朝は姫川家の農作業を手伝い、午後から一人で電車に乗って母校の周辺や通学路を散策したオージは三時になるとその店へ足を向けていた。
店の名前はベリベ。
姫川一馬の叔父が経営する喫茶店だ。
中央にステンドグラスのはめ込まれた木のドアを押し開けると、からんこらんと鈴の音が鳴った。ひさびさにたくさん歩いて体が心地良くほてっていたオージは店内奥の席に着いた。
「いきなり旅に出ちゃうからね、あの人」。
いきなりだった。
オージと同じくらいの年だろうか、白いシャツの男が言う。オージがはっとして顔を上げると、その顔は口調と裏腹に微笑んでいた。まるで、仕方ないひとだろ、とでも言いたげだ。呆れたように、そしてそれ以上に、どこか自慢そうに。
「あれ、そういうんじゃなかった?」。
カウンタの中をさがしていたように見えたから、と言われてオージはたじたじっとなった。
「多いんだよ。あの人のファン」。
今度は明らかに自慢げだ。
オージは返事をせずこくりと頷いた。心内を見抜かれた居心地の悪さや、そうも露骨に店主の姿をさがしていた自分への腹立たしさが一緒くたになって、秋風の中を心行くまで歩き回ってすっきり軽くなった体がまたもやもやと重くなっていくような気分だった。
「あ、おれ? おれはね、三船」。
「・・・きいてない」。
唐突に自己紹介されたオージは、早く下がってくれないかな、と思っていたのでできるだけ興味の無いふりをしようとしていたのだが思わず呟いてしまったのだった。しまった、と思った時には遅く、三船と名乗った白シャツの男は現役男子高生だの将来は自分のお店を持つのが夢であるだの姫川さんみたいに渋い男になりたいだのつらつらと語り始めた。オージはテーブルの下、膝の上で指先をとんとんと鳴らしながら耐えていたがついに耐えきれなくなり、
「・・・アイスコーヒーをひとつ持って来い」。
再度、オーダーを飛ばした。
承知いたしました、と敬礼されたオージはいらっとしたが、その後ろ姿を見送る内に、彼がある人物に似ていることに気づいた。それに気づくとどこまでも目で追ってしまいそうになる自分の頬をオージは、ぺちん、と叩いた。ふと視線を転じると窓際に座っていた女性客がくすくす笑いながら三船を見守っているのだった。
(まるっきり同じじゃねえか)。
オージはむすっとした顔でバッグから取り出した文庫本を開いた。
一昨日の夜から読み始めた新しい物語は中盤にさしかかっていた。
「はい、お待たせ。三船スペシャルっ」。
ふざけているだけかと思って顔を上げたオージは、片手にトレイをのせてテーブル脇でお辞儀する三船の姿が意外にもさまになっていることに気づいてますます気分を害した。そんなギャップに気づいてしまうくらいならただふざけたやつだと思っていられたほうが面倒ではなかった。
ただのコーヒーじゃねえか。
と思ったがつっこむと喜びそうな相手だったのであえて「ん」、と顎を引いて頷くだけにとどめる。注文品を置いてすみやかに去れ、という意味だった。しかし三船はどういうわけかその場を立ち去ろうとしない。あまつさえ向かいの席に座りさえした。
「ねえ、きみ名前は?」。
オージはぎょっとして顔を上げた。
「あ、ごめん。邪魔だったかな?」。
「・・・うん。邪魔」。
オージは本心を告げたのだが三船は満面に笑みを浮かべた。
この噛み合わなさはまぎれもなくあいつだ。
オージはやや体を逸らせた。
そうするとまるで本能のように相手は身を乗り出してくる。
「あ、ナンパじゃないから安心して。仲良くなりたいなあって思っただけだから」。
言い換えただけじゃねえか。
オージはそう言いたいのをぐっとこらえる。反応したら負けだ、と本能が警鐘を鳴らしていたのだ。
「どこ高? おれはね、西高」。
「おれは大学生だっ」。
警鐘は遠ざかった。
道理で馴れ馴れしい訳だ。いや、道理でってこともない。こいつはきっと誰にでも馴れ馴れしいんだ。
ひめかわ、みたいに。
「そんな怒んないでよ。顔赤くなっちゃってさ。たははっ」。
「おれは初対面の相手と向かい合っておしゃべりしたくて来たわけじゃない。静かな場所で読書するためにお金払ってんだ」。
「あ、じゃあそれ無料でいいからさ」。
それ、と言って三船はアイスコーヒーを示した。
「・・・雇われの癖に勝手なことしてんじゃねえよ。あと、おれはべつにお前と話したくない」。
「いやいや、俺が奢るよって意味。お金ちゃんとレジに入れとくし」。
てかさあ、と強引に話題を切り替えようとするあたり、オージはすでに高校生とのギャップを感じつつあった。ほんの二年前まで自分も高校生だったはずなのに、随分遠い昔に感じるのはおそらく、三船があまりにも容易に垣根を飛び越えて、自分の庭を嗅ぎ回ろうとするタイプの年下だったからだ。仮に同年代だったとしても、世代ギャップに近い違和感を覚えるだろう相手だった。
その点ひめかわは、と何でもひめかわと比較しようとしてしまう自分をオージは詰った。
「溶けるよ?」。
誰のせいだ、とぼやきつつオージはコップを引き寄せてストローをさした。
三分の一ほど吸い上げたところで、ごくん、といっきに飲み下す。
「お、いい飲みっぷり」。
「どっか行け」。
オージは文庫本を顔の前に立てた。
「ねえ、名前」。
「知ってどうすんだよ。関係ねえだろ」。
「覚えておきたいんだ」。
「覚えておかれたくねえよ」。
「記念に」。
「・・・何の?」。
文庫本の高さをちょいと下げてオージは三船の顔を見た。
自分のペースでぐいぐい押してくるくせにちょっと冷たくすればすぐこれだ、こういうタイプは。西高ってあいかわらずバカばっかだな、と、東高卒業生のオージは胸に刻んだ。真面目な西高生に聞かれたら大ブーイングを受けること必至の見解だった。ただ、オージがそういう西高生にばかりからまれることもまた事実だった。類は友を呼ぶということわざがあるが、オージ自身としては、同類のつもりはない。確かに似たような種類の人間に懐かれる性質はじょじょに自覚されてきてはいるものの、それは自分と彼らが同じだからではない。むしろ真逆だった。人懐こくて、軽くて、楽天家。真逆だった。まるで人格の不足を補うかのように見えない力による采配のようだった。そうと感じるからこそ表面上は拒絶を示しつつ、本気であしらうことはできないのだった。もし本当に嫌であればオージは、向かいに三船が座った時点で席を立っていた。そして今日は別の喫茶店で文庫本を広げたことだろう。そうはしない何か、させない何かが確かにあったし、オージ自身無意識のうちにでもそれを感じ取るのだった。
あなぼこの開いた道を補正するように、ほころびを木綿糸で丁寧に繕うように、与えられたきっかけ。与えられた人物とそのタイミング。出会う人それぞれを細かく観察すればするほど、彼らがいかに自分に無い物を携えているかを発見することができる。できて、しまう。
だからオージは彼らを鬱陶しく思う一方で、貴重な機会なのだとどこかで分かっていた。
そもそもオージは、もし自分が自分以外の誰かであったなら地球最後の二人になっても自分に話しかけるのを躊躇うかもしれない、と感じる程度にとっつきにくいオーラを放っている自信があったので、そんな自分に傍寄って、あろうことか話しかけてきさえする相手にはその時点でもうある種の敬意を払っていた。
決して口にはしなくとも。
決してそんな視線をあからさまに向けたりはしなくとも。
「・・・おれの挽いた豆を初めて飲んでくれたひと記念」。
その言葉にオージは手にしたコップの中身を見下ろした。
「・・・ふうん」。
「おいしい?」。
「・・・まあまあかな」。
オージが答えると三船は「やった」と顔を輝かせた。まあまあでこれだけ喜ぶのだから「おいしい」と答えればどうなるのか思いをはせることのできた自分はやはり少し年上だった、とオージの気分はやや向上した。
「オージ」。
「えっ、やだ、あはは、もう、俺は王子様じゃないっすよ。確かにおいしいコーヒー作れるけどっ」。
「・・・いや、おれの名前」。
三船が呆けた顔を一瞬浮かべた。
しまったな、と思ったが時すでに遅しというやつだった。
「お、おれは、三船っ。三船翔太っていうんだっ。よろしくね、オージっ」。
しまった。
懐かれてしまった。
オージは早くも後悔するが時すでに遅しというやつだった。やはり。
「ねえ、オージはどこの大学通ってんの?」。
県外の私立、とだけ答えてオージは文庫本を閉じた。どうやら読書は無理そうだった。それに、三船の挽いたコーヒーはなかなか悪くない香ばしさを漂わせていたのだ。
「すっげえ。お金持ちなんだ」。
「べつに」。
「あれ、じゃあ、帰省中ってことか」。
「帰省・・・まあ、そうかも、しれない」。
実家じゃないけど。
オージはそこまで解説しなかった。
「ふーん。高校どこだったの?って、あ、タメ口になっちゃってるっ」。
「いいよ、もう。おれは、東高」。
三船が感嘆の声を上げる。オージのほうがかえって他の客の迷惑でないかと周囲の様子を気にかけたほどだったが、さほど誰も気にしていないようだ。もしかすると今いるのはすべて常連客で、もう慣れきってしまっているのかもしれない。むしろそんな三船は愛されているのかもしれない。窓際の席でくすくす笑う女性客を見やってオージは小さな溜め息をついた。デジャヴだった。
異性にくすくす笑われる男。それも、ありったけの好意がこめられた目で。
そんな男をオージは身近に一人知っているのだった。回想の中のひめかわは何故かオージに潤んだ目を向けていたがオージはテレビを消すように、ぷつん、と遮断した。
おれだって初対面の奴としゃべっていいだろ。べつに。
「ひぇえええ。オージ、頭いいんだっ」。
「べつに」。
勉強くらいしかすることなかったし。
「今度勉強教えてくださいっ」。
「お前みたいなやつでも勉強する気あんのかよ」。
やばい、とオージは思ったが三船は平気な様子だった。あまりに馴れ馴れしいものだからつい自分まで素で返答してしまった。
「ところでオージ、さん、は」。
「オージでいいよ、今さらもう無理だろ」。
「あ、じゃあ、オージ。えへへ。えっと、オージは、彼女いんの?」。
飲みかけたコーヒーを吹き出すところだった。
かろうじてそのような醜態を晒すことは避けたが、さすがに異変に気づかれてしまった。
「あ、ごめん。なんか地雷だった?」。
でもオージはモテると思うなー、年下よりも年上とかにっ。
何を勘違いしたのか急にフォロー体勢に入った三船の足をオージは蹴り飛ばした。
「痛っ。暴力反対っ」。
「静かに読書する予定だった客と勝手に同席するや否やこっちが訊ねてもいないことをぺらぺら話しかけてくるのも一種の暴力だったと思う」。
「うっ。・・・文章が長すぎて理解できなかったっ」。
「・・・しっかりしろよ、バカ」。
「あはは、三船君はバカでーす」。
「バカで喜ぶな」。
「うん。じゃあ、好きなやつとか」。
まだその話だったのかよ、と返答するが時間稼ぎにはならなかった。
オージは考えていた。考えに考えていた。考え抜いて目の前が開けたと思ったらそれはあらたなダンジョンへの入り口だった。ラビリンスだった。地中に張り巡る植物の根のように、生き物の体内を通う毛細血管のように枝分かれしていった。日ごとに新たな難題をつきつけられた。離れていても近くにいても同じことだった。
好きだと気持ちを通じ合わせて、それから。
(・・・それから?)。
ひめかわの部屋で、見た写真。
やましいところは何もないと信じるが、ひめかわの方に少しだけ首をかしげて写っているだけで、疑ってしまうのは、自分が貪欲なせいだった。
なんだかんだありつつ、追いかけられているつもり、だったのに。
何を弱気になっているのだろう。
目を伏せて黙り込んでしまったオージを、三船は「ふわあ」と感嘆の眼差しで見入る。
「これが東高生の本気っ」。
「・・・わけわかんねえ」。
それは自分だった。
オージは大学で初めて一人暮らしになった。これまでは必ず誰かがそばにいてくれた。それは信哉や光だったり、ニコだったり、そしてひめかわだったりした。最初の内は少なからず不安だった。近くにいる間は気づかなかった依存が、露呈したらどうしよう。その醜態に誰より自分自身は耐えられるだろうかと。しかし結論から言えば杞憂だった。そこそこ話せる知り合いもできたし、勉強は捗っていた。知人と友人の境目が分からず、誰がいったい自分にとっての友人なのかと考えることもたまにあったが、悩むまでには至らなかった。高校時代同様、オージは通学の根拠として勉学を最優先させていた。早く知識を身に付けたい。内容が難解であるほど打ち込むことができた。かつて周囲の声を消すためにただひたすら問題集と向き合っていたが、その頃から変わらない。
オージは勉学に励んだ。
その一方で、大学と云うのはなるほど確かに誘惑の多い場所だということはすでに実感していた。案ずるのは自分自身の身よりもひめかわのことだった。それは裏を返せば自分自身のことだともいえるのだが、オージの悩みはこうだった。
ひめかわが、もし気づいてしまったらどうしよう。
おれでなくてもいいことに。
おれではなかったのに。
運命のひとは。
運命の、ひとが。
(うんめい)。
嫌な言葉だ、と思う。それにすべて押しつけてしまおうとする自分が汚いのだった。語彙に委ねることはいわば思考の放擲だった。かといって形無いものの中を泳ぎ切ることができるくらいオージは自分の持久力を信用していなかった。し、できなかった。
たとえば今、背もたれと背中の間に置いたバッグ。
その中には常にペットボトルの水が入っている。文庫本や、携帯電話や、財布と一緒に。
どこででも薬が飲めるようにだ。
ピルケースのかわりに空のヘアワックス缶を使う意地は、高校生の頃からなんら変わっていなかった。
無意識に後ろへ手を回してそこにペットボトルがあることを確かめるオージを三船は首をかしげながら見ていた。
「ねえ。オージ?」。
「・・・んだよ」。
「ケーキ、食べる?甘いもの、好き?」。
「きらい」。
「じゃ、紅茶のクッキー持ってくるね。あれあんま甘くないからいけると思う」。
気の利く男通り越してエゴだぞ。
むすっとした顔でオージが待っていると、皿に乗ったクッキーが運ばれてきた。
むしゃ、と頬張るオージを三船がにこにこ見つめる。
「オージ、かわいいね」。
「うっせ。死ね」。
「だめ、生きる。生きるよ。おれ、好きなひといるもん。片思いだけどね」。
二枚目のクッキーを手にしたオージは三船を見返した。
「え。なにその顔」。
「・・・いや、あの、とっくに付き合ってるやついんのかな、とか思って」。
「うわ、何その殺し文句やべえ、オージ超やばいってそれ。ふはは、不意打ち、やべー。でもちょっと嬉しかった」。
お前の語彙力のがやべえよ。
そう言いたいオージだったが口はすでに二枚目のクッキーでふさがっていた。
なかなかの美味だった。
「塾の先生なんだけどね」。
「・・・」。
「アルバイトの先生。おれ、今年の春からそこ通ってんだけど、全然成績伸びなくてさ。でもすげえの。何がすげえって、続いてるんだもん。ほら継続は力なり、って言うじゃん? それかなあ、って思って」。
「・・・」。
「おれ、ほんっと頭悪くてさ。中学もぎりぎりで卒業してて、かろうじて高校生やってる状態なんだよね」。
だろうな、と合いの手を入れてやりたいオージだった。
しかし口の中はすでに三枚目のクッキーでふさがっていた。
「長いこと座ってられなくてさ。あ、こういう場所の椅子なら全然平気なんだけど、勉強、って場所の椅子ね。でも、こんなんじゃだめだと思って、塾通わせてくださいって親に頼んで。そこで出会ったのが、あの人っ。おれが話しかけてもにこりともしないんだもん。すごいんだ」。
「・・・何が?」。
「おれ、頭悪いけどひとつだけ特技だって言えるものがあってそれは人懐さだと思うんだよね」。
「・・・図々しさの間違いじゃねえの」。
「相手が男でも女でも好かれる自信あんの。あ、自分が好きだと思った相手にはね。べつにいやらしい意味とかじゃないよ。友達つくるの得意とかそういうレベル」。
「・・・ふうん。べつにどっちでもいいけど」。
「なのに先生だけは落ちなくてさあ」。
「・・・ゲーム感覚でやってっからじゃねえの」。
すっかりすべてのクッキーを腹に収めたオージがきりりと言い放つ。
三船の目が丸くなった。
「いま、落ちる、つっただろ。人の気持ちをさ、落ちる落ちないとか、クレーンゲームじゃないんだけど」。
「・・・お、おれべつにそんなつもりじゃ」。
「つもりじゃなくても、そういうことなんだよ。言葉にするってことは。ま、べつにいいけど。ゲームでも。けど、もしそうなら、落とすつもりがあんなら、本気で落としに行け」。
ストローも使わず、ぐびっとアイスコーヒーを煽ったオージは残りを一気に飲み干した。
三船が拍手する。
「オージ、おれ、がんばるっ」。
「うん。おれも、がんばる。かもしれない」。
「ええっ、言った本人が弱気!オージもがんばろうよっ!」。
だから声でけえよ。
オージは三船のつま先をもう一度蹴り飛ばした。
あの写真を見て思ったのは。
あの写真だけじゃない、周囲を見ていて思うのは、ただ並んでいても付き合っているように見えることがある組合せと、そうでない組合せとの差異。好きな気持ちが通じ合って、それを確かなものに感じられる、感じさせてくれるものは、自分たち自身ではなくてきっと周囲の人間たちなんだろう。
あの人達は、付き合っているらしい。
そう認識されることで再認識できる。
それを公にできない分、少しくらいは早急にならないといけないのかもしれない。
何の罪悪感もなく三船の気持ちを煽り立てたオージは、明日以降まこっちゃんがどんな目にあわされるかをまだ知らない。知る由もなかった、もちろん。