翌日昼休みの合唱練習はいつものように始まった。そう、いつものように。相変わらず指揮者は伴奏者を見ないし、伴奏者は指揮者を見ない。
開け放した窓から五月の風が吹いてくる。
ゆうべのテオを思い出しながら、あの話は誰にすべきでもない、と感じる。
ぼくの前にローレンツの頭が見える。最前列のソプラノ。花形だ。
あの日裏庭でローレンツは「テオのこともだいすきなんだ」と云っていた。彼はテオの胸の内を知っているんだろうか。いや、知らないはずだ。テオはローレンツに対し、ラインハルトの死で後ろめたさを感じているようだったし。それならどうしてぼくには話してくれたんだろう。ぼくはテオを慰めることも、うまく元気づけてあげることもできないのに。
タクトを振るテオと一瞬だけ目が合う。誰も知らないテオを自分だけが知っているという事実が、ぼくに少し、ただの平凡なワンシーンを特別に見せている。風に吹かれた頬が少し熱を放つ。テオがぼくを睨んでいるように感じられて、それもきっと錯覚なんだろうけれど、目を逃がした先にユリウスの姿を見る。
ユリウスは楽譜を見ない。練習にいつも手ぶらでやってくる。開始時刻より少し早目に来て、音楽室の一角でタッソ含む不良数名と行儀悪く談笑しているんだ。時間が来るとピアノの前に座って、全員が本番と同じように三列に並ぶ様子をペリドットの瞳で眺めている。
合唱団が結成されてから今日で一週間が経過した。
緑の祭典まで、あと三週間。
その間、ユリウスとテオのスタンスは全員に知れ渡った。仲間の不良に囲まれている間はやっぱり近寄りがたいけれど、ユリウスはとても親しみやすい。最初の頃はびくびくしていたメンバーも、今やユリウスを満足させるために自主練習まで行うくらいだ。一方、テオが来ると一気に場が引き締まる。テオは誰かが音をはずしたり息を継ぐ個所を間違えたりすると的確に指摘する。その度に伴奏も中止して、最初からやり直しになる。
ぼく、合唱って楽しくできればいいんだと思っていた。だってあんなに美しいんだもの。叱られたり注意されたり途中でやり直しになったり、そんないやなこと一つもないって思っていた。だけど、聴く人に感動してもらうには、美しい音楽にするためには、楽しいだけじゃなかったんだ、と分かった。
もうメンバーではないけれどエーベルとクラウスも毎日見学にやってくる。ぼくはエーベルがユリウスに近寄っていくのを見るたび、注意事項をいっぱい書き込んだ楽譜を手の中で握り締めた。おかげで楽譜はボロボロだ。
数十分ほど練習をしたところで、テオが「休憩だ」と云って台を下りた。全員がほっと息を吐くのが聞こえるような気がする。
すかさずエーベルがユリウスに駆け寄っていく様子を見てぼくは思わず舌うちしてしまった。
「くわばら、くわばら」
「あ。アロン。な、何がだよっ」
「来いよ。秘密の話だ」
アロンに引きずられてぼくは窓際まで連れて行かれる。自分でもったいぶっておきながら、話したくてうずうずしている様子だ。
「ゆうべの件だよ」、アロンはぼくの肩に体重を寄せつつ声を落とした。
「ほら、ユリウス・シーザーの深夜の行先。どこだったと思う」
「知るもんか」
ぼくは咄嗟に左右を見た。聞かれるような距離には誰もいない。離れた所からこちらを睨んでいたタッソと目が合う。ぼくは慌ててアロンの陰に体を隠すようにした。
「どこだったの」
「でっかい屋敷だよ。場所は、グラン・タウン。おれ初めて行ったんだけど、あの町ってほんとに汚いのな。ごみも人間も野良犬も一緒になって眠ってる」
「アロン、大丈夫だったの。そんな危険なところへ行って。きみの身に何かあったらぼくどうしようって不安で、寝不足なのはそのせいだよ」
まあまあ現に大丈夫だったじゃないか、とアロンは得意そうに云った。
「ところで、屋敷ってどういうところだったの」
「グラン・タウンにしては珍しい、むしろ、異質だったな。どういう経緯でこんな立派な屋敷がこんな場所に建てられたんだろう、って思ったよ。で、ユリウスはその屋敷の正門ではなくて裏門から入って行ったんだ。どうやら合鍵を持っているようだった」
アロンは首にかけた合鍵を取り外す仕草をして見せた。ぼくはふと早朝を思い出す。ユリウスの首筋に、銀色の鎖のようなものが見えた。あれがその鍵だったんだろうか。
「その屋敷、もしかしてユリウスの実家じゃないのかな」
「さあな。どうだろう。表札が見つけられなかったから確かじゃないけど。で、ユリウスは二時頃になってようやく、やはり裏門から出てきた」
「アロン、よく眠らず張り込んだね。何時間もたった一人で不安だったろう。感心するよ」
ぼくが心底驚いている様子にアロンは嬉しそうな表情を浮かべた。
「当然だろ。探偵するからにはそれくらいできないと」
た、探偵って。
ぼくは最近アロンが探偵小説に夢中になっていることを思い出した。図書委員でありながら入学してから一冊も本を借りたことがなかったアロンがカウンタで暇つぶしに手に取った本。よっぽど面白かったらしく授業中も先生の目を盗んで読書に夢中になっていた。(テオは気づいていたけれど何も云わなかった。今を妨げてしまえばアロンが二度と読書しないものと考えているのかも知れない)。
「で、屋敷から出てきたユリウスは、何か白いものを持っていたんだ」
白いものとはどうやら百合の花で、それを持ったユリウスはグラン・タウンを出た。隣町の墓地へ入りとある墓に花を供え、祈りをささげた。ユリウスが去った後確認したところによるとそれはラインハルト・ベッセルの墓石だったそうだ。
「ラインハルトのお墓、か」
ぼくは昨夜のテオの言葉を思い出す。
(百合の花が、絶えないんだ)。
あの時とっさにユリウスのことを思い出したけれど、的中していたなんて。とするとやっぱりユリウスとラインハルトとはどこかで繋がっていたんだ。どういう関係だったのだろう。もしただの遊び仲間だったとしたら、テオのユリウスに対する態度に疑問が残ってしまう。テオ、誰かと深く付き合うことをしないタイプだ。あれほどユリウスに強い感情を抱くには何か事情がある。それがどういう事情かを知りたいと思うのは、ぼくにとっては自然なことだ。どうしてってぼくは、ユリウスのことを。すき……。い、いや、今はこんなことどうだっていいんだ、ばかっ。それに、タングが云っていたじゃないか。ユリウスを退学させようという動きが生徒会の中であること。もし真相が分かったら、生徒会に報告しよう。そんな議論をする必要ない、って。きちんと分かってもらわなくちゃ。うん。
「ねえ、アロン」
「何だ」
「お願いが、あるんだけど」
ぼくがいつになく深刻な顔をしているせいかアロンまで顔を引き締めた。ただでさえ近い距離がますます狭まる。アロンってほんと、秘密めいたことがだいすきなんだから。
「これはアロンにも危険が伴うから、ぼくは見返りを用意しなきゃ。そうだ、ブルーバードの新しいサッカーボールっていうのは、どう。すぐには準備できないけど、もうすぐぼくの誕生日だから、パパに頼めば送ってくれるはずだよ」
その提案にアロンは顔を輝かせた。ぼくは安心して願い事の内容を打ち明けた。これはアロンの探偵としての素質と器用さを見込んでのこと。
「それでね、計画の内容なんだけど」
いよいよ詳しい打ち合わせに入ろうとしたところで、ぼくらは後頭部を弾かれた。振り返ると険しい目つきのテオが立っていて、凶器のタクトで早く整列するよう促していた。
「フィガロ。アロン。練習再開だ」
列は二人分のスペースを残してすでにきっちりと整っていた。
「は、はいっ」
ぼくとアロンは磁石に引き寄せられる砂鉄のように速やかに列におさまった。