青い皿は白い縁取りがある。
 きっと何かの蔓だ。
 それは同じ半径を保ってループし、一つの輪になっている。

「で、試験休み期間とかで今うちに泊まってるオージがですねっ」。
 光は顔を上げると向かいの男を見た。
 茶色の髪、それと同じ色合いの瞳。犬。そう、例えるならば犬。大型の室内犬だ。たとえばたった今おれが席を立ってトイレに行って用を足して戻ってきたとしても気づかないんじゃないだろうか。年下の男は光をしてそう思わせるほど自らの話に、つまりは回想に夢中だ。幸せなやつだ。そう思う。恵まれたやつだ。そう、思う。
(うらやましい、やつ)。
 知らずのうちに妬む自分に気づいて盛大な溜め息を吐くとようやく茶色い毛の犬は光の様子に気づいて取り乱した。
「あ、あのっ。光さん、すいませんっ。な、なんかおればっかり喋っちゃってて・・・」。
 ついさっきまで揚々としていた表情が忽ち曇り、あるはずもないことだが髪の色までワントーン暗くなったようにさえ感じられてしまう。分かりやすさを隠そうともせず悲痛な面持ちで自分の顔色をうかがう相手に光は愛想の良い笑みを浮かべた。その顔を見せれば許されないなんてことは滅多に無かった。相手が女だろうか男だろうが同級生だろうが教師だろうがそれは変わらない。言葉などいらなかった、むしろ邪魔でさえあった。にっこりと上等のスマイルを見せてやり、ついでに肩をすくめてやる。板についた仕草。安売りが得意だな、などと信哉は嫌うが光にもいいぶんはある。おまえのせいだろ。おまえがちゃんと笑わないせいだ。愛想は大事だ。作り笑いだろうが心の底で何考えていようがそこまで清く正しく美しくある必要はない。表と裏が完全に一致した人間などそれこそ不気味で近づきたくない。体裁でいい。笑って、繕って、誤魔化して、嘘の一つや二つで誰か幸せになったり関係が円滑に進むんなら、それで、いい。
 ついいつもの癖で出てしまった笑顔を光は思わず引っ込めた。
 目の前で安堵の溜め息を零す青年、姫川一馬に向き合うと自分がさらけ出す範囲はもう少し広げてもいいと思う。つまり、いつもは分断されて器用に使い分けている面同士を、限りなく近づけていって許されるのだ。光がそう感じるのは、そう感じさせたひめかわの才能かもしれない。才能。それが大袈裟であるならば、性質。ひととなり。要は愛嬌。
 そう、愛嬌。
「・・・信哉ちゃんにはそこんとこが足りてねえんだよなあ」。
 生きやすく、なるだけなのに。
「え、信哉さんがっ? ど、どどどこですかっ」。
 その名前を耳にしたひめかわが顔色を変えて周囲に視線を走らせる。
「あはは、さがしてもいないよ。残念ながら。てか何、そんなにあいつのこと怖い?」。
「い、いえ。恐いだなんて。ただ、じょ、条件反射的に体が動いてしまうだけでっ」。
 冗談か本気か全身をがたがたふるわせ始めたひめかわを見て光は小さく呟く。
 ほら、な。ほら、信哉。いわんこっちゃない。
 愛想笑いの一つもできないお前のイメージは、当然こうなる。
 光は続けて思い出す。
 今朝も出がけに殴られたばかりだ。電車無くなったから一晩泊めて。そう口実を作って信哉の暮らすアパートに押し掛けたのが昨夜十時過ぎのこと。終電には十分間に合う。その点を追及されたらしらを切りとおす覚悟はあったが結局その必要はなかった。ちょうど風呂から上がったところだったらしい信哉の、タオルドライしただけの髪は、ところどころぼさついていつもの三倍は防御力が低下して見えた。ビバ・無防備っ。光はひそかにときめく。が、表情には出さない。が、ひたすら見入る。
 凝視されたことが癪に障ったのかあるいは玄関先で待つ間にチェックしたガスメーターが作動していることから住人が入浴中であることを踏まえたうえでなおほとんど十秒おきにチャイム連打したことが原因だったか当人に訊ねる勇気は無かったので結局定かではないがとにかく不機嫌な目つきに敵意しか感じられない色を浮かべた響信哉は一つ年上の異父兄にして腐れ切った関係の幼馴染でもあるところの暗木光を渋々とではあるが家の中へ入れてくれた。
 つまり信哉はひどく不機嫌だった。
 無理もないといえば無理もない。予告も無しに、悪びれた様子も無く、話し相手としても一緒の空間の空気を吸う相手としてもてんで好ましくない男を相手に茶の一杯も差し出す気は到底起こらないようだった。それでも光のために寝間着にすればいいとトレーナーを貸し出したり朝飯を一人分余分に下ごしらえしてくれたりと、信哉も彼なりに光の存在を意識はしていた。それがただ、憎まれ口にしか表れなかったというだけで。その晩は同じベッドで寝ることを提案した光だったが反論どころかスルーされて終わった。カーペットの上で丸くなり、まじかよ非道冷徹人造人間めが、などと呟いていると体に毛布がかけられた。おすそわけしてくれたらしい。ベッド入っていい、と真剣に訊ねると寝負けした信哉にようやく「いい」と承諾をいただけたが「そのかわりおれが床で寝る」と条件を付けたため光によって却下された。
「なあ。こうして並んで寝てるとさ、なんか、不思議な気持ちになってくるんだよな」。
「勝手にわけわからんことになってろ」。
「・・・あいっかわらずお前は」。
「で、何だ」。
「・・・・・・。あのころのこと。毎晩、三人で川の字になって寝てただろ。オージを真ん中にして」。
 信哉から返事はないが、思い出しているからだろう。初めて三人で暮らした一軒家。畳の上に並べた布団。同じ天井を見上げて、くだらない話をした。おもに信哉と光が交互に何か語った。毎晩夢にうなされるオージの口数は少なかった。それでも幸せだった。
 オージのいる風景を話せば信哉は冷静さを取り戻す。光の言葉にも耳を傾ける。おまえはお気に入りのおもちゃを与えられた赤ん坊かよ。そう揶揄することはできたが光もそこまで命知らずな男にはなりきれない。
「忙しかった、よな。警察からも取材陣からも質問の嵐。いちばん負荷がかかってたオージは壊れちまうし、守ってくれるはずの親戚からは邪魔者扱い。宮沢は女系だからな。継承権は女児のある家庭に移って、みんながおれ達を疎ましがってた。しばらく学校どころじゃなくて、脅迫まがいの嫌がらせなんかも加わって、引っ越しますって宣言してさあ家を出たはいいものの高校生のおれたち相手に物件見せてくれる不動産屋なんてなかなかみつかんなくて、」。
「・・・おい、いい加減に寝かせろ」。
「ふうん。寝ちゃうなんて、つっまんないの」。
「つまんない? 結構だ」。
 布が擦れる音がして光は信哉が毛布を引き上げた気配を察する。暗闇の中で少しずつ目が慣れてくると、その生まれ持った琥珀色の髪がある位置が掴める。
 光は少しだけ体を起こすと琥珀色の頭から数センチ上でてのひらを浮かせた。水晶で占う占い師の手つきのように怪しげな動きを数秒続けたのち、掲げていた腕をぱたりと毛布の上に落とす。
「なあ、信哉あ」。
「信哉は寝たそうだ」。
「あそ。じゃ、ひとり言でいいや」。
 信哉の舌打ちが光に確かに聞こえた。
「・・・おれ、あの時だってそうだったしさ、あの最悪の頃のこと今になって思い出してみてもそうなんだけどさ」、光はここで一旦言葉を切った。切った言葉をどう続けようか考えていた。言葉づかいを間違えて気兼ねする相手でもなければ、撤回が受け入れられないほど他人行儀な仲でもないが。
「きらいじゃ、なかったんだ」。
 みつかったのは、そんなシンプルな言葉。本当はもっと込み入って、複雑で、ぐちゃぐちゃな後に訪れたものだ。だけどそれを表す言葉は、やっぱり、単純だった。
「きらいじゃ、なかった」。
 言葉の適合性を確かめるように繰り返し、光は苦笑を零した。
「おかしいだろ、おれ。不安定で、最悪なことばっかだった時期のことをさ、すっげえ大事に思ってんの。あわよくば、今がこのまま続いてくれないかな、ってことまで考えちゃったりして。おれと信哉とオージの三人で、三人だけで、ずっと、本当の家族みたいに。そのためだったら、誰も構ってくれなくていいって思った。救うな、触るな、構ってくれるな。って、思ってたよ。だって、おれ、自分だけの力でちゃんと守りたかった。知りたかったんだ、意味はあるんだって。最悪なことが起こった時にさ、その事実を癒せるもう一つの事実って、時間とか折り合いとかそんなんじゃなくって、その最悪なことにも意味があるんだって思えるかどうかって点だと思うんだよ、おれはね。だから、誰にも邪魔されたくなかった。協力者なんかいらねえって思った。分かってもらえなくていい、そのほうがいい。だってそうしたら、おれが守ってやれるじゃん。オージのことも、おまえのことも」。
「・・・なんだ、着せた恩で感謝されたいのか」。信哉の面倒くさがるような声が聞こえる。光にはそれも救いだった。真面目じゃない。深刻じゃない。
 素直な、ありがとう。
 なんて。
 そんなこと、生きている間は云われたくはない、死因になるまで笑ってしまう。
 肩寄せ合って生きてきた図を共有したいとも思わない。
 支え合う場面でひたすら口論を起こし、殴り合いにさえ発展させ、オージに心配をかけさえしながら絶対に素直になんかならない。その緊張があの日々の原動力だった。否定できない。まったく。
「なあ、信哉あ」。
「・・・思い出話を美化されたところで貴様と同じベッドで寝る趣味は無いからな」。
「お。何でおれの考えが分かったんだ?」。
「・・・」。
 オージ今頃何してるかな。光がわざとらしく呟き、寝てるだろ、と信哉が答え、クソまじめでわかりやすいなお前おもしれえと光が声を上げて笑ってしまい信哉から枕を叩きつけられる。
「・・・ちょ・・・っ、信哉おまえなあ、寝ている人間の顔面に枕叩きつけるとかどんだけ卑怯なんだよっ」。
「は、寝ている人間? なるほどお前はぺらぺら喋りながら寝られるわけか」。
「ああそうだよ、なんたっておれはお前と違って器用だからなあ」。
「だったら枕くらい避けて見せろ」。
 う、と言葉に詰まった光は鼻血出てるんじゃないか鼻血、と息を吸ってみるが血の味は特にしない。かわいくねえ、と呟きながらふと発想を転換した。
「あ。もしかして信哉、おれに枕ゆずってくれんの?」。
「はあ?」。
「なんだよ、素直に渡してくれえばいいのに。ったくもうほんっと素直じゃねえんだから。ああ、ああ。不器用で優しい信哉まじかわいいなあ」。
「・・・・・・返せ」。
「うん?」。
「枕を、返せ」。
 やだだってこのままじゃ一睡もできないもん、と光は投げつけられた枕をさっさと自分の頭の下に敷いてしまう。
「・・・くそ、分かった。枕はゆずってやる」。
「はいはいもらってあげますよっと」。
「・・・そのかわり、貴様の命を寄越せ」。
 安眠は確保できたと一安心していた光はせまってくる殺気に気づいてぱちっと目を開けた。いつの間にかベッドを抜けてきた信哉が腹の上に跨っている。冗談だよな、と問いかけると冷たい手が首へのびてきた。
「うわ、何おまえ冷え症?」。
 話題を逸らせて気を紛らわせようとした光のもくろみも虚しく散った。暗反応した視界に信哉の顔が迫る。愛情のかけらなんて微塵もない、ただ相手を気に食わないというだけの表情。それはいつかもっと露悪に所有者を滅ぼしえた感情の残滓だ。この程度の締め付けで、この程度の敵意で、簡単に露見するようであれば、おれもまだ少しは見込めるってことかな。
 光は遠のく意識の中で手を伸ばした。
 案外本気かと疑いたくなるような力で締め付けられながら髪にふれた。
「おい、信哉。おまえ、もっとわがままでいいと思うぞ」。
 光の首を絞めるために両手が塞がっており、差し出された手を阻むこともままならない。流れる髪を梳かれるままに任せながら信哉の眉間に皺は増えた。
「わがまま? ・・・どういう、意味だ。わけがわからない」。
 どうして枕のためにおれは死にかけなければならないんだ、と理不尽を自嘲しながら仰ぐ姿は生々しく、ああまだ死んでないと確かめる。
「うん。だから、おれに、さわりたいなら、もっと、素直に、なれば、って、いう・・・うぐぐ・・・ちょ、待っ・・・ほんと、くる、しい・・・」。
 首を絞めていた力がぱっと離れる。
 光は咳き込みながら上体を起こした。
「・・・ばか、手加減、しろっ」。
 取り上げた枕を投げつけるも対象に命中せずそれはキッチンの床まで滑っていった。
「あー、もう。取りに行くの面倒くさいじゃん」。
「・・・貴様が枕になればいい」。
 淡々とした言葉に光は反論しようと顔を上げ、信哉の浮かべる表情に気づいてはっと息を飲んだ。
「・・・手加減、できない。できないんだ。死ねばいいなんて、思ってない。最初はちょっと思っても、持続してるわけじゃない。体が勝手に動くんだ。おれは、もしかすると、いつか本当に、誰かを、」
 同時通訳のニュースみたいに細切れに言葉を紡ぐ信哉は、途方に暮れた琥珀色の目をした。
 それを見た、光の口から低い笑い声が漏れる。
 負傷を覚悟で頭を抱き寄せてみるが思ったより抵抗は少なかった。調子づいてもう少し力をこめてみる。それでも大丈夫だと分かれば一気に引き寄せた。
「・・・だいじょうぶ。んなことしねえよ、お前は」。
 案外つまんねえことで落ち込むのな。光は頭を撫でる。願わくばもっとできたらと思うが往復はせいぜい二回にとどめておき、翌朝になって信哉が後悔する出来事をあらかじめ減らしておく。兄の務めだった。
「枕、とってくるから」。
 何はともあれ体勢がつらい光が何かと立ち上がる口実を見つけようとするが信哉は動かなかった。背後から撃たれたようにぱたりと倒れてくると光に重なったまま起き上がらない。
「おい。・・・おい? もしもし? あの、信哉さん? 信哉くん? 信哉ちゃん?」。
 って。
 これは。
 もしや。
「・・・寝た、だと」。
 その事実が確定した途端、光はこのまま夜が更けていくに違いないことを覚悟した。翌朝はおそらく全身のあちこちが痛むだろうがそれで自分の突然の訪問も相殺される見込みだ。もっとも、信哉が何も覚えていないなんてことも起こらないとはいえない。それでも今こうして狭い場所で一緒に眠っていると、何が利で何が欲だとか、何が正で何が負だとか、そんな物差しはなんら意味をなさないと思った。頭ではなく体が。ただ、満ちる。何かが満ちていく。
「・・・よっぽど眠かったんだな、本当に」。
 起こさないでいてやるのは兄の務めだ。
 光は徹夜を決意する。






あ ま い も の が た り な い








「・・・ま、つまりかわいいんだけど、っていう、のろけ話な」。
 光の呟きにひめかわがきょとんとした表情を浮かべた。
 が、すぐに満面の笑顔を浮かべる。
「はいっ。すっごくかわいいんです、おれのオージはっ」。
 得意そうに答えるひめかわに光は釘を刺すことを忘れなかった。
「だろ。でも今の台詞は信哉の前で控えたほうがいいかな」。
 ひめかわは首をかしげる。
「・・・なんでですか?」。
 純粋に疑問に感じているようだ。
 おれにもそれだけの見えていない感じが欲しい。
 光は頬杖をついて眺めてみたいものの姿を思い浮かべて、非現実だ、と笑い飛ばす。
 それだけの距離が、もどかしいよりも楽しい。
 そう思える性格こそ、愛情表現の許可だと思った。
 世界がそういう仕掛けなら、おれもそれに合わせてみるよ。
 どうしようもなく口元が緩んで、コーヒーに砂糖を入れるのを忘れる。
 あまいものがたりない世界も、それはそれで、悪くない。 「悪くはないな」。
「はい、悪くないですっ」。
「ひめ、お前おれが何のこと云ってるかちゃんと分かってるか?」。
「いえ、分かってません。でも光さんが嬉しそうだからそれはそれでいいんだろうと思ってます」。
「いいねえ、素直で」。
「はい」。
「だけどそうじゃないのも、おれ嫌いじゃないのよ」。
「はい。分かります」。
 ひめかわの頭に浮かんでいるのは間違いなくオージの姿だろうと光には手に取るように分かったが、光の頭に浮かんでいるものはひめかわには伝わらないに違いない。
 ケーキ。光が呟く。
 ケーキ食べる。
「はい。食べましょう」。
 まるで光がそう云うのをずっと待っていたみたいにひめかわは頷いてメニューを広げる。
「やっぱり、あまいものが必要なんです。苦いのを楽しめるのも、自分があまいものを我慢してるってのを分かってるから」。
「うーん、そうかも。ああ、おれ期間限定のにして」。

 空になったコーヒーカップに、午後の冬の光が降り注いでいる。それはあまいかも知れないが、誰にも飲み干せない。だから誰もがあまいと信じた。