どうしても目が覚めてしまった早朝、二度寝することもできずごみの分別を始めたまこっちゃんはこれまでと明らかに違う点に気が付いた。
どうもプラスチックごみが増えたようなのだ。
それはどういうかというと、デザートのカップが増えたということだ。プリン。ゼリー。その他もろもろコンビニスイーツ。
食事の後はいつしかそれを食すことが日常となりつつあったし、気づけばまこっちゃんもだいぶ詳しくなっていた。
そればかりではない。たとえばあれだってそうだ。
と、まこっちゃんは、薄暗いキッチンからリビングのほうを振り返る。
脱ぎ散らかした衣類。テレビ画面にさしたままのゲーム機。テーブルの下に広げられたままの雑誌。おそらく寝転びながらめくっていたのだろう。そしてその近くに食べかけのスナック菓子の袋。そういった雑多なものが淡い光の中で浮き上がり、余計にまこっちゃんをうんざりさせた。
まこっちゃんは溜め息も吐けずその光景をただ眺めた。
しかしこの呆然はあくまでウォーミングアップに過ぎなかった。
まこっちゃんをしてうんざりさせる最大のものは少なくとも、整理整頓を生き甲斐にしてきたまこっちゃんの部屋を散らかす個々のアイテムなどではないはずだった。
ちらり、とシングルベッドに目をやったまこっちゃんはそこに眠る人物の姿を幻だと思い込むことがもうできなかった。
「・・・起きやがれ、桐谷コウ」。
小さな舌打ちが南向き1DKに大きく響いた。
9/24
朝っぱらから不愉快な気持ちにさせられることが不愉快で、そしてそれをあらわにしたところで罪悪感を感じるどころか嬉しそうににこにこ笑う相手だと分かった上でまこっちゃんはベッド脇に立って毛布の裾を両手でぎゅっと握ると、肌寒そうに巻き付いて何やら寝言をつぶやいている同居人を固い床の上に落としてやった。テーブルクロス引きはあえて失敗してやったのだ。これぞ成功。まこっちゃんは一瞬だけ口角を上げた。
「・・・びっくり、した・・・っ」。
とはいえまこっちゃんが期待するほどのダメージを与えられはしなかったらしい。
床の上で体を起こした彼は打ち付けた場所とはまったく別の場所をさするという鈍感さを披露しつつ、自分を見下ろしているまこっちゃんを子どものような目で見上げたのだった。
「・・・あ、まこっちゃん、おはよ」。
知っている。俺は知っている。桐谷コウお前が東高でそこそこモテる部類に入っていたことを。そうでなくてもジャンル的にはひめかわと同じっつうかまあ細かいこと言いだせばそりゃもちろんまったく違って別物なんだけどてか俺の中でひめかわは別格なんだけどお前もそこそこ整った顔だしいい線いってると思うと俺が言うのもおかしな話だけど基本的に面食いな俺はお前の顔とか恰好自体は嫌いじゃないんだよむしろどちらかというと好みの範疇なんだよだけどそのハンディ、ハンディって言い方もおかしいかもしれないがそのハンディを携えていながらなお俺をこうやって朝っぱらいらいらさせてるってことはお前が相当に性格悪い生き物だってことで、むかつく。
結論:むかつく。
まこっちゃんの眉間の皺はみるみる深さを増していった。
尻餅をついた格好でその様子を見上げていた桐田コウ通称ニコは手始めに、へら、っと笑ってみせた。
「おはよー?」
「おはよー?・・・じゃ、ない。だからどうしてお前が俺のベッドで寝てるんだよ」。
「だって寒かったから。ひと肌恋しくなるじゃん」。
まこっちゃんは混乱した。
とりあえずいろいろなことが不可解だった。まるで何も自分の気持ちとそぐわないのだ。
さほど仲が良いわけでもなく、どちらかといえば苦手だと感じていた人物と同居を始めたのは七月の終わり。かれこれ二か月前のことだ。にかげつ。思っていたより時が経過していたことにぞっとしつつまこっちゃんは悪夢の始まりを顧みる。
契約は公園のベンチでだった。
何の前触れもなく、泊めて、と懇願してきた。前触れ。俺がそれに気づいた時、事はとっくに取り返しがつかないところまできていることがほとんどなんだけど。
あの時もそうだった。「泊めて」の懇願。いや、それが懇願であるとも悟らせぬ軽さで彼はさらりと云い放ったのだ。疑問ではなく決定事項。選択肢などなく既成事実。あの瞬間まこっちゃんは何故今日のような面倒にまで思いをはせることができなかったのだろう。これはまこっちゃん自身がつねづね痛感し始めていることだったのであえてまこっちゃん以外に根拠を求めるとするならば、おそらく原因は残暑のせいだった。
公園のベンチは緑陰の中にあったが、そこだけまるで聖域のようだった。
隣り合ってコンビニスイーツを食べるその時、まこっちゃんの体内では嫉妬や未練が渦巻いていた。まこっちゃんは定期的にそういったものを渦巻かせてしまう性質の生き物だった。あの時はまさにその真っただ中だった。つまり、正常な判断能力は欠落していた。
「泊めて」。
たった一言、あの一言を拒絶しなかったばかりにこのような事態になっているのだと思うとまこっちゃんは自分自身に腹が立った。
「うわ、まこっちゃん、朝からすっごい不機嫌な顔。やだー、こわーい」。
とはいえどう考えても原因の一端は自分以外にあった。
まこっちゃんは桐谷コウの下敷きになった毛布をずるずる引っ張り出すともくもくとベッドメイキングに取りかかった。まるでこの部屋には自分以外の誰もいないかのように。
「おはよ、まこっちゃん」。
「・・・ああ、おはよう」。
思わずあいさつを返してしまう。
「じゃ、なくて、だ!」。
はっと我に返ったまこっちゃんは腰に手を当てた。
「お前は床!俺はベッド!そういうルール!どうしてベッドにあがってきたんだよ!」。
気持ちとしては怒鳴りつけているつもりだったが防音効果の低い賃貸アパートだ。今後の学生生活のために隣人とのトラブルは極力避けたい。引っ越すには多額の資金が必要であることをまこっちゃんは知っている。塾講師アルバイトをしながらなんとか生活費をやりくりしているまこっちゃんには経済的なゆとりなどとうに無い。
「ルールかあ。おれ、ルールきらいなんだよね」。
出たよ。
はい、いただきました。
おれがきらいなものは実践しなくてもいいの法則。
まこっちゃんは正直に舌打ちした。心おきなく舌打ちをしてやった。
気兼ねする必要ねえ。そもそもこいつに配慮なんて豚に真珠だ。なんか言葉の使い方間違ってるな、豚ってより猫だしな。じゃあ猫に小判だ。やっぱりなんか違うのだとしてもそんな些事はこの際どうでもいい。
「桐谷」。
「ニコでいいってば。そろそろ慣れてよ。一緒に暮らしてんのに他人行儀じゃん」。
「いや、桐谷。いいか、お前は他人だ」。
「ふうん。つれないの」。
てかその説教長くなるかな? とでも言いたげに食べかけのポテトチップスを食べ始めたニコにまこっちゃんは眩暈がした。
自分は気が短いほうだ。
ねたみやすく、後ろ向きで、というのも実際後ろめたいからで、たまに割と本気で地球爆発しろと思っているまこっちゃんは決して自分のことを気の長い男だと思ってはいなかった。そこまでお気楽ではなかった。
まこっちゃんは気が短い自分を知っている。
が。
それでも今回の件に関しては長続きしているほうなのだ。
自分以外の誰かと暮らすことを一種、修行のように認識し始めた同居生活。起床時刻就寝時刻食べ物の好き嫌い見たいテレビ番組笑いのツボ整理整頓の秩序それらすべて何ひとつ一致しなかった。通う学校もばらばら、学ぶ内容もまこっちゃんは商業や会計、ニコは理学療法とばらばらだったため、実際のところ同居というより寝食場所の共有という感覚に近いものがあったがそれでも一日のうちのどこか数時間は必ず一緒にいる状態だったし、それもこの1DKという密室で、まったく相手の言動に気を払わず生活することは不可能だった。
「このアパートは誰のものだ」。
「まこっちゃーん」。
「そうだ。分かったらポテチを食べるのをやめて俺の話を聞け」。
「あ、しけってる。でもおれしけったポテチきらいじゃなかったり」。
「いいか、もう一度だけ言う。ポテチを食べるのをやめて俺の話を聞けよ」。
「はい、あーん」。
「あーん」。
口に入れたポテチは確かにしけっていたが、それを「きらいじゃない」という人物が目の前にいて、実際おいしそうに食べ続けているのだとすれば、なるほど確かにおいしく感じられ、
「・・・るわけあるかっ!話そらしてんじゃねえよ!」。
「凄んでも効かなーい。無効だもん。おれ権力に屈しないもん」。
「は?権力?」。
「うん。まこっちゃんはこの家の借主が自分名義であることを盾にとっておれの行動を支配しようという魂胆なんでしょ?だけどそもそもおれの同居にゴーサイン出したのまこっちゃん自身だしおれ一度も脅迫めいたことしなかったよね?家賃だって折半するって言ってるんだし食事の後片付けだってがんばってんじゃん。それでこのアパートが誰のものかって論点で話を始めようとするんなら、まこっちゃん、それ信哉以上の暴君だよ?」。
「話をすりかえるな」。
「そのものじゃん」。
「分かった。桐谷お前の主張は分かった。だけどベッドに入ってくんのはやめろよ」。
「なんで」。
「なんででも」。
「じゃあまこっちゃんも床に来てよ」。
「なんでだ」。
「そしたらおれベッドにあがんないから」。
「は?」。
「まこっちゃんもしかして何か誤解してる?」
おもむろにニコが立ち上がる。身長はニコのほうが五センチほど高い。それに、得体が知れない。
まこっちゃんは思わず後ずさりした。
一見さわやかな好青年という印象の彼が殴り合いをスポーツと称し嗜んでいたことは各方面からの噂などで承知済みだ。挑まれた場合にしか取り組まないということも分かってはいたが万が一ということもありうる。まこっちゃんは喧嘩とは無縁だった。殴り合いなど生で見たこともない。
「誤解?」。
問い返す自分の声が掠れていた。
視線だけはそらさないようにとりきむから、目が乾いて痛かったが、まこっちゃんはニコを睨み続けた。
「そ。おれはベッドじゃなくてまこっちゃんがいいの。だからもしベッドにあがられんのがいやだっていうんなら、それだけなら、まこっちゃんが床においでよ。万事解決じゃん」。
どさっ。
ゴミ捨て場に区域指定の緑のごみ袋を投げつけるように置き、まこっちゃんは深呼吸した。
さて、と。
(で?なんなんだ、あいつは?)。
電線にとまったカラスさえまこっちゃんの視線を受けると飛び立っていった。
そのまま部屋に戻る気にはなれなくて、スウェットにサンダルといういでたちでまこっちゃんはアパートの周囲をゆっくりと回り始めた。
右手の中指にひっかけた鍵のキーホルダーを規則的にまわしながら、とりあえず落ち着け落ち着くんだおれと言い聞かせた。
いらっさっせー。
気づけばコンビニの店内にいた。
「あいつはなんなんだ。何が目的なんだ。侵略か。何をだ。おれの部屋か。安寧な生活。いや、精神だ。おれの精神をのっとるつもりか」。
ぶつぶつ呟きながら店内をうろつくまこっちゃんの姿を、弁当の補充をしていたアルバイト店員が一瞥した。
「あっ、おはよーございます」。
「ああ、おは・・・えっ?」。
ぎょっとした表情で二度見したまこっちゃんを、その店員は笑った。
「あはは。先生、寝癖ついてるっすよ」。
「えーっと、三船?・・・なんでここに」。
「なんでって、バイトっすよ、バイト」。
「平日だろ?学校は?」。
「もちろんちゃんと行きますよ? 早朝だけバイト」。
早朝、という言葉にまこっちゃんは店内奥の時計を見上げた。
そういえば今朝は桐谷のせいで目が覚めてしまったのだ。
睡眠中の無意識とはいえ、擦り寄ったのはたしかに自分が先だった。
抱き締め返された感触の始まりを、覚えているから。
「・・・先生、顔赤いけど、もしかして風邪?」。
「は?」。
「いや、風邪ひいてる人多いじゃん。先生、一人暮らしだって言ってたし、風邪ひいてんなら大変だろうなあと思って」。
納品されたばかりのサラダカップを陳列しながら三船は、へらっ、と笑った。
まこっちゃんは、いらっ、とした。
どうして俺の周りにはこういう笑い方の人間が多いんだ。被害妄想にしてはいちいちどきどきさせられっぱなしじゃないか。
ただでさえこの生徒は西高の生徒で、普段は制服姿なのだ。ふとした瞬間ひめかわに見えることがあるのだ。
「・・・お前さあ、モテるだろ」。
何を訊いてるんだおれは、と慌てて次の弁解を探し出したまこっちゃんだったが杞憂だった。
作業の手を休めず三船はおかしそうに笑った。
器用なんだ。しゃべりながら手を動かす。結局こいつもできる部類なんだ。
「先生さあ、やっぱちょっと熱あんじゃねえの? まあたしかに俺かっこいいかもしんないっすけどー。なんつって。たはは」。
「うん。かっこいいよ、お前。おれの好きなやつに似てる」。
しまった。
言った直後、まこっちゃんは硬直した。
訂正。撤回。弁解。
さあどうする、と静かにしかし自分史上最速のスピードでめぐらせた脳の働きを、またも三船の気にしていない声がさえぎる。
「え、それって女?俺に似てる女とかちょっとごつくない?」。
「いや、男だから」。
アウト。
はいアウトおれアウト。
どうして自爆した。
まこっちゃんはキーホールダーを握った手で顔を覆った。左斜め下から自分を見上げてくる教え子の視線がどんな種類であるのか確認するのが怖い。かといってここで目を合わせて「なんてな」とか言っとかないと明日あたり噂が流布されて最悪の場合バイト先を変えなくてはならない、なんて事態になりかねない。となると収入が途絶える。家賃が払えない。ニコに頼らなくてはならない。最悪のシナリオ。とめるなら、今だ。
「なーんて、」。
「先生の好きなひとって、男なんだ?」。
その瞬間まこっちゃんは諦めた。もう諦めてしまうことにしたのだ。
分かってるんだ。
悪いのはルールを守らないニコじゃない。ひめかわの夢を見てニコに擦り寄った自分の弱さだ。
言いたいことも言えず、ゴミ出しを口実に逃げ出した自分が流れ着いたコンビニで早朝バイトの教え子に出くわしたとしてもしもぽろっとカミングアウトかましてしまったのだとしても、それは誰のせいでもない。
自分のせいなのだ。
「わりい、三船。つまりそういうことなんだよ。俺、実は男しか好きになったことな、」。
「俺でも?」。
三船が立ち上がった。
おい商品のサラダカップ床に引っくり返ってるぞ、と教えてやりたいまこっちゃんだったが、今までにない三船の視線に言葉を失った。
なんだこいつ。
なんなんだこいつ。
「お、お前?が、何?」。
「つまり俺でも、大丈夫だ、って、こと?」
この既視感は何だろう。
まこっちゃんはついさっき、室内で同じ光景を体験した気がした。
一日、それも数十分の間こう何度も同じ体勢で見下ろされるということがあっていいものだろうか。
「俺は、準備できてます」。
「なんの?」。
「心の!」。
どさっ。
ベッドの上にコンビニの袋を投げつけるように置いたまこっちゃんはそのままローテーブルの上に腰を下ろした。
今さらになって上下スウェットに寝癖のままコンビニまでの道のりをふらふら歩いて行って帰ってきたことが恥ずかしくなってきた。この恰好で行動していい範囲は広くともアパートの下に設置されているゴミ捨て場までだったはずなのだ。
それなのに俺は踏み出してしまった。
「ルールなんかくそくらえ。・・・なのか?」。
ふと見やると、ゴミ袋を手にした自分が逃げ出す前より部屋の中は圧倒的に片付いていた。
すべては正しい位置にある。
ほ、と感心したまこっちゃんは手の下のメモに気づいた
そこに書かれてあるメッセージを把握し、溜め息しか出てこなかった。
「今日の夕食カレーライスに一票! ニコより」。
「・・・選挙とか始めてねえし」。
くしゃくしゃに丸めてやろうかびりびりにちぎってやろうか思案しながらその紙切れを指先につまんで目の前でひらひらさせながらまこっちゃんはふと、あることに気づいた。
「結構、字、きれいだな」。
散らかしっぱなしの部屋。
戻ってみたら完璧な整頓。
嘘か本気か分からない発言。
狂わされる。
かき乱される。
なんとかして追い出さないと。
案を練らねばと思うのだが今になって眠くなってきたまこっちゃんは講義が昼からであることを確認し、ベッドに横たわった。枕元に置かれたコンビニの袋には思わず買いこんでしまったデザートのカップが入っている。また分別が必要になるな。まこっちゃんはうとうとしながら思った。
身の回りのすべて不可解で自分自身についてさえ未解読な状態ではあったが、ひと肌恋しい季節であることは疑いようもなかった。
秋です。