桜が怖かった。
 満開の花の重みに枝の先を撓らせているような低木は、宵闇の中で見上げた少年に発狂した 人間を想像させた。真昼に青天を背景に見上げようが印象が変わることはなかった。初めて見た桜は暗闇で幽かな光を放つ、病気の意思を持った生物であり、多くの人が眩しそうに、そして美しいものを愛でるように見上げる理由にはならなかった。
 だからその下を歩くとき、少年は決まって俯いていた。どこまで歩いても花びらが追いかけてくる時は、ここは海浜だと自分に言い聞かせた。それなら怖くない。そう、言い聞かせた。
 だから、後ろから鈴の音が聞こえてきた時に少年は思わず飛び上がったのだ。金髪は生まれつきで、肌の白さや顔立ちは英国人の父譲りだった。その目がおそるおそる振り返り、道の真ん中に転がっている赤い球体を見い出す。
「放っておいてくれ」。
 球体が、喋った。
 少年は対象物を凝視しながら全身を強張らせた。辺りに人影は無い。あるのだとすれば、狂っているとしか思えない、桜並木だ。
 どこへ向かう途中だったのか、それともどこかからの帰り道か、今となっては思い出せない。あるいはただ、散歩をしていたのかもしれない、この国では最も美しいものの一つとされている、桜の木の下を歩くことを自らに課すことで、少しでも謂れの無い恐怖心を克服しようと。
「今に、降りて行くから」。
 今度はもう少しはっきりと声が聞こえた。
 木の上から一房の黒髪が垂れてくる。
 それは髪の上に刷いた墨のようだったが、当時の少年はまだ毛筆を使ったことがなく、眩いばかりの風景、視界に射し込んだ一縷の闇に、かえって不思議な安堵を覚えた。
「・・・あっ」。
 少年は声の主が球体ではなく、確かに人間であることを知った。
 赤い球体、つまり、それは毬。
 この近くに降り立ったのは、少年よりやや背の低い少女だ。癖の無い黒髪は彼女の活発と風向きによってところどころほつれ、あちこちに白い花弁を纏っている。瞳の大きな顔には枝でひっかけた掠り傷があったが当人は気にしないどころか気づいてさえいないように見えた。
「お前、誰?」。
 口を開いた途端、少女が精霊などではなく生きた人間であることを少年は知った。
 真っ赤なワンピースの前で赤い毬を抱えた手は、対比ではっとするほど白い。
「・・・シンヤ」。
 少女の質問を訳できたわけではなかったが、おそらく素性を訊ねられているのだろうと解し、発音の間違いを指摘され笑われない唯一の名前だけを答えた。こちらから質問を返したり、他に説明を付け足すことはまだ困難だった。まして、その少女を前に。
「なあ、綺麗だろう?」。
 名前を訊いたことなど忘れたみたいに間髪入れず、少女が云って首をかしげる。媚びでも無ければ同意を求めているのでも無い。
 私がそう云うのだからそうなんだ。
 医者が患者に療法を教え諭すような、気鋭の調教師が動物を従えるために用いる技法のような、完璧な強要とも違い、さほどの抵抗もなく同意させてしまうような、呪いに近い響きだった。
「・・・きれい。だ」。
 少年は頷いた。
 それが景色に対してなのか、毬に対してなのか、ワンピースの赤についてなのか、少女についてなのか、よく分かりもせずに。それでいて、心から同意を示した。示し、繰り返した。その言葉に宿る力が今結びつける何かを信じるみたいに。
 少年は少女が満ち足りたような笑いを零すのを見ていた。
 唇の間から小さな白い歯の並びが覗く。大きな瞳が笑みで細くなった。
「私は小町だ」。
「・・・コマチ?」。
 少年は少女の言葉を繰り返す。
「そうだ。そしてお前は、白猫だ」。
「・・・シロネコ?」。
「覚えたら頷け」。
 反応の鈍い少年に少女は痺れを切らしたように手の中の毬を投げつけた。正面から放られたものだったので難なく受け止める。
 自分の鳩尾と手の間で、鈴の音が鳴った。正体は毬の中に隠されているのだ。
 少年は初めて触れたものを指先でなぞり、表面の文様が糸を幾重にも重ねて作られたものだと知る。
「・・・うん」。
「お前は綺麗だから、私が飼ってやる」。
「うん」。
「私の猫に、してやる」。
「うん」。
「感謝しろ」。
「うん」。
「うん、じゃなくてだな」。
「・・・ありがとう」。
「そうだ、それでいい」。
 少年は少女の目を見つめたまま頷いた。
 毬を返せと云われたら返したし、笑えと云われれば笑ったかも知れない。しかし少女は意味のない行為を強要してくることはなく、ただ同意を得ることだけを求めた。
 少年の横顔は出会ったばかりの少女を信じることに怯えていなかった。
 恐怖心を凌ぐ鮮烈の核が、彼の血の中から全身を鼓動させていた。




き っ と さ く ら だ っ て こ わ く な い




 決していいとは云えない座り心地の運転席でハンドルを握る光は、同じく決していいとは云えないであろう座り心地の助手席で眠っていた信哉が道程半ばでようやく目覚めの気配を発し、今初めて気づいたように路面の凹凸による不規則な跳ね上がりに不機嫌そうに眉根を寄せたのを知った。
「・・・この、下手くそが」。
 瞼より少し早く開いた口が漏らす呻きを光は聞き逃さない。
「うん? いま何て云ったよ?」。
「がたがた揺らすな。寝れんだろうが。これだからナポリタンは」。
 思いっきり寝てただろうが。光は左側の男を睨みつけた。寝起きの機嫌が良かったことなどない。片道一時間の運転を押しつけておいて自分は半分を寝ていながら、起きた途端、空気が澱んでいるから窓を開けろ、と命令してきた。
「ハンドル式だから、そっちでしか開かない」。
 信哉は一瞬、光の言葉の意味を解しかねて鋭い眼光を飛ばしたが、仕組みに気づくと黙って窓を開けた。
 両側を菜の花に囲まれた舗装の少ない道を走る車内に春を感じさせる香りが押し入るようにこもって、助手席から運転席へと抜けた。
「寝てたな」。
 見晴らしの良い一本道。光が横目で見やると信哉は窓の外に腕を垂らし、肩の上にのせた顎の上で酔いを醒ますように閉じていた目を緩やかに開いた。
「・・・このド下手くそが」。
「いや、だから何がだよ?」。
「貴様の運転に決まっている。他に何があるんだ」。
 いやこれはどう見ても道のせいだろ、道の。
 光は主張したが信哉からは呆れたような視線しか返ってこない。
「何なら運転変わってやろうか? アウトバーンのように走らせる自信があるならな」。
 跳ね馬に乗った心地がするだろうことを約束する。
 いつものように挑発に乗ってくることを期待して云ってみるも、寝起きのせいかまだ皮肉を受け止められるほど回復していないらしい。うんざりしたような流し目を受けて光はぞくぞくと体の芯から震えが起こるのを感じるが恐怖とは真逆のものだった。
「信哉くんさ、それ誘ってんの?」。
 無言の攻撃を左腕に受けてしまい意図せずギアチェンジが起こる。余計に落ち着きのなくなった振動で信哉のこめかみの血管はいよいよ破裂しそうになった。
「・・・だが今はまだ運転手が必要だからな」。
 体感できるほどの気迫が徐々に静まっていくのを光は感じながら、おれっていつまでこいつの便利屋なんだ。と内心肩を落とす。
「なあ。光」。
「うん?」。
「おれは、綺麗か?」。
 弟が、壊れた。
 光は思わずブレーキを踏みかけた足をかろうじてアクセルに留めたが、一瞬の躊躇が一際大きな揺れを引き起こす。
 まっすぐな道をまっすぐに進みたいだけなのになんでこんなに不安定なんだ貴様の運転はさっきから。
 助手席から険しい表情がそう告げてくる。
「えええ・・・。信哉くんはまだ夢の世界にいるのかな? おとぎの国に行ってきちゃったのかな? これはとんだパラレルワールドがあったもんだ。おれ、もう、知らないぜ」。
「貴様、ふざけてないで真面目に答えろ」。
「そっちはだったら真面目な質問なのか?」。
「ああ、そうだ」。
 信哉の返事を聞いた光は今度は計画的にブレーキに足を置いた。ゆっくりと速度を落とし、軽トラを路肩に寄せる。
 助手席の信哉が不審者を見る目で光を見やった。
「何をしている。早く目的地に着かせろ」。
 うんうん、と頷きながらシートベルトを外すなり光は助手席側のサイドボードに手を置いた。
 予想外の迫力に信哉の眠気が完全に吹っ飛ぶ。戦闘態勢が必要なことを悟ると琥珀の瞳に輝きが戻った。
「なあ、信哉くん。真面目だったらそういう質問やめてくんねえかなあ?」。
「何がだ」。
「真面目じゃないんだったらこっちにももっと手の打ちようってもんがあるけどよ?」。
「近い、どけ」。
「でもこの反応は真面目に訊いてる証拠だと思ってこっちも誠意で応えるぜ」。
 うんうん、と光は自分の言葉に頷いた。
「おれから云わせてもらうと、信哉くんは欠けてるんだよね。理由、知ってる?」。
 いつもと異なる相手の気配に信哉は息をのんだ。口調は柔らかだがまったく隙が無い。下手に動けば仕留められることは容易に想像できた。ましてこちらにはまだハンデがある。
 気づかれぬようシートベルトを外そうとしたが見抜かれて手を掴まれた。
「うん。お前もおれと同じなんだから分かるでしょ? 追い詰めてる時に動かれると、それって攻撃の合図になっちゃうんだよ」。
「・・・な、にが同じだっ」。
 距離を狭めてきた光に信哉は頭突きした。しかし相手は一向に動じない。
 それどころかさらに身を乗り出してくると、さっきまでハンドルにかけていた手を琥珀の髪に押し当てた。
「信哉はいい加減に許されるべきなんだよ」。
 笑ってはいるが眉尻が下がった表情で光が告げる。
 握られた手に力がこもり、怒られているのか挑発なのか分からなくなる。
 抵抗を諦めて全身から力を抜いた信哉が、大きな溜息を吐けば、光にも一方的に強引を示すことは張り合いがないらしく、小さく笑って謎の行為を止めた。
「気が済んだならさっさと運転を再開しろ。オージに会えないだろう」。
「あのさあ、運転代わってやるとか云わない?」。
 光の提案を信哉は鼻で笑った。
「軽トラ代を出したのはおれだぞ」。
 現在乗車中の軽トラはレンタルだ。姫川家へ赴く時、これまでは電車を使うことが多かったが、道沿いの菜の花が綺麗ですからというひめかわのメッセージにつられて交通手段を車に変えたことがそもそもの間違いだった。今になって信哉は気づく。隣の光が楽しげにしていることも、気に食わなかった。
 だいたい、こいつはいつもそうだ。
 おれが不服や不満を示したり不機嫌な表情で黙っていると、程度に反比例して嬉しそうにそして朗らかになる。それでますます不愉快を覚えて口を開いたり手を出したり足を出したりすれば容易く応酬に乗ってくるから、まるで待ち伏せされていたように感じるのだ。
 最初に感情をぶれさせた、おれのほうが幼いみたいだ。
 同じ境遇の同年代として、支えに感じつつも競争しながら暮らしてきた。自分は好敵手に恵まれていたことは、認める。もしこれが普通の兄弟、幼馴染だったりすれば、これほど相手を上回ることに執着を覚えなかったろうし、劣等感や敗北感に敏感にならなかっただろう。
 光だから、負けたくない。
 光だから、勝ちたい。
 安易な方向へ逃げ込みたい時に、真っ当な道の有効性を照らし続けたのはいつも、愚直なまでにたった一種類の、そんな気持ちだった気がする。
「この際だからはっきりさせておきたいんだけどさ、おれ信哉が」、
 掃除機が吸ってはいけないものを吸って詰まったみたいな音がした。
 反射的に押し当てた掌の下で光が非難めいた目を向けるが信哉には解放するつもりは毛頭なかった。
 頭を冷やして、黙るまでは。
「云うな。云ったら殺すぞ」。
 どうして素直になれば終わるだなんて思って。
「それを聞いたら今度はおれが、どう答えるか、って話になってくるんだろうが、バカ野郎が」。
 分かった答えを口にすれば今後何も始まりはしないって途方に暮れてしまってんだろう、まだ何も実際にやってみてないのに、勝手に想像して。
 湧きあがる疑問は疑問であると同時にそれ自体が答えでもあったから、訊かれたらきっと答えてしまう自分を分かっていた。分かるより前に、知っていた。
「・・・おれは、保留にできない」。
 手の下で光の目が細くなって、信哉は自分が何か途轍もない発言をしたのではないかと怯えた。
 これを一生からかわれるぞ。
 一生?
 そういえば、こいつとは、いつまでこんな関係を続けているんだろう。
「・・・舐めただろ」。
 相手の口を封じる掌に感触を覚えて睨みつけるも、当の本人はしれっと首を左右に振る。そのまま首を絞めつけて落としてやろうかとも思ったがそれでは運転手が不在になり面倒くさい。残りの道程、話し相手も失うことになるだろう。
 保険をかけるようにいくつか口実を揃えることで、ようやく信哉は掌をどけてやる気になった。
 殺そうと思えばいつでも殺せる。
 死のうと思えばいつでも死ねる。
 自分ではなく、相手ではなく、人間の話だ。
 それをしない理由は、自分以外の他人においてしか、起源を持たない。
 一つを確かに認めてしまえば、ほとんどすべてを肯定したに等しい。
「なに。どうしたの。泣くの? 泣いちゃう? え、そういうの大歓迎なんだけど」。
「・・・誰が泣くかこのタイミングでみっともない。もし本気で泣きそうになったらお前の目を潰しているところだ」。
「やだ信哉くん恐いんだから」。
「本気だ」。
「うん、だから怖いって」。
 しばらく沈黙があって、運転が再開された。
 せせらぎに沿って、電車に追い越されて、菜の花の中を行く。
 軽トラがゆっくり進みだす。
 白猫と黒猫。
 黒い髪に赤いワンピースの少女がそう名付けた兄弟は、彼女そっくりの弟へ会いに行く。
 装備も悪いが武器など無いが、こいつを構っていれば、きっと桜だって怖くない。
 故郷へ戻る旅人みたいに、聖地へ旅立つ信者みたいに、二人にとっての最愛を見に行く。
 今はまだ、それだけだ。保留と呼んだ先延ばしを要求すること、それが既に一つの答えになっていることを、分かっていることを、相手に望み合っている程度だ。
 今はただ、最愛を、見に行く。



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