今年のバレンタインは恐ろしくあっさりと通過した。
 オージは姫川家に連泊し、ひめかわはオージからもらったチョコレートをポケットに入れたまま、大学の授業に出席するし実家の農作業手伝いにも出るという時間がかれこれ三日ほど続いた。
 ひめかわが畑に誘うとオージは気のない返事をしてテレビの前にぽてんと寝転んだが、ちょうど十分ほど経過するとむっくり起き出して、てくてく後をついてきた。気配に振り返ったひめかわと目が合えば、気晴らしに出てみただけだ、と訊かれてもいないことを答えながら軽トラの荷台に腰掛けて彼の動きをしずかに眺めていた。ひめかわは気にかけて時々振り返ったがオージは自分の姿よりもずっと遠い場所を見ているように見えた。山稜、その向こうの空、空よりもその向こうを。
 オージのちっぽけな体を包んでいる風景はひめかわにとってもはや見慣れたものだったが、そこにオージがいるという組み合わせは今はまだ新鮮だ。触ってみないと、それが幻でないと確信できないような不安定な気持ちになる。オージが自分と同じ時間に同じ場所にいることは嬉しかったが恐ろしくもあった。ひめかわは小さな声で、オージ、と呼びかけてみる。不思議とオージはそんな時だけ瞬きを思い出したように、して、「・・・なんだよ」と目を細める。ひめかわは首を横に振って軍手の甲で顔を拭う。
 今回の宿泊の本当の理由はひめかわにも何となくだが分かりかけていた。前回と違い、信哉にはあらかじめ報告がいっているらしい。
 下がった熱がぶり返してるんだ、と信哉は説明する。
 完治したと思って布団から出歩くとするだろう。そうしたら熱がぶり返してくるんだ。オージは嘘を吐かないけどすべてを正直に話してくれるわけでもない。だから、見落とす。
 それでも行き先が分かっているだけ信哉には安心なようだった。以前のように逐一報告を求めてくるようなことはしないが、気を抜けば問い詰めてしまいそうになるのを、彼自身が必死で律しているようでもある。電話の奥から「いい加減に放置ってものを覚えろ」と、信哉と同じくオージの異父兄である光の声が聞こえる。ひめかわは苦笑しながらも、身の締まる思いがした。

「逆らったらおれのこと、殺しそうだったよ」。
 だなんて、ニコは大袈裟だなあ。
「ほんとにほんとの話なんだけど?」。
 校区外にまでその名を馳せる喧嘩の名手とは思えない、爽やかにして愛嬌のある表情でニコが首をかしげる。西高生だったひめかわの元にも、東高生だったニコの経歴は尾鰭まで含めて数々届いた。当のニコ本人と知り合ってみれば誇張された部分もあったが、運動神経の良さと喧嘩の強さは本物だと分かった。スポーツ特待も受け入れている東高の各運動部があの手この手で入部を依頼したが結局高校の三年間、ニコはどこにも在籍しなかった。それでいて体育祭や学級対抗スポーツチームでは現役部活動生の面子を潰しては一方で反感を、また一方では新たなファン層を作り上げたと聞く。
 そんなニコが部活に入らない理由についてもさまざまな憶測が飛び交った。家が貧しくバイトが忙しいだの中学時代入っていた部活中に負った怪我がトラウマになっているだの、さまざまだったが、中でも有力だったのは、当時生徒会長だった響信哉との関係によるのではないかというものだ。
「桐谷は会長の犬だよ」。
 面と向かって云うような命知らずはいなかったが、風の便りで本人の耳に届いた。
 そしてニコはその表現を嫌いではなかった。
 的を射ていたせいもあったし、自分が犬なら飼い主に値する生徒会長についてニコはそれまでにない興味と尊敬に近い感情を抱きつつあったからだった。計算の得意な人間が問題文を読んだ途端、正解を思い浮かべることができるように、ニコには見合った相手が自分より強靱かどうかを瞬時に見極めることができた。経験などではなく、直観に近いものだ。これまでニコの勘が外れたことはほとんどなかった。正解までの過程はうまく説明できない。体格の問題でも、覇気といったものでもなかった。強いて言うなら、佇まいに近い。
 佇まい。
 相手の視線。皮膚よりも薄い、透明な、輪郭を纏うその人物だけが持つ空気。
 最初ニコはそれの正体が分からなかった。信哉が何のためにそのような空気を纏ってしまうことになったのかが。ニコは信哉が生徒会長に選ばれる以前から興味を持って彼のことを眺めていたが、答えはすぐに見つかった。季節外れの転校生には、守るべき弟があったのだ。名前は、響大路。ニコと同級生だった。
 黒い髪、黒い目、自分が他人の目に見えてしまうことを期待しない彼は、クラスの中では浮いた存在だった。周囲は好奇の目で彼を見た。何を隠そう、ニコもそのうちの一人だ。冷やかしやからかいの言葉をかける者もあったが、大路があまりに無反応だったため、同級生たちは次第に興味を失っていった。彼等は大路が望んだよう、彼を空気と同じふうに扱うことに決めたのだ。
(なんだ、あんなやつら、無視なんて時間かかることしてないで、ただ一発ぶん殴ってやればその瞬間から黙らせられんのに)。
 ニコは授業中、頬杖をついて大路のことを観察していた。大路は頭の回転が速い。問題を解く速さ、教師からあてられて答えるまでにかかる平均時間などからニコはそう判断した。
 そんなある日、事件が起こった。同級生の一人が大路の頬を殴ったのだ。
 殴った相手はニコに対し一方的な敵愾心を抱いていた牧原という男子生徒で、ニコは一年時から通算三度は彼の相手をしてやっているが、喧嘩技術の進歩の無さに正直退屈を覚えているところだった。その牧原は、ニコが近頃、転入生の響大路に注目していることに気づいていたのだ。ニコにしてみれば何の気なしに眺めていただけだが、牧原はニコが大路に手を出す隙を窺っているものと勝手に勘違いしていたらしい。桐谷が出さないならおれが先に出す。そうすることで、負かされ続けてきたニコ相手に先んじる心算だったのだろう。大路が、机の横に下げた鞄から次の授業に使う教科書を取り出すため通路に少し身を乗り出すタイミングを狙って体をぶつけていき、吹っかけた。
「なあ、響。おまえってさ、上の学年の響と兄弟って、嘘だろ?」。
 大路の顔からはずれた眼鏡が、その生徒の足元に落ちた。
「ぜんぜん似てねえもん。もし本当だってんなら絶対にどっちかの親が、」。
 その続きはニコまで届かなかった。しかし、周囲にいた生徒の表情がそれを聞いた途端、僅かに引き攣るのが見えた。
 振り落された足に踏み潰された眼鏡の破片が、拾い上げようと手を伸ばしたオージの頬を掠めた。薄くついた傷口から、赤い血が滲む。
 見かねた他の生徒がようやく止めさせようと動きかけた時だった、休憩時刻終了のチャイムが鳴った。廊下の突き当りに担任の姿を認めた生徒の一声で、緊迫していた教室の空気は再びがやがやと動き出す。何名かは大路の肩を叩いたり慰めだの励ましの言葉をかけるなどして、一人の生徒の行き過ぎた行為への反感をあらわにした。
 と同時に、傍観を貫いた同級生たちは安堵していた。
 あそこまでされても、響って、怒らないんだ。
 転入以来ずっと未知の存在だった異物に、何をされても無抵抗のタグが貼られた。秩序が戻ってきたのだ。
 大路は下敷きとノートを箒とちりとりのように使い、ガラスの破片を眼鏡ケースに戻した。
 席に着いた牧原はニコを意識して勝ち誇ったような視線を向けるも、当のニコの注意はすっかり大路に向いていた。
 ニコの角度からだけ見えた大路の素顔に、見覚えがあったからだ。
 実物ではない。似ているどころじゃない、そのもの。
 でも、どこでおれはそれを見たっけ。
 ニコは記憶をたどる。
「・・・あ」。
 そして、思い当たった。
 中途半端な時期に転入してきた理由も、分厚い眼鏡の理由も、ニコにはその瞬間に分かった。
 翌日、いつも通りの時間に登校してきた大路の頬には白いガーゼがあてられていた。眼鏡も新品になっていた。
 教室の入り口で大路がひそかに深呼吸するのを、後ろから追い付いたニコは見た。
「おはよっ」、ニコは声をかけたが大路は自分に向けられた挨拶だと気づかずそのまま教室へ入っていく。めげないもんね、と後を追うニコは大路の足が自分の席ではなく、牧原のほうへ向かっているのに気付いた。
「響?」。
 数名の仲間と喋っていた牧原が大路に気づく。
「何だよ?」。
 大路の後ろにニコの姿を認めた牧原が、「そことそこが手を組んだってわけか」と嘲笑し、ニコは「いんや、まじで偶然」と首を横に振った。
「何か文句あんのか? 云えよ。聞いてやるから」。
 椅子の上でふんぞり返った牧原に向かい、大路が顔を上げる。
「・・・お願いが、あるんだ」。
 このクラスに転入して以来、大路が自分からクラスの誰かに話しかけた初めての言葉だった。
 他の生徒たちの視線もいつしか牧原と大路に向けられていた。
「だから、何だよ。早く言えよ」。
 牧原が隣の机を蹴る。
 ニコは「お?」と思った。
(今ので、ビクって、なんないんだ。もしかして響、こういうの慣れてる?)。
 今まで以上の興味を覚えてニコも牧原の隣に並んだ。
「おい・・・なんで桐谷がこっち来てんだよ。てめえは響サイドだろ」。
「え? 何の話、サイドとかって。だってここ特等席じゃん」。
「はあ?」。
「黙れ」。
 何か言いかけた牧原の顔の前にニコは手をかざす。
 大路の口が次の言葉を云うべく開きかけたからだ。
「・・・謝って。牧原、昨日のこと、おれに謝って」。
 一瞬の沈黙の後、牧原が笑い出した。
「お前のお願いって、それ? 謝ってください、ってか?」。
 腹を抱えた牧原に大路は深刻な顔で頷く。
「・・・できれば、昼休み前に。早ければ早いほど、いいと、思う」。
 牧原はひとしきり笑い終えた後、椅子を立った。
 大路に詰め寄ると、覆うように覗き込む。
 昨日のようなことがまた起こるのではないかと周囲は懸念したが、ニコだけは「うわ、すげっ。牧原と響の体格差、超すげえっ」とはしゃいでいる。その明るい笑い声はこの緊迫した状況に一か所だけあけられた通気口だった。
「はいはい、分かった。おれが悪かったよ、すいませんでした、ごめんなさい、眼鏡も弁償させていただきますよ」。
 牧原の言葉に大路の表情が僅かにやわらいだかに見えた。
 しかしそれは一瞬のことだった。
「・・・って、謝れってか? やなこった。つまんねえんだよ、偽物の兄弟のくせに」。
 大路の表情が強張る。
 さっきの台詞がよほど面白いのかまた笑い出した牧原を諦めて、「謝らせること、できる?」、大路が今度はニコに問う。
「え? おれ? うーん、どうだろ。おれ残念ながら牧原くんに嫌われてるし、云うこと聞いてもらえないと思うんだ」。
 役立たずでごめんな、とニコが首をかしげると大路はゆっくり頷いた。
「・・・ううん、じゃ、いいや。案外、だいじょうぶかも、しんないし」。
「あのさ、響。このままだと、何か、困る? 話聞くくらいなら、できるよ」。
「・・・おれ、顔、怪我したから」。
「うん?」。
「・・・見えないところなら、ちゃんと隠せたんだけど、顔だったから、できなくて」。
「うんうん?」。
 ニコは頷いて話の先を促したが、大路は続ける気が無いようだった。
 チャイムが鳴り、生徒たちはそれぞれ自分の席へと戻っていく。大路も席に着いた。
 授業が始まってからもニコは大路を振り返ってみる。すると視界に牧原も入った。今朝の出来事で余計に加虐心をそそられたに違いない。共犯を唆すような視線をニコにまで送ってきたが、舌を出してそっぽを向いた。殴る相手くらい自分で選ぶと教えてやるのも面倒だった。
 その僅か三日後、牧原は休学届を提出した。
 最後に彼の姿を見た生徒は、片足を庇って松葉杖をついていたと証言するが、何より変化があったのは彼の表情だったらしい。何かに怯えるように視線を忙しなく動かし、見舞った仲間からの呼びかけにも飛び上がるほどだったという。
 牧原が休学届を出す前日の放課後、ニコは彼が大路の兄、響信哉と一緒にいるところを偶然にも見かけた。
 没収されたお菓子を職員室に取り返しに行き、担任から返り討ちをくらった帰りだった。県内有数の進学校である東高は、雑誌やゲームを禁じないもののお菓子の持ち込みを禁じている。理由は、雑誌やゲームは音を立てないがお菓子を食べる音は他の生徒が授業に集中するのを妨げるから、という一風変わったものだった。
 こっそり持ち込んだお菓子を取り上げられたニコが「次回はマシュマロにしよっ」と決意の歌を歌いながら廊下をスキップしていた時だった。

「頭が悪いわけじゃ、ないんだろ?」。

 階段の上から話し声が聞こえてきて足を止める。ついでに鼻歌も止めた。
「分からなかったわけは、ないよな。頭が悪いわけじゃ、ないんだから」。
 低く諭すような声にかぶせて、女生徒のすすり泣きが聞こえる。
 ニコは壁に背を這わせ、声の正体が見える場所まで一段ずつ階段を上がって行った。
「オージの目は、真っ黒で綺麗だろ?」。
 すみません、すみません、と謝る声が聞こえる。
「もし破片が入りでもしたら、おまえはどうやって弁償できるんだろうな?」。
 ニコは思い切ってひょいと頭を出してみた。
 上の窓から射し込む夕陽が、響信哉の琥珀色の髪を燃え上がらせていた。
 きらきら輝くそれとは対照的に、足元に蹲って許しを乞う相手に蔑むような視線を投げかける瞳には一縷の光も望めない。ただただ、冷徹で。ただただ、まっすぐだ。
 その声からニコが女生徒だと判断した相手は、牧原に他ならなかった。大きな図体を響信哉の前に投げ出し、縋るような声を漏らし続ける。
「あの目とお前の足の骨と、どっちが大切かなんて、教えられなくてもちゃんと分かるよな?」。
 響信哉の靴の先が牧原の顎にかかり、涙と鼻血で濡れた顔を上向かせた。
 貴様の所為で汚れた、舐めろ。
 牧原は命令のとおりにすることを躊躇わなかった。
「それが終わったら、さっきの質問に答えろ」。
 牧原が問いかけるような視線を向け、響信哉がしゃがみこんだ。穏やかな微笑を浮かべたと思うと頭髪を掴み、引っ張り上げるように立たせる。
「どっちが必要で、どっちが不要か、おまえがおれに示して教えろ」。
 おれは、答え合わせがしたいだけなんだ。
 響信哉の靴の底が見えた。
 硬直するニコのすぐ前に、牧原の体が転がり落ちてきた。
「うわっ。びっくりしたっ」。
 思わず声を出したニコと響信哉は視線を交わす。
 折れた、と喚く牧原を放置して二人の間に無言の疎通が図られる。
「事故だな」。響信哉が悲しげな顔をして階段を一段ずつ下りてくる。牧原の体が転がり落ちた、階段を。
 その足音から逃れるように牧原は不自由な体を悶えさせた。
「・・・あー、牧原くん。たぶん動かないほうがいいと思う。いま、保健室の先生呼んでくる。あ、救急車呼ぶべきなのかな」。
 ニコは響信哉に問いかける。
 彼はつい今まで優雅なティータイムを過ごしていましたというような落ち着き払った態度で「まずは保健室だ」と指示を出した。
「こいつのためにも、学習時間は、長い方がいい」。
 それから響信哉はもう一度ニコを見下ろす。
「名前」。
「・・・桐谷コウ」。
「強いか?」。
 何と、誰と比べてだい。
 思わずニコはそう訊ね返しそうになった。
 しかし、響信哉の質問にはイエスかノーで答えるべきだと咄嗟に判断し、
「強いよ」。とだけ、答えた。




ほ し に ね が い を






「またまた、ニコってば」。
 ニコの話を聞いていたひめかわは蒼ざめた顔に引き攣った笑みを浮かべた。
「うん、大袈裟に云ったけどね。でも嘘ではないよ」。
 どこからどこまで、と訊ねたかったひめかわはしかし恐怖を悟られるのが嫌で、ふうん、と流すような返事をしたがニコはその胸の内をとっくに見抜いていて「面白いなっ」と無邪気そうに目を輝かせていた。爽やかで好感がもてる、との第一印象を抱かれることの多い彼は最近になってある人物と同居するようになっていたがこの日は響信哉の、実はさほど脚色の無い英雄譚を語り、それに対するひめかわの反応を愉しむことで満足してしまい、打ち明けるのを忘れた。
「もしひめが困ってたら、助けてあげるよ」。
「な、何っ。おれが何に困るかもしれないと思うの」。
「特定できないけど、まあ色々。信哉関係なら少しは役立てると思う」。
 ニコの屈託ない笑顔にひめかわは仏の面影を確かに見た気がした。
「ありがとう、ものすごく頼りにするっ。マイヒーローっ」。
 今にも縋りつかんばかりのひめかわをヨシヨシと労ってニコは「でもね」と付け加えた。
 でもねおれはヒーローじゃないんだ、助けたいやつしか助けないもん。
「だから名乗ると、傲慢なんだ」。
 だからニコだよ。
 おれはね。
 そう云って、笑った。



つづく??