薄い色素の体が好きになれず髪を染めたことがある。彫りの深い顔立ちを気に病んで眼鏡をかけたことがある。どちらも数日でやめた。何もしないでいるほうが目立たないと分かったからだ。
 自分の体についての不満は、知らない人間から向けられる追いかけるような眼差しや、あるいは真逆に、あからさまに称賛の意を讃えた、度を過ぎて不躾な視線を厭ってのことではない。それだけではない。劣等感に似た感情はいつも血の事情に紐づいていた。今となっては十数年以上前のことだが、つい昨日のことのように思い出せる。あの屋敷に初めて足を踏み入れた時、動けない、と感じたのだ。
 跡継ぎの女は気丈で、右手に浅黒い肌の、左手に抜けるような白肌の子どもの手をそれぞれ繋いで、誇らしげに敷居を跨いだ。その時はまだ「これは単なる訪問であり旅行なのだ」と、教えられたとおりに思い込んでいた信哉は、しばらくの辛抱だと自分自身に言い聞かせながら、親戚だと紹介された面々に対しにこりともせず立ち尽くしていた。いっぽう、右手に繋がれた子どもはあの頃から今のようだったと思う。同じように混血の兄弟だったが、一見して明らかに違うようには思われなかった。生まれつきの肌色も、陽に焼けたものだと説明されればきっとそうだろうと頷ける程度であったし、確かに外で遊ぶことが好きそうな、外向性を携えた笑顔でうまく接することができていた。
(こいつ、ばかじゃないのか)。
 数日たっても一週間たっても終わらない滞在を経て、海の向こうにあるかつての住まいに戻れることを期待することも忘れた信哉の意識はやがて、自分と共に敷居を跨いだもう一人に向けられていた。自分から名前を訊ねたことはないが、ひかり、と呼ばれているのを耳にしたから彼の名前はひかりなのだと分かった。後にその音が「光」という漢字一字で書き表されるものだということも分かった。
 光は器用だった。
 跡継ぎの女が婚礼の期日までを海外で単身生活し、その間にもうけた混血の子どもなど、代々女系というしきたりで繋がってきた一族にとっては異質以外の何物でも無かったはずだが、跡継ぎが正式に家主として認められるまでの暮らしぶりや行いなどは縛りが無く個々人の自由に委ねられているようで、奔放の象徴としての信哉と光が一堂に会した公の場で表だって非難されるようなことはない。その家のしきたりや伝統と呼ばれる類ものはなべて、例外に無関心であることで継がれてきたのだ。
 とはいえ、個々人の抱く印象や言動までもを操ることはできない。
 これが伯父様、これが叔母様、といったように説明を受けても、歓迎の態度で迎えられた記憶は一度も無い。また、そんなものを求めていたわけでもなかった。
 ただただ元の暮らしに戻りたい。そればかりだった。
 鏡を見る度に億劫だった。慣れない箸を使っての食事の後は、ろくに顔を見もせず歯を磨いてそのままにしているから、頬っぺたに白米の粒がついたままになっているのを、同居していた双子の姉にからかわれたこともある。初めての和食は食事というより試練に近く、特に苦手なのは浅蜊の味噌汁だった。同席していた光が、朝から思いがけぬ食欲を見せていたことも信哉の気を削いだ。跡継ぎの女に自分だけ食事を取り換えてもらえないか訴えたところ、返答は保留にされた。以来、信哉は女に頼みごとをしなかった。屋敷の他の住人に対してなど、もってのほかだった。彼等は信哉が片言の日本語を話すと微かに狼狽の色を讃えた。何故しゃべりかけてきたのか、といわんばかりの反応は面白くなかった。会話が成り立たないので信哉も歩み寄ることをやめた。無理は良くない。
 そうやって信哉が周囲から孤立するための殻をこつこつと構築し始めた時期、対照的な動きをしていたのが光だ。
 自ら積極的に話しかけていき、時にはわざと片言の日本語を誤用したりして、ついに耐えられなくなった相手から笑みを引き出すことに成功し続けていた。
(こいつ、ばかじゃないのか)。
 口にこそしなかったが軽蔑は態度にあらわれた。
 他の誰に対してもそうであるように光は信哉に対しても馴れ馴れしかったが、彼が一体どういった本心でその態度を続けることを選んだのか、信哉は知りたくなかった。どんな理由であれ、光のとった選択は、その選択から生じた言動は、この環境下でいちいち正しい。そのことは今の生活に感じる息苦しさから考えるに明らかであるし、今さらそちらへ切り替えることのできない自分にとっては目障りでしかなかったのだ。
「双子と遊んできた」。
 畳の上で、隠し持ってきた洋書の絵本をめくっていた信哉に光がそう声をかけてきた。かつての家を出てくる時、荷造りの間、物はあまり持たないよう言われた。洋書などもってのほかだった。それでも信哉は一冊だけ秘密でバッグにしのばせた。いま思えばあの衝動は、予感だったかも知れなかった。
「おんなじ顔」。
 光が隣に寝転ぼうとするので信哉は無言で体を起こした。絵本を抱えて部屋の隅へ行くとページに没頭しているふりをする。
「おまえも行こうぜ」。
 返事をしなかった。
 光は、裏切り者だった。
 仲が良かったわけではないし、約束を結んだわけでもない。しかし信哉にとってはあの日、自分が繋いでいる手の反対側で、同じように繋がれていた、というその境遇だけは無視できないのだ。だというのにこの不可解な生活に早くも馴染み始めている光は、信哉にしてみればやはり何かを裏切ったように感じられるのだ。
「・・・きらいだ」。
 どれくらい時間が経ったのだろう。
 いつしか絵本を覗き込む姿勢で微睡んでいた信哉は、光がまだ同じ場所で膝を抱えているのを意外な思いで見返した。畳の上にさしていた陽光はその位置を変えており、信哉は自分が確かに居眠りをしてしまったのだと気づく。ここ数日、夜は眠れなかった。時差が修正しきれていなかったせいもあるし、さまざまな思いが頭の中をかけめぐって彼を静かに寝かしつけてくれなかったのだ。日中はうとうとしていることがたまにあったが、自分以外の誰かがいる場所では常に意識をしっかり持っていた。だから信哉は光がいる場所で微睡んでしまったこと自体にまず驚き、それから、光の声音の自分が知っている彼のもの以上に深刻に響いて聞こえてくることに驚いていた。
「この家のやつら、みんなきらいだ」。
 てっきり自分のことを言われたのだと思った信哉は光の口から出た思いがけない言葉で完全に目を覚ました。
「・・・でも、こうするしかない。たぶん」。
 信哉が絵本を閉じるのと、光の目から何か零れ落ちたのとはほとんど同時だった。
 畳の上を這って行って、光の顔をもっとよく見てやろうかとも思った。
 しかし、しなかった。
 できなかった。
 諦めだったのだ。
 自分がいつも、ばかにしてきた、光のいかにも子供じみた素直な態度、軽蔑さえ覚えた人懐こい笑顔その正体は、自分が日々抱いていることと同じものだったのだ。
 光は背中を丸めた。
 彼が泣き疲れて完全に眠ったことを見届けると信哉は立ち上がって、押入れから引っ張りだした毛布をその体にかけてやった。

 まぶしい。

 駅のホームでその姿を目にしたまこっちゃんはそう思った。
 響信哉だ。
 彼がここにいるということは、オージがこの街にいるということだろう。オージがいるということは、姫川の家に来ているということだ。信哉の立っている駅から出る電車の終着駅は姫川家の最寄だ。
 まこっちゃんは構内の自販機で買ったホットココアで両手をあたためながら、電光掲示板を見上げた。自宅アパートの最寄駅まではここから三つ先の駅だ。電車の到着まで十分ほどの余裕があった。
 信哉はモノクロトーンの服装だったが、彼の色素が本来薄いため、それだけで海外のアパレルブランドの広告のようだった。
 もともと飲むつもりではなく両手をあたためるために購入したココアをまこっちゃんは思わず開封して一口含んだ。
 相手に気づかれない自信はあった。線路越しの距離で見つめていると、彼の周囲の反応がおもしろいほどだった。ああいうのを本人はどのように受け止めているのだろう、と思う。外貌は生まれつきだろうから、慣れきってしまっているのだろうか。会社帰りのサラリーマンや、制服を着た清掃員、放課後の女子学生たち。誰もが一度は視線をやり、時には振り返ることさえある。
 金髪に近い琥珀色も、長身も、顔立ちも、それだけではないのだ。その個々ではなく、均整が注目されているのだ。そもそも、誰も通りすがりの相手のパーツをいちいち確認して見惚れているわけではないだろう。そんな時間は無いのだ。視界に人影が入る。やたら均整がとれている。それが気配を纏う。服装が控えめなら尚更だ。素材の良さが際立って、結果、海外のアパレルブランドの広告ということになるのだ。
「・・・いいなあ」。
 いつの間にかそう呟いていたまこっちゃんはぎょっとしてココアを手から落としそうになった。実際には、ぴくっと痙攣しただけのことだったが、まこっちゃん自身にとってはそれくらいの衝撃だった。
 人を羨む。
 しかも、純粋に。
 それが口から漏れる。
 そんなこと、滅多に無いからだ。
 人を妬むことはある。無い物ねだりが度を過ぎて、自分の欠点ばかりが目につきすぎて、ひねくれた目で物事を見てしまうのだ。ひめかわや、三船や、ニコに対してさえそうなのだ。
(そのおれが、いいなあ。・・・だと!?)。
 まこっちゃんはじんじん顔を火照らせながらペットボトルがへこみそうになるほど握り締めた。オレンジ色のキャップを嵌め直し、もう一度顔を上げる。
 響信哉はやはりそこにいて、コートのポケットに手を突っ込んでいた。携帯でも探しているのだろかと思って見ていると、彼は煙草を取り出した。
 構内は禁煙だ、顔が良ければ何をしても許されると思っているのか、と、先ほどの自分に対する苛立ちから信哉の言動に反抗的になってしまうまこっちゃんは非難する一方で彼が道徳的な落ち度を犯すところをこの目で見届けてやりたいと思っていた。
 そんな思惑で自分を見つめる視線があることなど一向に気づかない様子で信哉は手の中の煙草のパッケージを見下ろす。それからふっと顔を上げ、柱に張られた「禁煙」の文字を見上げる。はあ、と溜め息が聞こえたような気がした。次の瞬間、信哉は煙草をポケットの中に戻したのだった。
 まこっちゃんは今度こそペットボトルをへこませた。
(社会に適応、しやがって・・・!)。
 彼の通っていた東高ではいまだに伝説が残っている。それは、バイト先の塾に通う生徒たちから聴いたものだ。そうして一生徒会長の独裁も制裁も麗しき歴史の一つとなっていくのだ。あれほど学校という場を苦手としながら今なお学生の集う場所に自ら赴く自分をまこっちゃんは滑稽だと思った。もしかして自分はちぐはぐにしか生きられない不適応者なのじゃないだろうか。そう思っていた。
 だがほんの少し、気が楽になった。
 琥珀色の髪が風に揺れる。その眼差しが明らかになる。遠くを見ているのだった。
 まこっちゃんは初めて、話しかけてみたい、と思った。
 だが電車が迫っていた。
 その姿はやがて見えなくなるだろう。まこっちゃんは立ち上がる。白線の内側までお下がりください。まこっちゃんは乗り場に立つ。信哉が何かに気づいたように瞬きをする。間近で瞬きもせずにそれを見つめてみたかった。
 きっと電車があと数秒でも遅れていたら、きっと目が合っただろう。
「・・・ふう」。
 空いていたシートに腰を下ろして、まこっちゃんは何故か止めていた息を吐きだした。
 誰も気を留めない。
 ポケットに入れた手が何かに触れる。アパートの鍵だ。ふいにニコが思い出される。最近はいつも叱ってばかりだ。たまには違う話をしよう。たとえば琥珀色の髪と目、あの、きれいな男についてだとか。
 まこっちゃんは静かに目を閉じる。
 誰にも見られていない幸せというのもきっとあると、祈るように口ずさみながら。