雪は綿あめのように降っていた。
ダッフルコートのポケットに両手とも突っ込んで前を歩くオージをひめかわは引き留め、転んだときに危ないよと教える。自分のより小さな手はきちんと手袋をはめていて、繋ぐきっかけと口実を見失ったひめかわは肩を落とした。
二人はしばらく歩いた。雪がすべてを覆い隠そうとするから、歩いている場所が見慣れた場所なのかそうでないのかあやふやになる。
途中、コンビニに寄ったひめかわはレジ前で販売されていた肉まんを二つ買うと外で待っていると言い張り実際、会計の間外で待っていたオージの元に飛んで帰ると片手を差し出した。
「はい。食べよう」。
しばらく立ち尽くしていたオージの頭には雪がこんもりとのっている。
「何それ帽子みたい。オージ、かわいいっ」。
無言のオージに肉まんを渡して空いた方の手でひめかわは雪をはらってやった。
「どうして待ってるなんて云ったの」。
「おれ、消えてくんだ」。
かじかむ手でタレの袋を開けているひめかわの隣でオージが答える。
「あったかい場所にいると、おれ、消えちゃうんだ」。
ひめかわはオージの横顔を見下ろした。冗談を云っているふうには見えない。
「オージは、雪の妖精なんだね」。
返事は無かった。
ひめかわは気にせず口を開くと、できたての肉まんに食らいついた。
途端、
「あふいっ」。
かじり取った形のまま思わず地面に落としてしまう。
咄嗟に後ずさったオージが不可解な目をひめかわに向ける。
「おまえ、犬なのに猫舌なわけ」。
はふはふと口の中に冷気を取り込みながらひめかわは首を縦に振る。だったらそれなりに用心しろよ、とオージは自分の肉まんを二つに割ると断面を外気にさらして冷まし始めた。白い湯気が、降ってくる雪とは反対に上昇していく。
雪降る町で、砂漠の中のオアシスのようにぽつんとたたずむコンビニの前で、ひめかわとオージはそれぞれの肉まんが立てる湯気を見守った。
「ひめかわ」。
「うん」。
「まだ、ひりひりしてんのかよ」。
呆れたようなオージの声に、ひめかわは赤くなった舌の先を出して見せ頷く。
オージの溜め息が聞こえた。
雪が降る。
それは肉まんの上にも舞い降りた。
二人は食物を適温に近づけようと、具材に付着する雪を厭わないでいる。
「ひめかわ」。
「うん」。
間が空き、オージの顔に目を向けたひめかわは驚くべき言葉を聞かされることになる。
「おれのほっぺた舐めていいぞ」。
しんしんと音がする。
雪が降り積もっていく音だった。
そこかしこで。
オージの肩に。ひめかわの髪に。
「え、な、なに。よくきこえなかった」。
「だから、今おれのほっぺた冷たいから」。
「えっと・・・、だから?」。
「・・・だから、・・・それにお前いま両手ふさがってるし」。
視線を逸らせつつオージが拗ねたように唇を尖らせるとひめかわの目の縁に涙が盛り上がった。
「う、うん。わかった。そうするっ」。
オージの気が変わらないうちに実行あるのみ。
ひめかわが身をかがめるとオージが微かに顎を持ち上げた。
両手が塞がっていてよかった。
肉まんがバカみたいに熱くて良かった。
おれがばかで舌をやけどしてよかった。
今日が雪でよかった。
もろもろの神に感謝しつつ顔を離したひめかわはオージの瞳を覗き込む。
「・・・おれ、は、ほっぺた舐めろって云ったんだっ」。
「ごめん、まちがえちゃった」。
悪びれたふうのないひめかわの態度にオージの顔が険しくなる。
「じゃ、次はまちがえないように頑張る」。
角度を変えてもう一度腰をかがめるひめかわは幸福そうに目を瞑っており気づかなかった。
オージの肉まんが顔面に近づいてくることに。
「あふいっ!」。
ほ し に ね が い を
「という、夢を見たんだ」。
「夢かっ。道理でっ」。
カプチーノとタルトのセットが二つのったテーブルの上に頬杖をついて話に聞き入っていた松橋はオチを聞いてひめかわのおでこを弾いた。
「いたっ」。
「罰だっ」。
「うう」。
「いい年した男が泣き真似はよせ。うっかりひっかかったらどうすんだ」。
「あ、そうなんだ。いつか活用しよう」。
ひめかわはもう笑って頷いた。
ひさびさに気のおけない友人と再会し、癒されている自分を知る。大学で出会った仲間と一緒にいるのも楽しいが、松橋は特別だ。なぜなら自分と似ているからだ。ひめかわはすっかりそのことを分析済みだ。自分が松橋と一緒にいて気楽なのは第一に、自分達が似た者同士であることが挙げられる。
なまじっか外見が整っているだけにひめかわは中身まで完成した人間であることを期待されてきたという、そうでない人間から見れば逆に夢のようなしかし実際は悪夢の経験がある。ひめかわの正体は同年代の平均よりややヘタレ成分が多めな、それだけの男子だ。周囲の大人や特定の異性から劇的な何かを期待されるたびに申し訳ない気持ちと、やるせない気持ちがないまぜになって寝込みたくなってしまう。小学生から中学生のころにかけて、主観と客観のイメージとのギャップで随分と悩んだこともあるが、高校に入ってからというもの少しずつ素の自分をさらけ出すことで楽に過ごせる方法を習得していった。それですべてがうまくいったわけではないが、少なくとも、応えられない期待には応えないでいることに耐えうるだけの度胸はついたと自負している。そうすれば自然と自分に合った仲間が集まってくる。松橋はその一人だった。オージと同様、かけがえのない存在の一人だ。
「それより、あっちの席にオージくんいるんだけどひめは当然気づいてるんだよな?」。
松橋の指さす方をひめかわは勢いよく振り返り、しばらく硬直した後、すっと顔を前に戻し、きょとんとした表情の友人の手に手を重ねて頷いた。
「・・・ひめ?」。
「まつばせのおかげで発見できた。ありがとう。本当にありがとう」。
「行方不明だったのかよ」。
「信哉さんにも連絡しちゃった」。
「なぜっ」。高校時代に面識があるその名前に松橋は異常なほどの緊張を示した。彼の属性はひめかわと同じヘタレであるために、恐怖心を抱く相手の名前にさえ全身が反応してしまうのだ。それは二人が同じクラスの生徒だった高校時代から変わらない。
「だって、後から発覚した時のほうが怖いんだもん」。
「・・・いいように手なずけられてんなあ」。
松橋の皮肉を聞き流したひめかわはもう一度ちらりと後方の席を振り返った。窓際の席に座ったオージの前に、知らない男が座っている。年齢は二十代前半かそこらだ。どこかの会社の営業マンのようにも見えるのは男がスーツ姿であることと、足元に黒いバッグ、椅子の背にコート、そして相手の警戒心を解くのにじゅうぶんな人懐こい笑顔。私服を着たら自分と同年くらいかどうかをひめかわは想像する。しかし男の人となりを知らないひめかわには彼がどういった服装をするのか分からなかった。
「誰だろ。勧誘されてんのかな」。
松橋の推測にひめかわは首を振る。
「違う。オージがあんなに落ち着いてる」。
「ほんとだ。高校時代の先生とか」。
「平日の昼間に?」。
「若いしな、よく分かんねえや」。
ひめかわと松橋の視線を感じた男が何かに呼ばれたように店内を見渡す。鉢植えの観葉植物のかげにさっと身を隠した二人はあいかわらずヘタレである。
「うう。まつばせっ。おれもう見てられないから報告して」。
松橋の席からは、ひめかわの肩の先に目標の座席がよく見える。不自然な格好をする必要もないので怪しまれる可能性も低いだろう。
「オッケー。・・・あっ」。
「なにっ」。
「男が、オージくんの手を持ち上げたっ」。
「な、なんでっ。どういうふうにっ」。
振り返りたくともそれができないひめかわの手を松橋は男がしているのと同じように持ち上げる。
「どういう意味これどういう」。
ひめかわの詰問を制して松橋はひたすら男の動きを真似ることにつとめる。
掬い上げるように支え持った手の甲に顔を近づけ、今にも唇が触れんばかりだ。
「こ、これは。ひめ。おれはどこかでこういうシーンを見たことがある」。
「えっ」。
硬直するひめかわ。
その手を顔に近づけきりりと表情を引き締める松橋。
席の横を通り過ぎる女性たちが興味深そうな目を向けてくるがひめかわは気にするどころではなかった。
「・・・まつばせ?」。
「外国映画だ」。
「う、うん」。
「二人は知り合って間もない」。
「え? うん」。
「語らう。見つめ合う。恋に落ちる。そして男が、女に、こう」。
いつになく引き締まった表情の松橋がひめかわの手の甲に軽く唇を押し当てた。
「オージが食われるっ」。
咄嗟に席を立とうとするひめかわを松橋はなんとか食い止める。
「待て。ひめ。おれはいいことを思いついたぞ」。
「なにっ」。
「いまひめが出て行ってもあの男はもしかすると太刀打ちできない相手かもしれない。オージくんだってもしかすると自分の意思ではなく半ば脅迫されて席を共にしている可能性だってあるんだからな。やみくもに出撃しても返り討ちにあうだけだ。最悪の場合、ひめはオージくんの見ている前で消せない屈辱を噛み締めることになり敗北感に打ちひしがれることになるかもしれないだろ」。
松橋の言い分にこれっぽっちも根拠は無かったが冷静な判断力を失ったひめかわにそのからくりが理解できるはずもない。崇拝する信者のようにその顔を見つめ、何でも鵜呑みにしそうな縋る目をしてしきりに頷いている。
「ま、まつばせ。おれ、どうしたらいいかなっ」。
遅刻しようが忘れ物をしようが成績が悪かろうがどんなへまをやらかそうが決して人から嫌われないひめかわだ。人気者体質なひめかわにこうも頼られて松橋も悪い気はしない。
「親友としておれは次を提案する」。
自信に満ちた松橋の表情にひめかわは期待を込めた目を向けた。
やがてひめかわの中にも松橋と同じであろう考えが浮かぶ。
いまだ重ねたままの手から松橋の考えが流れ込んできたようにひめかわには感じられた。
二人は無言のまま頷きあう。意思の共有を確信し、にやりと笑顔になると呼吸を合わせた。
「そうだ、信哉さんを呼ぼう」。
以上が今から二十分ほど前のこと。ひめかわの連絡で喫茶店に入ってきた信哉は例によって店内の客の視線すべてを集めながら、誰の姿よりも真っ先にオージの姿をみとめると窓際の席へ向かって歩いた。
「・・・今だ。今こそあの男の本性が暴かれるぞ」。
観葉植物の陰に姿をひそめながらひめかわと松橋は事の展開を見守った。彼等には自分達のふがいなさがまるで自覚できていないのだった。
「・・・あっ」。
松橋が思わず声を漏らしたのを掌で押さえつけながらひめかわも驚きを隠せなかった。
なんと、頼みの綱であり二人にとって最終兵器でもあった響信哉は、オージの席の隣に腰を下ろすと正面の男に向けて親しげな表情を見せたのだ。
「・・・想定外っ」。
ひめかわはテーブルに拳を落とした。すっかり空になったカップがソーサーの上で音を立てた。
「作戦変更だ。観察に徹する」。
新たに別の飲み物を注文し、ひめかわと松橋は長期戦になる可能性をも考えた。この時点でひめかわはもはや後ろを振り返ることを恐れなくなっていたばかりか松橋の隣に席を移動し、横並びの二人はほぼまっすぐにターゲットを凝視していた。
「なあ、まつばせ」。
「なんだい、ひめ」。
「三人はどういうふうに見える」。
「昔からの知り合いみたいに見える。親戚だろうか」。
「親戚か。そうか。でも、オージたちは親戚と険悪になってるはずなんだけど」。
「そうか。それは知らなかった。ひめかわよ。じゃあ他人だろう」。
「他人にしては信哉さんの警戒心がすごい低さまで下がっているように見えるんだがおれの目の錯覚ならそうだと教えてくれ」。
「いや、おれの目にもそう見える。あれはやはり相当な相手だぞ」。
「ああ。初めて見た時からあの男は普通じゃないと思っていたんだ。オージの手をにぎにぎして、殴られないで済んでいるなんて」。
「にぎにぎはしていなかったがな」。
「ああ。それはおれの錯覚だったかも知れないことをここに詫びる」。
注文した飲み物がテーブルに置かれる間だけ二人は言葉を切った。
「ところでまつばせ」。
「どうした、ひめ」。
「オージは横から見てもかわいいな」。
「おれは信哉さんは絵画のようだと思いながら見ていた」。
「だが破壊兵器だ」。
「敵に回したくはない相手だ」。
「たまに回してしまうけど」。
そこでひめかわと松橋の二人は口をつぐんだ。
男の手が、まさかの信哉にまで伸ばされたからだ。
「なあ、まつばせ」。
「おう、ひめ」。
「あいつは自殺志願者か?」。
「そうとも限らない。撫でられた信哉さんもまんざらではない」。
「おれはもうこの先何を信じて生きていけばいいのか分からなくなったぞ」。
「心配するな。おれも同じだ、ひめかわ」。
「これからも同じでいてくれ、まつばせ」。
「もちろんだ。おれたちの友情は終わらないさ」。
ひめかわと松橋は初めてターゲットから視線をそらすと、隣り合った互いの顔を見、こっくりと深く頷き合った。
永遠の友情を確かめた二人が改めて顔を正面に戻した時、男の姿はいつの間にか消えていた。慌てて店の玄関のほうを見れば、コートを羽織った男が出ていった姿が見える。いったいどれだけの時間自分たちが見つめ合っていたのか、ひめかわと松橋には知る術もない。
席に残った信哉はオージの顔を覗き込み、二三の質問をしている様子だ。オージは頷いたり首を振ったりしてそれに答えている。質問の最後を終えた信哉が、ほとんど自然な仕草でオージの前髪をかきわけて額に口づけた。軽い挨拶のように見えるのは信哉の容姿が日本人離れしているせいも多分にあった。オージも慣れているように素直にそれを受ける。窓から射す光の中で二人の仲睦まじさは誰の目にも明らかだった。
一方、植物の陰で生気を失っているのはひめかわだ。
茶色い目を潤ませて唇をかみしめる彼を、松橋はなんとか元気づけようと励ましの言葉をかけるがことごとく傷を深める類のものばかりだ。互いを慰め合うことにつけても不器用なヘタレ同盟であった。
「まあ、ほら、ひめ。運命の相手なんてオージくんしかいないわけじゃないしさ」。
「オージしかいないっ」。
ついに立ち上がったひめかわが大きな声を出した。
「おまえさっきから何こそこそしてんだよ」。
とっくに気づいていたんだがな、と金色に近い琥珀色の髪をかき上げる信哉に、松橋だけでなくひめかわまで感嘆の溜め息を吐いた。
つづく?