歩道橋を渡るその男を、光が見つけられたのは偶然だった。
欄干にとまっていた烏が、まるで光を呼ぶようにして一声鳴いたのだ。
赤い空を背景に黒いシルエットとなった人物の表情を見極めるのは至難の業だったろうが、光には彼がきわめて危険な心理状態にあることが分かった。反対側の階段を上っていき橋の中央付近で出会う。向き合った光は自分のタイミングの良さに苦笑をこぼした。
また、こいつは。
「よっ。信哉ちゃん」。
笑顔をたたえた光が片手をあげると、ようやくそれが自分の兄弟であり腐れ縁の倉木光であることに気づいた響信哉は露骨な嫌悪感を表情に示した。
二人の足下を大型トラックが通過する間だけ、無言になる。
さてどう切り出そうかな、と思案する光だったが口を開いたのは信哉だった。
「・・・どけ」。
「あれれ、再会の挨拶も無しかよ? おにいちゃん、さみしいなあ」。
信哉くんをそんな子に育てたおぼえはなかったけどなあ、とのんきな声で語りかけながら使いようによっては充分な凶器となりうる角材をその手から取り上げた。少しは抵抗されるかと思ったがまったくその様子が見られなかったのは少しばかり拍子抜けしたものの、不機嫌のせいで半ば瞼の落ちた目が本気で誰かを殺傷しに行くつもりではなくこれは単に自分の気を静めるための行為だったのだと光は理解する。真っ先に見つけたのがおれで良かった、本当にまったく。世話の焼けるやつだ。
「どうしたの。何があったの」。
親しげに肩に腕を回そうとするとさすがに拒絶されたが聞く耳があるだけまだましだとしよう。
光は、めげない。
これでも数年前に比べればだいぶ穏やかになったほうだ。自分達の日々を振り返れば、事件の周辺だけおかしな深い色をしている。内出血を秘めた痣のように。紫や、黄色や、緑色をしている。そのうえ、どの色にもくすんだ灰色が練り込められている。たくさんのことがありすぎて、たくさんのものを無くしすぎて。そしてそれは浜辺に打ち寄せる波のように、ある時は遠く引き砂浜を乾かすが、油断して気づいた時にはくるぶしを、腰を、肩から先をつむじまで、飲み込んでしまう。そうなるともがいても無駄だ。体力が奪われないよう、肺の空気が尽きないよう、溺死の恐怖と闘いながらもただじっとしている他は無かった。相手は感情の無い波だ。どんな懇願も通用しない。相手に悪気は無いのだ。自然物となんら変わらない。本当は同じ人間の仕業だとしても。
中学から高校にかけては実務的なこと、引っ越しや編入学の手続きやその他もろもろのことで忙しく、ゆっくりと考えにふける時間も無かった。それはそれで良いことだったのかも知れない。もしもあの時期、自分達の被った事情についてほとんど影響を受けていない善意の第三者から庇護を受け容れたりなどして、見た目には穏やかな生活を送ることができていたのだとしたら、そのことのほうがよっぽど深刻な事態になっていただろう。考えることが意味をなさない事件について考え始めてしまったら、それこそ精神は衰弱した。自分達以外を信用しないというスタンスで、二人共通の弟であるオージを労わることで、我を保った。自らに課した使命の意義は気付け薬だった。過保護に見える行為を続けることは、自分たちをも支えていたのだ。
それが、一変した。
実際には少しずつ変化していたのだが、毎分毎秒時計の針とにらめっこしていられるほど人は暇でない。ふと見上げれば短針が進んでいることに気づかされるように、徐々に変化していたものに気づくのはいつだって随分経ってしまってからで、まるで、そう、さっきも云ったようにつまりは「一変した」のだ。
「・・・オージが、危険だ。早く行かなければ、手遅れになる」。
「やっぱりオージ絡みか」。
「・・・邪魔するんじゃねえ。それとも、貴様から先にやらないと先へ進めないのか」。
「いやいや、おれは仲間でしょ。どう見ても。まあ、ここはひとつ、腹ごしらえでもしようか」。
もしかして酔っぱらっているのではないかと一縷の望みを込めて信哉の顔を覗き込んだ光はその目が至って正常なのを確認して疲労感に襲われたが億尾にも出さないよう努力し、何発かの見事な回し蹴りを胴体や太腿にくらいながらも信哉の腰をホールドすると近場の喫茶店へ連れ込むことに成功した。鈴が鳴るドアを押し開ける頃には満身創痍で。どこから持ち出したのか分からない角材は、途中の電信柱にたてかけてきた。
店内には数名の客があり、そのうちのいくつかの視線は信哉の姿を間違いなく二度見する。
譲ってあげてもいいんだぜ手に負えるならな。二重の自虐を込めて光は空いている席を探す。ちょうど窓際の席が空いていたが「貴様と向かい合うと吐く」という信哉の主張を採択しカウンタ席に並ぶというかたちに落ち着いた。お前は本当に素直で可愛いな。光は自分の目尻をしとどに濡らす何かを人知れずぬぐった。
オーダーしたコーヒーが運ばれてくるまでは互いに無言だった。香ばしい湯気が目の前に置かれるとそれが合図だったように光は口を開きかけるが、信哉が砂糖とミルクを探し始めた様子だったのでかわりにそれを揃えてやった。意外に思われることが多いがブラックが苦手なのだ。光やオージはブラックでなければ飲まなかったが。
好みのカフェオレを調合した信哉はカップの半分ほどを飲んだところでようやく一息ついた。
「落ち着いたか?」。
「・・・ああ」。
光からの問いかけにも静かに頷く。
店内の照明は橙に近く、琥珀色の髪と目がアンティークの宝石みたいに輝いている。得なんだか損なんだか。彼の素性を良く知る光は人知れず苦笑した。
混血が明らかな顔立ちは人目を引くが、その容姿で親族から忌み嫌われていたのも確かだ。
奔放な性格の母親は生前の若い頃、家が決める婚約前、単身海外に逃避行を企て、異国の男との間に二人の男児をもうけた。実家から派遣される追跡に観念したのかそれとも二児を得たことですでに反逆は成功したと自ら納得できたのか、おとなしく帰国した彼女は数年後には黒髪の双子を産む。やきもきしていた親戚一同、これでようやく安堵した。
四人の子どもに対する待遇は顕著だった。
もっとも大切にされたのは双子の女児。次が双子の男児。彼らからかなりの距離をおいて混血の男児たち。光と信哉だ。父親が異なるとはいえ似たような境遇にあった二人は、親近感以上のライバル心を対立させつつ、競い合うように成長した。当時の闘争心が彼らの今の学力の基礎となっていると考えればある意味で幸運だったのだろう。難関の学部に現役入学してからも相変わらず好成績を維持している。
ただ、信哉に至っては途中の時期から熱意の根拠を弟のオージに由来させていた。
時に病的なほどに。
「なあ、信哉。なあ」。
白いカップのつるつるした縁を人差し指でなぞりながら光は迷った。
迷い、告げた。
「もう、許してやってもいいと思うよ」。
店内には日本語ではない歌詞の音楽がゆったりと流れている。
それは、英語でもない。
光の覚えていない父親の国の言語に違いなかったが何を歌っているのかまでは分からなかった。光はその言語を使ったことがない。だが懐かしい気がした。自分がこの世に産まれた時、周囲に溢れていたからだろう。信哉もそう感じるだろうか。彼の場合、産まれてすぐの頃、周囲には英語が溢れていたことになるが、いま自分が感じたような曖昧模糊のノスタルジックと同じようなものをふと感じることがあるのだろうか。そこまで考えて光は、いや感じない、と打ち消す。感じるわけがないんだ。何においてもそうだったことだ。自分と同じように信哉が、信哉だけではない、誰かが、たとえ血の繋がりがあったんだたとしても感じることもあるだなんて、そしてそれで安心してみたいだなんて、考えてしまうほうがどうかしている。人間が似通っているのは姿かたちだけだ。
「許してやれというのは、ひめかわのことか?」。
「違う違う。って、ああ、ひめのこともだけど、それよりも」。
おまえのことだよ、信哉。
「は?」。
光の言葉に彼は顔を上げた。何を云っているのか分からない、とすました表情に見える。光はそれを哀しい目で見返した。「分からないって? あはは、そんなバカじゃないでしょ」。カップから浮かせた手で無駄のない輪郭をふにふに揉むと相手の体温がすっと低下するのが分かる。怒りを感じた時ほど冷静になってしまうタイプだ。一時の感情に任せ、すべてを壊滅させるタイミングを逃すのを自分自身が案じ、最善の報復方法を思案するため最高の集中力が脳味噌に総動員される。頭は冴えわたり、視界は晴れる。
平気で誰か暗殺しそうな、物騒なお顔つきになられる。
「認めないとか否定するなよ。おまえ、まだ、自分を責めてる。おにいちゃんには、分かるんだからな」。
おどけた調子で光が云うと信哉はすっと目を細めて視線を逸らせた。
「・・・わけ、・・・だろ」。
「うん?」。
いま何もきこえなかったよ、と光が顔をのぞきこむと信哉の琥珀色をした目は再び敵意を秘めた。視線ひとつで相手を黙らせることができると信じているみたいに。そして確かに光は次の言葉を忘れてしまうのだった。
「許していい、わけ、ないだろ。おれがあの日、小町からの着信を無視しなければ、」。
「やめろよ」。
「事実だ」。
「どこが」。
「どこがって、」。
そうだあまいものがたりないな。
光は信哉が話し出したのを強引に遮ってケーキを注文した。
「ほら、中にもまるごと苺が入ってんだって」。
唐突に話題を変えた光に信哉は少しだけ寄せた眉間のしわで不満を示したが、聞いてくれ最後まで、とたったそれだけの懇願もできない、自尊心なのだか苦労性なのだか意地っ張りなのだか、生きていくのに必要な分だけでもあまえるには障害の多い性格のために噤んでしまう。
(それも罰の一環かよ?)。
内側からが難しいのなら外側から壊してやるほかない。
「はい、あーん?」。
しかし外側からの攻略が容易いわけでもてんでない。
クリームのついた苺をのせたスプーンを信哉の口元に差し出して拒絶された。
「いらない」。
冷ややかな流し目に見つめられながら泣く泣く自分で食すのだった。
窓は曇っている。
冬が、近い。