姫川家の二階から見えるものは、少ない。
明け行く空、遠く連なる山と山裾、それは朝靄に霞んで輪郭は朧だ、田んぼ、電柱とそれを繋ぐ電線、その電線にとまる小鳥たち、横に並んだり一斉に飛び立ったりする、駅舎、線路、信号機のない農道、畦道、そして、姫川家の庭だ。
庭には、農具用の倉庫と、その隣に蛇口がついている。
今朝もオージが何が埋めているのをひめかわは寝ぼけ眼で眺めた。
この家に滞在する時、してから、ここ毎日オージは早朝にこっそりと布団を抜け出して、庭に掘った穴の中に何かを埋める。
ひめかわの自室からその様子ははっきりと見えない。
蛇口から出てくる冷たい水で手を洗うオージの横顔がこわばっている。しかしそれはひめかわの思い込みかもしれない。
立ち上がったオージは濡れた手を、首から下げたタオルで拭いた。その足元に姫川家で飼われている猫の内もっとも幼く新しいものがまとわりついて黒い毛の背を踝にこすり付けている。早起きなのだ。オージは立ち尽くしたまま小猫のやりたいようにやらせている。ひめかわがついうっかり「オージ」と名づけたその猫は、みずからと同じ名の滞在者に話しかけるように、首をもたげて鳴いた。
その頃ひめかわはと云うと、握りしめた拳を窓枠に軽く叩き付けることで生じる痛みで欲求をまぎらわそうと必死だった。
もともとあの小猫は農学部の友人から譲り受けたものだ。彼の家に遊びに行った時、ひめかわの目に留まった小動物は、四肢の先だけ足袋をはいたように白く、他は瞳孔までもが見事に真っ黒だった。
「居着いてる。飼ってるわけじゃないんだ。いい人がいたら、って思うけど」。
いま付き合ってる彼女が猫嫌いで。最近、家に寄ってくれないと友人は嘆いた。猫と私のどちらが大事なのか。今は冗談交じりのその台詞がいつ真顔で叩き付けられるか分からないという。
「・・・お、おれ、もらったげよっか」。
この時ひめかわの口調に若干の乱れがあったのは、その時手にしていたマグカップのココアが気道に詰まったからでも、友人に付き合っている相手のあったことをたった今知ったからでもなく、こいつ無愛想であんま懐かないよと紹介されたその小猫の目つきが自分の知っているそして世界でもっとも胸の中をときめきでいっぱいにしてしまう相手の視線と重なり合い鼓動が乱れたからに他ならない。その日のうちにひめかわは小猫を受け取り、友人の気が変わらないうちにと逃げるように実家へ連れ帰った。オージという名は帰りの電車の中で決めた。
人間のオージと、猫のオージ。
おれの大好きな二つの生き物が、おれのいない場所で触れ合っている。
それだけでひめかわは窓枠に手を打ち付けることを止められないのだった。
「かわいい・・・。く・・・っ、かわいいっ!」。
律するように俯いて、呻くように言葉を漏らしたひめかわが目を開けると、ごんごん響く音に気づいたのか庭のオージと目が合った。
ほ し に ね が い を
「ひめかわ、気持ち悪かった」。
布団に戻ったオージは、同じく布団に戻り毛布の中でうずうずしているひめかわからやや距離を取り、深刻な顔で呟いた。
「・・・うん。気持ち悪いね、うん。ごめん」。
ひめかわが情けない顔で謝るとオージは「うん」と静かに受け止めて、目の下まで毛布を引っ張り上げる。
「どこから」。
「え?」。
「全部、見たか?」。
ひめかわはオージの言葉の意味が分からず返事に窮して黙っていた。
するとその沈黙を肯定と受け止めたオージが話を進める。
「・・・これからも、そういうことだからな」。
早朝。
庭に蹲るオージ。
何かに土をかぶせる作業。
そして何事も無かったように二度寝に戻るオージ。
これまで真相を訊ねてこなかったのは、その行為が何を示すのかってこと、なんとなく自分は気づいていたんじゃなかろうか。ひめかわは、言葉にして自分を責める。
(自分のために、無視、したんだ)。
そもそもオージがこの家に戻ってくる理由だ。高校卒業まで、弟のためならすべてを擲っても構わないとばかりに揃いもそろって溺愛体質である二人の兄と共に暮らしていたが、今は県外で一人暮らしだ。兄たちは頻繁に連絡を取り合おうとするだろうが、オージにも決意というものがある。それは自立だ。愛されていることが分かるからこそ、早く一人前になりたい。一人前になって、身の上を好転させて、それで自信を得たいし、兄たちにも安心して欲しかった。そのために、無理を重ねたとして疲れた身を休める場所が兄たちのもとであっては意味がない。そう考えるからこそオージは姫川家を選んだ。そこでもオージが弱音を吐露したり、ぐうたらな生活を送るようなことはなかったが、帰る場所として選択してくれたことがひめかわにとっては嬉しくもありありがたいことにさえ感じられていた。
何があってそれからどう生きてきたのか、オージは事実しか語らない。ひめかわも表面的にしか知らない。その時どういうふうに感じ、何を信じて何を信じられなくなって今に至るか、揺れ動いた感情についてオージは口にしない。それは、ひめかわのためというよりも、むしろ、自分のためであった。口にすればそれが動かせない事実になることをオージは何よりも恐れていた。彼の心の中ではいつも、再生の確信が、一本の蝋燭の火のように揺らめいている。それは微風に容易く靡くが、そのしなやかさがあってこそ立ち消えずに続いてこられたのだ。
ひめかわにとってオージは彗星だったが、オージにとってのひめかわも間違いなくそうだった。
自分を失いたくないと思う相手に思われて悪い気がしないということは、そもそも証明となりうる。
自分を大切に思う相手を失いたくないというのは、日頃どんなに構えて意地を張っていようが、欺けない事実、あきらかだ。その気持ちを弱さだとは思わない。最初からどうしようもないことだからだ。
高校生のある一日、ひめかわはオージと出会ったが、それより少し前からオージはひめかわを意識した。
だからひめかわが、自分に向かって好意全開の態度を示してくると、さも彼の愛情のほうが自分のそれより上回っており勝っていると見せびらかされているようで腹が立った。そうとは限らないだろう。むしろ逆だ。一から説明してやりたいのを我慢し、つれない態度をとることしかできなかったが。
まっすぐに思いを伝えるには自分はまだ非力なのだ。
本当にすべてを、その時のすべてを話してしまったら、まっすぐな気持ちを証明することはできなくなる。この場合の不可能は、誰のせいでもないし、かといって拭えないだろう。
憐憫という形の愛もある。しかしそれではあまりに受け身だ。
オージは証明の方法をさがしていた。
おまえがおれを好きな事実は、いつだって容易に変化しなきゃならない。それほどの自由を携えてるんじゃなけりゃ、おれはおまえに好きだってまだ云わない。おまえのおれに向けるまっすぐな得体の知れない何かに、同情が混じってんだとしても、そればっかじゃないって、受け止めたおれが信用させてやれるくらい強くなってんじゃなきゃ、おれも好きだって、云っちゃいけない、だろ。
云いたく、ない。
「・・・きのうのシチュー、吐いた」。
ついにオージは告白した。
「ひめかわが、つくってくれたやつ。ルーから、つくってくれたやつ」。
しん、と静まり返った。
どこからか猫の足音が聞こえてきた錯覚さえ起きた。
「・・・お、お、オージ。ご、ごめん。ごめんね、気づかなくてっ。もしかして、ぜんぜんおいしくなかったっ? 何か、オージの嫌いなものとか、入ってた? 具合、どう? だいじょぶ?」。
唐突に体を起こしたひめかわが覆いかぶさるとオージは首を横に振った。
「・・・おなか、痛い?」。
オージは首を横に振る。
いつもならこの体勢を選べば蹴り上げられるか、跳ね返されるか、いずれにせよ何らかの抵抗を予期していたひめかわは、反してオージが何も返してこないことに心配を深めて泣きそうになった。
「・・・吐くんだ。おれ、ときどき、吐いてたんだ」。
「食事を?」。
うん、とオージは頷いた。
「おいしいとかおいしくないとかじゃ、なくて。先生にも、診てもらってた。だから最近も会ってる」。
「先生? って、お医者さん?」。
オージがまた頷く。
そして長く息を吐いた。
「あっ」。ひめかわは思わず声を上げた。
「もしかして、エックスのことだ」。
「・・・エックス? 誰だよ、それは。伊勢谷さんだ」。
「イセヤ・・・。そっか。それが正式名称だったんだっ」。
ひめかわは、謎の男と呼んでいた男の正体を知ることになる。
「その人さ、もしかして手の甲フェチ?」。
「・・・何でだよ」。
「オージの手の甲、見るじゃん」。
「あれは、跡がないか調べてくれてんだよ」。
「跡? なんの?」。
「だからそれは吐きたい時、手に歯が・・・って、それ以前におまえどっから見てたんだよっ」。
ついにオージの攻撃が繰り出され、ひめかわは転がりながら自分の陣地へと戻った。
残念ではあるが、明け方の接近距離としては悪くない記録だった。悪くはなかった。
「見てたっていうか、たまたまだもん」。
「・・・嘘くせえな」。
「あと信哉さん、どこにいても目立つし」。
「・・・別の日もか」。
頭の中で記憶を整理し、今度こそオージは深いため息を吐いた。
ひめかわは毛布の中で拳をつくっては開いてを繰り返した。
オージは伏し目がちに瞬きを繰り返していたが決意したように顔をあげると、睨んでいると誤解されるような、ほとんど変わらない目つきをひめかわに向けた。
「・・・だから、そういうことだから」。
「えっ」。
「ひめかわ」。
「う、うん?」。
「おまえがルーからつくってくれた料理とか、育てたじゃがいもとかにんじんとか、どんなにおいしくても、吐き出すかもしれないから」。
おれを好きになるっていうのは、そういうことだからな。
オージは寝返りを打ってひめかわに背を向けた。枕の上の黒髪は、ひめかわに電車の中で名付けられた小猫と同じ輝きだ。
ああ、オージは、こうやって、確かめんだ。
少しずつ、それでもいいか、ってこっちの心配をしてくれんだ。
ひめかわは「おれもまだまだだな」と反省した。
こいつにはどんなに心配も迷惑もかけていいやどうせおれに惚れてる奴隷だしこいつ。
って。
それくらい、思われていたって構わなかったのだ、べつに。
むしろ、それくらいは思われているつもりではあったのだが、ほとんどが錯覚にすぎなかった、希望的観測に過ぎなかったのだ。
それでひめかわは「まだまだだ」と思ったのだ。
何日何か月何年かけたらもう充分だと云えて、風雨のような挑発と攻撃にさらされてもびくともしない強固な壁のような存在になれるのか、ひめかわは考えていた。使徒のように。それを考える細胞だけでできている生き物のように。
尽くしたいとは違う。満たしてあげたいとも違う。
たとえば雑巾のように使いこまれて、ケーキ嫌いな子どもの前に差し出されたケーキのてっぺんでぐちゃぐちゃに潰される苺みたいに、もの云わぬ証明でありたかった。
いつかの夕暮れ、彼の頬を打った掌が、今もまだ血を流して、誰のせいでもないすれ違いを鮮やかにする。もしかすると一生、かなわないかもしれない。一生くらいで時間は足りないかもしれない。投げつけられた言葉の理不尽を受け止めて、それはもっともだと感じたオージの心の澄み方に、自分はあとどれくらいでたどりつけるだろう。追いつくことが、できるだろう。
(何でもさらけだしてほしい、っつって、ほんとにさらけだされたら、大丈夫なの? 責任、とれんの?)。
光と話していて云われた言葉が蘇る。
ひめかわに確信は無かった。
無いけれど、黙ることもできない。非力を示して、だめかもしれません、ではなくて、まず話を聞こう。そしてそれに、答えよう。正解じゃないかもしれない答えを、こわがらないで伝えるんだ。
ひめかわは小さく頷いた。
「・・・いいよ、吐いてもいいよ」。
話を終えたつもりだったオージは、思いがけず返事があったことに驚いて肩を震わせた。
それを目で確認してひめかわは続ける。
「全部吐いて、そんで、お腹からっぽになったら、またおいしいもの食べればいいじゃん。オージは、おれの料理を人より多く味わえる機会に恵まれてるってことなんだから、おれの料理の腕前がオージのためだけに上達すんのを覚悟してるといいよ。何もぜんぜん哀しくないし、恐いこともないよ」。
「・・・ばかじゃねえの。ほんとに。おまえ、ばかずま」。
どっか行け、大嫌いだ。
そう云ってオージは、もう一度寝返りをした。
オージかわいいだっておれのこと大嫌いなくせにこっち向いたっ、と内心で大喜びしたひめかわは先程の台詞に信憑性を後付する効果を狙って今までになくきりりと引き締まった表情を維持していたが、もぞぞ、とオージの体が心なしか数センチほど傍寄った気配を敏く体感すると抑止力がリミッター振り切った。
「あと」、ひめかわの心臓を額で直にききながら、オージが何事か囁く。
「おれ、記念日とかは、期待されると何もできないタイプ」。
ん、と首をかしげたひめかわは見下ろしたオージの困惑したような顔を見て、あのことかな、と見当をつけ、
「うん。おれがするからだいじょうぶ」。
「・・・来年は、がんばる」。
「えっ」。
「・・・かも、しれない」。
しっかり聞こえていたであろうその発言をもう一度聞きたがるひめかわの要求をはねのけるようにオージはその胸に頭突きした。体が温まると泣きたくなって、涙がこぼれないようにひめかわの布地に埋もれるように顔を押しつける。
明け方の空に月は白く、出番を待つ太陽はもう山裾で焦がれているだろう。
刷毛を滑らせたような夜がじょじょに薄れて隣の町へ、国へ行ってしまう。
けして忌み嫌っていたのではないのだと、去り際にそれを分かって良かった。
暮れるように明けていく空、去る者へ同じようにいつも祈ってしまう。
叶うことも叶わないことも所詮どうだってよかった。
願いをかなえるのは自分だけだと分かる時、自分に寄り添う温度にも気がつけるから。
どうしようもないかもしれないことを祈る時、気持ちはいつもあたたかい。
行く末のわからない不確かさを、共に感じる相手がいることを知るから。
星に願いを月に祈りを。
手の届かない空へ投げかけられる繰り返しはいつも非力を知らしめ、すぐそばに何があるかを絶えずたゆまず思い出させ続ける。
「ていう、ね。もうまじで今日のオージかわいかったんですっ。超かわいかったんですっ」。
ドーナツショップでえへんと胸を張ったオージは向かいに座る友人の松橋が子の成長を見る親の眼差しで自分を見ていることを知らない。
「そうかそうか、よかったな、ひめ。ひめが元気だとおれも幸せだ」。
「うん。いつもお話聞いてくれてありがとっ」。
「・・・それは、まあ、いいんだけどさ」。
「松橋?」。
「・・・あのさあ、ひめ」。
何か伝えたいような伝えたくないような表情を浮かべた松橋にひめかわは姿勢を正した。
「う、うん? なに?」。
「こういう話をおまえに訊ねていいものかどうか悩んだんだけどさ。ってか今も、現在進行形で、悩んでんだけどさ」。
「・・・うん」。
ごくり。ひめかわがつばを飲み込む。
「永崎が」。
「まこっちゃんがっ?」。
「桐谷と」。
「ニコとっ?」。
松橋は口をつぐみかけたが、ここまで云っては後に引けないと覚悟を決めた。
「・・・いま一緒に暮らしてるのって、なんでかなあ、って」。
きっかり十秒後、ひめかわが椅子を立った。
「何それ知らないっ」。
周囲を気にせず声を上げたひめかわに、松橋がぎくりとなった。
「え、知らなかったのか」。
「し、知らない全然っ」。
いつの間にか手の中で潰されたドーナツを見下ろして、ひめかわはふらふらと腰を下ろした。
数日前まこっちゃんがそれらしきことを何か云っていた気がするが混乱した頭では断片的にしか思い出せない。
星に願おうが月に祈ろうが、春はどこででも始まる。
誰と誰とでも始まる。
おしまい