廊下の板を踏みしめる足音が近づいてくる。
暗がりでぼくは素早く部屋中を見回した。ろくなものがない。考えた挙句、壁にかけられた制服を手に取る。自分の分と、ルームメイトの分。
「もう、アロンのばかっ。あんなことして、どうすんだよっ。明日は絶対、図書委員の仕事全部やってもらうからなっ」
ぶつぶつ呟きながら枕二つをアロンのベッドに押し込み、涙目でベッドに潜り込んだ。
ちょうどその時、隣の部屋のドアが閉じられた。
ぼくはあらゆる宗教の神々の名前を呟いた後で、すっと寝たふりをする。
ガチャッ。
ドアが開けられ、そこに立つ人物の掲げたランプが部屋の中央に光の帯を作る。
「フィガロ・ルーイッツ。アロン・パーシー」
澄んだ声から表情を予想する。
プラチナブロンドの監督生の表情なんて、予想するまでもないけどね。
「就寝、確認」
テオ・ベッセルが呟き、ドアの閉じる音がした。
「ふう、た、助かった」
ぼくはほっと胸をなでおろし、ベッドの上に体を起こしてしまった。
「そうとも、限らないが?」
その声を聞いた瞬間ぼくはもうたまらずに「ひゃっ」と叫んでしまった。
ドアの内側に立っていたテオはぼくに氷点下の眼差しを向けている。
「まったく。俺の目がごまかせると思ってか」
確かに、アロンのベッドはいびつな膨らみ方をしている。そうでなくてもテオは、壁にいつも吊るされているはずの制服が吊るされていないことで、あるいは、部屋全体に漂ういつもとちょっと違った雰囲気から、ぼくが何かを必死で隠そうとしていることに気づいただろう。
「て、テオ!」
「……」
「ど、どうしたの。そんな顔して」
「こっちの台詞だ」
テオは、状況を説明しろ、とばかりに顎をしゃくって見せた。
ぼくは自発的に直立の姿勢をとった。
「そ、その。えっと。どこから説明したらいいのか、」
「アロン・パーシーはどこへ消えた」
そう云いテオは後ろ手に部屋の鍵を閉めた。
ぼくの命のともしびもついに今宵限りか。
「云えないのか。云えないならきみにも同等の処罰だ」
「うう。テオ。ぼ、ぼくたち友達だよねっ」
「監督生は友情により生徒への対応に緩弱をつけても良いというような決まりは、俺の覚えている限りではなかったな」
歩み寄ってくるテオの気配にぼくは身をすくめた。う、テオってこういう不正をもっとも嫌うんだった。却って逆鱗に触れてしまったような気もするよ。ぼくのばか……。
「さあ。アロン・パーシーは、どこへ消えた」
耳の後ろでテオがぼくに最後のチャンスを与える。
ど、どうしてこんなことに。
全部アロンのせいだ。
就寝前ぼくはアロンに、青の庭園でタングから持ちかけられた交渉について、その内容、ユリウスの置かれている状況、それから、ぼくが交渉を決裂させたことについでまで洗いざらいすっかり話したんだ。アロンに話せば少しでも楽になれるかな、って。だと云うのに、アロンは事態を余計におかしな方向へ持っていってしまった。
「よし、こっちはこっちでユリウスのウワサの真偽を確かめてやろうぜ!」なんてはりきってしまって、それが今から約十五分前のこと。窓際で話していたぼくたちは運悪くもその時たまたま木立の中を駆けて行く人影を見たんだよ。人影というのは、ユリウス。まさに本人。はっきり見えたわけじゃないけれど、羽織っていたトレンチ・コート。ああいうコートはこの学校じゃユリウスだけしか持っていない。アロンは就寝確認が間もなくだということも忘れ窓枠を乗り越えると人影を追い掛けて行ってしまった。なんでも広報部員のガーデルが例によってまた新しい万年筆を買ってもらったみたいで、アロンはどうしてもそれが欲しいみたい。ああ、だからって今出て行くことはないだろ。よりによって今晩のテオは不機嫌そうだ。
ここまで考えたぼくは、アロンのために自分まで処罰を受けるのがばからしくなってきた。
「アロンはユリウスを追いかけて行ったんだ」
「ユリウス・シーザーを? どういうことだ」
ここまできたらテオにもすべてを話す他なかった。
今日の午後タングと話した内容。タングがぼくにユリウスの秘密をさぐるよう依頼してきたこと、そしてぼくが断ったこと。
ぼくが話し終えるとテオは考え込むように額に手をあてアロンのベッドに腰を下ろした。テオのことだから、これくらいのことはもう知っていただろうか。場合によってはユリウスが強制退学させられるかも知れない、ということくらいは。
ぼくもつられて自分のベッドに、テオと向かい合うように座る。
「テオ? 気分、悪そうだよ」
違うんだ、とテオは心配するぼくを手で遮った。
「俺のことは気にするな。で、フィガロ。それで、実際きみは何故断ったんだ?」
入口に置いたままのランプが、じじ、と音を立てた。
「え?」
テオは膝に肘をついて、やや上目遣いにぼくを尋問する。
「あ、ああ。タングの、ことだね。う、うん。やっぱりぼくが卑怯だからだと、思う。確かにタングの云っていたこと、当たっているんだ。口では信じたいって云いながら、ユリウスが本当は何をしているか、知りたくないだけなのかも。だってさ、ユリウスって分からないよ。ふっと哀しい顔をしたり、かと思えばぼくをからかって勝手に楽しんだりしてさ。だいたいタッソとユリウスがいつも一緒にいる理由も分からないし、そもそもどうしてタッソってユリウスには頭が上がらないのかな。本気で喧嘩すればさ、絶対タッソの方が強いんだよ。なのにユリウスの云いなり。宿題だって押し付けられているんだよ。髪の毛ひっぱって遊ばれても気にしてないし、嫌なら嫌だって云えば良いのに」
「嫌じゃないからだろ」
「え?」
「嫌なら嫌だと云える立場にあって云わないのならそれは、べつに嫌じゃないからだ。フィガロの云い分はただのやきもちだ。きみこそ好きなら好きだと云えば良いんだ。それもせずに同じことで他人を責めても批判に説得力がない」
うう。云い返せない。
「これくらいで泣くな、厄介なやつだな。で? フィガロは疑っているわけか」
ぼくは頷いた。
疑う、という言葉を使うのは、あまりにも苦しくて、ただ頷いた。
「なるほどね」
テオは見上げてくるような格好を止めて、背筋を伸ばした。
ランプの灯が再び、じじ、と鳴る。
「テオのこと欺こうとして、ごめんよ」
「謝るほどのこともない。欺けるわけがないんだから。それより、俺の弟。ラインハルトっていうの、知っているか」
さきほどよりやや明るい声でテオが訊ねる。
顔を上げるとテオは眼鏡をはずしていた。眼鏡をかけていないテオ、そういえば初めて見たような気がする。ぼくは思わず、ラインハルト、と呼びかけそうになる。知らないんだけど。そんな気軽に呼べるほどの関係でもなく。彼とこうして向かい合って話をしたこともない。だけど双子なのだから少なくとも外見上は違わないだろう。ローレンツも云っていた。本当にそっくりな双子なんだってさ。幼馴染のローレンツでさえまじまじ見て分からないほど、一致していたらしい。そのかわり、中身がまるっきり異なっていた。
まるで、太陽と月のように。
「うん。知っているよ。学校でも人気者だったよね」
「あいつ、誰も思いつかないような悪戯ばっかり考えついたからな。どこへ行っても人気者なんだ。じっとしていることが大嫌いで、休みの日にも家で本を読んでいる俺のことしょっちゅう莫迦にした。こんな天気の日に外へ出かけないのは神様を莫迦にしている、って。もちろん本気で嫌味を云っているのじゃなくて、一緒に遊んで欲しかったんだ。あいつ、かなりの甘えん坊だからな」
ぼくの頭に、悪戯な笑みを浮かべているラインハルトと、読書に没頭するテオの対照的な姿が浮かんでくる。ラインハルトはなんとかテオを外へ連れ出そうと色々な遊びを持ちかけるんだけどテオは耳を貸さない。じっと紙面だけに集中して、動くのはページをめくる時だけ。ラインハルトぐらいの悪戯好きなら双子であるってことを利用してどれだけ面白いことをしたかっただろう。
「そんな、好きな遊びも趣味もまったく違っていた俺達だったけど、ある時、まったく同じものを好きになった」
テオは眼鏡のレンズに汚れを見つけハンカチで拭った。
折り目の正しい、白いハンカチだった。
「ローレンツのこと?」
「そうだ。ローレンツは昔から体が弱くてね、日中寝ていることが多かったんだけど、実は本人は体を動かすことが大好きなんだ。その点は、今も変わらないな」
「うん。今日もサッカーしていたよね」
「ああ、ローレンツにサッカーを教えたのも弟だよ。俺は一度本気で弟のことを叱ったよ。どうしてわざわざ危ないことやらせるんだ、って。当時のローレンツは、ちょっと走っただけで心肺に負担がかかって息を荒げていたから。特にサッカーなんて走るスポーツだろう。そんなことをさせるなんて、正気の沙汰じゃない。そうしたら弟はこう云い返してきた。ローレンツがやりたがることをやらせないことは危ないことをわざわざやらせるよりももっとひどい。って。根本的に考え方が違っていたんだよ。俺とラインハルト。そのあたりからだな、ラインハルトは俺に構わなくなった。遊びにも誘わない。ローレンツと一緒にいると毎日楽しくて、俺のことなんかどうだって良かったんだ」
「そ、そんなことなかったと思うよ、テオ」
「嘆いているわけじゃないんだ。それはそれで良かったんだ。それが一番だったんだ。俺は構われたくない。ラインハルトは誰かと遊びたい。ローレンツは外の世界に飢えてる。それぞれの欲求は満たされていた。均衡を保つことができていた」
でも、とテオは磨き終えた眼鏡を掛け直した。
「三角形は、あの日崩れた」
その日ラインハルトはローレンツを見舞いに行っていた。手術の一週間ほど前のこと。
雲ひとつない日で空はどこまでも高く青く、いつもは休日のほとんどを読書して過ごす俺でさえ外を歩きたくなって街のはずれにある文具店へ買い物に出かけた。
何も問題はなかったんだ。
見晴らしの良い通り。歩行者信号も青だった。
俺は通りに面したガラスケースに並べられたコンパスを見ていた。その時使っていたやつが壊れかけていたんだ。例によってラインハルトがおかしな使い方をしてくれたおかげでね。
その時、ガラスの向こうに、俺はラインハルトの姿を見つけた。ポケットに手を突っ込んで、缶を蹴りながら歩いてくる。ローレンツと会えた日はいつも上機嫌なんだ。
俺は、薄暗い文房具店の中でコンパスを眺めている自分と、陽のあたる通りを口笛吹きながら歩いてくる弟と、その対比に初めてはっきりとした不満を抱いた。もちろん、これまでに不満がなかったわけじゃない。親や先生は勉強のできる俺を褒める。行儀良くできる俺を褒める。試験の点数が良い俺を褒める。だけど、そうやって俺のことを褒めながらも彼等はやっぱり子どもらしいラインハルトをより愛するんだ。褒めると愛するは似て非なるものだ。いや、ほとんどの人ならそれらが実際は似てすらいないことを知っているだろう。明るいラインハルト。人好きするラインハルト。弟がそこにいるだけでまわりが明るくなって、くだらない悪戯にも元気づけられる。確かに俺は手のかからない子供だ。だけど、だからこそ、どう愛したら良いのか分からない。こっちもこっちで、分かってもらおうともしなかったし。一方のラインハルトは俺のように卑屈じゃなかった。それは、見ていれば分かるよ。俺なんかのことを自慢の兄だって云ってくれたし勉強のこととなるとしょっちゅう頼ってきていた。俺は余計に弟が羨ましかった。こいつは好きなように生きて、しかもそうやって生きることで愛される。自分の求める自分と他人の求める自分とが一致する、なんてめでたいやつなんだ。
だから、だ。きっと。
一台の貨物車が曲がってきたんだ。
ラインハルトは俺に気づいて駆け出していた。
手を上げて、きっと、俺の名を、呼んだと思う。
でも俺は応えなかった。応えなかったし、教えもしなかった。ただふと、考えていた。
(もし今このまま俺が何もしなかったらどうなるんだろう)。
そこには弟への憎しみも妬みも、まして殺意なんか、あるはずもなく。まさか、という考えもあったのかも知れない。まさかぶつからないだろう。まさか気づかないはずないだろう。まさか運転手が避け切らないということもないだろう。
まさか。
まさか最後の最後まで自分がラインハルトに何も合図しないなんてことは、ないだろう。
「即死だったんだ」
あまりにさらりと云われぼくは、テオが彼自身とまったく関係のない話をしているような錯覚に陥った。
「命があんなに脆いんだ、って。ずっと知らなかったよ」
「テオ」
「ローレンツには云えない。きみの一番の親友を殺したのは俺だ、なんて」
「ち、違う。テオは悪くないよ! その車を運転していた人が悪いんだよ!」
「救える手段を持っていたのに放棄した。直接的でなくても間接的に殺したんだ」
「ぼ、ぼくもよく思うよ。弟のやったことで自分ばっかり叱られている時なんかね、ほんと何もかも嫌になるよ。弟なんかいなければいいのに、って。どうしてぼくばっかり悪者扱いされてさ、って。そういう時は、お菓子欲しがっても絶対あげないんだよ、」
自分が見当はずれなことを云っていることくらい分かっているよ。だってぼくはテオが表情を変えないので余計に心配になってしまったんだ。
即死。
自分と寸分変わらない姿の死体。
「だから、だよ。だから俺はユリウスが憎いんだ」
「どうしてユリウスが出てくるの」
「あの日あの時。ラインハルトに対し俺がなしえなかったことを、ユリウスは別の方法でいともたやすくして見せた」
ぼくは口を挟むのを遠慮した。
「俺は殺した。だけど、彼は生かした」
そう云ったテオは突然両手で顔を覆った。
「俺はユリウス・シーザーの行いを愛している。だけど彼のことを憎悪しなければならない。この想いは捩じれてしまって歪で、もう、名前をつけてやれるほど純粋ではないんだ。だから、フィガロ、きみがアイツの味方でいなければ。きみだけは彼を偏見しない、無知な存在であらねば」
「テオ、だ、大丈夫?」
今日という今日は心底テオが不可解だった。こんな矛盾したテオは不可解以外の何物でもない。矛盾こそテオの最大の敵だったはずなのに。一体どういうことだろう。
「ね、ねえ。テオ。どうしてそんなに多くを話してくれるの」
「フィガロ。きみだ」
立ち上がったテオの言葉にぼくは既視感を覚えた。
これって、あの日と似ている。
教室棟へ向かう途中、リボンタイをほどいて見せたテオ。絶対に何でもなくはない顔で、何でもない、って云ったんだ。
「フィガロ。きみが、何でも聞いてあげるって云った。忘れたのか」
テオの瞳はたちまち凍りついた。
こ、これって、ぼくのせい?
ど、どうしよう。
「時間が押してしまった」と云いながらテオは入口のランプを持ち上げた。背中に物差しが入っているように、歩き方まで隙がないったら。さっきまでのテオは演技でもしていたみたいだ。
ふとテオは振り返ってアロンのベッドを一瞥し「しかし何をやっても不器用だな」と憐れむような目で云う。
「ほ、ほっといてよ」
「今回の件はほっとけないな。監督生としてはね」
「うう」
「テオ・ベッセルとしてはどうだって良いことだが」
「もしかして、見逃してくれるの」
テオは怪訝そうに首をかしげた。
「見逃す? 何を云っているんだ、フィガロ。今の俺は監督生だ。十時を過ぎて二人部屋に一人しかいないことを見逃すわけにはいかないな。フィガロ・ルーイッツとアロン・パーシーの両名。単語の書き取り十頁分、明日の五時までに提出するように。授業中にしたものはすべて不可。もちろん、昼休みの合唱の練習には出てもらわないと困る。せいぜい空き時間を見つけて頑張ってくれ」
すかさずぼくは抗議した。
「ええっ、どうしてぼくまで!」
「事情を知っていて止めなかった」
「止めなかったんじゃなくて、止められなかったんだよ。アロンが運動神経良いって、テオも知っているよね!」
「そうならそうでその時点で俺に報告すべきだった。きみはあろうことか隠し通そうとしていた。その上、事実が明るみに出ることを恐れてアロン一人に罪をかぶせようとした」
「て、テオなんか悪魔だ」
「悪魔ね。はん、おおいに結構。身に余る光栄だ」
にっこりと微笑むテオが悪魔どころかいっそ魔王で、ぞっとしてしまった。
「……フィガロ。きみはいつだって人間らしいな。そうさ、普通は自分の身が危ないと感じたら相棒を切り捨てるものだ、普通はね。俺はきみにいつも普通の人間とはどういうものかを教えられている。ありがとう」
「ううっ」
と、とても侮辱された。
「でも放課後までに十頁なんて、ちょっと無理だな」
「さ、さすが、テオ様」
仕方ないな八頁で手を打とう、とテオは不敵な笑みを浮かべた。ラインハルトが根っからの悪戯少年だったように、テオは根っからの監督生なんだ。
「わ、分かったよ。テオ。アロンにも、伝えておくね」
ぼくはアロンに書き置きのメモを残し、シーツにもぐりこむ。今夜はもう寝てしまおう。きっと、アロンが帰ってくるまでは眠れないけど。アロンに、ユリウスの行先を、教えてもらうまでは。
それにしても、ユリウス、本当に夜出かけていたなんて。
「あれ。どうしたの、テオ。まだ行かないの」
「フィガロ」
「何?」
「ラインハルトの墓に花が絶えないんだ」
「花、」
「白百合」
「百合?」
「ああ。おやすみ」
ぼくはもう少し訊ねたかったけれどテオはもう部屋を出ていた。