その日、目を覚ましたまこっちゃんはついいつもの癖で隣をまさぐってしまい、もしそこに例の感触があるならば毛布ごと床に落としてやるつもりだったが、思いのほかそこには誰もいなくて拍子抜けしてしまった自分をまこっちゃんは後世まで憎むと思った。
微かな鼻歌はキッチンから聞こえてきていて、まこっちゃんは起こした体をもう一度ゆっくりと横たえる。
もともと一人暮らしのために借りた南向き1DKに死角はほとんどない。
スライスしたフランスパンの上にクリームチーズやアボガドらしき黄緑の物体をちょんちょんとのせていくニコはパティシエのようだった。ニコに出会うまでまこっちゃんはチーズに種類があることを知らなかったし自宅でアボガドを食うことになろうとは考えもしなかった。ましてコンビニのスイーツがあれほど種類豊富でありなおかつ入れ替わりが激しいものだということも知りもしなかった。
ふあ、とあくびを噛み殺したまこっちゃんは涙で滲んだ視界にニコをおさめつづけた。
桐谷コウ。
苗字と名前の間をとって、ニコ。通称、ニコ。高校の時からの知り合いだ。
クラスメイトではないし、友人というには少し語弊があるように思う。
そもそもまこっちゃんは友人という言葉が好きではなかった。誰かに誰かを紹介する時、これは俺の友人で、などと表現することが正気の沙汰とは思えなかった。友という響きが、存在が、気恥ずかしかった。
考え過ぎなんだと、思う。
まこっちゃんはコーヒーの香ばしいにおいからのがれるように毛布を頭までかぶった。
それはちょうど振り返ったニコがまこっちゃんに気づく一瞬前の事だった。
(俺は何か重要なことを忘れている気がする)。
結局ニコにみつけられたまこっちゃんは寝癖のついた頭で考えた。
しかし今はまだ思い出せなかった。
コーヒーに牛乳を足してつくられたカフェオレは不思議なほどいいにおいがした。
一口含むたびに怪訝そうな顔を上げるまこっちゃんの様子に気づいたニコは「フレーバーシロップ」と教えた。
「フレーバーシロップ?」。
「そう。バニラとアーモンドとヘーゼルナッツがあんの」。
「・・・どこに」。
「流しの下」。
「・・・いつ買った」。
「前からあったよ」。
「・・・いつ買ったかと訊いてるんだ」。
まこっちゃんの静かな怒りに気づいているのかいないのか、ニコはあっけらかんと「忘れちゃった」と舌を出した。
完全におちょくられていることに気づいたまこっちゃんだったが、そもそもこの同居生活自体が冗談のようなものじゃないかと思い、声を荒げることをしなかった。そういうところがまこっちゃんは人より少しマイペースだった。そしてニコはまこっちゃんのそういうところがおもしろいと思っていたが口にはしなかった。まこっちゃんは自分について説明されることを嫌う。ニコはそれをよく分かっていた。まだ追い出されたくは無かった。ニコには使命があった。まこっちゃんについての。まこっちゃんに関する。
使命が。
「自腹だもん」。
「だもん、とか言うな。かわいくねえよ」。
「えー、まこっちゃんよりはかわいいと思ってる」。
おめでとう、と呟いてまこっちゃんはサラダにドレッシングをふりかけた。それもまたニコの手作りだった。
ここ数日ニコは手料理をふるまうようになった。といっても気まぐれなので無いときは無いのだが、まこっちゃんは内心楽しみで仕方が無い。
味覚は人格だと思うのだ。
当人にとっては食べ慣れた、なんてことない日常の、特筆に値しない惣菜や日々のおかずに過ぎないのだとしても、初めて食べる者にとっては特別な、異文化との出会いとなる。
まこっちゃんはココアが大好きだった。とりわけホットココアがおいしいと思っている。物心ついたころから、これからはホットココアの時代だと思ってきた。そしてまこっちゃんは内心ひそかに自分のつくるココアは誰よりもおいしいと思っている。
がしかし、ニコが何か飲み物を提供してくれた時、もしや、との思いがよぎるのだ。
(もしやそれはおれの思い過ごしなのでは?)。
テレビもつけず電気もつけず、ベランダからさしこむ朝陽だけで食事をしていると、たがいの存在は最初嫌というほど認識されるが、そのうち光に溶けていくようだった。
まこっちゃんは口だけをもごもご動かしながら、すごい、と思っていた。
確かに潜り込んでいる。なんだかんだあっても確かに桐谷コウはおれの領域を侵犯している。
なんという凄腕のスパイだ。
まこっちゃんの頭はまだぼんやりとしていた。
まこっちゃんが口を動かしたり、カフェオレに牛乳を継ぎ足すため腕を伸ばした時に、右側頭部のハネがゆらゆら動くのを、猫が猫じゃらしに狙いを定めるような目つきでニコが見ていた。
「まこっちゃん、癖っ毛だよね」。
そう言ってニコは何気なくまこっちゃんの頭に触れた。その時ついでに左指のジャムをぬりつけておいた。
「あ?」。
ぼんやりと顔を上げたまこっちゃんはニコの肩越しにカレンダーを見た。
なんとなく。本当に、なんとなく。
それからゆっくりと時計を見た。
再度、カレンダーの日付とそこに書きこまれた予定を確かめ、最後にニコの顔をきっと睨みつける。
「おいしいでしょ?」。
ここで怒っては八つ当たりになる上、時間の無駄だと思い直した。
まこっちゃんは食べかけのフランスパン、飲みかけのカフェオレをテーブルに残したまま、勢いよく立ち上がった。洗面所へ駆けこむと顔を洗い歯磨きをちゃっちゃと済ませ、鏡を確認することもなく戻ってくるとスウェットを脱ぎ捨てた。わお、と驚くニコを後目にクローゼットから適当な上下を引っ張り出し、手を通し脚を通す。そこではたと思いつき、ベランダに出た。今日の気温を体感し、羽織って行く上着を決定する。
「遅刻?」。
「かもな」。
「どこ?」。
「知るか」。
「誰?」。
「誰?」。
「そ。相手いるんでしょ」。
「誰って・・・ええと、あいつは」。
「あいつは?」。
「・・・教え、子?」。
だよな、と自分で答えながら自分で首を傾げ、まこっちゃんは玄関を飛び出した。
「週末に教え子とデートとか。やっらしいの」。
留守番を仰せつかったニコはくすくす笑いながらまこっちゃんの食べ残しを完食した。
小学校低学年の頃、家族と来た以来だった。
週末の遊園地は賑わっていた。家族連れ、恋人同士、友人同士。
この場所にはいろいろな組み合わせがある、と思いながらまこっちゃんはひとりできょろきょろしていた。
週末に教え子とデート。
出がけにニコが笑っていた、その言葉が蘇る。
「・・・そんなんじゃねえよ」。
「何が、そんなんじゃねえよ?」。
振り返ったまこっちゃんは赤面した。
自分のひとり言が聞かれてしまったという恥ずかしさと、それから、三船の私服姿に。
「・・・あ、ああ。おはよ、三船・・・」。
待ったか、なんて、訊かずとも明確だった。なんせまこっちゃんは一時間の遅刻をかましたのだ。そもそも今朝、ニコと朝食を摂るあの瞬間まですっかり忘れていた。カレンダーに書きこんだのは自分自身で間違いないが、そのカレンダーを見ることを忘れてしまっていた。
ごめん行けなくなった。
一言、そうメールすればいい。
いつものまこっちゃんならそうした。いや、そもそも約束なんか受け付けなかったはずだ。
がしかし来てしまったのは、守ってしまったのは、考えてみればニコのせいだった。
近頃のまこっちゃんは癒しを求めていた。
あの、幼い子どものように、あるいは野生の動物のように予測のつかないニコはまこっちゃんにとってストレスとなりつつあった。がつんと一発言ってやれないまこっちゃんは自分に対するストレスも覚えていた。
その点、とまこっちゃんは三船を見上げた。
身長はひめかわと同じくらいだ。
笑った感じも、喋り方までもが似て見えてくるから不思議だ。
西高の制服でも無い、コンビニの制服でも無い三船はいつも以上に輝いて見えた。
(・・・ん? つまり、もともと輝いて見えていた、ってことか?)。
「悪い。おれ、遅刻した・・・すごく待った、よな?」。
自分で訊ねておきながらまたまこっちゃんは自分に対する怒りを覚えた。
おれはバカか。
ううんちっとも待ってないっすよ。
そう言わせたいんだろばかやろ。
こいつから向けられる好意を実感したいって考えてんだろ畜生。
なに言わせようとしてんだ、くそ。
「うん、すっげえ待った!」。
くらっ。
いい意味で期待を裏切られたまこっちゃんは眩暈がした。
これが年下。
これが真実。
いいですか、とまこっちゃんは頭の中に思い浮かべた黒板の前にチョークを握って立った。
いいですか、永崎真くん。謙遜のソンは損のソンなんですよ。わかりますか。きこえていますか。自信のある人間は損する必要なんか無いんですよ。ってことは謙遜しないってことです。どうですか、簡単でしょう?
(・・・かん、たん、です!)。
くらくらよろめいたまこっちゃんの背中を三船はさりげなく支えた。
「先生、もしかして寝不足?せっかくの週末なのにおれ、タイミング悪い約束しちゃったかな」。
不安そうに顔色を曇らせた三船が不憫でまこっちゃんは否定してやろうと口を開きかけた。
その瞬間、三船がにかっと笑った。
「でも反省なんかしないっすけどっ」。
(セルフフォロー入った・・・っ!)。
くそうおれの入る余地もねえ。
まこっちゃんは年上ぶったり余裕ぶったりするのはもうやめた。
「うん。正直ちょっと頭痛い」。
心配してくれるだろうかと思ったまこっちゃんだったが三船はまたもその期待を裏切るのだった。
たくさん遊べば元気になるっすよ!
大人二枚。
チケット売り場で三船は自分の財布からお金を出した。
当然自分の分は自分で買う予定だったまこっちゃんは、準備していた紙幣を持った手を彷徨わせた。
「いいっすよ。あとでお昼おごってもらうんで」。
こいつ。
完璧。
その二文字がまこっちゃんの脳内をジェットコースースターのようにかけめぐった。
それからというものまこっちゃんは小学生を連れ歩く親の気分でジェットコースター、コーヒーカップ、バイキングなど次々とやけくそのように制覇していった。
フリーパス買ったのは正解でしたね、と笑う三船を見ていると思わずつられて笑ってしまいそうになる。
きききっ。
まこっちゃんは自らにブレーキをかけた。
次どれ乗ろっかなあ、と目を輝かせて園内マップをがさがさ広げている三船を見ているとまこっちゃんは幽体離脱しそうだった。
小学生以来だ。遊園地なんて。
誰かとデートなんかしたことないし。
好きな人はすでに誰かを好きな人だったし。
まあ、仮に行ったとしても廃墟くらいだ。
中学の終わりから高校にかけてまこっちゃんは廃墟に魅せられていた。今でも素敵な窓の割れ方を見るとちょっぴりときめく。
だがしかしまこっちゃんは気づいてしまった。
廃墟が好きなんじゃない。
人に必要とされていないものを見て慰められたかったんだ。そしてそんなものでも求めている自分を実感したかったんだ。
そんな深く考えることないよー。
とか、まこっちゃんに廃墟の魅力を熱く語ってくれたあの先輩なら言うだろう。
だがまこっちゃんは一度考え始めたらきりがないのだった。
まこっちゃんは何でも、どこまでも考えてしまうのだった。
入ってはいけない森。
潜ってはいけない海。
どこまでも、どこまでも、分け入って、踏み込んで、そして最後はどうしようもない自分に気づいて途方にくれているのだった。
だが今日のまこっちゃんは少し違っていた。
生きている遊園地もいいなと思ってしまったのだ。
思わされてしまったのだ。
こいつに。
「ちょ・・・先生、なに泣いてんですか」。
え、と顔を上げたまこっちゃんはその瞬間、自分の頬っぺたを何かが転がっていくのを感じた。
確かめようとして俯いたまこっちゃんの手を、三船がぎゅっと握った。
「おい、痛い」。
園内マップをぐしゃぐしゃに握り締めた三船はまこっちゃんの手首を握ったままずんずんと歩いて行く。何を話しかけても聞いてもらえず、諦めたまこっちゃんは、どこへでもおまえの行きたいところへ行けばいいさ三船よ、とその身を委ねた。
気づけばゴンドラの中にいた。
まこっちゃんはほっと一息ついた。
スリルやスピードを追求するアトラクションばかりで、少々疲れかけていたのは事実だ。
ゆっくり上昇していくゴンドラの中でまこっちゃんはうとうとし始めた。
素晴らしい秋晴れだった。
空には雲ひとつない。
眼下には街が広がっていたが、見上げればもう青空だけだった。
「先生」。
そういえば三船がいるんだった。
はっとしたまこっちゃんはできるだけ平常を装って返事した。
「んー?」。
「もし先生に好きなひとがいたとしても」。
「んー?」。
「かないませんよ、それ」。
「・・・知ってる」。
窓に体を傾けてまこっちゃんは街を見下ろした。
ミニチュア模型のような、この星の住処を。
こんな場所だったんだ。
まこっちゃんは、ふーん、と思った。
泣いても笑っても、こんな場所にいたんだ。
「・・・知ってるし、分かってるよ。ずっと前から、そんなこと」。
ゴンドラは頂上にさしかかっていた。
前後のゴンドラの影が、少しずつ、視界から消えていく。
このまま本当に空に落ちていっちゃいそうだ。
が、まこっちゃんはまたも雲に覆われた。
はっと目を開けると、三船がすぐ間近に迫っている。
ゴンドラが頼りなく揺れて、まこっちゃんは思わずその腕を掴んだ。
「・・・え?え、なに?・・・なに?」。
揺らすんじゃねえよ実は高所苦手だったりする。
まこっちゃんはこれまで考えまい考えまいとしていたことをついに実感してしまった。
ここは、高い。
落ちたら、間違いなく、大けが。
もしくは、死ぬ。
「どうしてかって、訊かないんですか?」。
仕方のないことだとも言えた。
まこっちゃんの父親は小さい頃、高い高いをしている途中でぎっくり腰になってしまったのだ。床に落とされたまこっちゃんは、それはもう、この世の終わりのような泣き声をあげたという。
後日母親に聞かされた話だったが、おそらく自分の高所苦手意識はそこに端を成すのだろうと確信してやまないまこっちゃんだった。
そんなまこっちゃんの幼少期の出来事など知る由もない三船はぐいぐい迫ると挙句の果てにまこっちゃんの膝の上に座り込んでしまうのだった。
たぶんまたこいつ、やらかすな。
まこっちゃんの読みは外れなかった。あの日の朝、コンビニの、デザートコーナーの前で初めてされた時よりも深く、まこっちゃんの口に三船の舌が入ってきた。
(吊り橋、いや、ゴンドラ効果ってやつ?)。
自分にそう言い聞かせながらまこっちゃんは身動きができない。
三船を跳ね除けなかったのは自分の欲求かそれとも単にこれ以上ゴンドラを揺らすことができない臆病さからなのか不明だった。
「訊いてよ」。
「じゃあ、訊いてやるけど。・・・なんで?」。
「はい。それは、おれが、おれのものにするからですよ、あなたを、せんせい」。
だからあなたの願いは、かなわないんです。
「・・・そうなの?」。
「そうなんです」。
「・・・まじで?」。
「まじっす」。
「・・・ちょっと、地上で考えていいかな?」。
「はい」。
夢見ていた。
夢にまで見ていた。
もしも、現実になったら、どんなにかいいだろう、って。
どんなにかしあわせで、救われた心地がすることだろう、って。
「はい、ソフトクリーム」。
王道を許される男。
そんなものが確かに存在するんだな。
まこっちゃんはしみじみ実感しながら先っぽを舐めた。
「いつから?」。
「今年の夏くらいです」。
「ふうん」。
「たとえば今先生が舐めてんの記憶して、今日のおかずにできます」。
「ねえ。そんな質問してないんだけど」。
「だって、先生、どうかわそうかな、って顔してんだもん」。
三船の言葉にまこっちゃんはきょとんとした。
何を、言っているんだ、こいつ?
広場に面したベンチで並んで腰掛けて、男二人でソフトクリームを手にして、する話だろうか。これは。
二人の前を家族連れが横切った。
誰かが手離してしまった風船が、空高く昇って行った。
「やっぱ、あの人ですか」。
「え、何。話が見えない」。
「桐谷さんのことっすよ」。
まこっちゃんはソフトクリームをもう一口舐めた。
それから考えることにした。
頭を使うためには糖分が必要だ。だからソフトクリームをもう一口舐めた。
接点あったっけ。こいつら接点あったっけ。確かに一度、塾で顔を合わせていたとは思う。
だけど、それ以降、三船と桐谷になんか接点なんかあったっけ。
「・・・ごめん、三船。おれ、状況が分からない」。
「こないだうちのコンビニに来ましたよ」。
「ああ、桐谷?」。
「はい。そんで、先生と同じスウェット着てました」。
「うん」。
「同じ、スウェット、着てまし、たっ!」。
三船が突然大声を出したのでまこっちゃんはソフトクリームを膝の上に落としてしまった。あわわ、と思いつつ対処が分からずにいると三船がささっとティッシュを取り出してふき取ってくれる。
まこっちゃんはされるがままだった。
「それに、先生、髪にジャム付いてるし」。
「え?」。
そういえば今朝は慌てて飛び出してきたからな、と今更身だしなみが気になるまこっちゃんだった。
気負いの感じられない、けれども状況や気候などに合わせて決定されているのであろうコーディネートはまこっちゃんには真似できないことだったし、相手が自分ごときだとしてもそのような気遣いをしてくれる三船についてまこっちゃんは感心していたのだ。
だから、まさか自分の髪にジャムが付いていることなんて考えもしなかったのだ。
「どうせ桐谷さんと先生できゃっきゃうふふのジャムプレイしてたんっすよ!」。
「はあっ?」。
「先生、俺が朝から元気ないの分かってる?」。
「ええっ?超元気だったろ、お前!」。
「いいえ。半分です。もし俺が絶好調だったら今ごろ、先生、足腰やられてますからね」。
「・・・テンション高そうだもんな、お前」。
「先生だからですよ。まだ分かんないんですか?それともバカのふりですか?」。
「・・・いや、悪いけど、素」。
三船の喉が、ぐうっと鳴った。
「おれ、結構、周り見えてないとこあるから」。
「知ってます。付け入る気まんまんでした」。
「・・・お前も意外とあざといなあ。見かけに似合わず」。
「純粋の範囲です」。
「自分で純粋って言うな。余計あざといわ」。
「健全なつもりです」。
「・・・まあ、そうかもな。おれよりは、そうかもな」。
ソフトクリームの染みは帰るまでに乾きそうになかった。
この分だと膝がしらまで甘いにおいしてるだろうな、と思いつつまこっちゃんは、そういえばあいつ洗濯物干したかな、と思いをはせた。
「諦めませんよ」。
三船の決心はまこっちゃんの心を揺るがそうとした。
耳をふさぎたくなった。
休日の遊園地。
幸せしか存在を許されないような夢の場所で。
まこっちゃんはその言葉から逃げ出したくなった。
自分を偽らない者の台詞は、偽り続けてきたまこっちゃんの胸をいつも抉った。
いつも。
ニコの存在も同じことだった。
自分にできないことをしてみせる。それを見た自分が、自分をもっとダメにする。だから、あんなに腹が立つんだ。
(八つ当たりしてたのは、おれのほうか)。
だがしかしまだ素直になる準備はできていないまこっちゃんだった。
それは三船に対してもだったし、ニコに対してもだ。
「諦めさせらんねえよ。そんな、もう、手の付けられない顔してるやつのこと」。
立ち上がったまこっちゃんはトイレを探して歩き出した。
待ってろ、と命令しても三船は後を付いてきて、しまいにはスキップまで始めた。
一方その頃ニコは姫川家の庭に自分専用のちいさな農園を作らせてもらっていた。
オージと一緒に立札を作成し、ひめかわに教えられて野菜の苗を植えた。
夕暮れが近づくと縁側に三人並んでお茶を啜った。
「おれ、こんな老後がいい」。
「あ、おれもおれもっ。おじいちゃんになってもオージと一緒がいいなっ」。
「・・・その人生、うぜえ」。
にゃー、と猫が鳴いた。
「あ、オージは同意らしいよ」。
「え?反対だったじゃん」。
「ううん、この猫、オージって名前なの」。
「ふははっ、ひめ、病気だ病気」。
「・・・その病気、うぜえ」。
とてつもなく平和だった。
その日、三船のテンションにつられてふわふわした足取りで帰宅したまこっちゃんを待っていたものは、洗濯機の中に残されたままの衣類と、脱ぎ捨てられたスウェットだった。
ほんとに三船と入れ替えてやりたい。
皺だらけの衣類をやけくそのようにぱんぱん叩きながら、まこっちゃんの心はどす黒く曇っていった。
一番星はまだまだ出てきそうになかった。