いつもより少し早く目覚めてしまった曇りの朝、自分はこの世界に生きているたったひとりなのだと想像して寝返りを打ったオージは、隣に眠るひめかわの顔を見つめた。
雨は夜中じゅうずっと降り続いていたように思う。
強まるでもなく弱まるでもなく何の変化もなくただしとしとと降り続いて、もしそれが永遠にやまなくて少しずつ地上を洪水にしてしまうのだったらそれは恐ろしいことだと思う。
船を作っても高台へ逃げてもいずれ自分は死んでしまう。
だけどもし本当に自分がたったひとりでしかないのだったら、生きていくということに対してそれはどんなにか救いだろうと思う。
薄手のタオルケットは自分でないもののにおいがした。
目に見えないけれど手で触れることはできないけれど、においはもっとも確実だ、と思うことがある。
見える範囲で部屋の中を見回し、以前泊まった時と変わったところが無いか比べてみる。
本棚。
机の上に置かれた、大学の教科書。
クラスメイトたちと写った写真が机の前に貼られている。
夏に撮影したものだろう。
十名近くはあるその中の顔を、きっとオージは誰ひとりとして知らなかった。
ひめかわは写真の真ん中付近にいる。
隣の女子がひめかわのほうへ少し首を傾けたポーズをとっている。
シャッターが押される直前、押される間、押された直後、いろんな会話が交わされたのだろうと思う。
オージはゆっくりゆっくり瞬きをした。
(本当は、それでよかったかもしれないのに)。
オージは深呼吸すると再びひめかわの寝顔に視線を戻した。
何の表情も浮かんでいない顔は一瞬別人のように見えたが、目も鼻も口も輪郭もまぎれもなく姫川一馬のものだと分かる。
記憶があるからだ。
その目がどんなふうに自分を見て、口がどんなふうに自分を呼んで、振り返った角度で変わるライン、眼差しや声も全部知っている。
ただひとつまだよく知らないのは。
「・・・ひめかわ」。
オージは小さな声で呟いてみた。
ひめかわが目覚めないことを確かめると、もぞもぞ動いて距離を狭めてみる。
ただひとつまだよく知らないのは、感触と、たぶん本音。
リスキーゲームに挑むような感覚でオージはじわじわと寄ってみた。
きっとおれはまだ少しねぼけてんだ。
誰に問われているのでもないがオージはそんな答えを準備した。
気づくとひめかわの布団と自分の布団のちょうど境目に体が落ちていた。 浅い溝の底で畳の感触を硬いなと思いながらオージは少し気を緩めた。前進か後退か決めかねて停滞していると、突然、ひめかわの手が伸びてきた。肘を掴まれる。ひめかわの体温で温もった布団のほうへずりずりと引きずり込まれたオージは、不平を言う間もなく抱き締められていた。
「・・・ひめかわ?」。
横になっていると身長差は問題でなくなる。記憶にあるより少し大きい掌がこれ以上の密着を求めて引き寄せるのでオージは軽く抗った。その刺激がひめかわを少しだけ気づかせたようで、彼はいま見ている夢の中からひとつ言葉を漏らしたのだった。
「ん・・・やだあ、えへへ、もう、くすぐったいよ・・・ひゃあ、だめだってばあ・・・はにぃしっぽ・・・」。
9/25
「おれ、こいつに負けた」。
ドーナツと一緒に並んだおまけのリスを指先で弾いてカフェオレに口をつけるオージを見たニコは首をかしげた。
「うん?いつ戦ったの?」。
「違う。こいつの不戦勝」。
ふうん、となお首をかしげながら次なるドーナツに手を伸ばしたニコをオージはじっと見つめ返した。
「・・・ニコって、太らないな」。
「うん。燃焼してるからね」。
ニコにとってのスポーツが何たるかを心得ているオージはあえて深くつっこまずにおいた。
「ひめ、今日は?」。
唐突にニコがその名前を出す。
ぴくっと反応してしまったことを悟られませんようにと願う一方でオージは諦めていた。見逃すわけがない。パンチを蹴りを繰り出す人間の動きを瞬時に見極める反射神経の持ち主が、見逃すわけがなかった。
そもそも今の発言のタイミングだって計算じゃなかったろうか。
小さな溜め息と共にオージは頬杖をついた。
平日の昼間。駅前のドーナツショップには、二人と同じように休み中の大学生あるいは専門学生、よりもずっと親子連れの割合が多い。
通りに面した二人掛けのテーブルは頬杖をついただけでぐっと距離を縮めることができた。
ひめかわとこの場所に座る時、オージは絶対に頬杖をつかない。
自分がしなくてもひめかわがするからだ。
自分はただ、待っていればいい。
ちなみに二人ともが頬杖をついた場合、その距離はほとんど無くなってしまうので、今後もきっと絶対にしない。
オージにはひめかわの、時々公衆の面前で仕掛けてくる過剰なスキンシップを取るに至る神経が理解できなかった。
「だけどそれは、平気だからかも知れない」。
質問に答えず独り言のようなものを漏らしたオージのことをニコは笑いながら見守った。
ニコにとって誰かの混乱を見るのは楽しい。
混乱している人間はいつもとてもかわいかった。
悟ったふり、分かったふりをして冷静にふるまう相手の事は時々そのペースを乱してやる必要があると思っていた。そうたとえばあの、上下スウェットで眠る同居人の男子みたいに。
ニコは口をもぐもぐ動かしながらうんうんと頷いた。
冬に向かうやわらかな陽射しの中で、やや俯き加減のオージの瞳はつやつや輝いていた。
(ちゃんと恋愛してる。やっぱひめって、すっげえ)。
口にしたら全否定されそうな言葉をニコは自分の中で呟くにとどめた。
だけどそれが理解できないんだ。オージには、きっと、なんも理解できない。今は。
「だいじょうぶ。何があってもおれが守ってあげるからね」。
二人の会話はまずほとんど噛み合っていなかったがどちらも気に留めなかった。
「オージ、やっぱ信哉と血繋がってんだね」。
「え?」。
「似てきたよ」。
「そう?」。
「うん。考え事始めると、瞬き少なくなるよねえ?」。
「・・・瞬きの回数数えたことないから、分かんない」。
ぞくぞくっ。
ニコは全身くすぐったいような感覚を覚えて椅子に座り直した。
混乱、してる。
オージ、混乱してる。
「オージは、かわいいなっ」。
「・・・何だよ、突然」。
「だって結局素直なんだもん」。
「・・・わけわかんない」。
そう答えた後でオージはこう付け足した。
ニコだからかも知んない。
「ん?おれだから?」。
「うん。だってニコには、」。
そこまで言ったオージははっと口をつぐんだ。
「だって、おれには?」。
下から覗き込んでくるようなニコの視線にオージは早くも諦めた。
「隠してることなんか、ねえもん」。
一瞬。
ほんの一瞬だけ、珍しくニコは迷った。
笑って見せるべきか、しんみり頷いてみるべきか。
ニコがオージに出会ったのは中学生の頃だった。喧嘩相手を見舞いに行った帰り、待合室に座っていた金髪の男に声を掛けられたことがきっかけだ。。金髪の男、それこそが後にニコに喧嘩の質を高めさせ、百戦百勝を約束させた、ニコいわく師匠こと響信哉に他ならない。それまでニコは自分より喧嘩の強い人間と出会ったことがなかった。少なくとも一対一で行った場合は文字通り指一本触れさせなかったし、というのもニコは持久戦が苦手だったためできるだけ体力を消耗させず、時間をとらず、精神的にもすかっとするような華麗な方法で相手をぶちのめしたいと思ってきたし、実際圧倒することができていたのだ。長いことそれが快感だった。
快感のためのヒーロー。
ヘルプミーを叫ぶヒロイン不在のヒーロー。
だった。
ヒロイン。だなんて言ったらオージ怒っちゃうな。
ニコは信哉に雇われた。その見返りに、信哉からコツを伝授された。やがて回し蹴りが上手にできるようになった。
信哉の依頼は、クラスメイトとしてオージを見守り、何か目立った出来事などがあれば報告し、場合によっては自己判断で護衛することだった。
末の弟を心配する兄。
誰よりも強くなりたかった中学生。
二人の利害は奇しくも一致し、その関係はニコとオージが高校を卒業するまで続いた。べつべつの学校に進学してからは報告の義務も護衛の義務も無くなった。そもそもオージの身辺から不穏な気配が消えていったのだ。それを消したものは時の流れかもしれないし、東高在学中は「生徒会長の犬」とまで陰で囁かれたニコの信哉に対する忠誠とも呼べる奉仕っぷり、だったかもしれないし、あるいはオージ自身の変化によるものなのかもしれない。もしくはそれらすべてか。
腕や足は末端に過ぎない、軸だ。軸を移動させるんだ。
数式を教えるように淡々と信哉はニコに口頭で説明した後、こんなふうに、と実践して見せた。風が、尖った。そしてそれはニコの鼻先をかすめた。
す、すっげえっ。
目を輝かせたニコに信哉は落ち着けと命じる。指図されることが大嫌いだったニコだが格上の相手となると別だ。どこまでもとことんシバいて欲しいと思っているし、それに見合う成果を提供するだけの自信があった。
生徒会長の犬。
誰がどんなルートで広めた異名か知らない。しかしニコは自分を示すその名を決して嫌いではなかった。そもそもニコは動物の中で犬が一番好きだったし、所有者と称される生徒会長のことをすっかり尊敬してしまっていたからだ。誰かがどこかで自分のことをそう称する時、必ず響信哉の存在が共にあることをニコは光栄にさえ思った。そしていつか越えてやろうとも思うのだった。とはいえ相手はニコ以上に才能があった。モチベーションの根底には恐怖があった。信哉はオージを失うことを何よりも恐れていた。いつだったか、ニコは信哉の口からそれを聞いた。直接そういった表現があったわけではない。だがニコには伝わったのだ。
(ああ、信哉はオージのために殺せる)。
ニコは確信した。
何かに執着することで一点以外に対し盲目になり、そのせいで時として倫理さえ喪失するような無謀をニコは嫌いでなかった。実際そんなことをすれば罪にあたり罰せられることは承知だとして、それでも言動の端々からびんびん発せられるアウトローはニコをときどき残酷にした。
あの日、八ツ森医院の待合室で、神の使いのような男に声をかけられた。その瞬間、ニコの運命はすでに彼の犬だったのだ。
完。
じゃじゃーん。
と言ってニコは回想をしめくくる。
何のことかまったく分からないオージは怪訝そうに首をかしげるのだった。
「ニコはこれからも、オージたち兄弟みんな守ってあげるっ」。
「・・・ふうん?よろしく?」。
それからオージはカフェオレをおかわりした。ニコもドーナツをおかわりした。
「オージ、携帯鳴ってるよ」。
ニコに指摘されてオージは首を横に振ったが、確かめてと言われて椅子にかけた上着のポケットをさぐったところ、確かに液晶画面にはメール着信の表示があった。
「・・・ニコの聴覚すげえ」。
ただひたすら感心するオージにニコは笑顔を返すだけだった。
「メール、確認すれば?」。
そう言われて画面に視線を落としたオージの表情が少し険しくなった。おやっ、と思ったニコは勢いよく身を乗り出したくなったがかろうじて堪えた。
「オージ、眉間の皺」。
「・・・え?」、顔を上げたオージは慌てて眉間に手を当てた。それから、ふう、と小さく息を吐く。
ひめからだな、と思い浮かぶニコの直観は優れている。
半分はもう染まっちゃってるからね。
ニコはなんとなしにトレイの上のリスを摘まみ上げてその生き物と見つめ合った。
半分はもう信哉になっちゃってるから、もしオージが本気で悲しむようなことすれば、ひめでも許せないよ。
おれのね、桐谷コウの場合はね。