あれだけ注意を促したというのにシングルベッドに潜り込んできてあろことか両腕を巻き付けてきた同居人の体温の心地良さに思わず擦り寄ってしまった自分にひどい眩暈を覚えて二度寝が不可能となったまこっちゃんは心頭滅却のため唐突に風呂掃除を始めていた。それも徹底的にだ。
時刻は朝の五時。外はまだ薄暗い。
スウェットの袖をまくり、マスクをはめ、手にはゴム手袋、念のため眼鏡を顔にかけたまこっちゃんは風呂用洗剤を浴槽に、カビキラーを浴室の隅々に吹きかけた後、しばらく待った。数分経過すると浴室内にしゃがみこみ、スポンジで磨き始める。あまりに熱心に磨くためまこっちゃんのスウェットには洗剤の泡が飛び移ったがどうせ後で洗濯機に放り込むので構わない。とりあえずまこっちゃんは体を動かしたかったのだ。
浴槽が終わると床の掃除に移った。床のタイルを剥がす勢いでデッキブラシをごしごしと動かし始めたまこっちゃんだったが、現在が早朝であることとさほど賃料の高くないアパート暮らしであることを思い出すと近隣への迷惑に繋がることを危ぶみ、全身にこめた力を深呼吸と共に振り落した。
隅々の掃除は使わなくなった歯ブラシで行った。
それが済んでもまこっちゃんはなんだか落ち着かなかった。すっかりぴかぴかになった浴室内をぐるりと見渡した後、鏡がまだだったことを思い出し、専用のクリーナーをしゅしゅっとスプレーする。しばらく放置するため、まこっちゃんは中央に穴の開いたプラスチック製の椅子に腰を下ろした。そうして、ところどころ泡の塊をくっつけた鏡の中の自分と向き合った。
ばかばかしい。
そう呟いて視線を逸らせた。
もともとおれの部屋なんだぞ、ここは。
あいつは居候。確かに賃料は半分払ってくれているし、って、いや待て待て。「くれている」って言い方自体がおかしくなってるだろ。少なくとも敷金礼金は払っていないわけだし借主はおれだし、ゴミの分別からゴミ捨てまでおれだし料理もおれだし掃除も洗濯も一日の終わりにお風呂のお湯はってんのもおれだ。あいつがしていることと言ったら献立のリクエスト、入浴剤のチョイス、それから、ゴミを増やすこと、分別をしないこと、ベランダにくだらねえ植物を増やすことと人のベッドに潜り込んでくることと靴箱を荒らすことと歯磨きしながら水を出しっぱなしにしておれに止めさせることと脱いだ服を片付けないこととテレビのチャンネルをCM入るたびぱちぱち切り替えることと冷蔵庫をコンビニスイーツで飽和状態にすることとそのせいで奥に押しやられたベーコンの賞味期限を切らすことくらいだろそしてあのベーコンはかりかりに焼いてシーザーサラダにまぶそうと思っていつもより少し奮発して高いほうを買ってんだぞばかやろ。
「・・・くそっ」。
まこっちゃんは鏡に向けてスポンジを投げつけた。
どうも自分ばかりが損をしているような気がしてならなかった。
出て行け。出て行けよ本当にあいつ。
その台詞を頭の中で呪いのように何度も繰り返しながらついにカレンダーの日付は10月になってしまった。まったく信じがたいことであった。あってはならないことであった。同居生活を始めさせられたのが今年の夏のこと。
桐谷コウ。
顔は悪くない。まあ悪くない。世間一般、たとえば女子層から言わせればまあいい部類だろう。まあというかだいぶいい部類に入るんだろう。年上ってよりも年下にうけそうだ。入学して最初に一目ぼれする上級生。そんな感じだ。
まこっちゃんは拾い上げたスポンジをもう一度、鏡に向かって投げつけた。
ぽすっ。
「なにが、そんな感じだ、だ。認めてんじゃねえよ、くそっ」。
そしてそれは確かに事実だった。
一度、ニコがまこっちゃんのアルバイト先である塾を訪れたことがある。家の鍵を忘れたから貸せというのだ。その日、まこっちゃんはニコより後に家を出ていた。授業中だったまこっちゃんは休み時間、事務の女性から受付に呼び出された。いったい誰が訪ねてきたのやらと首をかしげながら廊下を歩くまこっちゃんの横で事務の女性がやたら微笑んでいた。薄気味悪く思ったまこっちゃんはできるだけ感情を表に出さないよう気を付けながら「どうしたんですか」と訊ねてみた。すると彼女はおそるべき言葉を口にしたのだ。
「まこっちゃん先生だしてくださーい、だって」。
割と至近距離から投げつけた家の鍵はニコの手によってなんの危なげもなく受け止められた。それはまるで非力な女性タレントが投げた始球式のボールさながらにへなちょこだった。まこっちゃんはこれまでなんらかのスポーツに打ち込んだことが無い。部活に所属したこともない。すごいなと思うことはあっても憧れたことはなかった。向き不向きくらいわきまえていたのだ。そう言ってまこっちゃんはちょっとだけ憧れていた。
だから今回、怒りを込めて投げつけたキーホールダー付の家の鍵、それも顔面を狙ってストレートで投げたはずの直球が結構ゆるやかな放物線を描いてニコの手に受け止められた時、そしてそれを後ろで見ていた事務員の女性に「くすっ」と笑われた時は顔から火が出るほど恥ずかしかったし、地団太を踏みたいくらい実に恨めしかった。
「家の鍵忘れるとか、小学生か」。
「えへへっ。口実だったりして。まこっちゃん先生に会いに来ちゃってんだったりして」。
「それよりお前、なんで出る時食器洗わなかった?こないだも注意しただろ」。
「おれが洗うよりまこっちゃんが洗ったほうが綺麗だもん。ぴかぴかだもん」。
こういうところだった。
まこっちゃんが苦手なところはこういうところだった。
ニコは確かに手がかかる。めんどうくさい。自由すぎる。同居人として最悪の条件を兼ね備えた男だ。
それなのに、褒めることばかりうまい。おだてられている。のせられている。そうは思っても、まこっちゃんは褒められることが実は嫌いではなかった。
かといって嬉しそうにするのも癪なのでかえって、むっ、と眉間に皺を寄せた。
「・・・だまされねえぞ、おれは。食器洗いくらい誰にだってできるんだからな」。
「できないよ。少なくともおれはできない。だから、そんなおれと一緒に住んでるまこっちゃんは、おれの食器も洗うべきだよね?」。
しゅっ。
まこっちゃんの繰り出したパンチをニコは笑顔のまま避けた。まったく、かすりもしなかった。
「あ、それから今日はおれが夕食つくっといてあげるね」。
思いがけぬニコからの提案にまこっちゃんははっとした。その瞬間だけはもしかすると微かに感心したような表情を浮かべてしまったかもしれない。しかしまこっちゃんは気を抜かなかった。
こいつはちょっとでも隙を見せると調子に乗るからな。
そう思いつつ、今まで一度もキッチンに立ったことのないニコが何を作ってくれるのか楽しみであった。
そもそもニコは食事を作ることを条件に同居を決意させたのだ。ようやく思い出しやがったか。
まこっちゃんはまったく愛想のない顔で「よろしく」とだけ告げた。内心、ニコが何を作ってくれるのか楽しみであった。が、しかし。
「かやく入れておいてあげるから、食べたい時にポットのお湯注いでね」。
しゅしゅっ。
まこっちゃんは無言でパンチを繰り出した。しかしニコはよそみしながらそれらすべてをかわした。
「ふーん。あ、ここって進学率結構いいんだ。意外ー」。
「職場の悪口言うなよ」。
しゅしゅしゅっ。
無駄だと分かりつつ繰り出したパンチは案の定ニコにかわされた。余裕めいてさえいない、あまりに平然としたニコの横顔に鋭い視線をぶつけながらまこっちゃんは肩で息をした。
こいつは。
まこっちゃんは下唇を噛み締めた。
腹の立つことにこいつは東高だったんだからな。
顔も頭も恵まれやがって。
くそったれが。
まこっちゃんはなんとか自分をなだめようと深呼吸をした。その時、ニコがふわっと笑った。何事かと思って後ろを振り返ったまこっちゃんはそこに、ニコを見て喜ぶ教え子たちの姿を見たのだった。彼女たちの反応には覚えがあった。たとえばそれは、ひめかわと並んで校内を歩いた時に、あるいは、校外であってもだ、どこかを連れ立って歩いたりした時に、何度も遭遇する光景だった。
「休み時間は終わりだ、帰れ」。
あと五分は余裕があったがまこっちゃんはそう言ってニコの脛に蹴りかかった。
じゃあね、と踵を返したニコには届かず、よろめいたまこっちゃんは靴箱へ寄りかかるという醜態を教え子たちの前で晒してしまうのだった。服装の乱れを直し、ごほん、と咳払いして振り返ったまこっちゃんはその後、「さっきのきらきらした人、誰ですか?」と問い詰められ、「やめとけ」と返答してブーイングを食らうことになった。その時、「うん、やめといたほうがいいですよ」と、誰かの声がした。顔を上げると、男子学生が立っていた。
「・・・三船」。
まこっちゃんは遠い異国の地で母国の人間に出会った心持ちとなった。
ぽすっ。
まこっちゃんはもう何度目か分からないスポンジ投げを終えたところで、ふと我に返った。
曇った鏡の中にスウェットの脚が見える。
おそるおそる振り返ると、寝ぼけ眼のニコが立っていた。
「おはよ。それ、楽しいの?」。
ぽすっ。
まこっちゃんが投げたスポンジをニコは片手で受け止めた。
はい、とそのまま手渡しで返されていたたまれない気持ちとなる。
「お前な、たまには家事しろよ」。
「したよ」。
いつの間にか歯ブラシを口に入れていたニコがくぐもった声で答える。
「どうせまた、枕の位置を戻しておいたとか、冷蔵庫の中を掃除しておいたとか言って要はただ食べたってだけだとか、そういうオチだろ。もう騙されねえぞ」。
ニコは眠そうな目でまこっちゃんを見下ろしたまま何も言わない。
歯ブラシが歯を磨く、しゃこしゃこ、という音が二人の間に流れた。
まこっちゃんはおもむろに立ち上がるとシャワーから水をだし、浴室内の掃除を完了させた。ゴム手袋、マスク、眼鏡の順にはずし、スウェットの袖はまくったままキッチンへ戻り、そして唖然とした。
そこには確かに、料理が並んでいた。料理番組で見るような、高級なホテルで出されるような、オーソドックスにして完璧な朝食だった。
まこっちゃんのお腹がきゅるるると鳴った。
後ろから、歯ブラシの音が近づいてきた。
まこっちゃんは意地でもニコにお礼は言わないつもりだった。
横からにゅっと伸びてきた手が、片手で生卵を割って、たまごかけごはんを作ってくれた。あまりにも慣れてあまりにも器用だった。思わず「特訓したのか?」と訊いたまこっちゃんは「いまはじめてやってみたらできた」と答えるニコに絶望した。そんなニコがいる世界に。そんな彼がいる世界に同時に存在している自分自身に。
器用すぎるだろ。万能すぎるだろ。ずるすぎる。
(ずる、すぎる)。
まこっちゃんは悔しかったので立ったまま朝食を食べた。その隣でニコは歯ブラシをしゃこしゃこ動かしていた。ふいに手がのびてきてまこっちゃんのほっぺたを撫でた。びくっとしたが冷静を装った。つもりだった。もう一度、ニコの指先がまこっちゃんの頬を撫でた。
「泡、ついてた」。
ニコはそのままぺたぺたと洗面所へ戻って行った。
ありがとうもいただきますもおいしいもごちそうさまも、絶対に言うつもりはなかった。言ってやるつもりはなかった。そして言わずにまこっちゃんは財布をつかんでアパートを飛び出した。
「らっさっせー・・・あ、先生じゃん。って、またそのスウェットだし。無防備すぎるっすよ」。
気が付けばいつの間にかコンビニのデザートコーナーの前に立っていた。
この時間に三船がバイトしていることをまこっちゃんはすでに把握していた。
「・・・なあ、三船。おれはバカなのか?」。
「そっスねえ。俺の魅力に気づかない程度には。なーんてね、たはは」。
「・・・バカなお前に訊いたおれはやっぱりバカだってことか」。
ピンポーン、と自動ドアの開く音がして別の客がレジへ向かうのを見て、三船は駆けて行った。
一人ぽつんとデザートコーナーの前に取り残されたまこっちゃんは、三船が品出し途中だった今朝配送の新商品を手に取る。
濃厚チョコレートソースのティラミス白玉団子入り和洋折衷スペシャル・・・。
「う」、まこっちゃんは吐き気を覚えて商品を元に戻した。
ふと足元を見ると間違えてニコのスニーカーを履いてきてしまっているのだった。
まこっちゃんは急に泣きたくなった。
顔も洗っていなかったことを思い出し、スウェットの袖でごしごしやっていると、戻ってきた三船が「うわ、先生泣いてるっ」と騒ぎ出すのでますます顔を上げられなくなってしまった。
「・・・わかんねえんだよ、もう。どうしたらいいのか、わかんねえ」。
財布の口から小銭が散らばったがまこっちゃんはもうどうだってよかった。
三船が屈んで拾い集めてくれたが、受け取るために掌を差し出すこともできなかった。
情けねえ。
まこっちゃんは怒りを思い出すことで目頭を冷まそうと試みた。
誰も分かってなかった。誰も分かってくれなかった。
ひめかわも桐谷も最悪なんだよ。
あいつらはほんっとうに、さいあくなんだ。
「あ、あのっ」。
何か言いかけた三船だったが、ピンポーン、とレジに呼び出されてまた駆け出してしまう。
今だ、とまこっちゃんは顔をごしごしこすると何食わぬ表情でデザートの吟味を始めた。
「・・・せ、せんせっ」。
「ああ。三船、おはよ」。
「・・・」。
「ヨーグルトが食べたくなったから来た」。
「・・・せんせい」。
「そういえばココアヨーグルトってまだ発売されないのか?」。
「先生っ」。
店内に響き渡るような大声で呼ばれてまこっちゃんはびくっと震え上がった。
「な、なんだよ・・・でかい声出すなよ」。
「先生、最近おかしいっす」。
「はあ?」。
「夏ぐらいから、じょじょに、おかしなくってきてるっすよ」。
ビンゴ。
まこっちゃんは目の前で苦しげな表情を浮かべる教え子を見直した。
「だろ?やっぱり、そうだろ?」。
「はい。なんだか、こう、・・・すべてがうまくいかなくて、もどかしいような」。
「そうだ。あいつはとりあえず疲れる」。
「もしくは、なんていうか、こう、解けない問題に取り組まされているような」。
「ルールが嫌いとかほざくからな」。
「先生は窮屈な思いをしてるんす」。
「そう、まさにそれ」。
それだそれだ、とまこっちゃんは頷いた。
誰も分かってくれなかった。誰も分かろうともしなかった。
ひめかわも桐谷も悪党だ。とんでもない大悪党だ。あいつらは、無自覚なら何やってもいいんだと思ってる。ひとの気持ちをもてあそんで、ぼろぼろにして、おれをこんなぼろぼろにしやがってっ。あいつらなんか地獄に落ちろ。下等生物からやり直せ。ばか。
「だから、俺が、先生を支えてあげたいっす」。
「そうそうお前がおれを・・・、え?え、何て?」。
まこっちゃんは上腕部を強く掴まれた感触で完全に目を覚ました。眠気も、苛立ちも、ふっとんでしまった。
コンビニには他に、雑誌を立ち読みしている客が一人いたが、こちらを向いてはいなかった。
防犯カメラがすべてを撮影していたが、その事実は、高校二年生の三船翔太が彼自身の衝動を実行に移すことを阻止できなかった。
「・・・は?・・・え?なに?え、なに?」。
ひめかわに似た三船の顔が離れてからも、まこっちゃんはまだ何が起こったのか理解できなかった。
掴まれた場所がじんじん熱くて、三船の唇を見つめ続けた。
「え、お前、なんなの?何したんだ?」。
混乱を極めると問いかけることしかできないまこっちゃんを三船はぎゅうっと抱きしめた後、
「心配しないでください、おれが守りますっ」。
力強く決意を述べて、三船はレジへたたたっと走って行った。
週刊誌を買った客に礼を述べて、再度戻ってくる。
何されたんだろう、と首をかしげているまこっちゃんの前に立つと、満面の笑みを浮かべた。
「先生。日曜日、俺とデートしましょ」。
まこっちゃんには流れが理解できなかった。
三船翔太は曇りも濁りも何ひとつ無い目でまこっちゃんを見下ろしていた。
まこっちゃんはそういった目に弱い。また、まこっちゃんは、脈絡の無いものに対してはかえって素直なのだった。流されやすいとも言う。
「・・・え?あ、うん。いいけど」。
まこっちゃんが頷いた途端、三船は、歓声を上げた。
「え?いいんだよな?」。
何が三船をそれほど喜ばせたのか分からず首をかしげたまこっちゃんは一つだけ商品を購入し、ふらふらした足取りで帰路に着いた。
「今日の休み時間に、メアド教えますからー!」。
振り返るとコンビニの入り口で三船が両手を振って見送ってくれていた。
会社に送り出される旦那みたいだな。
それからふと手に提げたビニール袋の中をのぞいたまこっちゃんは、新商品のティラミスが入っていることに愕然とした。
これをあいつに食べさせるわけには。
「・・・いかねえだろ」。
途中、公園のベンチでまこっちゃんはそれを完食した。
空になったカップを持ち帰ってニコへの報復にしてやろうかと思ったが、アパートには誰もいなかった。
もしかするとすべて夢だったんじゃないか。
ほわん、と想像したまこっちゃんは、脱ぎっぱなしのスウェットがベッドの上に投げ出されたままであるのを発見し、ビニール袋ごと空のカップをひねりつぶしたのだった。