CHARM


 窓の向こうの小鳥の囀りで目を覚ました。
 この部屋には時計がない。学校に行くことも、友だちと遊ぶこともないぼくには時間が必要ない。太陽が上れば朝、二番目のナースが来れば昼、ママがおやすみのキスをしたら夜。一日の終わり。そんな具合。曇りの日は朝がちょっと曖昧になるけどね。
 ふとぼくは廊下の向こうから誰かの話し声がすることに気づいた。普通の子には聞き取れないと思う。彼らは賑やかな通りや派手な喧嘩の絶えない教室、掛け声の響く中庭や斉唱する礼拝堂に慣れているから。
 声の人物がぼくの担当の先生とママだということにはすぐ気づいた。言葉の切り方やアクセント、相槌や間の取り方で分かる。近ごろはそんなことにばかり神経を使っている。
 花嫁のドレスみたいに真っ白な天井には数えるほどの染みもないし、気を紛らす玩具や秘密を持ち込んだって次の日にはもう片付けられてしまっている。ぼくは時々自分が人形であるかのような気になる。ぼくの寿命や健康はぼく以外の誰かに管理されており、自分の体なのにいじることが赦されない。それだったら、ぼくがここに寝ている理由とは何だろう。ぼくの体が、じゃなく、この意識としてのぼくが、ここにいる理由。
 囀っていた小鳥に仲間が群れて、彼らは戯れながら別の梢へ移っていく。
 せっかく暇潰しになると思ったのに。
 ここはカゴの中みたいだ。とても清潔なカゴの中。ここにいれば安全。
 だけど小鳥は時々こう思っている。

『危険でも外へ!』

 一泊だけの入院ならこれまでにも何度かあった。咳が止まらなくなって、車で運ばれて、先生に診てもらって、クスリをもらって、それで終わり。あの苦いクスリ、本当に飲む意味なんかあるんだろうか。ぼくは時々それを吐く。
 気持ちが沈んだ時は、ラインハルトを思い出す。
 ぼくの幼なじみ。産まれた病院も一緒。
 ぼくだって、小さい頃は頑丈だったんだ。たまにひどい咳が続くことがあったけど、病院へ運ばれるほどじゃなかった。
 ぼくとラインハルトは毎日のように悪戯をして遊んだ。パン屋の値段表を書き替えたり、舟が通りかかるのを見計らって橋から川面に石を投げたり、毛むくじゃらの犬をピンク色に染めたり、それを発見した瞬間の飼い主の顔を笑ったり。

 今年の春、ラインハルトが音楽宮の入学試験に合格した頃、ぼくはもうすでにこの病院に入れられていた。自分の体がそんなに危ない状態であるとは到底思えなかったけど、ママが泣きそうだったので、たぶん、危ないんだろう。

「久しぶりじゃな、ローレンツや」
 その時、窓の向こうから聞き慣れた声がした。窓枠をじっと睨むと、白い猫が顔を出す。
「何だ、もっと嬉しそうな顔をせんか。猫様が遊びに来てやったんだぞ」
 トリックは見え透いていて、ぼくは思わず吹き出してしまう。
「のう、ローレンツよ。今日は読書をしていないのだな」
「そんな気にもならないよ。ベッドって読書に向いていないことが解ったんだ」
「ほほう。だったら我輩と遊びに出ようではないか」
 猫の前肢が招く動きをする。仕掛け人の手がちらっと見えるが、指摘は先延ばしに。
「駄目だよ。寝てろって云われてるんだ」
「ばれなきゃよかろう」
「ばれるって」
「ばれないかも」
「ばれる。ばれるよ。今朝はママが来ているもん。廊下で先生とお話しているもん」
 猫の頭がぱっと引っ込んで、入れ替わりにラインハルトが姿を現した。腕に猫を抱いている。
「本気かよ。こんな天気に。もう七日もそうしてるだろ」
「そうだね。最後にラインハルトが来てくれたのが七日前だから、そういう計算になるね。ぼくはきみ以外に訪ねてくれる友だちがいないからね。みんな学校の方が楽しいんだろう」
 都合良く操られていた猫は今さら不機嫌そうにニャアと鳴いたが、それでも「自分の役目はちゃんと果たし終えましたよ」とでも云いたげに顎をそらせて窓の縁に座り込み、思い出したように毛づくろいを始めた。
「また随分と塞ぎ込んでいるな」、笑いながらラインハルトは窓枠を越え病室に入ってくる。
 その姿を見てぼくは泣きそうになった。
 七日は、長すぎる。
 外の世界からこの部屋にやって来たラインハルトの、その背中に羽が見えたって、たぶんぼくは驚かなかった。

 いつだって体中に纏ってる。今のぼくが望むまま自由に手に入れたり手放したりできない素敵なものたち。世界の臭い、色彩、空気、にぎやかさ。彼はそれらをなんてことない顔して全部持ち込んできた。だから、まぶしい。

「なあ、行こうぜ。そうだ。今日は儀式をしよう」
 その言葉を聞いた時、ぼくは、ラインハルトがまだあのくだらないおまじないを信じているのだと知った。
「嫌だ。あんなおまじない、ぼくは信じていない」
 ラインハルトが明らかにがっかりする。
 ぼくは何も悪くない、そう呟いてそっぽを向くと、ラインハルトがベッド脇まで寄って来たのが分かった。彼はバッグの中から何やら取り出すとぼくへ差し出した。
「何を云われても、嫌だからな。外へは行かない」
「ふうん。これでも?」
 ちょっと、のつもりだった。それが何かを確認したらまた向こうを向いてやる。
 だけどぼくはラインハルトの差し出している物を見ると、もう無関心のふりを続けられなかった。

 ああ、それは!
 セント・ルーズベリー音楽宮の制服!

 その制服を着て街を歩けば、誰もが彼を太陽を見るような目で見る。星を見るような目で見る。その制服を着て店に入ればみんなが羨ましそうに振り返って、運が良ければ店員がおまけだって付けてくれる。魔法の制服。夢にまで見た、ルーズベリーの青いリボン!

「向こうを向いているから、さっさと着替えろよ」
 瞬く間にぼくの心がほだされたことを的確に見抜いたラインハルトは、制服を押し付けると体を回転させた。
「う、うん」
 ママも先生もまだ話している。わけの解らないことを話している。
 ぼくはラインハルトの顔が外を見ているのを確かめて、思い切って、病院のワンピースを脱いだ。
 長引く入院生活。試験勉強もしていないぼく。ラインハルトは一足先に受験を終え、晴れてルーズベリーに入学した。本当はぼくも音楽宮を受験するはずだった。しかし受験勉強どころか初等の教育課程も単位が揃っていない。
「ぼくたちサイズはそんなに違わないから大きすぎたり小さすぎたりすることってないだろう?なあ、着た?」
「急いでいるよ。それにしても、どうして二着も持っているの」
「……入学式で買わされるんだよ」
 一瞬ラインハルトが焦ったふうに感じたのは気のせいだろうか。
「うん、入学式で買わされる。みんな二着ずつ。それよりさ、着た?振り返るよ?」
「まだだって云ってるだろ。ラインハルトはせっかちなんだよ。昔っから……もう。少しはテオを見習えったら」
 ぶつぶつ云いながらも何とか袖は通した。でも、胸元にあるリボンの結び方が分からない。簡単に結んであるように見えたんだけどな。
 ぼくが困っている理由を察したようにラインハルトが振り返る。何も云わないでも通じた。ラインハルトはぼくのタイを結びやすいよう、僅かに屈む。
「貸して」、ほとんど同じ筈の背丈が、初めてずれる。
 ぼくの知らない角度。知らない角度のラインハルト。
 ぼくは両手を横に下ろし、彼の伏せた目蓋の二重の影、睫毛の一本一本を見つめた。珊瑚色の唇を見つめた。近づいた前髪から微かに石鹸の香りがする。ゆっくりと深呼吸をする。
「これを輪にして、こっちの端を通すんだ」
 リボンをつくるラインハルトの手の甲が、途中ぼくの顎に軽く当たった。
「……あ、ごめん」
 謝るラインハルトの瞬きが一度だけ不規則に乱れた。ミントグリーンの瞳の奥が、確かに揺れた。しかしすぐに落ち着いたペースを取り戻し、ゆっくり、と、瞬きを再開する。よく保つな、と、思う。ぼくは、ぼくの心臓は、もう、こんななのに。吐いて、出したい、ほど、うるさく、喉で鳴っている、のに。
「ほら、出来た」
「ありがとう」
 ぼくから目を逸らし、何てことないよ、と片手を上げるラインハルトを見て、分かった。そうか。心の準備ができていないの、ぼくだけなんだ。ラインハルトは知っている。手術日が明日だということ。ママが喋ったんだ。ママ、わざと立ち話を長引かせている。わざと逃亡の隙を与えている。わざと、わざと、ぼくの「外へ」というわがままを叶えようとしている。
 そうか、もう、もたないんだ。
 このからだ。

 一歩外へ踏み出せば、誰もぼくがいつもは寝てばかりの病人とは思っていないようだった。小さい子は羨ましそうにぼくたちを見、大人は自分の大切な子どもを見守るような目でぼくたちを見る。この街の人々がいかにルーズベリーを、そこに通う生徒を誇りにしているかが分かる。
「最高だね、ラインハルト。きみ、いつもこんな気分で歩いてんの?」
「まあね」
 やがて街の外れまで来ると人影はほとんどなくなった。病院のある丘が遠い。ぼくたちの目の前に細い道が一本、森の方へ向かって伸びていた。その先は黒い。
 ラインハルトが声を落として云う。
「秘密だよ。ここから先はぼくたちだけの秘密の森。誰にも云ったらいけないよ」
 いつもなら、ばかばかしい、と云うところだった。だけど今日はそんな気分じゃなかった。ぼくは素直に頷いて、ラインハルトの後をついて森の中へ入って行った。陽は既に傾きかけていた。

 洞窟の中で膝を抱えているぼくたちは、あまり言葉を交わしていない。きっとお互いに色々なことを思い出している。
 陽は沈み、辺りは夜の闇に包まれて。
 ここはもともとぼくが発見した秘密の場所だった。まだラインハルトの背がぼくより少しだけ、だけども確かに低かった頃に。あの頃のラインハルトはしょっちゅう虐められて泣いていたっけ。そのたびに膝や肘を怪我して、ぼくの家までやって来たのだった。ママに怒られるから家は嫌だ、と云って。しかもラインハルトには双子の兄がいたから、余計に泣きべそをかいたままでは帰れなかったんだろう。「あの子はそんなことで泣かないわよ」。「だいたいあの子は人と喧嘩なんかしないわよ」。「どうしてあなたはあの子みたくお利口になれないの」。そんな感じで、すぐ比べられてしまう。ぼくはラインハルトの怪我の手当をしてあげた。しかしそんな日が幾日も幾日も続くので、ぼくは、ラインハルトに暗示をかけてあげよう、と決意したんだ。そうすれば、ちょっと仲間はずれにされたくらいではいちいち泣かなくなるだろう、と思った。
 あの時の暗示。でたらめで根拠のないおまじない。儀式の起源。暗い森の奥の、獣の口みたいな洞窟の中で、ぼくたちは一夜を過ごすことにした。
「怖いよ。もう帰ろうよ、ローレンツ。森には狼とかお化けが出るよ。それに、ぼくがベッドにいないの知ったらママやパパ、びっくりするよ」
 半べそをかきながら、幼いラインハルトはぼくの服の裾をぎゅうぎゅうと引っ張った。
「だいじょうぶだって。ここにはとっても強いおまじないがかけられているんだから。平気、平気。それに、ここで夜を過ごせればもう怖いものなんか何もないでしょ。それとも、ラインハルトは強くなりたくないの。ぼくはずっときみと一緒にいられるわけじゃないんだよ」
 ……今になって思えばすごい理屈だな。
 隣にいるラインハルトの横顔を盗み見る。あのおまじない、信じているんだろうか。今はもうラインハルトを虐めるやつなんかいない。ぼくの方が、置いていかれてしまった。
(ぼくはずっときみといっしょにいられるわけじゃないんだよ)。
 あの時自分の云ったせりふが、こんな形で現実のものとなるかも知れないなんて。ぼくこそ、強くならなければいけなかったのに。
 俯き気味の頬に艶のある髪が軽くかぶさって、ラインハルトは浅く眠っているようにも見える。どんな夢を見ているのだろう。
 横顔から目線を落とすと、ラインハルトの両腕が抱えている膝小僧が目に入る。そこには昔転んだ時にできた傷跡が残っているはずだったが、もう跡形もない。すっかり癒えたのだろうか。ぼくたちの年頃の皮膚は生まれ変わるのが早いから。
「それにしても、随分、早いんだ」
 薄暗い洞窟の中で、ラインハルトのふたつの膝は白骨のように発光している。人体に発光する部分なんてないのだけど、この時は、そう信じた。 ものが見えるということは、光があるということだ。反射した光でぼくたちはものを認識している。
「こんな、深い森にも、ちゃんと届くんだ。光って」
 ぼくは初めて光の存在を強く意識した。
 耳を澄ます。ここではたくさんの音がする。木の葉が擦れる音。栗鼠が枝を走り回る音。土の下を流れる水。
 遠雷。
 大きな獣の寝息のような、遠雷。
 どこかの街の、どこかの家に落ちるのかしら。
 目を閉ざすと、目蓋の裏で人が死ぬ。
 死ぬ。人は死ぬ。
 ぼくはベッドの上で、真っ白い天井と向かい合いながら、ずっと考えていた。死ぬのに産まれたのは何故なのか。何のためなのか。
「……ラインハルト」
 ずっと、考えていた。ぼくが死んだらママが泣くだろう。先生は、見慣れているから平気かも知れない。翌朝にはもうあのベッドにはぼくの知らない誰かが寝ていて、同じように白い天井を見て、同じようなことを考えるんだろうか。きっとぼくの前にあの部屋を使っていた子どもも、そうだった。小鳥の囀りにさえ目を覚まし、退屈な一日を、死について考えることに費やした。
 目蓋の裏で落雷を受けた人が死ぬ。
 ぼくははっと目を開けてラインハルトの姿を確かめた。どうもまだ浅く眠っているように見えた。あるいは、生きていないように?
「ラインハルト!起きて!」
 突然の大声に驚いたラインハルトが目を覚ます。ぼくを見つめて、何事だ、と喋る。寝起きだったせいか、いつものラインハルトらしくない言葉遣いだったが気にならなかった。
 見つめる。喋る。
 何故なら、そのどちらも、生きている人間のすることだったからだ。ぼくはラインハルトが目覚めたことに安堵した。
 ぼくがさらに顔を寄せると、ラインハルトはきつい顔をやめて、困ったように笑った後で、ママみたいにキスした。薄いのにやわらかな唇。特別な意味を期待することもない。
「ラインハルトが死んじゃったかと思ったんだ」
 最初は鼻のてっぺんに、それでもぼくが離れないので左右の頬に、その内ぼくが笑い出したので唇に。
「どうして。死なないさ。ローレンツは、そんなにぼくが好きか」
「うん」
「自分の方が大変だって時に」
「うん。でも、きみが連れ出した」
 離れる間際、その瞳のミントグリーンは確かに潤んでた。
「ぼくの責任……に、ああ、違いないな」
 ねえ、ラインハルト。
 きみはどうしてそんなに悲しい目をするの。
 ぼくたちはだいじょうぶだよ。
 温かい。
 今生きているから。
 ぼくたちは、だいじょうぶ。
 そうでしょう、ラインハルト。
「だいじょうぶだ、ローレンツ」
 と、ラインハルトは思い切ったように顔を上げて、
「心配ないさ、ローレンツ。ここには強力なおまじないがかけられているんだ。平気だ。それに、ここで夜を過ごせればもう怖いものなんか何もないだろ」
「あるよ。たくさん、あるよ」
 だけど声が笑っていた。ラインハルトを信じていたから。その顔に泣き虫ラインハルトの面影を重ねていたから。
「ローレンツ。きみは死なない」
 遠雷。おまじない。秘密の森。
 ぼくが震えているのに気づいたラインハルトが肩を抱く。
「怖いんだな?明日の手術が」
 頷いた。
 そんなの、もちろんだ。
「でもローレンツだけじゃない。ぼくもずっと怖いよ。眠りながら考えていた。きみがいなくなったらどうしよう、って。……きみまでぼくの前からいなくなってしまったら、どうやって生きていこう、って」
 怖い者同士。臆病同士。こんな所で、何を、やっているんだか。
 ぼくが笑うと、つられたラインハルトも笑った。
 ほら、やっぱり、違う。いつもと違う笑い方をする。そっくりなんだけど、どこかが、微妙に違うんだ。それは、ここが特別な場所だからかな。そう見えるのかな。
「うん、怖い。でも、ふたりだ」
 ああ、そうか、ぼく、今のために産まれたんだ。
 ぼく、今のために産まれた。
「ねえ、ラインハルト」
「うん」
「来年は、ぼくもルーズベリーに行く。自分の制服を手に入れる」
「うん、約束だ」
 不確かな約束。守られない約束。明日にはもう消えているかも知れない体を寄り添わせていると、でも、まだ、平気。ラインハルトがどんなに力を込めて抱いても、ぼくはきっと明日このからだを置き去りにしてゆく。でも今はだいじょうぶ。どんな雷もここには落ちない。だってここはおまじないの森。秘密の森。ふたりだけの。魔法がかかっているから。誰も入ることはできない。怖いものは入って来られない。嫌いなものは入って来られない。光は射し込むことができても。音は紛れ込むことができても。哀しみは駄目。さみしさは、駄目だよ。きみたちには、ぼくたちの、一度きりにして永遠の幸せな夜を、邪魔することができない。けっして。
「うん、きっとね」
 きっと、きっと、きっと、だ。
 おまじないが効いているのか、今はまだ、ぼくをこの世界に置き去りにする死に神。肌に感じているのはラインハルトの、熱を帯びてあたたかな唇。それだけ。これからも、ただ、それだけ。
 その後は、星が光る永い夜だ。

 窓の向こうの小鳥の囀りで目を覚ました。
 目蓋をおろしていても部屋の明るさが分かる。廊下の向こうから人の話し声がする。ママたち、まだ喋っているんだろうか。喋りすぎだろう、まったく。
 蜜の匂いがする。りんご。
 ゆっくり目を開けるとそこには、ラインハルト、いや、彼の双子の兄、テオ・ベッセルが座っていた。テオの瞳の色はラインハルトのとまったく同じで澄み切ったミントグリーンだ。髪もまったく同じのプラチナブロンド。(静かな夜の月光めいてとても素敵だ)。彼もまたルーズベリー生なので青いリボンの制服を着ている。ぼくは何気なく自分の胸元をまさぐった。着ているのは病院のワンピースだった。
「おはよう、ローレンツ。手術、無事に終わって良かったな」
 相変わらず、にこりともしない。
 ぼくはテオから差し出されたりんごを受け取る。その白さにふと、ラインハルトの膝小僧を思い出した。それからさりげなくテオの膝小僧に目を落とす。そこに傷跡はない。
「食べても良いの?」
「うん。きみ、三日も寝てるんだぜ。りんご、うちのママから。もうそろそろ目覚める頃だろうからお見舞いに行け、って。おれ、二日前から通っている」
 手術の前日、ぼくはラインハルトと病院を抜け出し森へ行き、暗い洞窟で夜を明かした。木の葉の間から夏の星がちらちら見えて、ふたりだけのプラネタリウムのようだった。だけど星座を結べなくて、あてっこしたんだった。星座の種類はぼくの方が知っているはずだったのに、あの日のラインハルトは物知りだった。ぼくの知らない星の話や、星の年齢の数え方まで教えてくれた。遠くでは雷が鳴っていたのに森の上には雲がなく、あるべき場所に月があった。ぼくたちはたくさんのことを話していたような気がするけど、星座に関すること以外思い出せない。何も。
 ラインハルトはぼくの体を引き寄せて、ぼくはラインハルトの膝に手をのせて、何を喋っていたのだっけ。あの日。
 穏やかでおとなびていて、別人のようだったラインハルト。
「……きみは死なない、って云ってくれた」
 テオが目を上げる。そういう仕草がラインハルトにそっくりだ。それはそうだ、兄弟なんだ。同じ日に生を受けた、しかも双子なんだ。同じ血が流れている。
「ぼく、手術の前日にラインハルトに会ったんだ」
 テオが剥いていたりんごの皮が途切れて床に落ちる。
「テオには教えたことがあったよね。ぼくたちには秘密の場所があるんだ。あの夜はずっとそこに一緒にいたんだよ」
「だけど、ローレンツ。きみも知っているように、おれの弟のラインハルトは、十日前にきみをお見舞いに行った帰り道で、角から飛び出してきた貨物車にはねられて……」
 死んでいるんだよ。
「うん。でも、本当なんだ。嘘じゃないんだ」
 知っている。分かっている。嘘を吐いているのは、ぼくじゃなく、テオ。ラインハルトの双子の兄。きみたちは顔も声も姿もそっくりで、その上どちらもルーズベリーの生徒で、ぼくの幼なじみ。
 きみたちの親よりきみたちを知っているぼくでさえしょっちゅう間違うくらいに、きみたちよく似てるんだ。
(あの日、暗い森の中で、ぼくの隣にいてくれたのは、きみだよね、テオ・ベッセル!)。
 笑い方の謎、膝小僧の謎、星座の謎、これで解けた。
 ラインハルトはあんなふうに笑わない。ラインハルトはあんなふうに物知りじゃない。それに、ラインハルトのはあんなにきれいな膝小僧じゃない。いつも悪戯ばっかの、傷だらけ。絶えない瘡蓋ばっかの、泥だらけ。
「テオは、信じてくれるでしょう?ラインハルト、会いに来てくれたんだ。いつまでも怖がりのぼくを心配して、少しだけ戻って来てくれたんだ」
 ぼくはテオの返事を待った。
 しばらく経った後、テオは小さく溜息をついた。
「ばか。夢だろ」
 相変わらずその表情は変わることがなかったけれど。けれどぼくは気づいていた。見ていた。その目の奥が穏やかに微笑んでいるのを。
「ローレンツ、それはきみの見た夢さ」
 テオの返事を聞いて、ぼくはそれ以上問い詰めない。
 秘密はそれぞれの心臓の奥深くにしみこみ、その上鍵をかけられた。
 この時のぼくはまだ知らない。秘密を内包したこの心臓がいつかこの秘密のためにどれだけ痛むことになるかを。まだ知る由もない。
 とにかく、ぼくがあの日着ていたのは、亡くなったラインハルトの制服だ。
 ぼくのことを、ぼくたちのことを、いつも見ていたテオ。弟思いのテオ。自分の気持ちよりも弟の気持ちを優先するテオ。
 やさしい、テオ。
 ぼくは、知っていたんだ。
 ラインハルトとぼくの悪戯がばれた時、一番最初に叱るのは、ママよりもテオだった。ぼくたちが一緒にいることを悪いことだと云いながら、だけど、本当は羨ましそうにしていたこと、知っていたんだ。双子ゆえに比べられて苦しかったのは、ラインハルトだけじゃない。親や先生の期待を受けていたテオだって、そうだったんだ。勉強机から窓硝子越しに、ぼくとラインハルトが囁き笑い合いながら街や森へ遊びに行くのを見ているだけだった。
 本当は、知っていたんだ。
 テオがぼくを好いていること、ラインハルトよりもずっと深く、ぼくのことを好いていることを。だけどぼくはラインハルトに惹かれた。外国の物語や難しい数式をたくさん知って覚えていられるテオより、くだらないけどスリルな悪戯を次々にひらめくラインハルトに惹かれて、テオとは会話することも減っていった。テオは誘ったって意味ないよ、って、誘いかけることもしなくなった。確かにぼくは分かってた、その時のテオのさみしい気持ちを。分かってて、分からないふりをした。気づかないふりをした。テオが優秀であればあるほど、ぼくは彼からぼく自身を欠いた。完膚無き優等生の欠点そのものとなり、気分が良かった。
 それなのに、テオは。
 あの日のぼくに「きみは死なない」と云ってくれた。
 自身としてではなく、弟として。そうすることが、ぼくに最良だと分かって。ぼくとはまったく正反対の方法で、ぼくに語りかけた。ぼくに触れてくれた。キスまでくれた。何度拒まれても、それを繰り返されても、自分では決して繰り返さなかった。ぼくにとっての最良、ただそれだけを考えて。
 優しいひとはいつもすぐ傍にいる。ぼくはそれらを酸素や光のように何気なく感じている。それどころか時々邪険に扱う。色のある蝶や、匂い立つ花々の方に気を取られて。何てことだろう。
「そうだね。夢、だったんだね」
「そうさ」、テオは静かに目を伏せるとまたりんごを剥き始めた。
 廊下の話し声がやっと止む。「ローレンツ、もう起きあがれるの?」、ママが顔を輝かせながら入ってくる。ママは何も知らない。ぼくたちの秘密を何も知らない。
「あ、お邪魔してます」
「まあ、テオ・ベッセル、いつの間に来てくれたの。ラインハルトと同じで、あなたも窓から入るのね!」
 ……ママは、本当に、何も知らない?
「ママ!ママは、ラインハルトが時々ぼくに会いに来ていることを知っていたの?窓から入っていることを知っていたの?」
 ぼくが云うとママは「あら、いけない」という顔で口元に手をあてた。
「じゃあ、ぼくが時々ママに内緒で外へ出たことも?全部知っていて、ママは、先生を足止めしてくれていたの?毎日、毎日?」
 その時ドアの向こうに先生の姿が見えたので、ぼくとママとテオは急に改まった顔つきをつくった。だけど互いの真剣な様子がおかしくて一斉に吹き出してしまった。
 梢の小鳥が驚いて飛んで行く。
 だけどもう哀しくないよ。さみしくないよ。
 ひとりじゃない。
 ぼくは一瞬たりともひとりじゃなかった。
「な、何でしょうか?」、先生は自分の身だしなみにおかしなところがあったのかと慌てて髪や襟を確認する。その様子が滑稽でぼくたちはまた一段と笑った。
 天使になったラインハルトも、ぼくたちのすぐ傍で、ほら、すぐそこで、一緒に笑っている。
 もう哀しくない。もうさみしくない。
 気づかないふりをしていても、ここは暗闇なんだと云い張っている時にさえ、ぼくはずっと、光の中にいたんだ。
 誰かがぼくを見ていた。誰かがぼくにとっての最良を考えてくれていた。ずっと、ずっと、ぼくさえ気づかないほどぼくの近くで。急かさず、強いず。ただじっと。自分の気持ちよりもはるかにぼくを優先して。暗闇の中で他人のふりをしてぼくを抱き、めいっぱいの優しいキスをして、生かした。ううん、生かした、なんてものじゃない。新しく産んでくれた。新しいぼくを。
 ありがとう。
 ママ、ぼく知ったよ。
 テオ、ねえ、もう疑わないよ。
 愛も光も尽きないって。
 尽きるわけがない。
 この先どんなことがあっても、環境がどれほど不利で嘆きたくなっても、根底でぼくは許され愛されているよ。体験は記憶となり血肉を形成するだろう。あるいは あまりに眩しくて目蓋を下ろしても、もう幸せになんてなれない、と頑なに顔をそむけても、ぼくは、絶え間なく溢れる光の洪水から、逃げることなんてできない。その明るさを知らないまま、生きては、いけない。

 おまじないの場所へ、今度はきみと行きたいよ、テオ。



wrriten by R.S