赤いマフラーをプレゼントした年明け一週間の滞在から一か月間ほど、遠方のオージからは何の便りも無かった。
姫川家でしばらく寛ぐことが、弱音を晒すことや人に甘えることが不得意な彼にとって保養となり得たのだとすればひめかわにとってそれ以上嬉しくありがたいこともなかったが、少し前から本人が戸惑っているように、完全に救われて欲しいとオージに対し願う一方でまったく逆、つまり非力の継続をも願っている身としては、まだ何の便りがないということは、実に身勝手な言い分ではあるが嬉しくもあり寂しくもあった。ぶっちゃけもどかしくもあった。
おれってだめな男!
バイト先へ向かうひめかわは髪を掻きむしった。
通りを歩けばそこかしこから甘い香りが漂ってくる。テレビをつけても雑誌をひらいてもその単語が踊っている。
もうそんな時期かとひめかわは毎年驚くのだ。
十六歳、あれは高校二年生の奇跡だった。それまで何の興味も持たなかった相手が自分の真ん中を射止めたのは。
がら空きの車両内。窓の外を過ぎるのは田園と電線と山稜ばかり。駅までの三十分ほどをひめかわは眠りこけたり音楽を聴きながら過ごした。途中から誰かが乗ってくることもあったが、それが、気の合いそうな同年代であることは皆無だった。高校入学から一年近く、そんな通学時間が続いた。二年に進級してからのことだ、他校の生徒が同じ車両内の隅に位置を占めるようになったのは。転入か引越しか。どちらにせよ中途半端な時期だと思った。県内では一番の進学校である東高の制服を着ていたが、小柄なせいか中学生くらいにしか見えなかった。体育の時間は相当前方にいることが予測された。第一印象は、身長のことだけではない。顔を覆うような分厚い眼鏡と伸びきった髪が、はっきり言って陰湿な印象を与えた。制服は正しく着ていたし、靴にも汚れが目立たなかった分、ちぐはぐな感じがした。ずぼらなのではない。まるで、顔が知られることだけを恐れているようだと思った。そう広くない車両内で二人きりとすれば否応なしに相手とは顔見知りになるが、同年代の二人が親しく打ち解けることはなかった。東高の彼は鞄から取り出した参考書や、そうでなければブックカバーのかかった本を読んでいることが多く、ひめかわとは目も合わせようとしなかった。最初は何かを期待してちらちらと相手の様子をうかがっていたひめかわもやがて飽きて、田園や電線や山稜と同じく、彼を風景の一部に加えてしまうことにした。
「チョコレート・・・」。
駅前に差し掛かると甘い香りはますます強く、路上販売のバイトに何故か試食を差し出されるひめかわだった。思わず受け取りそうになったひめかわは途中で何を思ったか拳を握り、首を横に振って拒絶する。
「すいません、だけどおれはもう無差別に食べられない身なんだっ」。
不可解な台詞を叫んだひめかわは女の子の眼差しから逃げるように足早に角を曲がった。
線路下を潜り抜ける際、頭上をちょうど電車が通過して頭に響いた。
駆け抜けると視界に青空が飛び込んで、ひめかわは安心して速度を緩める。自分はいったいどうしてしまったのかと自問するのはただとぼけているだけで、何を求めているのか何が原因でさっきのような行動をとってしまったのかについてひめかわには分かり過ぎるほどに分かっていた。おそらく、彼の友人たちが傍にいたならば彼等にだって見通せただろう。ひめかわは嘘が得意ではない。
二月に入り、何日か雪が降った。積もるほどではなかったが春への期待を高めるにはじゅうぶんな寒さが続いた。
今日も今日とて風が冷たい。
マフラーの結び目を作り直したひめかわは高校時代の行きつけだったドーナツショップを覗いた。最近では足が遠のいている。気分転換に立ち寄るのもいいかもしれない。ひめかわは自動ドアのセンサーがぎりぎり反応しないラインまで来てふと立ち止まる。おかわり自由のカフェラテが好物で、それを飲みたい。しかし今日に限って店内は女性客で賑わっているふうに見え、ひめかわは入店を断念した。こんな日に男が一人でドーナツセットを食らっていたら何を邪推されるか分からないからな。ということを、邪推してしまったからだ。それで入れなくなってしまったのだ。
ひめかわの足は、叔父が経営する小さな喫茶店へと向かった。
高校時代は、夏休みの間バイトを務めたこともある。
オージも、一緒だった。
「オージ・・・」。
名前を呟いただけで目のまわりが、瞼も目頭も目尻も眼球までもががじんわり熱くなってくる理由をひめかわには説明ができない。嘘を吐くことが苦手なひめかわは説明も苦手だったからだ。
同じ電車に揺られて通学を続けた二人が初めて言葉を交わしたのも、この日だった。だからひめかわは年に一回のこの日を二人の記念日だと勝手に定義づけている。そして、オージにもそう定義づけて意識してもらえるようひそかに願ったりもする。
初めて話した日。
ひめかわは最近になってその時の夢を見る。夢は現実の記憶より鮮明であることがほとんどだった。実際には雑踏の中で腕を掴まれたのだが、夢の中だと辺りには誰もいなかった。ただしそれがまるきりの嘘だというわけでもない。何故ならひめかわは嘘を吐くことが苦手だったから、本当にそのように見えたのだ。掴まれた腕を引かれて振り返ると、目の前にピンク色の何かがが突き付けられた。紙袋だ。小さな。揺れている。中はおそらくチョコレートだろうと思った。何故って、その日はそういう日だったからだ。
「ほら、これ」。
「なにこれ」。
「だから、あんたに。チョコだよ」。
この時期すでにオージに対して新たな興味を抱いていたひめかわは、コップの水が表面張力を失って溢れ出るような感覚を強く感じた。オージがまだ何か続きを喋っていたがもはやどうでも良かった。
オージから、もらえた。
それがその瞬間のひめかわの身に起きた幸福についての全貌であり、それ以外ではまったく、なかった。
ほとんど衝動で抱き締めて、その他もろもろ、周囲の笑いを誘うような反応を体現してしまった。
あの日あの時から自分はずっと恋をし直している。
早く安心したいのに、定義は忙しなくうつろう。
慣れもしなければ、足りもしないで。
ひめかわは日に日に貪欲になっていく自分がつらかった。自分の欲求がいつかオージを束縛することになるかもしれないと危ぶむからだ。
そんなわけで自分から連絡するのを控えていたひめかわだったが、そろそろ限界が近いかもしれなかった。オージの異父兄であり、東高在籍時は非の打ちどころのない生徒会長として君臨もとい活躍し、その存在はきっと今も伝説のように語り継がれているであろう男、響信哉は、ある時ひめかわに「オージはおれの心臓だ」などと真顔で宣言してきたが、最近になってその言葉の意味が痛いほどに理解できてしまうのだった。
(なんて怖いひとなんだ)。
そう思えていた頃がひどく懐かしかった。弟であるオージの身の危険を察知すれば金属バットだの角材だのどこからともなく引っさげて登場するような信哉は、傍から見れば過保護を通り越してただただ度が過ぎるのであるが、ひめかわにはそれが、その溢れんばかりの愛が実は、拭っても拭いきれない罪の意識、そこから発する無償の精神によるものだと知る術もなく、余計に「いつか自分もあんなふうになるのでは」との恐怖心を抑えきれずに震える夜もある。もっとも、ひめかわとひそかにへたれ同盟を結んでいる親友、松橋に言わせれば、ひめにそんな度胸も力もないだろうに、とのことなのだが何年もかけて恋をし直しているような、あくまで純情な十九歳はそのような洞察力を生憎と持ち合わせなかった。
何故こうなってしまったんだろ。
ひめかわはみなこうなのかと確かめてみたかった。本当にこうであるのかどうか。
恋は楽しいと聞く。恋にまつわるイベントは、たとえばこの国民総勢めくらましチョコレート企画だってそうである、恋は一様に明るく、良いことのように謳われている。歌も映画も小説も。たとえ悲しい結末に終わったとしても、それすら価値だというのだ。だから人はお金を出してでも恋の何たるかを聴きたがり、観たがり、読みたがり、あげくは、したがるのだ。そんなことを。同じように。まるで、それができない者すなわち落伍者であるかのごとく、我先にと実践を競う。そうやってみな恋に落ちて喜ぶ。
不思議だ、と言いたいところであるがかつてのひめかわもそうであった。まごうことなく、まさしくそのものだった。
オージと過ごし、機会あって彼のほっぺたを一度でも舐められたら、その日から一週間は断食しても問題ないほどに満腹でいられた。それが幸福の正体だと思っていたのだ。
だが近頃のひめかわは、それは違うのではないかと思い始めていた。サンタクロースの正体が父親だったことに気づいた子どもみたいに、真夜中に鏡を覗き込むと何十年後かの自分の顔が映るんだとかいう都市伝説に怯えることの無意味さに気づいた思春期みたいに、ひめかわはじわじわとその考えを強めていき、いつか確信にまで到達させようとしていた。
恋はきっとつらいんだ。
きつくてむずかしくて、幸福とは真反対のものだ。
だからそうじゃないみたいに取り沙汰されるんだ。
イベントをたくさん作って、楽しいですね、って確認しないとやってけないんだ、誰も。だって本当は面倒なんだもん。自分は汚い人間になるし欲は尽きないし本心なんてどろどろに醜いし四六時中やきもきしているし自信なんてすべて取り払われる。自尊なんてとっくに見る影もない。
原始、恋はしないほうがいいものであった。それなのに最初の誰かが恋に落ち、自分ばかりがこのようなつらく面倒な思いをするのはおかしいと思い始めた。そこで隣人にこう告げた。「恋ってすばらしい。ひとを愛するって最高だぜ」と。するとそれを信じた隣人が同じ目に遭い、聞いてた話と違うじゃねえかい、ということで「騙された。悔しい。腹いせをしたい」。というふうにはらわた煮えくり返ってしまい、かつて自分がされたのと同じようなことを別の相手に仕掛けたのだ。「恋ってすばらしい。ひとを愛するって最高だぜ」と。そうして人類は繁栄し、この面倒事に手を煩わせないですまそうとしている者を見るにつけどうしようもなく羨ましくって我慢しきれなくなって自らの祖先たちがそうしてきたように己もまた恋やら愛を讃えるのだろう。だってそうするしかないから。そうしなきゃ不公平だから。つらいんだ。きついんだ。恋なんてすばらしくもなんともない。
だって、そうだろ。
「そうだ。絶対に、そうだっ」。
ひめかわは一刻も早くこの発見を誰かに伝えたかった。手始めに松橋だ、と携帯電話を取り出したひめかわはちょうどこのタイミングで鳴り出した着信音に驚いて肩を震わせた。
「・・・お、オージからだっ」。
さっきまでの逡巡と閃きは一体何だったのか。
躊躇するそぶりも無くひめかわは生きたエビを握るような手つきで受話器を耳に押しつける。
電話は、好きだ。
オージからの電話は特に好きだ。
顔は見えないけど、すぐ耳元で声が聞こえるから。おれだけに、聞こえるから。だって普段はこんな近くで会話しないじゃん。だからおれ電話が好き。なんだよね。えへっ。
お気づきの通り、まあ所詮現実はそんなものであった。
恋する青年、姫川一馬は幸せそうにしか見えない。
「あ、あふっ。もふっ、オージっ」。
「・・・あいかわらず気持ち悪いな、おまえ」。
「もう、そっちからかけてきといて何その態度オージってばかわいいなほんとにっ」。
「うっせ、ばか」。
「うん、ばかだね」。
「・・・あー、あのさ」。
「うん?」。
続く言葉をひめかわは聞き取れず問い返した。
「え、何」。
「・・・だから、今日さ、そっちに泊まりに行ってもいいかって訊いてんの」。
オージが。
オージから。
オージなのに。
オージですから!
「うん、いいっ。いいよっ」。
ひめかわは元気よく返事をすると、途端にへなへなと体勢を崩し、傍らの電柱に寄りかかった。
通りすがりの野良猫が呆れたような目でひめかわに一瞥をくれた。
「きつくても面倒でも、これがあるから、やめらんないんだ」。
おれの場合はね。
2月14日、ふたりの記念日。オージがうちに、泊まりに来る。