いつもとは逆方向へ電車が走る。
中央へ向かう車両内は通学時のようにひめかわとオージのふたりしかいない。少し距離を置いて座るふたりの間には会話がなかった。それぞれべつべつのことを考えていた。とりとめもない、たくさんのこと。
目に映る風景は体内に入って来ない。遠くの空で太陽が雲を茜色に焦がし、山の斜面に建つ民家の窓にぽつぽつと明かりが灯っている。それはこの世に誕生する人間の魂の蝋燭のようだった。
ふと後ろの車両を見ると誰もいない。
もしもそれが鏡であっても驚くことはないだろう、とひめかわは思う。
自分達は自分達が確かにここにいると思っていて、だけど実際はそこにいない。誰の目にも見えない。
だけど、たまには、見えざるものを見る者に出くわすことは、あるかもしれない。
ゴ ー ゴ ー ・ バ ス ス ト ッ プ
ひめかわに幽霊が見えるようになったのは彼が小学校に通っていた頃のことだ。
ある夕方、家は留守だった。
父親は畑の様子を見に行っているか物置の整理をしているかのどちらかだろう。母親は買い物に出掛けたのかも知れない。
その時、いつもよりがらんとして広く見えた室内にひめかわは恐怖に似た感情を覚えた。
いつもあるものがない。いるものがいない。
そのことがあんなにも不安なものだとひめかわは初めて知った。
おかあさん、と呼びながら台所へ向かう。
台所の窓からは茜色の光が差し込んでいて、食器棚の硝子に反射していた。
眩しさを手で遮ったひめかわは指の間から流しに立つ人物の後姿を見た。
その人はひめかわの知らない人だった。きれいな白髪をおだんごにしている。
おばあちゃん。
ひめかわは呼びかけた。きっとそうだろう、と思った。それは直感だった。
祖母の幽霊はひめかわの呼びかけにくるりと振り返るとそこに生きているのと変わらない様子でこう云った。
『おかえり、かずくん』。
そう云って一層深くなった目尻の皺まではっきりと見えたことを覚えている。
この件以来、ひめかわはたびたび幽霊を見る。
幽霊は普通に通りを歩いている。部屋の中にいる。教室に、本屋に、誰かの隣で一緒に話を聞いている。
ひめかわはそれを恐れない。幽霊はひめかわに害を与えないからだ。たまに目が合ったように感じることもあるが幽霊たちは大抵ひめかわの奥にある景色や物を眺めている。よっぽどひめかわのほうが彼らにとっては見えない幽霊であるかのようだ。
そういう「見える」性質のことは家族には云わなかった。家族だけじゃなく、誰にも。
やがてひめかわは中学へ上がった。
三年生に進級し、初めて同じクラスとなったまこっちゃんと意気投合したのもそもそものきっかけは「見える」性質だ。
ひめかわと同じように「見える」性質を持っていたまこっちゃんは幽霊同好会などといった集まりの会長を引き受け、「見える」性質を満喫している。
同じ性質を持つ人間のことは一見して分かると云う。
まこっちゃん曰く、「誰も見ていないほうをじっと見ている。それも、そこに動く物がいるかのように」。
そういった経緯でひめかわはまこっちゃんに勧誘されて幽霊同好会の会員になってしまった。当時の会員数は二名、最近はオージを加えての三名だ。
「……おれ、活動なんか参加しないからな」。
そう云っていたオージだったがもう数回の廃屋探検に付いて来ている。
廃屋探検とは幽霊同好会の主な活動の一つだ。世の中は広い。さまざまなマニアが存在するが、廃屋マニアという人間も少なからずいるのだ。まこっちゃんは各地の廃屋探検のレポートを自分のブログで公開している。そのブログを見た閲覧者から他の廃屋の情報が寄せられ、時間とお金の都合がつけばその場所を訪れる。
当時のひめかわにとってまこっちゃんは画期的だった。
人と変わった趣味を持っており、その趣味はひめかわがそれまで自分のウィークポイントだと劣等感を感じていた部分に基づいている。
そしてひめかわがもっとも驚いたことにはまこっちゃんは「ふつう」だった。
変わった部分を持った、「ふつう」の人間。
その時のひめかわにとって「ふつう」とは、高尚でさえあった。「ふつう」は一種の才能で、ある程度の年齢に達するまでにその能力を取得できない人間は目立って叩かれるか目立たず叩かれるかのどちらかであると思っていた。実際そうだった。
「きみ、見えるね?」
開口一番、まこっちゃんはひめかわに質問した。
その、見えるね、という言葉に特別の意味があることをひめかわはすぐに悟った。おそるおそる頷くとまこっちゃんは軽い調子で「あ、やっぱり。おそろいだ」と云って完璧に笑った。
おれの初恋の相手って、まこっちゃんじゃないのかな。
高校生になったひめかわは今でもその時の光景を思い出すと胸がジーンと熱くなるのを無視できなかった。
ふ、と右腕に軽いものが寄せられる感覚に薄目を開けた。
床に自分の影が写っていた。
それは、誰かの重みを支えている自分だった。
首をひねろうとするとオージが寝言で唸る。
ひめかわは慎重に顔を元の位置に戻し、オージの髪から漂ってくるワックスの臭いの中に、もっと自然な香りを嗅いだ。
再び自分達の影に目を落とす。
自分が誰かを支える日が来るなんて、思いもしなかった頃があった。
ひめかわはふと、向かい合った席に例の白いワンピース姿の女の子が腰掛けていることに気づいた。
癖の無い前髪の下にやや隠れた大きな目でひめかわの顔をじっと見つめていた。
「ああ、きみか。だいじょうぶだよ」
何がだいじょうぶなのか分からなかったがひめかわは思いついたままに伝えた。
「オージは、だいじょうぶだよ」
この時、ひめかわは、もう、少女が幽霊であることを知っていた。
少女はひめかわの言葉を聞くと微かに俯いた。
その表情が、ひめかわには、笑っているように見えた。
「……なにをぼーっとしてるんだよ」
突然下から声を掛けられたひめかわは、ぎゃっ、と声を上げた。
見下ろすと、鼻筋までずりさがっためがね。
真っ黒な瞳がひめかわのことを不審なものでも見るように眺めている。
いや、睨んでいるといったほうが妥当だろうか。
「お、オージが起きたっ」
ん、と頷いたオージは大きなあくびを一つしつつ背凭れに体を戻す。
せっかく覗いていた瞳を再びめがねでしっかりと隠してオージは腕組みをした。
「……いま、どこ?」
はっとしたひめかわは窓の外を確認し、携帯電話で時刻を確認し、それから、がっくりと肩を落とした。
どうしたんだよ、と、すでに苛立ちのこもる声でオージが訊ねる。
「ご、ごめんなさい。すいませんでした。ゆるしてください。ほんとうに悪いと思ってます」
「……何だ。云ってみろ」
薄々感づいているオージは思いっきり不機嫌な目で問い詰めた。
詰め寄られたひめかわは蚊の鳴くような声で降車駅を通過してしまったことを告げた。
と、いうわけで。
「ごめんごめん、まこっちゃん。遅刻しちゃいましたっ」
待ち合わせ場所に三十分以上遅れてやって来たふたりを見てまこっちゃんはなんとなく原因が分かるような気がした。
「いや……遅刻ってのは分かってる。うん」
右の頬を腫らしたひめかわと、ぶすっとそっぽを向いているオージ。
「えーっと、まあ、事情は聞かないけど。ひめ、ほっぺた大丈夫?」
あーあ西高のアイドルが。
まこっちゃんが云うとオージは横を向いたまま「アイドル」と繰り返して鼻で笑った。それでもへらへらしているひめかわを見てまこっちゃんは自分のほうがふと情けない気持ちになった。
それでも、目的の廃屋へと歩き出し、自分とひめかわが会話をしている斜め後ろを黙ってついて来るオージがひめかわの頬をちらちら気にかけていることに気づくとまこっちゃんは穏やかな気持ちになった。
無断欠席も。
約束の時間に遅れて来ることも。
見ているこっちが情けなくなるくらい、オージに向かってただへらへらと笑うことも。
今のひめには大切なことだ。
まこっちゃんはそう思う。
初めて会った時ひめかわは暗い眼をしていた。
誰もいなくてもおれは生きていける。
消極的な積極性。
悲観的な楽観主義者。
「誰もいなくてもおれは生きていける」?
そんなわけ、ないだろ。
それともきみはもしかして今も、誰の助けも借りずに自分が生きていると思ってる?
そんなはずはない。
ないよ。
生まれてから一度も、きみはひとりなんかじゃない。
ひめかわが身振り手振りで乗り過ごした先の港町について語る。
その話を聞きながら頷くまこっちゃんはふと飛行機雲を仰ぎ見るふりをして背後のオージに目をやった。
仲間はずれにされて不貞腐れた子供のような顔。
にっこり笑いかけると、オージはあわてて目をそらした。
「おれ、先に行って時刻調べてくる」
坂の上に見えてきたバス停に真っ先に駆け寄りながらまこっちゃんは背後でひめかわがオージに声を掛けるのを聞いた。
「……なに、おれ。善人ぶっちゃって」
自分の行動に苦笑しながらまこっちゃんは坂の頂上目指して駆ける。
辿り着いて振り返ってみるとちっともめげないひめかわがオージに簡単にあしらわれているところが見えた。
そのふたりの後ろに白いワンピース姿の少女が立っていた。
まこっちゃんが片手を挙げると、少女は礼儀正しくお辞儀をした後ですっと姿を消した。
この日以来、白いワンピース姿の少女はひめかわにもまこっちゃんにも見えることはなくなった。
090327
ふたりって、見てて飽きないよなあ。(byまこっちゃん)