合唱練習が放課後に移ったため昼休みの中庭にはシャツ一枚でサッカーゲームに興じる生徒達の元気の良い掛声が響いている。
ぼくは煉瓦塀の端に腰を掛けゲームを見学していたけれど、休憩休憩、とアロンが抜けてきたので早速今朝のことを報告した。
「へえ、生徒会長のララ・クロウとエーベルハルト・ローゼンが朝の密会!」
アロンは顔の汗をぬぐうとシャツの袖口を肩までまくりあげる。
「密会、とは云ってないよ」
「だって密会だろうよ。早朝、人気のない図書館の廊下。南国プリンス風生徒会会長のララ・クロウとジューダス寮の姫君エーベルハルト・ローゼン。学年の壁を越えて繰り広げられる禁断の甘いロマンス……これはネタになるぜ。広報委員のガーデルにちらつかせてこようかな。あいつこないだ親に新しい万年筆買ってもらってたから。これがまたかっこいいんだよ、先端が青い硝子製でさ、しかもあいつってばさ、こないだガセネタ記事にして委員長に見放されかけてるんだよ。友として救ってやらんことにはな。まあ見返りはその万年筆で結構だ」
「アロン!」
「冗談だって、フィガロ。何をむきになってるんだ」
「甘いロマンスっていうより……なんかとっても深刻そうだったんだよ。そういう話じゃないんだよ。友人にまたガセネタ掴ませる気かい」
「また、って何だよ」
「前回のは、アロンが原因だろ」
「フィガロ、痛いとこ突いてくるなよ。……話は戻って。深刻そうだったっていうなら痴情のもつれによる別れ話か」
「だから。そういう感じじゃないんだって。なんか、心なしか、エーベルが怯えているようだった。ララ・クロウが何か頼みごとをしたんだ」
「エーベル本人に訊けば早い」
「訊いて答えてくれる内容ならわざわざこそこそ会わなくて済む話だろ」
確かにな、とアロン。
「まあ、でも。実を云うと、エーベルとララ・クロウが接触していたこと自体は不思議でない」
「どういう意味」
「親戚同士なんだよ。あの二人」
「えっ」
「さすがはフィガロ・ルーイッツだよなあ、やっぱり知らなかったのか。エーベルが王族の傍系だっていう話は知ってるよな。ララ・クロウはさらに直系に近い一族の出なんだよ」
「そうだったんだ。じゃあエーベルとララ・クロウって接点があるんだね」
「ああ。やっぱり由緒ある家柄の人間ってさ、子供同士の世界にも上下意識があるんじゃないのか。エーベルって、ララ・クロウを遠くに見つけるだけでびくびくしているからな。見ると面白いぜ。あいつが、びくびく。ははっ、愉快、愉快!」
って、アロン、やなやつになってるよ。
「まあ、怖い相手が一人くらいあって丁度良いさ」
と、ぼくの手にあったコップをひょいと取り上げたアロンは中のお茶をおいしそうに飲んだ。
「あ、あのね。アロン。そういう時は何か云うべきことあるよね」
「うん? うまい。ごちそうさま。おかわり」
「ちっがう!」
その時、サッカーボールがぼくの足元に転がってきた。向こうから誰かが手を振っている。蹴り返してやれよ、とアロンが云うがぼくは首を横に振った。
「まあ、たまには体を動かせって、な」
「あんまり莫迦にするなよ。ぼくだってボールぐらい蹴り返せるんだからな」
そう云って煉瓦塀の上から下りようとしたぼくは着地に失敗して足首をひねってしまった。
「う、痛っ」
ぼくの格好を見たアロンが腹を抱えて笑う。笑い声に振り返った生徒がまたぼくの失敗を発見して笑う。奥の木影で頬を寄せ合って一冊の本を読んでいたエーベルとクラウスも案の定この手の騒ぎには敏感でお上品にも口に手を当ててくすくす笑っている。うう。
「あははは! さすがフィガロ、蹴るまでもないか!」
「わ、笑うなあっ。アロンのばかあっ」
涙目でぼくは手元の雑草を毟り投げ付けた。
「大丈夫かい?」、その時、目の前に見慣れない靴の先があった。
顔を上げると上級生がぼくへ向かって手を差し出している。
「友人の失態を嘲笑するなんて、好ましくないな」
上級生に咎められたアロンがぴたっと大人しくなった。
まったく、そのとおり!
上級生は足元のボールを拾い上げ、連中へ投げ返してからぼくに向きなおった。
「おれはジューダス寮の第七学年、タングだ。初めまして、ではないけど、こうやって話すのは初めてだね」
斜めに流した茶色い髪が鳶色の瞳を片方隠している。あ、このひと生徒会で見たことがあるぞ。えっと、福会長だったかな。ぼくって会議では当てられないよう俯いてばかりいるから他の生徒の名前と顔が一致しないんだよな。
「ぼ、ぼくはフィガロです。だ、第二学年の」
「そうだよね。マーカス寮、第二学年図書委員長のフィガロ・ルーイッツ。ところできみに話があるんだ。ちょっと借りても良いかな?」
最後の言葉はアロンへ向けられたものだ。
「ええ、どうぞ。多少返却が遅れて午後の授業に食い込んでも問題無いであります!」
頷いたアロンは何を勘違いしたのかぼくに向かってピースサインを送ってきた。
「後で報告しろよ、フィガロ」
何をだよ。無視した。
中庭から離れて青の庭園にたどり着く頃には喧騒が届かなくなっていた。
青の庭園。
生徒会棟の前に拡がる、ルーズベリーの中でもっとも多種多様な花の咲き誇る美しい庭園。
ぼくは手入れの行きとどいた花々に目を奪われて躓きそうになりながら、颯爽と先を行くタングの後を追った。
「あ、あの、話って?」
タングは、ひとまずあそこで、と小屋を指した。植物の蔓が天井を屋根のように覆っている。
「うわあ、これ、もしかしてヒスイカズラですか」
「おや、知っているね」
「一度見たら忘れられない花です」
「アジア原産の花だよ。俺は気味が悪いと思うのだけど、ララが気に入ったと云うんで庭園まで持って来させたんだ。きみはどう思う」
「美しいと思います」
「はあ。きみもか」
「す、すいません」
「謝る必要はないよ」
それにしてもこんな場所でゆっくりと本を読みたいなあ、と思いながら促されるまま椅子に腰を下ろす。向いにはタングが座った。
「フィガロ・ルーイッツ。きみは最近、有名人だね」
「え、あ、あの、すいません」
せっかく忘れかけていたことを思い出し、ぼくはまた少し哀しくなってしまった。あの日以来ぼくは自分のやったことに後悔して落ち込みっぱなしだった。今朝やっと仲直りできた。以前以上に親しく話もできたのに。
「さて、本題だが。単刀直入に訊こう。ユリウス・シーザーについて特別に何か知っていることはないか?」
ぼくが、え、と問い返すとタングは庭園からぼくへと目を移した。
「彼は入学時から夜になると頻繁に無断外出している。同室があのタッソだから障害もないだろう。ペトロス寮長もペトロスの人間というだけあって正直じゃないからな。あいつの云うことはいつもあてにならないんだ。まあ、云ってしまえばタッソとユリウスが同室だという時点で奇妙な話だ。そもそも相部屋になる生徒は同級だと決まっているのに。何故彼らにだけ例外が認められるのか? 不平等じゃないか。タッソは第四学年、ユリウスは第二学年だ」
「あ、あの。ぼくは彼については詳しく知らないんです、ほ、ほんとうに。ゆ、許してくださいっ。ごめんなさいっ」
「尋問じゃないんだよ」、タングはぼくが困っている様子を察して静かに微笑んだ。喋る速度をやや落とし、
「ただ、おれも生徒会の一員として、生徒が危ない目にさらされるのを見過ごすわけにいかなくてね。事情があるなら理解してあげたいんだ。彼、ただでさえ悪いウワサが多いだろう。確かに成績は良いが? 楽器もこなすが? すべて基礎がなっていない。あれは、ちゃんとした教育を受けてこなかった証拠だよ。素性を調べたら母親も父親もろくな人物じゃない。子を知るにはその親を知れば良い。血と教養は親から子へ受け継がれるものだからね。そもそも彼には忌わしい前科が……いや、これはまだ話す時期じゃないか。失敬」
「な、何」
「気にしないでくれたまえ。ちなみにきみは、まあまあ良い家庭に育ったね」
「ぼ、ぼくのことも調べたんですか」
「生徒会には生徒のすべてを知る権利がある」
タングは髪をかきあげた。その拍子に隠れていた片目があらわになる。怪我の跡。ぼくは慌てて目をそらした。
「話を戻そう。ユリウスの無断外出だ。特に最近、どうしてユリウスを野放しにしているのかという声が一部の生徒から上がってきている。合唱団の伴奏者に選ばれたことで注目が上がってきている時期だからな。で、ユリウスは夜な夜などこへ出かけていると思う」
「あ、あの。それってぼくが答えることなんですか」
「知らないのだとしても、今後何か聞き出せそうにないかい」
「ど、どうしてぼくにそんなことを」
「ユリウスにとってきみが特別な人であるように見えるからだよ」
特別。
ぼくは頬が熱くなるのを感じた。
「タッソもきみには心を許しているようだし。きみをそれほどの人物と見込んでの依頼だよ、これは」
「そ、そんな。でも」
「誤解しないで欲しいのは、生徒会が、彼を陥れようだとかルーズベリーから追放してやろうだとかそういうことを根拠に動いているわけじゃ決してないって点さ」
「本人に訊くこともできるんじゃないでしょうか」
「あっちが警戒して近づけてくれないんだ」
タッソのことかな。
「お、言葉ですけれど」
ぼくは膝の上で両手を握りしめた。力を込めて震えを止めようとしたんだけど、まだぶるぶるしている。
「ぼ、ぼくは。ユリウスが、どんな理由で無断外出しているんだとしても、その理由を彼本人の口から聞かない以上は彼を信じてあげたいと思っています」
「信じることが何になる?」
タングの切り返しは予想以上に早かった。弁論や交渉に慣れている人物特有のものだった。
「うっ」
「重要なのは、むやみに信じることじゃない。事実を知ることだ」
タングの手が伸びてきて、ぼくはぎゅっと目をつむった。
「そう、事実。目を、そむけずにね」
寝癖が付いたままの前髪をひっぱられる。
初対面の時ユリウスにもされたことあったけど、こんなふうに嫌じゃなかった。ぼくは声に出さずにユリウスを呼んだ。
「その事実の中で、彼は本当は助けを求めているかも知れないよ」
「助け」
「そうさ。きみ、彼がグラン・タウンの春だというウワサを聞いたことが? 睡眠時間を削り危険を冒してまで外出して何になる? ルーズベリー生としての彼自身にいったい何の得が? たとえそれがただのウワサに過ぎなかったとしても、調査してみるだけのことはある。きみへ協力を仰ぐのは調査の一環。第一歩だよ」
ユリウスの夢の話を思い出す。あれがつい今朝のことだったなんて。もうずっと前の出来事みたいだ。その夢をかなえるためにはちゃんとここを卒業しなきゃいけないって、云っていた。
「フィガロ。本当に彼を大切に思っているなら、彼の事実を知ってあげることさ。具体的に云うと、外出先を聞き出して欲しい。潔白ならそれで良しだ。だがもしウワサにたがわないようなことを彼が行っているのだとしたら、それは見過ごすわけにはいかない。学校長とも相談し然るべき処分を下してもらう。これはユリウスの為でもあるし、歴史ある本校のためでもあるんだ」
タングは猫の額をなでるような手つきでぼくの癖毛を撫でている。この人は本当にルーズベリーのことを考えている。
だけど。
ユリウスがピアノを奏でている姿が浮かんでくる。ぼくの話を聞いているユリウスの、幼子みたいにきらきらした瞳。ユリウスと初めて言葉を交わした時、彼は窓枠の向こうへ飛んでしまいそうだった。折れた翼で。遥かの視線。振り返った顔には、まだ、ぼくの知らない世界の住人としての彼の表情がありありと残っていて、その底知れぬ哀しみと絶望感に、何も知らないぼくの心臓さえ張り裂けてしまいそうだった。
「フィガロ。力を貸してくれ。きみが必要なんだ」
ぼくは静かに顔を上げた。
「……協力、できません」
緊張で滞っていた赤い血が拡がってゆくのを感じた。
自分の判断が後戻りできないものであると体がぼくに教えている。
「フィガロ・ルーイッツ」
タングはぼくの決意が揺るがないものであることを見てとると、ふっと立ち上がった。
「交渉決裂か。残念だ」
「す、すいません」
「どうして拒否した?」
「な、なんかいやだからです」
「うーん、腑に落ちないな」
「ユリウスのこと、信じてあげたいんです。疑うなんて、したくない」
「それは、ウワサが本当かも知れないって内心で心配していますよっていう、きみ自身の疑念からくる言葉のようにも聞こえるけど」
「うっ」
「ぼくは彼を信じていますからと綺麗な言葉で放棄して、核心を突く役から逃亡するのか。見事だね。好きなものの好きなところしか見ようとしない。それはただの恋であって愛なんかじゃないね」
「う、うっ。ぼ、ぼくは」
まあ良いさ、と云ってタングは庭園へ歩き出した。
「きみの場合は、本当にユリウスを好きで云っているようだから。好きなひとのために卑怯にもなるだなんて、おれが随分忘れている感覚だ。恋が愛より劣っているなんて誰にも云えない。ははっ、若いな、少年!」
髪の毛をくしゃくしゃにされてぼくは戸惑った。
な、なんかこのひとさっきと別人なんですけど。
「ただ、おれ個人の意見として云わせてもらうと、やっぱりユリウス・シーザーは危うい立場にあると思う」
生徒会としての顔と、個人の顔。
この人は使い分けているんだろうか。
「彼の動向にはララも注目しているんだ。気を付けて」
「ララ・クロウが。何故」
「ふ、部外者には内緒だね」
タングは勝ち誇ったように云った。ぼくが決裂させた交渉をまだちらつかせるように。ぼくはその意図を分かって必死で平然とした顔を保ち。
「ぶ、部外者で結構ですっ」
「嫉妬したよ」
帰り際、庭園の中心でタングは足を止める。
「は、はい?」
「ユリウス・シーザーに。良い友人を持ったじゃないか」
タングはぼくの数歩先で膝をつくと脇に咲いていた花を摘んだ。一見して名前は分からないが、この青色はテコフィラエア科だろう。
「本当に好きだね、きみは彼を」
ぼくはタングから受け取った花をくるくる回しながら返答に詰まった。
「くれぐれもララには気を付けて」
「うっ。そっちでなんとか食い止めて下さい」
それができればねえ、とタングはおかしそうに笑った。
「ま、きみたちの今後を拝見させてもらうよ。生徒会側からね。おれはどうしたって生徒会の人間なのさ。ララとは旧知の仲でね。こっちはこっちで裏切るわけにはいかないんだ」
「な、何が起こるんでしょうか」
「さあ、それは起こってみないと分からないよね」
青の庭園の入口でタングが立ち止まった。用事があるから、とここで別れることになる。
別れ際タングはぼくの手の甲にキスをした。
恥ずかしいことを平然とやるひとだ、と思ったけれどそれはぼくが庶民だから恥ずかしいと感じるだけであってジューダス寮の生徒にしてみればそんなに非現実的な行いでもないのかもしれない。
青の庭園を後にしてからはどっと疲れが出てきて、ぼくは一人でとぼとぼ中庭に戻る。
タングの件は断ったけれど、新しく得た情報について考えることがたくさんあった。
「ユリウスが春って、どういうことだろう」
ああ、ルーズベリーにいると、人と関わると、どんどん謎が増えてゆく。
今夜アロンに話そう。どれかには答えが出るかも知れない。
時計に目を落とすと昼休みはあと十分残っていて、さっきと変らぬ賑やかな光景へぼくは戻ってきた。
あれ?
サッカーゲームに興じている少年たちの中に、ローレンツの姿が見える。
「わあっ」
アロンからのパスをうまく受けた!
「す、すごいな、ローレンツって。実は運動神経抜群とか?」
その時、校舎から出てきた誰かが俊足でゲーム中のコートを横切ってくる。
「う、テオだ……」
片手に持ったカーディガンをローレンツの肩に掛け、そばにいた生徒に何か告げている。うう、遠くから見ているだけで眼鏡の奥のミントグリーンが凍てついているのが分かる。また発作が起きたらどうするんだ、って云っているんだろう。確かにローレンツ、運動すると咳き込むから心配だよね。
アロンが、まあまあ、とテオの肩を叩く。テオはその手を振り払うとローレンツを引っ張って歩き出した。その背中に向かいアロンがまた何か叫ぶ。や、やめとけって。立ち止まったテオがゆっくり振り返り、ちょうど足元にきていたボールを蹴ると、それがなんとアロンの顔面に命中した!
「わあ、テオ、すごい!」
思わず拍手したぼくに全員が注目する。あっ、と思い慌てて両手を背中に隠すと、ローレンツが吹き出した。ろ、ローレンツって笑っちゃいけないとこで笑ってくれるタイプだよね。あは、はは。
ローレンツにつられてテオが笑って、木影に並んで座っていたエーベルとクラウスが笑って、鼻を真っ赤にしたアロンの姿にはもう、中庭で遊んでいた全員が腹を抱えて笑ったんだ。