驚くほどの大粒。
今までに見たこともない、自分だって流したこともないような大粒の涙はその目から流れた。
はあ、と切ない溜め息を吐くとその熱までもが目に見えるような濃密な空間だった。
呼吸はもうほとんど不規則といっていいくらい切羽詰っていた。
逃げるように悶えるからだをシーツらしき布地の上で押さえつける、すると濡れた瞳が責めるようにひめかわを見上げる。しかし悪意の無い眼差しで「どうしたの」と見つめ返せば、最初の一滴が実は透明の糸を引いていたように大粒の涙が連なって夢の中を流れていったのだった。
『ひ、めかわの・・・ばかあ・・・っ』
その言葉にひめかわの中の何かが溢れ出した。
ばらばらだった呼吸が一定のリズムに揃えられていく。
瞑っていた目を開けてみると濡れた瞳にはもう何の衒いも無いことが分かった。
どんな繕いも纏ってはいない、それはただの濡れた黒い瞳だった。
絶対に傷つけたりしない、優しく接していきたいとあの日誓った、彼のものに違いなかった。
ひめかわは歯を食いしばった。
つもりが、舌を噛んでしまい目が覚めた。
あまりにあっけなく、そしてまぬけな明け方。
「・・・お、おれのばかあっ」。
現実に戻ったひめかわは布団の上で頭を抱えた。
無垢なすずめがちゅんちゅんと鳴いていた。
9/23
ばかじゃねえの、と聞こえた気がして我に返った。
地元大学農学部一年生の姫川一馬は駅のホームに立っていた。
つい数日前まで夏の気配を残していた風は今朝から一気に冷え込み、いってきますの挨拶と共に元気よく玄関を出たひめかわはものの数秒で自室へ取って返すと箪笥から引っ張り出したカーディガンをシャツの上にさらりと羽織った。そうすると今度はズボンが気になる。あれこれ試したあげくデニムに履き替え、改めて階段を下りる。玄関でスニーカーに足を入れながら、鏡に映る自分の姿を確認。なんでもわかり合える友人と目配せするようににやにや笑うそのだらしない表情をひめかわは両手で、ぱちん、と音の出るほど叩いた。気合を入れ直したひめかわはもう一度家を飛び出そうとして足元にまとわりついてきたもののために動きをとめた。
「あ、オージ。やっと起きたの? おれ、オージ迎えに行くんだ。いってきまーす!」。
友人から貰い受けた子猫は今やすっかりひめかわに懐いており、彼が傍目にもうきうきした様子で出かけて行こうとすると足元に身を摺り寄せて甘えた鳴き声を出すのだった。
お留守番しててね。
いい子で。
必ず帰ってくるから。
まるで絵に描いた新婚夫婦のような意思疎通でもってひめかわが首をかしげると、オージと名づけられたその猫は彼の言葉をすっかり理解したように「みゃあ」と鳴く。かぷ、と鼻先に噛みつく仕草をしたひめかわは数分間えへえへとだらしない笑みを抑えようともせず頬擦りしたり首を撫でたりその生き物の手触りを堪能していたのだがちらりと視界に入った腕時計の時刻を確認するや「あっ」と声を上げ、途端に家を飛び出した。
一両編成の鈍行列車、日曜の午前は二時間に一本しか走らない。
滑り込むように乗車した車内はがら空きで、見慣れた緑のシートは行儀悪く横たわっても誰に迷惑をかけないで済むゆとりを保っていた。
がたんごとん走り出した車両内でひめかわはぼけーっと車窓の外を流れる景色を眺めた。
等間隔の電柱。実りの季節を迎えた水田。その奥に見える山稜。
どれもこれも高校時代となんら変わらなかった。
思えば登校時刻もちょうど今の頃だった気がする。
西高等学校の学生だった姫川一馬が東高等学校の響大路に出会ったのもこの車両内でだった。
オージの姿はひめかわの視線を特に惹きつけなかった。視界には入っていたが、声をかける気にもならなかったし、目せを交わし合うようなこともしなかった。そもそも視線の先を辿ることなど不可能に等しかった。というのも当時のオージは顔の半分を隠し切ってしまうほどの大きなめがねを決してはずそうとしなかったし、ぼさぼさに伸ばした長めの髪が一層コミュニケーションを拒絶していた。それでもふとした瞬間、たとえばオージの手が膝上に開かれた本のページをめくる際なんかに、めがねと前髪の僅かな隙間からほとんど奇跡的なタイミングでその眼差しをうかがえることがあった。(なに、読んでんだろ)。ひめかわに読書の習慣は無かったが、たまに思いをはせることがあった。本には駅構内にある書店のカバーがかけられていた。大きさや厚さが数日おきに違っているということはオージは確かに読了しているのだろうし、そうやって数日おきに読む本の種類が変わっていることを把握していたひめかわは、自分では否定していてもやはりどこかでオージのことを気にかけていたのだろう。きっと、そうだ。
狭い車内の対角線上に座った二人は一年近くの間、挨拶一つ、言葉一つ交わすことはなかった。
そんな二人の関係においてあきらかな転機は高校二年の冬、忘れもしない2月14日に訪れるわけだが、ひめかわ自身にとってはそれより少し前、ある雨の日にすでに訪れていた。
オージ、と誰かの呼ぶ声を振り切るようにして駆け込んできたその姿に初めてひめかわはオージという名前を知って顔を上げ、ついで視界に飛び込んできた姿に目が釘付けになった。
ひとめぼれというのをひめかわは十七歳になるその頃まで一度もしたことがなかった。
した、という出来事はその瞬間に何もしていなかったことになった。
ゆっくり走り出した電車の車両内で、つり革を掴もうとして手が届かなかったオージは小走りでいつもと違う場所に腰を下ろした。いつもよりひめかわに近い位置だった。
半ば睨みつけるようにして読書する無表情しか知らなったひめかわにとって、ぼさぼさ頭でもなければめがねもしていない「すっぴん」のオージは別人といってもよかった。もしもその、男子高校生にしては低い背、それに、少し大きめな東高の制服を身にまとっているのでも無ければすぐには分からなかった。オージはしばらく呼吸を整えるために鞄を抱き寄せ、呼吸が落ち着くまで斜め下を見つめていた。ひめかわは自分がいつしかオージを凝視していることも忘れて、耳から抜け落ちたイヤフォンのことも忘れた。解放された聴覚に入ってくるのは、レールのつなぎ目を越える車両のがたんごとんというリズム、それから、微かに、ほんの微かにだけれどオージの呼吸音だった。
「・・・っ」、オージと目が合うと息がとまった。
まるで幽霊でも見たような怯えた目に出会ってひめかわはただ哀しい気持ちになった。
どうして。俺、味方だよ。
オージについてまだ何も知らないひめかわだったが、そう弁解したくなった。実際に立ち上がって歩み寄ってオージの前でしもべのように片膝をついてそう誓いを立てたい気持ちにすらなったものだが高確率で警戒心を与えてしまうだろうことが予測できて行動に移せなかった。
ひめかわの家には当時から何匹かの猫が住み着いていたが、ほとんどひめかわが拾うか貰い受けるかしたものだった。最初から甘えてくるものもあったが、中には怖がるものもあった。特にひどかったのは白地に黒色のぶちを持つ猫だ。今でこそ姫川家で一、二を争う甘えん坊になったが、引き取った当初は背中を撫でさせてもくれなかった。
人が怖いのだった。
人というものは一種類でしかないのだった。自分をきずつけるもの。自分を怯えさせる何か、でしか。
だがひめかわはめげなかった。
他の猫が猫にしては珍しく嫉妬するほど集中的その子猫に寄り添い、おいしい餌を与え、言葉をかけ、子守歌まで歌ってやり、数週間後ようやく額を撫でさせてもらえるようになった。そこからじょじょに接触できる範囲を拡大させ、今ではひめかわが床に横たわっていると自ら腕の中に潜り込んでくるほどの甘えん坊と化したが、オージを見て思い出されたのはそれ以前の、徹底した拒絶の時代だ。子猫が当時むきだしにしていた、絶対におまえを信じない、絶対に弱みを見せてなるものか、という命懸けの意地がオージの眼差しの中に紛れもなく、隠しようもないほどに満ちてそして溢れていた。
オージは鞄の中からワックスの缶を取り出すとやけくそのように髪をぼさぼさに乱し、汚れた手のまま再度鞄の中に突っ込んだ手でめがねを取り出すと自らにぶつけるように顔にかけた。
それから再度、窺うようにひめかわに視線をやり、彼がまだ自分を見ていることに気づくと、ばれないようにじりじりと、明らかに座席の端へ向かって遠ざかっていった。
あ、あ、と小さな声を上げながら詰め寄りたいひめかわだったが、オージが完全に端へ行きつきなお遠ざかりたがり、その上胸元に鞄を引き寄せたものだから何もできなくなってしまった。
耳からはずれてしまったイヤフォンをさがすふりをして視線を逸らせたひめかわはしばらくオージから発せられる警戒のオーラを皮膚がピリピリ痛むほどに意識したがやがてそれも薄れてなくなった。懲りずにちら、と横目で見やるとオージはいつの間にか本を広げていた。だがその姿はいつもよりぎこちなかった。
今でこそひめかわは当時のオージが何を警戒してあれほどまでに頑なだったのか、不釣り合いなほど大きなめがねとぼさぼさ頭の意味を、そしてあの時、列車のドアが閉まる直前に名を呼んで彼がオージという名前の持ち主であることを意図せずひめかわに伝えてしまったその声が異父兄にあたる信哉によるものだと知っていたし、自分が初恋に落ちたのは間違いなくあの時だと分かっている。当時ひめかわには高校入学直後から付き合っている彼女があった。校内で噂の美男美女カップルだった。誰も邪魔をしなかった。それはあたかも模範解答のように正しくそこにあった。どんな介入も削いでただ二人並んでいた。だがひめかわはオージに出会った。出会ってしまった。初恋を自覚した。当時の彼女とは別れた。その後はもう、オージまっしぐら。餌に向かう空腹な猫さながらにまっしぐらのひめかわだった。
高校時代を回想していたひめかわは、もう一度、ばっかじゃねえの、と幻聴を聴いた気がして後ろを振り返った。
「オージっ」。
頭の上に大輪の花がぽこんと咲いたような笑顔でひめかわは振り返った。
そこに立っていたのはまぎれもなくオージだった。
ひめかわの大好きなオージに違いなかった。
が、
「あれ? なんか違うね!」。
くんくん嗅ぎ回るようにオージの周囲を一周したひめかわは、あっ、と小さく叫んで手を叩いた。
「おれが、縮んだんだっ」。
「こっちが伸びたんだよ、・・・ばーか」。
数か月ぶりに会うオージの罵声はひめかわを呼吸困難に陥らせた。
クールに迎えるんだ、クールな大人なクレバーな紳士なアダルティーな、とりあえず大人の態度で迎えるのだと固く誓った決意は一瞬で崩れ去った。バケツに用意しておいた水に浸した線香花火のように、口に入れた綿菓子のように、しゅしゅしゅん、と消滅した。そして跡形も残らなかった。
「オージっ。オージっ」。
ひめかわは興奮すると相手の名前を呼ぶことしかできなくなる。
強く抱き締められて踵が浮いているのを実感しながらオージは荷物を手離した。
それはひめかわの足の甲を直撃したが彼はめげなかった。
「オージ、もふもふっ。オージ、オージオージオージっ!」。
紳士でもクレバーでも無いひめかわは自分の気持ちに正直な犬と成り果てた。
オージの背骨がやわらかに撓るのを腕の内側に感じながら、首筋に鼻先を、頬に頬を、側頭部に耳を、何度も何度もこすりつけた。
たまに思い出したように体を離してオージの顔を見る。すると、蔑むような視線と出会う。だがひめかわは超越している。新しいゾーンへ踏み込んでいる。罵声も拒絶も気にならなかった。以前まこっちゃんに指摘されたことがあるように、ひめかわはもはや変質者と紙一重だった。五感のすべてでオージを取り戻そうとしていた。抗議の声もひめかわを止めることはできなかった。こういった場合はしばらく放置しておくのが一番だと学習済みのオージはされるがままになっていたが、これまでと違うのは前回との接触に数か月のブランクがあることだった。それを計算できなかったからひめかわはみるみる感極まって、人目も憚らず泣き出す寸前まで高まってしまったのだった。
「・・・ばっか、へんたい、ふざ、っけんな、も、離せよ、ばかずまっ」。
ぎぎぎ、と取っ組み合うが体力では敵わない。
オージはついに切り札を出した。
「・・・あ、信哉さん」。
ハウスと命じられた犬か獲物にとびかかる猫か、なんだっていい、かつてこれ以上忠実にそして高速に反応する生き物がこの世にあっただろうか。
ひめかわは大きく一歩後ずさると両手を体の横につけ、指先をそろえた。ぴしっ。
「嘘に決まってんだろ」。
「し、知ってるっ」。
オージのばかー、と嘆きながらそれはもう自分自身でどうすることもできない条件反射なのだ。
しかしはったりをかけられて一歩後退することで改めてオージの姿をまじまじと見ることになったひめかわはすぐに立ち直った。
「ひゃくろくじゅう?」。
「ひゃくろくじゅうさん」。
「ええっ。ひゃくごじゅう卒業しだんだっ。えらいね、オージ、えらいねっ」。
「・・・ばかにしてんのか」。
「し、してないっ。・・・き、キス、しやすくなったねっ。えへへっ」。
「・・・そういうことしか頭にねえのかよ」。
他愛ないやりとりの中でひめかわは推し量っていた。
昨日見た夢の内容を実践に移した場合、オージはどんな反応を見せるのだろうかと。そうでなくとも、その夢の内容をもし本人に打ち明けた場合、どんな反応を見せるのだろうかと。
ひめかわは堪えていた。
隠し通す自信が無かった。
かといってどのタイミングで暴露すれば良いのかも分からなかった。
だから今はただ、へらへらと笑うことしかできないのだ。
(そういうこと以上が頭にあるんだ、って言ったら、どんな反応する?)。
ねえ、オージ。
ひめかわは言葉を飲み込んだ。
飲み込まれた言葉は行き場を失ってなお溢れ出ようとするから、目頭がじーんと熱くなった。
「お、オージ。おれ、おれねっ」。
「・・・ん?」。
「オージに、会いたかった。ずっと、会いたかったよ」。
オージが顔をしかめる。
ひめかわは胸を痛ませた。
「お、オージは、そうじゃなかったのかなっ。お、おれだけかな、こんな興奮しちゃって、バカみたいになるしかないのってっ。ふ、不平等だよねっ。不公平だよねっ。お、おれだけとかっ」。
「ここで泣くのかよ」。
やめろよそういうの恥ずかしいから。って、何度も言ってるよな。何で毎回忘れんの。守れねえの。おれ訴えてんじゃん。会ったくらいでめそめそすんのやめろよって。たかが数か月じゃん。
オージの口から放たれる言葉の砲丸がひめかわの胸にぶち当たり現実に足元をよろめかせる。
泣いちゃだめだ、こんなタイミングで泣く男とかめんどくさすぎる、嫌われちゃう、そんなのいやだ。
だっておれはおとななの。冷静なの。クールでクレバーなの。ちょう紳士なの。もうすっげえ大海原なのっ。オージにとっての大宇宙なのっ。
ひめかわの頭はパンク寸前だった。
とりあえず放出のため、ううう、と呻きながら俯いた時だった。
「ここじゃない場所で、後でいっぱい聞いてやるから」。
ぽん、と頭に載せられた手はまぎれもなくオージのものだった。
そんな反応を今まで受けたことがなかったひめかわは乙女心フルスロットルとなった。
あうあうと空の嗚咽を漏らし、足の甲にのっかったままの荷物を拾い上げる。
「オージが、オージがかっこいいっ・・・」。
ぷいと踵を返したオージは返事をしなかったがひめかわは嬉々としてその背中を追いかけた。
犬でいい。
笑われていい。
おとなじゃなくてクールじゃなくてクレバーじゃなくて紳士でも海でも銀河じゃなくたっていい。おれはちっぽけな犬なの。この、ひゃくごじゅうを卒業したばかりの、それでもおれと並べばまだまだちっちゃい子に振り回される、子っていっても大学生だけど、そんな生き物に振り回される、そんな生き物のまんまでいい。等身大でいい。
傍から見ればひめかわはオージの荷物持ちだった。
だがその胸は、全身は、幸福ではちきれんばかりだった。どうしようもなく緩む口元、さがりっぱなしの目尻、それでもスナップ写真掲載率上昇中の男子大学生はぴかぴか発光しながらそこらじゅうにきらきらした何かを振りまいて、目の前の後頭部を追いかけることにすべてを懸けていた。裏返しに気づかないカーディガンのままで。
秋です。
夏季休暇を利用してオージが姫川家へお泊りにやってきたのです。