扉を開けたオージはいつもと違う鈴の音に気づいて顔を上げた。頭上で猫型のモビールが鈴と一緒に揺れている。
それから店内をざっと見回したオージは三船の姿が見えないことを確認して、溜め息をひとつついた。
カウンタに店主の姿が見えた。
会うのはおよそ一年ぶりのことだった。
オージは背筋をぴんと伸ばした後、ぺこりと会釈する。
「おかえり、オージくん」。
「カプチーノ・・・」。
オージの言葉に店主は頷く。それっきり会話を交わすこともなかった。しかしオージは彼が、ひめかわの叔父にあたる喫茶店主が自分を歓迎してくれていることを感じ取った。
「あっ、オージだあっ」。
ほわん、と蕩けていたオージの後ろから元気な声がする。
ひめかわ。
思わず身構えたオージは振り返って杞憂と気づく。
窓際の席に座っていたのは三船翔太だった。入り口からはちょうど死角になって気づかなかったのだ。
じり、と後ずさったオージはしかし彼の手元に吸い寄せられた。
「・・・なに読んでるんだ」。
「夏目漱石」。
オージは、言葉の真偽を確かめるため、じり、と今度は傍寄って行った。
「あはは。おいでよ」。
「お前、文字読めるのか」。
うっわひっどーい、と三船は抗議するがオージはあくまで真剣だった。だからつられて笑ったりなどせずにいると、三船もふっと真顔になる。その顔にオージは驚いた。
やっぱこいつ、ひめかわに似てる。
なんでだろ。
「なーに、おれの顔そんなにかっこいーい?」。
そのうえ言うことまでなんだか似ている。
オージは眉間の皺を深めて無言を貫いた。
そうしていると文庫本をテーブルに伏せた三船が身を乗り出してくる。そういえばいつのまにか席に着いてしまっていた自分にオージは唖然とした。
自然だ。
とても自然におれはこいつに吸い寄せられて、こいつはおれを吸い寄せて、この椅子に座らせてしまった。
他の空席だって、いくつでもあるのに。
「ばかみたいな顔だなと思って」。
「あはは。オージ、かっわいい」。
「言うことまでばかみたいだ。いや、ばかだな」。
オージはきゅっと目を細めると常備品が入ったバッグを背中の後ろに隠すように置いた。
電車に乗っている時、少し気分が悪くなった。
酸素が薄くなったような錯覚に陥り、それでも、あと一駅だと言い聞かせた。いったい何の修行をしているのかオージ自身分からなくなりかけていた。いつでも取り出せるようにとショルダーバッグを選んだ。こういうのが欲しい、といえば兄の信哉が買ってくれた。
信哉は、弟に甘い。
そしてオージは滅多に物をねだらない。
だからオージが一言でも電話口で「こういうのがあれば」などと漏らそうものなら数日後にはもう、黒猫男子が宅急便をお届けにあがるのだ。場合によっては本人が現れることもある。
信哉の溺愛は今に始まったものではない。中学時代、オージにとってもその周辺の人間にとっても大きな転換があった時期、そのちょっと後からだ。
おれを支えることが支えになっていたんだろう。
今ならオージは少し冷静になって分析することができる。そんな分析になど何の意味も無いと分かってはいても。
いくら分析しても、組み立てては壊して、やり直してみても、同じ答えなんて出てこないだろうし正解なんて分からないままだろう。その時々で「きっとそうだ」と自分を落ち着け、また息を吸って吐くしかないのだ。どんな理不尽も唯一の正解なんて持ってはいないし、それにいつまでもとらわれないでいることがしいていうならばもっとも妥当な策だといえた。担当医の伊勢谷は今でもオージに電話やメールで連絡をとってくる。最初のうちは監視されているようで堪らなかったが、今では本当に他愛のない繋がりだと感じられるから不思議だ。
おれも少しは成長できたのかもしれない。
オージは背中に回した手で天然水の詰まったペットボトルの形と、ピルケースがわりのヘアワックス缶を撫でた。
「オージ、また、おれの初めて記念になっちゃったね」。
「あ?」。
首をかしげるオージに三船は満面の笑みを向けた。
「あれ。おれが作ったの」。
あれ、と言われて振り返ったオージは思わず「そうなのか」と訊ね返してしまった。
それは扉上部にひっかけられた猫のモビールだった。
「器用なのか」。
「恋愛以外では」。
これは聞かされる、と感じ取ったオージは一刻も早く席移動をしようと立ち上がるが、カプチーノを運んできた店主の姿を見るとおとなしく座り直した。
「知り合いだったんだね」。
カップを載せたソーサーをほとんど音を立てずにテーブルに置くことのできる店主の、所作をオージはどきどきしながら見守っていた。
「いや、あの、おれは」。
「うん。こないだ友達になった。オージっていうの。ちょうかわいい。あっ、かわいいって言っちゃいけないのかな。ううん、いいよねだって本当のことだもん」。
オージの否定を遮るように三船が紹介する。途中からオージは否定を諦めた。
「翔太もか」、店主が思わず笑ったのをオージは見逃した。物腰穏やかな大人の男が笑うところをオージは見てみたかった。自分のまわりにはどうも、血の気の多い年上が多かった。一見冷静に見えても日に三度は我を失っているようなタイプばかりだ。オージは安定に触れたかった。そして、それから、その不安定にも。
「姫川の血は、オージくんに惹かれるようになっているのかな」。
言葉の意味が一瞬分からず、オージは店主と三船の顔を交互に見た。
「・・・え?」。
「あ、オージには言ってなかったっけ? おれ、おっちゃんの甥」。
「一馬とは従兄弟同士だよ」。
どうりで!
オージはようやく合点がいった。
「なんだ。ひめかわのこと知ってんのかよ」。
店主の姿がカウンタの奥に消えた頃、オージは三船に詰め寄った。
「あー、かずにいちゃん? うん、知ってるっつうか従兄弟だし」。
聞き慣れない呼称にオージはびくっと肩を震わせた。
おれの知らない世界。おれの知らない人間関係。ひめかわという核につながる未知の網目のある一点。
「・・・かず、にいちゃん」。
「あれ? オージも知ってんの?」。
「・・・知ってるっつうか・・・、いや、あの」。
「え、なんで言い淀んでんの? あっ、分かった。もしかしてもしかしてオージ、かずにいちゃんの恋人だ?」。
なんとかその場を凌ごうとカップに口を付けていたオージは思わず吹き出すところだった。ソーサーの上にカップを戻した後、射るつもりの視線を三船の顔に向ける。しかしなんら手ごたえはなかった。
「ええっ。図星!」。
何故だかオージは目頭がじわっと熱くなるのを感じた。
笑われてもいいと思った。
気持ち悪がられてもいいと思った。
何故だか急に泣いてしまいたい気持ちだったのだ。
「へえ。そんなに好きなんだ」。
分かる、と同意されてオージは潤んだ目を上げた。
「お前に何が分かんだよ」。
「オージ。おれ、ふられちゃったよ」。
「・・・そうなのか?」。
そこでオージは三船から、先日彼の片思いの相手と遊園地に出かけた時の話を聞かされた。
「・・・キスできてんじゃん」。
結局のろけかようぜえ、と思ったオージはまだ、気持ちが落ち着かなかった。
「キスなんて誰とでもできるよー」。
「なに言ってんだ」。
「事故みたいなもんだもん。ほら、やろうと思えばいつだってできんじゃん? だから、余計、そんなもの何の証明にもなんないんだって。いや、でもおれ分かっちゃったよ。あの人、本心じゃおれのこと何とも思ってないや」。
「・・・何の話をされているのかよく分かんね」。
「漬け込もうとしたおれも悪かったとは思うけどさあ、それで勝手に把握しちゃってんだから世話ねえよって話なんだよ。まあ、あきらめないけど。うん、あきらめたりしませんっ。運命なんかおれが変えたげるんだもん。とーぜんっ」。
「・・・さっきから本当にお前は何をしゃべっているんだ?」。
「オージはかずにいちゃんとキスすんの?」。
今度こそオージは吹き出した。
不意打ちだったためその被害は三船の伏せた文庫本カバーにまで及んだが本人はさほど気にしないようだった。そもそも本当に夏目漱石かどうかも怪しい。オージは今にもカバーを剥いで確認してやりたい気持ちだったがそんな行動をとった自分をいずれ後悔することになるだろうと思いとどまった。だいたいそれほど興味のある相手ではない。はずだ。
「ふうん。したんだ」。
「な、何も言ってねえだろっ!」。
「言うつもりもないくせに。反応で分かるからいいんだもん。オージって仏頂面のわりに分かりやすーい。かーわいいの」。
完全に年下にペースを握られている。
そのことがオージにとっては新鮮でもあったし癪でもあったしだけどやっぱり新鮮であった。年上から構われることばかりだった。
「だけどさ、かずにいちゃんモテるだろ。高校の時とかすごかったんだから」。
「・・・知ってる」。
「中学の時からだけど。いや、小学校、うーん、ずっと前からだな」。
知らない。
自分は高校生のひめかわからしか知らない。
オージは目の前の若造に一気に後れを取った心持がした。
「だからさ、分かってると思うよ」。
「何をだ。さっきからお前の話は滅裂で分かりづらいんだよ」。
「名前が出るたけで泣きそうな顔するくらいオージが自分を愛してくれてるってことくらい」。
ぼん、と音がするくらいオージの顔は熱くなった。
これだから姫川の血はきらいだった。
苦手だった。
次にどんな話題で目を見ればいいのかオージにはまだ思いつけなかった。
カプチーノは、美味しい。