが」などといった意味の無い繰り返しを異様に穏やかな調子で繰り返した後、「たった今用事ができた。この電話は切るが、以後オージに何かあったらお前に非があっても無くても腹いせに抹消するから忘れるな」と言い残し、通話は一方的に切断された。
「からかわれてんだよ」。
返された携帯電話をポケットにしまい込みながらオージが云ってくれるも、ひめかわにはどうも真実とは思えなかった。どう好意的にとらえても信哉の発言のほうが真実だ。高校時代にも何度か身の危険を感じた覚えがある。羨む気も起きないほど整った顔に静かな怒りをたたえて見据えられると犯してもいない罪を告白したくなってしまう。美は害だ。毒だ。自白剤も使わず舌を滑らかにする。
信哉その人が生徒会長を務めていた東高はある種、ジャックされていたようなものだ。
策士の独裁者は無名時代から巧妙だった。まず土を耕した。入学当初から学習面では高成績を維持し、生活面では困った同級生達に親切にすることで教師や仲間の人望を得た。その頃は、目立たず浮かず、付かず離れずがモットーだった。
土台ができると次に種を撒いた。超甘党で喧嘩の強い生徒を見つけ出し、仲間にした。
種は芽吹いた。女子生徒とは必要以上に接触しないようにした。恋愛沙汰は諸悪の根源だと中学校時代に学んでいた。だからこそ交際の申し出は、恨みを買わないよう丁重に断った。男子生徒には溶け込むよう心掛けた。ここぞという場面で借りを作っておくことを忘れなかった。体育系の行事があったとして、自チームのピンチで得点を入れ巻き返すことなどはもっとも効果的だった。
芽は花開いた。二年生の秋に立候補した彼は二位の候補者に大差で会長の座を射止めた。
青春の二年をかけて当初の目標を達成するそれらの執念は尊敬にさえ値する。その上、別の兄もまた他校で同じような成果を上げていたというのだから、彼らはいがみ合いながらも所詮は似た者同士なのだ。
どうしてそこまでできたのかと問うた者がいる。「オージの兄なら当然だろう」。似た者同士は口を揃えた。説明になっているようななっていないようなシンプルな回答だった。
その場にいたひめかわも、分かるような分からないような混乱を生じていた。分からないなら昔話のわらしべ長者を読むといい、と、ますます分からないアドバイスをいただいてしまった。
だが、いくら弟を溺愛していると云えどもそろそろ年齢を考えてみるべきだ。当時もそうだったが、一桁の子供じゃないのだ。
(抹消する、なんて云い方はひどいだろ)。
もっとも、オージに会えない期間のひめかわも似たような状態だったのであるから大きなことは云えない。
一例としては、飢餓や欠乏という単語がやけに独り言に混じる。飼い猫にオージと名づける。昼間に幻覚を見る。前回オージが泊まった夜に使った布団にくるまる。鼻をくっつけて深呼吸する。など、ほとんど生命(倫理)レベルの危機に瀕していた。最長でも一月が限度だ、とひめかわは仮説を立てる。それ以上会えなかったら自分は人としてどうなるか保証はいっさい無い。念のためオージにもその仮説について発表したところ、目を覚ませ、と脛を蹴られて終わった。だがその痛みすらひめかわにとっては快感以外の何物でもなかった。
着々と変態の道を歩みつつあるかのようにも見えてしまうひめかわだった。農学部二年生。の、五月。ともなるととっくにおかしなあだ名が付いていても良いような頃ではあったが、幸いにも彼は人より多少は恵まれたルックスと限りなく犬に近い愛嬌とを備えており、ある程度の奇行や奇妙な言動は見逃してもらえているふしがあった。不可解な難癖があることを差し引いてでも交際を願い出る異性の数は絶えず、高校時代の某と遠距離恋愛中である旨を告げても、距離の離れた恋愛は長続きしないと希望的観点を持ち合わせた彼女らは諦めることもなく、かと云って積極性を増すでもなく、ほとんどがあたかもペットショップにお気に入り犬の様子を見に来る常連客のような体に落ち着いていった。自分の手には入らないけどこいつ早く幸せになればいいな、とでもいうような。親心に似た片思い。歪んでいなくもない慕情。被博愛体質とでもいおうか。
ちなみにひめかわ本人にそういった意識はほとんど皆無と云ってよろしい。
「あのさ、オージ。さっきの分裂のことだけど」。
「なんだよ」。
空のグラスの底で氷の角が取れて丸くなりつつある。それをストローの先で転がしながらオージが黒い瞳で見上げた。瞬間、ぞっとするような感情がひめかわに自覚される。
オージの「病」は、永遠に「完治」することがないのだ。
安堵した時につい漏れるような微笑が、漏れ、そうになって、ひめかわは膝の上で握った拳を固くした。
「……オージ、ごめんね」。
無意識にこぼれていた謝罪の言葉を、オージは違う意味で解釈してくれたようだ。
「おれは、ひめかわはもっといろんな人に共有されるべき人間なんだと、……思うんだ」。
「うん?」。
ひめかわは目を見開いてオージを見た。
オージの視線はあいかわらず氷に注がれていたが、それはふりだけであって、頭の中で本当は違うものを見ているように見えるのだった。
「だから」、オージが何か云いかけて云い淀むのを、急かすつもりはないひめかわだったが、俯いたまま逃げそうになるオージに気づいて、そうはさせるか、とテーブルに身を乗り出した。狭いテーブルはトレイを二枚乗せたらいっぱいになってしまうほどで、そんな場所にひめかわの掌がついたのだからオージが少し上体を反らせた程度では避けようが無かった。
「云いかけたんだから、だめだよ。最後まで云って、オージ」。
追い詰められて貧窮したオージの視線が、逃げ場を探すように左右に揺れる。
河川敷で、ひめかわが同級生達と再会した時、咄嗟に眼鏡を探った時のように。
治ってない。まだ、治って、ない。
ひめかわは嬉しいのと悲しいのとが一緒に存在する心持を初めて知った。それは汚く、醜く、何よりも正直だった。
「……だから」、オージも努力して声を出そうとするのだが、何かが咽喉に引っかかったように息を引き攣らせるだけだった。
「おれ、ちゃんと聞くよ」。
ひめかわが椅子に腰を戻すと、オージの強張っていた肩から力が抜けていくのが目に見えて分かる。
風に吹かれて光を反射する緑の葉に照らされながら、おれが見るオージと同じように、おれもオージの目からは水面が跳ね返す陽の光よりずっと予測のつかない人間なんだろうな、とひめかわは分かる。
ちゃんと、云って。
ちゃんと、聞くよ。
二人はずっと、こうなんだろう。ひめかわは確信に近い予測を思う。
オージ、云って。おれが、聞くよ。
おれたちはそれだけ。ただ、それだけで、幸せになれる。
「おれ、……に、……ったら、……と思う」。
云い終えた後、オージの顔がみるみる赤く染まる。髪の毛が短く、そう、額が、戸惑う黒い瞳が見えるから、二度は無いだろうと聞き逃した自分を詰る。
それでも奇跡は起こった。
「すき……、な……、いけない……」。
甘いと云うだろう。じゅうぶんじゃないかと云うだろう。おれじゃなければ。こいつじゃなければ。
だけど、どうなんだろう。
言葉が心を置いてけぼりにしてるんだとしても、それなりに甘くなってしまうんだとして、それなりにじゅうぶんっぽく見えてしまうんだとして、もしかすると自分だってそう見えているように実感してしまえるとして、それってどうなんだろう。
ひめかわは、オージのために泣きたかった。
近頃自分が輪をかけて涙脆くなったのは、自分のために泣かない人のことをこんなにも好きでいられるからなんだなと分かった。
いつか伝えられればいい。伝わればいい。
そしたらおれは。
いいのに。好きになっていいのに。
って。
絶対に頷くのに。
3
初めて見た墓石は想像していたよりも普通だった。
と云うと普通じゃないどんな墓石を想像していたのかという話になるが、たとえば使われている石だとか構造だとかの話になってくるので、そこは適宜省略する。
「全員?」。
石の間を歩いていると不思議な気持ちになる。自分がここに生きていることが。いずれ自分が死ぬなど思いもしない。死んでしまった人も、同じだったんだろうか。
「うん、みんな」。
二人が交わした言葉はそこではそれだけだった。
先を歩くオージの、耳の裏を見ながら、どうしてオージは「みんな」と云い直したのだろう、と考える。どうだっていいこと。そんな、どうだっていいことを。
オージが他人を前に後ずさりするわけ。
信哉さんや光さんがオージに甘いわけ。
ニコがオージの友人になったそもそものわけ。
オージが髪を伸ばしていたわけ。
めがねで顔を隠していたわけ。
まこっちゃんが気づいていたこと。
おれ以外の、誰もが、知って、おれだけが、知らなかった、オージのこと。
ひめかわは、それよりも「みんな」の言葉を考えた。どうしてオージは云い直したんだろう。
よそ見をするようにひめかわは思案した。本当に考えなければならないことは考えず、知りたいことは隅に押しやるように。
そしてふいにひらめいた。ひらめいたと云うよりも、自分の場合で考えてみたというだけのことだったが。
何らかの言語を砕いて云うには、三つのパターンがある。一つ、緊張している場合。二つ、聞き手に心を許した場合。そして三つ、相手の理解力が信用できない場合。
「て、オージ、こらあっ」。
ひめかわはおどけてオージに飛びかかったが、後姿を見せているにも関わらず避けられた。
「抱きしめさせてよ」。
憂鬱を前面に押し出すも、
「やだし」。
ひめかわが思わずかわいいと感じてしまうかわいくなさでオージはすたすたと先を歩く。
白い塀は長く平らでどこまでも続いて見え、文化的な遺産などではなく個人の所有する住居であることが信じられないくらいだ。その一辺を端から端まで歩く間にオージはひめかわに一言も話しかけなかった。角に差し掛かると右手に敷地内へ至る正面玄関と思しき門構えが見えたが、オージは一瞥しただけで折れ曲がらず、まっすぐ元来た道を帰るのだった。
「……懐かしいな」。
中央駅へ戻る列車の中でオージが墓地を出て以来初めて言葉を漏らす。隣で心底心配していたひめかわは勢い良く「うん」と頷いた後で「……何が?」と問い直すはめになった。
発作。
通院。
拒絶。
話してくれるまでは訊ねないでおこうと思ったのだ。知り合ってから、言葉を交わせるようになって、触れるようになって、喧嘩もできて、同じ家に暮らせて、離れて、また出会って。時間はこれから先もたくさんあると思ったから。
だけど、とひめかわは横目でオージの顔色を窺う。眠気に襲われているのか、目が潤んで見えた。
「聞きたいって云ったら、嫌いになる?」。
墓地の中を歩いて、時間はいつまでも無いと、単純にも思ったのだ。自分もいつか眠り始めたら、もう起き上がることはできない。当たり前にできていたこと、したいと思って後回しにしていたこと、いつかはと夢に見ていたこと、全部は即刻不可になる。子供の絵空事より、馬鹿の大言より実現ははるかに望めなくて、後悔する主体さえ消えて、だから悲しむことはないだろうけれど、生きている今、気づいてしまったら、空いた車両の椅子の上で、流れる景色を見ながら隣の温もりにも同様の有限を当然に感じてしまったら、訊ねないでいられた理由とか根拠を忘れた。
オージの表情が和らいで見えた。
「はあ? 嫌いになるって何。お前のことなんか、そもそも好きだったことなんか、ないし」。
「もう、オージてば素直なんだから」。
髪型が変わっても、裸眼になっていても、ひめかわは現在のオージがあの頃の、東高の制服姿で通学していた頃のオージとほとんど同じに見え、瞬きを惜しむ。
線路の繋ぎ目を十五数えた時、オージの口が開いた。
事実だけが淡々と語られた。
そこにはひめかわの知っていたことも知らないこともあった。人から聞いた噂も友人から聞いた話もあった。
時間にして数分くらいだったろうか。
たくさん喋って疲れた、とオージが顎をのけぞらせる姿勢を取る。
「喋ってくれて、ありがとう」。
「……」。
「オージ」。
「……うん」。
がたん、がたたん。列車が走る。
野良猫を、見つけた。
今は姫川家の一員として我が物顔で台所にて餌を食べ縁側で寝そべる一匹のことをひめかわはふと思い出した。ある帰り道だった。横切って歩いた公園の茂みにそいつはいた。初めに気づいたのはオージだった。なんか、いる。あ、ほんとだ。同じものに気付いたひめかわがしゃがんで手を伸ばすと小さな毛糸玉のような生き物は背中を丸めて尾を立てて低く唸って威嚇するような姿勢を取りながらも、じりじりと後ずさる。あれ、どうしたんだろ変なやつ。ひめかわが首をかしげるとオージが、けがしてるんだ、と通訳のように答える。え、と振り返ると彼は茂みの中をまっすぐに見つめたまま、前脚。と顎をしゃくった。ひめかわは確認しようと暗がりに目をこらすが、そうと云われればそう見える程度であって自分から気づくことのできたオージの観察力に驚かされた。そうなの、と、オージではなく毛糸玉に向かって質問すると、猫というよりカラスのような鳴き声が返ってきて苦笑した。怖いんだよ人間が、と、ひめかわの隣にしゃがんだオージがまたも通訳のように云った。憐れむでも痛ましがるでもない視線が、ずっと暗がりに注がれていた。
(以心伝心?)。
かんかんかんかん、と踏切の警報器が鳴っている地点を列車が通過する。
「あ、のさっ。一個、質問して良いかなっ」。
「質問すんのはお前の自由だけど答えるかどうかはおれの自由。……すれば?」。
「うん。あのさ、どうしてオージは法学部選んだのっ」。
仰け反って窓の縁に頭をのせていたオージが、ゆっくりと体を起こす。閉じていた目を、静かに開ける。ひめかわは痛いほど胸が締め付けられるのを感じながら、オージの顔のことを子猫フェイスだ子猫フェイスだと気に入ってはしゃいでいた年上の知り合いのことを思い出す。
(民也さんと葉月さん、元気かなあ)。
信哉の通う大学の先輩であり、何度か遊んだこともある二人の顔をひめかわは思い出す。彼らの、妙に息の合った口論が思い出され、自分の状況もわきまえずひめかわは笑みをこぼす。
「……どうして、ってどうしてだよ」。
「弁護士は、大変だよ」。
「……おれには無理だとか思ってんじゃねえだろうな」。
「ち、違うよ。オージの頭なら大丈夫だよ。……ただ」、ひめかわは一瞬口をつぐんだ。
「……すごいな、って、思って。だから、どうしてなのかな、って思って」。
考えた挙句、抽象的になってしまった。何がすごいんだよと質問し返されたら困るなあと感じていたひめかわだったがオージの興味はそこまで及んでこなかった。
「あっそ。のど、乾いた」。
オージはシートの上で寝返りを打つみたいに体を返してひめかわに背を向ける。
(スルーされた!)。
「そだね。駅に着いたら、どっかでなんか飲もっか」。
しょぼん、と肩を落とすひめかわにオージが声をかける。
「……お前んちに行っちゃ悪いのかよ」。
ん、と顔を上げたひめかわは数秒かけてようやくそれがオージからの要望であることの意味を汲み、そんなのもう大歓迎っ、と覆うように飛びつくが、頤に肘鉄を受けて崩れ落ちた。
4
乗り換えた列車が姫川家の方角へ向かって走り出した時、日は傾きかけていた。
山裾に広がる水田は一枚の広い布のように空の色を映し出し、等間隔でぽつんぽつんと立つ電柱は、その布を縫いとめるまち針のようだった。
何度数えても針の数が合わなかった三年間をひめかわは思い出す。
同じだけの時間を過ごしても、同じように誰もが過ごしていたわけじゃない。
ひめかわは今はもう黙って、宮沢からの帰りの列車でオージが話してくれた内容を反芻している。信哉や光がどうしようもなく過保護な理由も今なら正しく分かる気がした。夕日と呼ぶには早い黄昏が、車両を琥珀に満たしていく。閉じ込められた結晶の中で、動きながら時は止まると思った。傍らの体がもたれてくるのを感じた。意識がある間はありえない動作だから、それは居眠りの証拠だろうと思った。それでいい、と思った。視線を落とすと、オージの腕の内側にはいくつかの傷跡があった。医者が患者の脈をはかるような手つきでそれに触れる。目覚めさせてしまうかも知れないという恐怖とは無縁だった。金色の箱の中で、睡魔も眠って立ち去らないと分かっていた。オージ、と口にする。呼ぶためではなく、確かめるため。自分自身に信じ込ませるみたいに。
同じ顔したお姉ちゃん。
信哉さんは、本当は、その子のことが好きだったのかな。
羨望し憧憬した年月も関係も、自分が思っていたような単純で明るくてまぶしさに満ちたものなんかじゃなかった。頭の中で何かが崩れていく音は、通過した踏切の警報器に重なってフェードアウトした。線路の継ぎ目で振動が起こり、オージがもう息をしていない亡骸に見える。薄い肩に頬を寄せると、触れない肌から立ち上る微熱が感じられて息を吐いた。眠りの中でまつ毛が震えた。寄り添って呼吸していると、自分達の乗った車両はもう地上のどこをも走っていないような気がした。継ぎ目の音が聞こえなくなり、フェードインした警報器のこだまは鼓動に重なり血液そのものに姿を変えていく。境界の無い世界。微睡の手前でたゆたう五感に委ねながら、閉じてはそのままになってしまいそうな瞼を繰り返し持ち上げる。
おれも、そうだったかも知れない。
誰かを傷つける誰かを傷つけたり、誰かを非難した誰かを非難したりするのなら。結局自分だって自分の思いが強く向かう方へ共感し、守ろうとして、それを正しいと止めないけど、外から見たら平等ではないんだまして、正しくなんかない。
正しくない、正しくないと、歌うような声がリフレインして小さな棘に形を変える。無数の先端は柔らかな心臓を突き刺して、血は全身に運ぶ。
皮膚の下にそれだけいくつもの痛点を抱えてぼくたちは抱きしめ合ったりなんかできないよと、ランドセルを背負った小学生のひめかわかずまがいつの間にか向かいの席に座って大学生のひめかわを見ている。
できるよ、と口にすることは簡単だったが理由は分からなかった。
オージの側頭部に額を押しつけていると耳朶に鼻が触れた。痛くて熱いと思った。
百年の眠りから覚めたみたいにオージが薄い瞼を開けて、ここはどこだ、といった表情であたりを見回した後、すり寄ってくるひめかわの存在に気づいてまた目を閉じた。
(に、二度寝した。オージがおれの隣で二度寝したっ)。
ひめかわは驚いて身を離す。小学生姿の自分はもう消えていた。ひめかわはスニーカーを脱ぐとシートに正座して眠るオージを待つ。
「……どうして、ってさっきお前おれに訊いたじゃん」。
寝言か。
寝言にしてはいやにはっきりしている。
ひめかわはオージが発するどんな一言も聞き漏らすまいとして立たない耳を立てる。
「うん?」。
相槌で促してみると次の言葉があって、寝言ではないと信じることにした。いまだ白い薄い瞼は下りたままでも。
「ばかずまは、さ……おれのこと、かわいそうって思ったか」。
「……うん。ちょっと、思ったよ」。
正直に答えた。その答えはオージを失望させるかも知れないという考えよりも、繕いたくない気持ちが強かった。
小さな棘はずぶずぶと真皮に刺さっていく。
引き抜くことも、進むのを止めることもできない。
近づくから、歩み寄るから、分かろうとするから、見捨てないから。
棘の傷が致命傷で死ぬことになっても、何もやめないから。
「どうしてだろう、って、思うよ。思ったよ」。
「うん」。
「……だって、わけわかんねえし。普通の日だぜ。何の前触れも無かったんだ。いきなり、本当にいきなり、でさ、全然、わけわかんねえんだもん」。
「……うん」。
「家に帰ったら電気ついてないしさ、誰も、いないしさ……信哉さんに電話したら、どっからか人が来て、たくさん騒がしくなって、何も分からないし、で全部、おれの知らないとこで進んでちゃって……」。
オージの口調は静かだ。時々つっかかるように途絶えることがあるがそれも、嗚咽を堪えてというようなものではなくて、外国語を訳する際の不自然さに似て、それを除けば口調はただ、教科書かノートに書かれた文章を丁寧に読み上げているだけのように見えた。
「忘れたかった。だから、忘れないでやろうって思った」。
そこだけ日本語で書かれていたかのようにオージは云い切った。
閉じていた瞼が半分だけ開いて、ほとんど黒目しか見えなかった。顎を上げて天井を仰ぎ、ひめかわが傍らで耳を澄ませていることなど本当はどうでもいいと思っているようだった。
「……もしも。もしもさ、わけわかんないからって理由でおれが目をそむけて逃げたりなんかしなければ、さ、逃げずに最後まで生き抜けたら、もう、誰も不幸じゃなくなるじゃん。一時は不幸だったとしても、ずっとそうだったことには、なんないだろ。信哉さんとか光さんとかだって、ニコだって、さ、おれを見捨てなかったことで、報われなかったり、しないじゃんか」。
な、と問いかけたオージの顔が自分に向けられてひめかわは瞬きした。
「……報われるよ、ひめかわ。お前のことだって、いつかちゃんと、報ってやる」。
そうかオージはずっと考えてたんだ。
おれが興味本位で訊いた「どうして」に、見合う答えを、ずっと、考えてた。
「あ、ありがとう、オージありがとうっ」。
「……なに泣いてんだよ、きたねえな。べたべた触んなだし」。
正座して歯を食いしばっているひめかわにオージは面倒くさそうな目を向ける。
「だだだってオージが男前なんだもん……っ」。
「お前はまるで乙女だな」。
ひめかわはオージの口から聞かされた告白のすべてが本心だなんて、最初から最後までそれですべてだなんて、信じたわけではなかった。
だが、オージが、そうありたい、と願い望むもののすべてであることは疑えないと思った。
傍からはほとんど無謀に見えてさえ歩むことを止めなかった彼という一人の人間の、魂の中で、いちばん尊い部分を、ひめかわはもらえた気持ちだった。
その上さらに貴いことには、オージは自分がひめかわに与えたものについて何の自覚も持っていないことだった。それ以前に、何かを与えたという意識さえ無かったのだろう。もしあるのだとするならば、もう少し態度が硬化している筈であるから。
「で、でもねオージっ。そんなに頑張らなくていいんだからねっ」。
手の甲でごしごしごと涙をぬぐったひめかわはどさくさにまぎれてオージの両頬を挟んで自分に向ける。
「もし何もかも嫌になって大学中退とかしてもね、あるいはちゃんと卒業して就職もできたところで実際激務に追われ心身病んでついつい退職とかしちゃってニートになったんだとしてもね、おれがみなぎる自信とあふれんばかりの責任を持ってオージのこと誠心誠意で養うからっ。そのためにおれも農業ちゃんと勉強するしっ。土地はすでにあるしっ。家屋もあるしっ。もともとバツイチ同士の再婚だから半分他人同士みたいな家族だしっ。オージが入ったとしてもみんな歓迎するしっ。鶏も飼うし何でも飼うし、お米も野菜も自給自足可能にしとくしっ。だから安心していいんだよ、オージっ」。
「……お前さあ、それ、おれに早く落ちぶれろって云ってるようなもんなんだけど」。
「ご、ごめっ」。
そういうつもりじゃ、と弁解しようとするひめかわを見てオージは苦笑した。
スーツに身を包んで仕事する自分が、たまの休みにこの土地へ息抜きに戻ってくる姿が、今ありありと目の前に浮かんだからだ。
実現するかどうかはさほど問題でない気がした。
そういう光景が目の前に見るように鮮やかに思い浮かべることができたということが、何より大切なんだと思えた。現実はまるで違うかも知れない。ひめかわは農家を継がないかも知れないし、オージは法学部を中退するかも知れない。通院の回数も薬の量も減り今は少しずつ落ち着いてきたかに見える発作が、いつか再発してもうだめになるかも知れない。理不尽を恨んで過去を呪って自分を苛ませたすべての人間に復讐したくなるような時が来ないとは神様にも云えない。そんな日が来れば嘲笑うだろう。何もわかっていなかったと。
だが、一瞬でも光景が見えた。
光があった。
今はそれで十分なんだと、少なくとも現時点でオージにはそう思えた。むしろ、不十分だと訴えるエネルギーが不足していた。そうしたところでどうにもならないと半ばあきらめに似た気持ちもあった。
もしも別の方向へ落ちていっても、光景が幻に終わっても、その幻を抱いたという事実は誰にも、自分にだって消せないと思った。
オージの脳裏にふいに浮かんだある可能性のひとつとしての世界では、やけに作業着の似合うひめかわが、満面の笑顔を浮かべて、自分に向かって手を振っている。彼の足元には、鶏もいる。犬もいる。豚も山羊も牛も馬もいる。
(ていう、妄想な)。
想像力にオージは笑ってしまった。
笑って、自分で驚く。
「なななに今のなんですか、え、オージ超かわいいんですけど!」。
ひめかわが両目をこすっている間にオージは顔面をいつも通りの無表情へ戻しておいた。
車窓の外は、そうかこの道はずっとこんな風景だったのか、とオージがはっとするような光景だった。
今日この日の夕焼けはこの先直面するであろう無数の困難に挑んで息も切れ切れに自分がなった時、怯えない血となって絶えない脈となってもう一度この足で何度でも歩かせてくれる夕焼けだろう。
おかえり、と声が聞こえて顔を上げると誰かが笑っていた。
ただいま、と云いたくて口を開けると何かが零れ落ちていきそうでもったいなくて黙ってただ体を寄せても、夕日の赤は二人の体に染み込んで言葉を意味無きものにする。
おかえり、おかえり。
血が流れ込む。
頬を照らす夕日。
全身であたたかさを体感する。
あの日以来ずっと忘れていた何かが、オージの目から溢れて今、ひめかわの指に拭われた。
fin.