その夜、ひめかわは夢を見ていた。
 場所は自宅の庭の樹の根元あたりだ。
 一匹の黒猫、あたらしい黒猫だ、彼がとことこ歩いてくると前脚で地面を叩きながらここを掘れとでも云うように見上げてくる。あんまりかわいいので意地悪をして無反応でいると黒猫は痺れを切らしたらしくひめかわの足の甲から大跳躍して胸元のボタンに前脚をひっかけ、残りの距離を二度目のジャンプで飛び上がると爪を隠した肉球で頬をぶつのだった。

 ぺちっ。

「ふあっ」。
 体を起こすと見慣れた自室だった。小学生の頃から暮している、紛れもない我が家だ。中学時代、高校時代、そして大学時代の現在に至るまで住み慣れた居心地の良い一室だ。畳に敷いた布団の上でひめかわはふと、何かがおかしい、と思う。
 寝転がって見上げる冬の星座がお気に入りで、カーテンは閉めないままでいた。今さらながら冷気が頬を強張らせる。むず痒いような感触を残す左の頬を不思議そうにさすりながらひめかわは隣を見た。
 寝ているはずのオージがいない。
 毛布をはねのけると無言のまま静かに焦り、自分の毛布の中や押入れの奥や挙句はいくらオージの体が平均的同年代に比べて小さいほうだとは云えさすがに入りきるはずもないであろうことは少し考えれば分かるであろうに狼狽えるあまり冷静さを失いつつあったひめかわは机の引き出しを上から順番に開けては閉めていった。
「・・・いない」。
 抜け殻となった毛布の中に手を突っ込むとまだかすかに体温が残っている。出て行ってからそう時間が経っていないはずだ。
 自らを鼓舞せんと両頬を叩いたひめかわは窓辺に近寄りあるものを見つけた。
 半球体の夜空に、満月が青白い光を放っている。それはまるで人工の夜に見えた。プラネタリウムのようだと思った。
 視線を下方に落とせば、そこに動く人影がある。
 どれだけ暗かろうが離れていようがひめかわが見間違えるはずはなかった。
「オージっ」。
 窓を開けようとした手をしかし止めて、ひめかわはオージの行動を見守った。
 こっそりと布団を抜け出した真夜中に何をしているのか、気になったからだ。訊ねれば答えてくれない可能性があるが、こっそり見る分には嘘の吐きようもないだろうと踏んだからだ。それに、ただでさえ先日の件でひめかわに対するオージの態度は硬化していた。先日の件というのは、ひめかわの同級生たちに門前で不意打ちをくらったオージが吐いてしまった出来事だ。そもそもオージが大学の休みを利用してこの家へ戻ってきたのは最近体調がすぐれないからだということは本人が云っていたし、ひめかわも気を配っているつもりではいた。それでも、明かりのついていない家に恐怖心を抱くオージの前に、あんなアクシデントが起こるなどまさか考えてもいなかったのだ。あれはひめへのサプライズのつもりだったんだよ。翌日、大学の構内で発起人の一人に出会ったひめかわは彼等の仕業になんら悪意の無かったことを知る。オージについて知ってさえいなかったのだ、悪意の抱きようもないだろう。ただ、何か安易に説明しがたいような事情があるのだろうということは察してくれているようで、根掘り葉掘り訊いてくる者もいなければ、やたら気遣ってきたり陳謝してくる者もいない。ひめかわにはそれがありがたかった。ただ、オージとの関係については問われた。ひめかわは高校時代に電車内で一目惚れしたのだと伝えた。誰もが笑い、ひめかわも笑った。決して嫌な笑いではなかった。すべてを洗いざらい話してもきっと理解してくれるんじゃないだろうか、とさえ思った。しかしそんなことはしなかった。
 こうして少しずつ忘れられていくんだ。
 ひめかわは懐かしがるように感慨にふけった。オージが中学生だった頃、オージの周囲は彼をそっとしておかなかった。ある人は憐憫の情を見せ、ある人は忌避し、ある人は憤怒し、ある人は擁護し、ある人は危惧し、ある人は詰問し、ある人は追跡し、ある人は暴き立て、散らかし、いっぽうである人は己の良心に従って慈悲深さを見せたが誰ひとりとして無関心を示してはくれなかった。視線におびえていつしか素顔を隠すようになったオージはいまだに表情にとぼしい。それでもひめかわが全然別のほうを向いて自分とまったく関係のないことについて夢中になったり必死になっている間、オージの態度に隙ができていることをひめかわは知っている。もしいつか手放しで見せてくれる笑顔があれば、泣き顔があれば、おれはもう死んだっていい。半ば本気でひめかわは考える夜もある。朝もある。半ば冗談だが小躍りする程度には嬉しくて幸福そのものになってしまうだろう。

「なあ。ひめかわ」。
「うん?」。
「優しさって、なんなんだろうな」。
 暗闇が人を雄弁にすることは小学校の修学旅行時に当時好きだった女子の名前を誘導されるがままに白状させられて以来ひめかわはそれなりに理解しているつもりだった。しかし、部屋の電気を消してしばらく経ってから、寝言のようにささやかれたその言葉が白状でもなければ告白でもなく、問いかけのような独白のような曖昧なイントネーションで呟かれたのを耳にした時は一瞬何かと聞き間違えたかと思ったくらいだ。
 ふたりだけのプラネタリウムだね、四角いけど。えへへ。
 弾んだ声のひめかわの隣でオージはにこりともしなかった。それがつい五分ほど前のできごとだ。無視されようが足蹴にされようがきっと好きにしかなれないオージの存在を体の右側に痛いほど意識しながらひめかわはまるですべてが初めてづくしのうぶな少女のようだった。
 ふたりだけのプラネタリウムだね、四角いけど。えへへ。
 そう見上げたのはカーテンを閉めずにいた窓から見える夜空だ。都会の夜空は見える星座が限られる。姫川家ほど田舎へ来ると、夜はいっせいに地上から明かりが消えるために地平線の随分と近くの場所まで数々の星座が見つけられるのだった。
「ひめかわはおれ以外だと、優しくできないのか?」。
 自分は空を見上げている。だからオージもきっと空を見上げている。
 声の調子からもそう分かっていたひめかわだったが、凝視されているかのように落ち着かなかった。もっとも、黒色の割合が多いその目に見つめられる幸運にはなかなか恵まれてこなかったが。
「・・・オージ。もしかして、なんか、怒って、る?」。
「いや、べつに。おまえがもしおれを好きじゃなかったら、おれはここにこうしていられないんだろうなあって思ったらなんか変な気持ちになっただけ」。
 あんな遠くに星がある、と今の自分達に知らしめてくれる光があの星を出発したのは、自分が産まれるよりずっとずっと昔のことだと考えると日中に干してやわらかな毛布をぎゅっと体に巻き付けて頭まで覆いたくなる。
「どうして」。
「何が」。
「どうしてオージいまそんなこと云うの」。
「どうしてって、ただ思ったから訊いてみただけ」。
 悪いかよ、とオージは寝返りを打つようにそっぽを向いてしまう。
 オージがいつまでも高校生のまんまだったらいいのに。おれだけが大人になって、養われることに嫌悪を覚えない身分で居続けてくれたら、どんなにか優しくできて満たされた気持ちになるか知れないのに。
 ひめかわは時々そう思う。
 県外の大学に進学してからというもの、オージが日々勉学に励み、なんとか自立しようと奮闘している様子をひめかわはひしひしと感じ取っている。オージ本人は自分から苦労を語りはしない。ただ、ひめかわに問われた場合に授業の内容やその日あった何でもないようなことを教えてくれる程度だ。それを聞き、オージそっちでもちゃんと頑張ってるね、などとわざわざ伝えはしない。いくら感じたとしても、そう伝えることで自分が同年代の友人に対するよりも少し手厚くオージを見守っていることが露見してしまうからだ。オージはそれを屈辱と感じるだろう。自分がふがいないせいだと責めるだろう。だからひめかわは一つ一つの相槌にできるだけ心をこめた。受話器の傍であんまりふんふんと力強く鼻を鳴らすので、ところでさっきから片手で何してんだよとずばり疑われたこともあるくらいだ。自慢ではないが。
 おれとオージは同じ年だから、同じ数だけ同じペースで年を取る。
 云うまでもなく、それは当たり前のことだ。
 だけど。
 ひめかわは妄想する。
 もし年齢を重ねるのがおれだけだったら。オージがずっと未成年でいてくれたら。
 そしたらおれがオージを堂々と守れんのに。甘やかせんのに。
 そしたら、そしたら。
 オージだってそんな自分を、許しやすくなって、くれんのに。
(ただ、それだけ)。
 ひめかわはオージの異父兄である混血の青年たちを思い浮かべる。顔立ちの端正さがかえって迫力となっている彼等は、互いにいがみ合ってはいるが共通の末弟のことが絡むとつい先刻までの亀裂を嘘のように素早く修復し、団結して困難を解決することに尽力する。その瞬間に発揮されるチームワークたるや気心の知れた熟年夫婦でさえかくやとばかりの息の合いようであり、事実それがあって初めて成果を上げたことも多い。二人には兄として弟を守り抜くことは当然でありそれが正義であり真実であると傍から見れば盲目的に、むしろ狂信的に心に抱いている節があった。それは時にひめかわの安寧をかき乱すが彼らの言動すべて末弟であるオージのためを思ってなされているものだと思えばこそ、同じくオージに対し崇拝にも似た愛しさを感じつつある昨今のひめかわには尊敬に値する日もあった。
 そのせいだろうか、あるいはまったく関係ないかも知れない。
 オージは年上に甘い。
 周囲の年上つまり二人の兄がオージに甘いのはもちろんだが、オージもまた彼等に対しての態度は比較的柔和だ。ひめかわの、時に曇り時に濁った目には、甘えているように見えることさえある。本来オージはその態度を、混血の兄二人のみならず周囲全般に、とりわけ自分に対しとるべきなのだとひめかわは考えている。そうであったらいいな、と願っている。しかし口にするのは野暮ったいしかえって気負わせてしまうかもしれない。そう思い無言実行のつもりでいた。しかしオージが、兄に対するようにひめかわに接してくることは皆無といってもいい。立場の違いだと云われればそれまでだ。ひめかわだって、親や自分の兄弟に対するようにオージに対しているわけではない。相手により態度も変えるし、それが他人ならなおさらだ。であるからしてオージの使い分けはなんら不自然ではないはずだった。それなのに不公平だと心内ひそかに嘆くのはひとえに、ひめかわが、オージを好きでたまらないからなのだと本人は気づいているだろうか。
「たとえば誰かに優しくするんだとして、理由は一つだと思うんだよ」。
 オージの言葉にひめかわは我に返った。
 一つ、と繰り返しながらぼんやりとしか見えない後頭部に目を凝らす。
「そう。優しくする自分にとって利があるか、優しくされる相手にとって利があるか」。
「二つじゃん」。
「後者は、相手にとって利があるということが自分にとっての利になりうるパターンのことだから、結局一緒なんだ」。
「そうだとして何が云いたいの。おれに何をさせたいの」。
「何も」。
「嘘だ」。
 嘘だ。と、ひめかわに云われたオージが突然くしゃみをした。
 ひめかわの心配をよそにオージは、偶然だ、と鬱陶しそうだ。
「それともひめかわ、おまえに否定されたらおれは生きてけないとでも思ってんのかよ」。
「・・・え」。
「たくさんの肯定で甘やかして、おまえはおれを駄目にしたんだ」。
 掠れて聞こえた語尾が不安をあおる。
 ひめかわは思わず布団を移動しそうになり蹴り飛ばされた。
「うわ、痛っ」。
「寄るからだ、ばか」。
「だってオージがっ」。
「おれが?」。
「どっか行っちゃいそうなんだ」。
 今度は蹴られてもやめなかった。毛布ごと覆われたオージはありったけの悪態をつきながらしばらく苦しそうにもぞもぞと身を捩らせていたが適度な隙間を見つけてそこに落ち着いたのか、体から力を抜いた。
 それを待ってひめかわが口を開く。
「うん。おれ、自己満足だよ。こういうことするのだってそうだし。自分がすっきりしたいだけだもん。オージのことがきらいじゃないから、こういうことしたい自分の欲求をかなえてやってるだけだもん。それの何が悪いんだよ」。
「・・・開き直ってんじゃねえよ」。
 さぐりあてた相手の体温にひめかわは頬擦りをした。
「オージ、もふもふ。もふもふっ」。
「・・・おまえもな」。
 二人はまるで二匹のように、半ば一方による強制でごろごろとじゃれ合うようなやり取りを続けたあと、時間がとまったように動くのをやめた。
「うん。おれ、今のオージ以外に今オージにしてるみたいに優しくする気、あんまし無いよ」。
「・・・・・・」。
「だって、意味ないじゃん。全員に優しくしたって」。
「・・・泣く信者が大勢いそうだな」。
「おれに信者なんかいませんって」。
 ひめかわは自分の言葉を裏付けるようにオージの頬に一層密着したが疎ましがられただけだった。
「そう信じてるのは、おまえだけかもな」。
「本当にいません。オージ以外は」。
「・・・勝手に信者呼ばわりしてんじゃねえよ」。
 オージの拳骨が肩越しに繰り出されたがひめかわの頬をかすめただけだった。そろそろ二人ともに眠気が襲ってきている。
「オージ。優しさなんて自己満足。ただの、その人の、エゴなんだよ」。
 オージからはもう返事が無かった。
 やり取りが面倒になったのかも知れなかったし、それで納得してくれたのかも知れなかった。数分後、オージの立てる寝息が聞こえる。真顔で云えば笑われそうだが、オージの安らかな寝息ほどひめかわを泣きそうな気持ちにさせるものはこの世界に二つと無い。

「オージ、何してんだろ・・・」。
 二階の自室の窓辺からひめかわが、月光に淡く照らされた庭にしゃがみ込むオージを見守っている。
 一応は上着を着込んでいるとはいえ、零度を下回っている可能性もある寒さの中、思いつめているようにも見える背中を心配しなかったと云えば大嘘吐きになる。それでもひめかわは窓を開けて名前を呼びかけるということができなかった。
 あるいは、これは夢だ、と云い聞かせていたのかもしれない。夢の続きだ。あくまで。だから、おれは傍観者だ。見ているだけで、いい。それが、いい。
「・・・何か、埋めてる?」。
 オージの手元はひめかわの位置からはっきりと見えないが、腕の動きから察するにどうやら何かを土に埋めているようだった。冬眠前のリスみたいだなあ、とのんきに思うのは眠気が十分にさめていない証拠でもある。時計を見ると午前二時をまわったところだった。
 やがてオージが立ち上がった。土のついた手を払い、くるりと踵を返す。ひめかわは窓辺から体を離した。しばらくするとオージが家の中に戻ってきた気配があった。洗面所の水が流れている音が聞こえてくる。手の汚れを洗い落としているところだろうか。しばらくすると階段のきしむ音が聞こえて、オージが布団へ戻ってきた。ひめかわは寝たふりをしながら薄目を開けて、オージの様子におかしな点は無いか確認する。特に何も発見できなかった。
(ま、いいか。オージ、戻ってきたし)。
 オージが部屋に入ってきたとき、雪のようなにおいがした。明日もきっと寒いだろう。自分は授業があるが、オージの休暇はもう一週間ほどあるらしい。授業は午前中のみで、午後からはオージと買い物にでも出かけたかった。あくまでひめかわ個人の希望に過ぎないが。
 再び眠りに落ちていくひめかわは、その時オージが埋めていたものを暴いてみるなど考えも及ばなかったし、そんなことを考えつかなかったことは幸いだっただろう。
 二度目の夢は見なかった。
 オージが隣にいる。
 それが夢のような現実だったからか。ひめかわは翌朝、ものの見事に寝坊をした。






ほ し に ね が い を








「で?」。
 向かいの椅子に腰掛けた金髪の男がきれいな顔を心持ち傾ぐように話の先を促す。
 もしこれがもっと甘い、平和的なシチュエーションだったならば。
 そして自分が彼に恋する乙女だったならば。
 これほど極上の笑顔は無いだろう。
 自分に向けられたものだとは信じがたいだろう。
 もしそうであるならば夢か妄想に違いないと仮定するだろう。
 もしこれが平和的なシチュエーションだったならば。
 そう思うほどに彼は笑顔、そう、とても完璧な笑顔だったのだ。この世に完璧というものは確かに存在するのだと、オージの兄の一人である信哉を前にしたひめかわは改めて実感する。
「で、それでどうしてオージが消えるんだ?」。
 至上の笑顔を向けられた後で、それと同じ人物から文字通り射抜くような視線を浴びせられたひめかわは次の言葉を注ごうとするも舌がうまく動かせずしどろもどろになってしまい、一見完璧な笑顔に見えるほど御機嫌かに見えた相手がすでにじゅうぶん殺気立っているところへさらに火に油を注ぐようなことをしてしまったのだと思うとますます頭の中は真っ白になった。まるで一面の銀世界だ。
 ここは昼下がりの喫茶店。いくらなんでも人殺しは起きない。
 ここは単なる喫茶店の一席。殺人現場には決してならない。
 ぶつぶつと呟きながらひめかわは知らずのうちに両手を組み合わせていた。
「ひめかわ」。
「は、ふ、ひあいっ」。
 緊張のあまり声が上ずるどころかまともに返事すらできないひめかわを憐れむでもなく信哉は続ける。
「分かるか。ひめかわ。もしオージの身に何かあった場合、おまえの身に何が起こるか、考えたことがあるか」。
 その声色だけは諭すように優しい。自力では到底歯の立たない、難しい問題を噛み砕いて教えてくれる家庭教師のようだ。
 ひめかわがごくりと唾を飲んだ時、注文していたコーヒーが運ばれてきた。男のプライドをかなぐりすてて救いを求めるような目を店員に向けるも、どう解釈したのか彼女はにっこりと笑顔を浮かべ、去っていく。ひめかわはぎこちない関節の動きで目の前の男に向き直った。カップの奥で形の良い瞳がひめかわの動きを監視するように睨んでいる。
「まあ、考えたことくらいはあるだろうな」、カップを口から離した信哉は優雅に見える手つきでソーサーに置くと、ほとんど硬直したままのひめかわに先程に勝るとも劣らない笑みを向けた。ひめかわの背後でカップや皿の割れる音がする。聞くに、余所見をしていた客が手元の器を落としたらしかった。間違いなく信哉が原因だろうとひめかわは見当をつけるが、それで自分の立場が良くなるわけではない。
「ただ、おれの考えていることに遠く及ばないというだけで」。
 隣の席で新たに何かが割れる音がした。
「いいか、ひめかわ。光に云わせるとどうやらおれは最近おかしいらしい。こちらの授業が忙しく、オージに会えない時間が長引いたせいだ。ここまでは、分かるよな」。
 ゆったりと紡がれる信哉の言葉にひめかわは必死に頷く。
「は、はい。分かります」。
「だから、手加減なんて期待しないほうがいい。分かるか、ニコを育てたのはおれだからな」。
 脅迫ですっ。
 そう叫びたい気持ちをぐっとこらえずとも、ひめかわは声が出せなかった。ただみすぼらしく濡れ鼠のように細った体をぶるぶる震わせることしかできない。
「オージはおれの心臓だ。忘れるな」。
「は、はいっ」。
「良い返事だ」。
 今度こそ信哉は笑顔を取り戻したが、もともとそんなに笑う人間ではないのだから不気味なことこの上ない。それでも、午前中だけの授業を終えて午後一時過ぎごろ自宅へ戻ってきたひめかわが、いるはずのオージの姿が見えないことに気づき真っ先に信哉に連絡を入れたのは的確な判断だったといえる。もしオージの不在が長引いた場合、遅れて連絡を入れたとしてそれだけでひめかわの身は危なかっただろう。比喩ではない。高校時代を思い出せば、オージ絡みで信哉と光の両名が起こした事件の数は両手の指を使ってもおさまりきれない。もっとも彼らは各校の生徒会長という地位に治まっており、不祥事の一つや二つを揉み消すことは比較的スムーズに行ったが、そうでなくとも頭の切れる二人がへまをやらかすとは思えなかった。ひめかわの友人であるニコこと桐谷コウの存在自体がそうだ。信哉に認められ、オージの同級生としてその護衛役ともいえる任務を負っていた。もっともニコ本人に云わせれば、オージは親友だとのことだが、信哉にとってはそれだけの存在ではなかったはずだ。ちなみに無敵のニコは現在、リハビリを学ぶ専門学校に通っている。曰く、「折ってきた骨の数を無駄にしないで済むじゃん」とのことだが、爽やかな笑顔と裏腹な台詞であることは疑いようもない。ニコは数々の喧嘩を通し、すでに人体の構造を把握済みなのだ。ある意味で彼のとった進路は最適だとも云える。
「オージの発見が半日遅れるごとに、ニコに与える褒賞を倍にしていくからな」。
「褒賞?」。
「知っているか」。
「はい?」。
「駅地下に、あらたなスイーツゾーンが誕生した」。
 その言葉の意味をようやくとらえたひめかわが蒼ざめた。ニコにとっての甘いものは、猫にとってのまたたび、ひめかわにとってのオージのような対象だ。最強の機動力かつ原動力となりうることは想像に難くない。
「はい。すぐにオージを捜し出してみせますからっ」。
 ひめかわの宣言に信哉は満足そうに頷いて脚を組み替える。
「よし、いい子だ」。
 さっきとは別の方角から新たに何かが割れる音がした。
 信哉も半ば面白がっているだけの部分もあると気づいたひめかわはようやく自分のカップに手を伸ばすことができた。
 ついさっき信哉には誓ってみせたものの、いまだにオージがどこへ消えたのか、ひめかわには分からなかったが、夜になればふらりと戻ってくるだろうという淡い期待もまだ完全に消し去ってはいなかった。しかし、オージがそもそも自分から思いついて姫川家を訪れたのには多分に精神的な疲労があったことを考え合わせると、今すぐにでもオージを見つけ出して目の届く場所に置いておきたいという気持ちが湧いてくる。
 やる気をみなぎらせたひめかわはふと「おれって信哉さん化してきてないか?」と呟き、向かいに座る男に首を傾げさせる。

つづく?