ほくほくに茹で上がったじゃがいもにマヨネーズをかけて食べたくなったまこっちゃんはまだ夜も明けきらないうちから外に出た。
 街路はいまだ仄暗い。その暗さの中をぽてぽてと歩くまこっちゃんは、美しい言葉で夜明けの世界を表現したりなんかしない。
(なんつうか、まあ、下水の底みてえ)。
 ニコはまだ寝ていた。シングルベッドだっつうに。まこっちゃんは思い出して何度も地団太踏みたくなるのだがとりあえず一刻も早く、ほくほくに茹で上がったじゃがいもに親の仇の様にマヨネーズをかけて食したかったので先を急ぐことにした。地団太は脳内だけで踏んでおいた。
 ニコとは、と頭の中で独白を進めようとしてまこっちゃんは自分自身に腹を立てた。最近の話題はそればかりじゃないか。まあ、話題といっても誰に話せるわけでもないんだけど。
 町内自慢の銀杏の大樹はすっかり黄色く色づき、その落葉をまこっちゃんは蹴散らしながら歩いた。思い立ってすぐ行動に出てしまったため相変わらずスウェットだった。ただし寒さ対策としてカーキのダウンジャケットに白いもこもこのマフラー、手袋は見当たらなかったので軍手に、足元は泥のこびり付いたゴム長靴だった。最近ニコが持ち帰ってきたもので、彼はどうやら姫川家の庭に自分専用のミニ農園を作らせてもらっているらしい。今日は苗を植えてね、だとか、今日は草むしりと水やりを、だとか、肥料がどうとか新芽がどうだとか、そのたびにまこっちゃんは食事のトレイを派手にひっくり返して叫びたくなった。
 このままでは浸食される。あの男に精神を崩壊されてしまう、おれは。
 そんな時まこっちゃんのフットワークの軽さは素晴らしい。普段はどんな素晴らしい青空の日だって薄暗い部屋の中で文庫本数冊を読むことに人生費やしてしまう十代最後の永崎真は、あの男に自分の精神が崩壊させられてしまうと感じるやいなや突如きりりとした面持ちとなり、それこそ今朝のように早朝から自宅より徒歩十五分先のコンビニエンスストアでマヨネーズ一本を買いに出かけられたりしてしまうのだ。
「いらっしゃいま、こっちゃん先生!」
 いると分かって訪れたくせにいざその笑顔で出迎えられるとたじたじとなるまこっちゃんだった。
 それでも、仄暗い下水道のような世界を、犬の散歩にもランナーにも幽霊にも出くわすことなく本物の一人で歩いていた時、まこっちゃんは、地球上に自分だけが唯一生き残ったら絶対に快適で楽しいだろうなあと思っていた中学時代の自分はもしかすると間違っていたのかもなあ、なんてふうに思い始めていたのだが、道の先にぼんやりと灯った、祭りの初めの提灯のようなその店のあかりは、まこっちゃんの中に芽生えた疑惑を確固たるものとした。
 たしかに、まちがってた。
「おはようございますっ」。
 誰に評価されるわけでもないのにここには自分しかいないのに、つまり自分に対して、この自分に対してこいつはこんな笑顔を、おれのためだけに浮かべられるというのか。
 まこっちゃんはもはや感心のまなざしでそのアルバイト、三船翔太を見上げた。
「ぶはっ。てか、なんすかその恰好」。
「・・・知らね」。
 ありえねえ、と三船は笑う。
 まこっちゃんはつられてにこり、というようなこともなく寝起きそのままの表情で三船を見上げた。視線に気づいた三船が、手にした麦茶のパックを棚に押し込みながら、ふと表情を緩める。
「・・・ほんと、ありえねえわ。先生」。
 眉間に皺を寄せたまこっちゃんは首をかしげた。三船は少し怒って見えた。
「マヨネーズを買いに来た」。
 弁解のようにまこっちゃんは言った。
 三船は、ん、と無言で指だけ後方の棚をさす。
 ドラッグストアより五十円高い、と感じつつまこっちゃんはそれを握り締めると三船のもとに戻った。
「なんで怒ってんだ」。
「怒ってんじゃないですよ。我慢してんです」。
「何を」。
「嬉しいことを、悟られるのを」。
「何で」。
「だって、迷惑でしょ」。
「・・・ふーん。そうなんだ」。
「そうなんです」。
「ばかみてえ」。
「ばかですから」。
「・・・似合わねえの」。
 手から滑り落ちたマヨネーズが床に落ちた。
 突然の抱擁に背中を撓らせながらもちこたえていたまこっちゃんだったが基本的に体力が無い。と、と、と、と後ろへ三歩ほどよろめき、商品のふりかけが棚から落下して床に落ちた。
 こらこら、と引き剥がす手にもほとんど力がこもらずに背中をぽんぽん叩いてやって撫でてやってさすってやっていると、そのうちに落ち着いたのか三船は名残惜しそうに体を離していった。
「とか言って、似合うようなことしたら、逃げるくせに」。
「逃げなかったじゃん。今」。
 まこっちゃんはまた首をかしげた。ジェスチャーでする会話は意外と楽でいいな、口動かさなくていいし。と無精モード全開思考のまこっちゃんはその仕草がさっきから三船の若い体に与え続けるダメージを正確に考慮しきれていない。ぽっと頬を熱くした三船のことを、風邪っぽいのかなあ、などと平気で誤解かましながら見下ろすまこっちゃんだった。
「つーか、ゴム長靴って。しかもなんか泥ついてるし。だっせえ恰好」。
「生意気言うな。おれより三年遅れて生まれてきたくせに」。
「たった三年」。
「その差はでかいぞ。中高一緒じゃないんだから」。
「留年すればよかったのに」。
「他人事だと思って」。
「そしたら俺と先生、同じ高校に通えたんだねっ」。
 ひめかわとこいつが同じ高校に。
 この顔で、あの制服で、似たようなテンションで。
 想像しただけでまこっちゃんは戦慄した。確実に精神が崩壊する。
「はい、マヨネーズ」。
 勝手に想像して勝手に頭がくらくらしているまこっちゃんの手に、棚からべつのマヨネーズを取って渡して、三船はレジへ誘導した。
「よっぽど何か食べたいものでもあるんでしょ」。
 ぴっ、と音がして金額が表示される。そういえば財布忘れた、と気づいたまこっちゃんはポケットに手を突っ込んでみた。奇跡的に小銭が入っていて、かろうじて金額に足りた。そうでもなければ三船に会いに来ただけということになってしまう。まこっちゃんはほっと一息つきながら、でも同じことかもな、などと思い始めていた。
 じゃがいもならば台所の野菜かごに常備されていた。すぐにでもゆでるなり焼くなり調理すればいいのだ。だがふと、それでは物足りない、と思ったのだ。じゃがいもだけではきっと満足できない。何を足そう。何を足せばいい。そうだ、マヨネーズだ。それも、使いかけじゃなく、開封したてのマヨネーズ。まだ汚れていない星型の穴から、新鮮なマヨネーズを絞り出すのだ。小学生の頃何故か必死で集めていたベルマークのついたパッケージを破って、赤い蓋を取って、中の銀紙を剥がして、もう一度赤い蓋を嵌め直して、ビニールのフォルムを掌で撫でて、赤い蓋をぱちんと開けて、星型の穴からクリームイエローを押し出し、おなじみの甘酸っぱいような香りが、じゃがいものゆげとともに鼻腔へ達するのだ。
 これだ!と思ったあの瞬間に至るまで、そのどこかで、目的は別の場所にあったんじゃないだろうか。
 たとえば、たとえば。
 仮に、万が一、とある推理に過ぎないのだとして。
(おれは、あえて、未開封のマヨネーズを選択、した?)。
 ここへ、買いに、来るために。
 もしそうだとしたらすこぶる恐ろしいことだと思った。自分でも気づかぬうちに何かが進行していると思った。いや、進行などという生易しい言葉ではない。侵攻。侵略。侵食。すなわち領域が侵されている。他の誰でもない、自分自身によって。
「もしかして、ほくほくに茹で上がったじゃがいもに、仇のようにマヨネーズをかけて食べたくなった、とかじゃないんすか?」。
 本当に何気なく、何の他意も無く言ったのだろう。
 ぎょっとした表情を浮かべたまこっちゃんを見て三船はぎょっとした。
「えっ?なに、きもちわるいんだけど」。
「・・・え?」。
 レシートは要らない、と云い残してまこっちゃんは足早に店を出た。ゴム長靴の底が床に擦れてきゅっきゅと鳴った。きもちわるいというのは自分自身に対してだったがもしかして三船は何か誤解したんじゃないか?かといってここで引き返したら正真正銘おれはまごうことなき気持ち悪い男だ。そう思ったまこっちゃんは立ち止まらず振り返らずペース緩めず店を出た。ピンポーン、と音がして自動ドアが開いてまた閉じる。
 レジが吐き出したレシートを見下ろしながら三船は首をかしげた。それから自分の両手を見下ろし、この手が、と唐突に感触を思い出して思わず顔を覆った。当然、においもぬくもりもすでに消えていたが、三船の頬はまたしても薔薇色に輝いた。早朝のコンビニで。薔薇色の頬をした男子高生。他には誰もいない。夜はどんどんあけてゆく。