10


 青い椅子に腰を下ろしたぼくはそのあまりの柔らかさに驚き、はじかれたように立ち上がってしまった。
 向いの人物はティースプーンを動かす手を止め、目を上げる。
「どうしたのかな。遠慮せず座りたまえ」
 南国の海を思わせる瞳がぼくを不思議そうに見つめた。
「す、すみませんっ。ぼ、ぼく、こんな柔らかい椅子座ったの初めてで、それでっ」
 笑い声がしたので振り返って確認するとタングだった。いつの間にこの部屋に入ってきたのだろう。ぼくは緊張していたため気付かなかったのだろう。
「だけど本当にありがたいよ」
 ぼくが顔を上げると生徒会長のララ・クロウは窓の外に目をやっていた。アロンは「南国風プリンス」と云っていたけれど、砂漠の隊商の長みたいにも見える。日に焼けた肌に、澄んだ水色の瞳。オアシスだね。通った鼻筋が意志の強さを表している。三年も生徒会長を務める人だ。頭も良くて人望も厚い。
「フィガロ・ルーイッツ。きみ、一度はタングの誘いを断っただろう。でも、こうして報告に来てくれた」
 ララ・クロウはぼくに向かってにっこりと笑いかけた。
 思ったより悪い人ではなさそうだ。ぼくは部屋の壁にもたれているタングを見やった。嘘つき。
「あいつがおかしなことを吹き込んだだろう」
 ぼくの目線に気づいたララ・クロウがタングに目をやる。
「生徒会の中にユリウスを退学させようという動きがあるとか。あいつ、人を困惑させて楽しむんだ。悪い癖だから気にしないように。俺が会長である間は誰にもそんな話し合いをさせない。もっとも、生徒達の立てるウワサにまでは手が回らないけど」
「は、はい」
 ララ・クロウにそう云われてぼくは随分と安心した。彼の声は聞く人を安心させる。さすが全校生徒をまとめあげるだけはあるな。
 この頃になるとぼくはすっかり警戒をとき、テーブルに用意されたお菓子をつまめるまでになっていた。
「おいしいかい」
「は、はい」
「伯父からいただいたものでね。小さい頃から好物なんだよ。伯父は俺が好きなものをよく知っているんだ」
 そう云えばララ・クロウってエーベルの親戚で、エーベル以上に名家の息子だった。
「じゃあ、フィガロ。早速だけど、きみの知った限りのことを話してもらって良いかな」
 ララに促され、ぼくは話した。
 夜に寮を抜け出したユリウスが行く先、それは、グラン・タウンに建つ屋敷。その屋敷がユリウスの実家なのかそれとも知り合いの家あるいは何か別の場所かは分からない。とにかくユリウスはそこで数時間過ごし、必ず百合を持って出てくる。それから隣町へ行き、ラインハルト・ベッセルのお墓に供えていく。
 アロンに頼んで三日間尾行してもらった。おかげでユリウスのこの一連の行動がパターン化されたものだということが分かった。ぼくじゃきっとボロが出た。あるいは、見知らぬ土地で迷子になっていたと思う。三日間のアロンの不在をテオに問い詰められたらどうしようかというのが一番の心配ごとだったけれど、あの夜以来テオはぼくの部屋に入ってくることはなかった。前回うっかり話し過ぎたことを後悔しているのかも知れない。それとも、知っていて見逃してくれたのかな。後者は考えづらいけれど。

「なるほど、ね」
 ぼくが一通り離し終えるとララ・クロウは何事か思案するふうに顎に手をやった。
「あ、あの。これで、ユリウスに関するウワサがただのウワサだってこと、分かってもらえますよね。生徒会の人に分かってもらえていたら、もう、心配しなくていいですよね。だってユリウスはただ家を訪ねて、そのあとでお墓参りしているだけなんですから」
 なかなかララ・クロウは頷いてくれなかった。まだ何か思っているようだ。ぼくは彼の真剣な表情に気圧されて黙っているほかなかった。
 どれくらい経っただろう。
 ようやくぼくの言葉が耳に届いたみたいに、ララ・クロウがにっこり笑ったんだ。
「そうだね。きみはもう心配いらないよ」
「よ、良かった。ありがとうございます」
「もっとも、夜中に寮を抜け出すこと自体が罰則物だけど」
 し、しまった。ぼく、あまりに大きすぎてとんでもないことだと気づけないようなとんでもないこと白状してしまったような気がする。うう。
「ま、実は俺もよくしていた。勿論、生徒会長になる前のことだけど」
「えっ。お、俺も。って、ララ・クロウ?」
 それ以上は立ち入らないこと、とララ・クロウはぼくの口を封じた。訳知り顔のタングが声を出さずに笑っている。二人の関係が少し分かった気がする。ララ・クロウは数秒間タングを横目で睨んでいたけれど、彼が笑いやまないのを見てつられたように笑った。
「そもそもフィガロは生徒会でユリウスを退学させる声があることを懸念して彼の行先を突き止めてくれたんだよな。とすると最初から杞憂だったわけだ。そんな話し合いを俺がさせはしないのだから。まあ、彼のウワサが晴れたことは喜ばしいことだけどね。俺達だって生徒の中から春で小遣い稼ぎしている生徒がいるんじゃないかなんて疑心暗鬼にはなりたくないわけだから」
 春。ぼくはいまだによく分からないこの単語の意味について訊ねてみようかと思ったが、こうしてすべて丸くおさまったのだからもう良いかと放った。
 ぼくは部屋の時計を確認した。間もなく図書室のカウンタに座っていなければならない時刻になる。週末明けの放課後がもっとも忙しいんだから。ぼくは、アロン一人に仕事を任せて来たことにそろそろ不安を感じ始めていた。
「あ、あの。じゃあ、ぼく、これで」
 おいしいお菓子ありがとうございました、と礼を云って立ち去ろうとするぼくの行く手をタングがすっと阻んだ。
「あ、あの、もう行かないと図書委員の仕事が」
「仕事熱心。うん、素晴らしいねえ。さすが第二学年図書委員長」、ララ・クロウが拍手する。
「でも、もうちょっとだけ付き合ってくれ。俺達からお礼がしたいんだ」
 ぼくが青い椅子に戻ったその時、生徒会室のドアが外からノックされた。
「ぴったりだ」
 時計に目をやってタングがドアを開ける。
 そこに立っていた人物の一部を見たぼくはほとんど反射的に立ち上がった。
 ララ・クロウは椅子に座ったまま「ようこそ、生徒会室へ」と手を広げる。
「あれ?」
 タングが道を開けると、訪問者のユリウスが驚いたふうにぼくを見た。
「や、やあ。ユリウス。ど、ど、どうしてここに」
 ついさっきまでユリウスの行動についての話をしていたものだから、こちらもなんだか後ろめたい。
「おれは、呼び出されて」
 タングがユリウスにも席を準備する。向かい合うララ・クロウとぼくとの間に挟まる辺にユリウスが腰かけた。
「不思議に思っているだろう。どうしてこのようなメンバーが集まったか、って」
 全くその通りだ。ぼくはララ・クロウの澄んだ瞳を見つめた。彼は、すべてが計画通りだ、とでもいうようにまったく落ち着き払っている。ユリウスはというと、ぼくの食べかけのお菓子を見下ろして黙っている。
 ぼくは、恥ずかしいような居た堪れない気持ちになった。
「食べたければ食べても良いぜ。ユリウス。そんなに見つめて、お腹がすいているのか」
 急に態度が変わったララ・クロウをぼくは不安な気持ちで見る。
 タングはというと壁に背を預け腕を組み、平然と場を見守っている。ぼくと目が合うと眠そうな目を一層細め悪びれず笑った。
「それとも、その菓子に見覚えが? そんなはずはないよな。これは俺の伯父が昔からの家政婦に作らせるもので、伯父の家でしか食べることができないからだ。だが、もし知っているんだとしたら、それは本当に奇妙な話だ」
 ぼくには意味が分からない。
 ララ・クロウは組んでいた脚をほどき、椅子から立ちあがった。
「きみが伯父の家へ通っていることは分かっていた。さっきフィガロが証明してくれたしな」
 伯父の、家?
 じゃあ、ユリウスの通っていた屋敷っていうのは、ララ・クロウの伯父さんの家だったの。
「俺の伯父、ニアガーデン氏は昔から奇妙な収集癖と、とにかくどこか狂人めいたところがあった。親戚の間でも奇人扱いされていたよ。だけど俺には優しくて物知りで、大好きだった。親の目を盗んでしょっちゅう遊びに行ったものだ。その伯父がある日突然グラン・タウンに屋敷を建てると云う。耳を疑った。一体どうして。だが俺は知っていたんだ。独身の伯父、ニアガーデン氏の最大の趣味が、」
 そこでララ・クロウはユリウスの耳元に口を近付けた。何か囁かれたユリウスの瞳は見開かれているのに何も見ていないように見えた。硝子のようだ。
「その気丈さをいつまで保てるか」
 背凭れの後ろから伸びてくる両手にやや見じろきするユリウスの頬が、さっと紅潮したかと思いきやたちまち波が引くように青ざめていく様子を、ぼくははっきりと見ることができた。
 ララ・クロウの褐色の指はリボンタイの片端を素早く引くと、緩めた襟元からその奥へと手を滑り込む。
「あ、あの」、ぼくは腰を浮かした。傍のタングが「座っていろ」と指図する。その目はララ・クロウに利き手の自由を奪われたユリウスを見下ろしている。あれじゃ身動きが取れないはずだ。生徒会長のララ・クロウが今年の合唱団の伴奏者を知らないわけがないのに。
 レコードの針が終わりまで辿り着く。
 それが合図だったようにララ・クロウの手が突如、襟の中から引き抜かれた。ユリウスの体から力が抜ける。だらしなくなった青いリボンタイの上に銀の細い鎖が垂れた。鎖の先に付いていたのは間違いなく鍵。
「しかし筋がいいな」、ララ・クロウは呆然としているぼくの頬に右手をなすりつけた。ユリウスの皮膚を這っていた指先はまだぬくもって淡く白百合の香りがした。ぼくはふいと顔をそむけた。
「で。ニアガーデン氏が彼の最大の趣味を最大限に楽しむためには警察の足さえ向かないあの場所、孤児の多いあの町グラン・タウンこそが、打ってつけだものな。なあ、ユリウス。俺の云っていることの意味は、まさにそのグラン・タウンの孤児だったきみには特によく分かるだろう」
 タングがおもむろに新聞記事を広げてぼくの前に置いた。
「さて、フィガロ。お待たせしたね。俺達からのお礼というのは、そのことなんだ」
 ララ・クロウの言葉に、顔を上げたユリウスが息をのむのが聞こえた。
「どうした、ユリウス。この記事に都合の悪いことでも書いてあるのか」
「どうしてそんなもの、フィガロに」、立ち上がったユリウスを今度はタングが床に組み敷く。椅子が音を立てて倒れた。
「観念しろ、ユリウス。フィガロに過去の自分を知ってもらう良い機会だ」
 うう。こんな時にどうしてタッソがいないのか。いつもは会いたくない相手だけど、この時こそタッソの存在を切実に求めたことはなかった。
「やめさせてよ、ララ。タングをとめてよ」
 そうしているうちにもタングの肘がユリウスの喉仏を圧迫する。ぼくはタングをユリウスの上から引きずりおろそうと後ろからうんうん引っ張りながらララに助けを求めた。
「ララ!」
「フィガロ。きみが早く記事を読めば良いだけの話だ」
 落ち着き払ったララ・クロウに云われるがままぼくはテーブルの上の新聞記事に飛びついた。
「な、何なの。記事って。これを読んでどうなるっていうの」
 あわただしくめくる新聞紙の上に雫が落ちて、ぼくは自分が泣いているのだと分かった。どれを読めば良いのか分からなかった。
「はあ、仕方無いな。赤ん坊みたいに」
 呆れたような溜息を吐いてララ・クロウがぼくの向かいから手を伸ばす。一つの交通事故に関しての記事を指差した。
「ここに、きみの知りたいことが書いてあるはずだ」 
 文字がぼやけて読みづらい。ぼくは手の甲で涙を拭った。

 ラインハルト・ベッセルの死亡記事。
 死因は、暴走車が衝突したことによる頭部の損傷。
 調べによると車を運転していたのは。
 グラン・タウンの子ども。
 名は、

 記事を読み終えたぼくが問い詰めるように覗き込んだペリドットの瞳は、ぼくのことをけだるそうに見上げた。  そこには作られたような諦観があった。
「フィガロ」
「ぼくは、信じないよ。ねえ、ユリウス、きみが否定すればきみを信じる。この記事、嘘なんだよね?」
 祈るような気持ちで待ったが、ユリウスからの返答はぼくの淡い期待を打ち砕いた。
「いや。記事にある通りだ。ラインハルト・ベッセルを殺した犯人は、このおれだ」

 ぼくは呼吸できなかったから、生徒会室を飛び出した。

 走りながらぼくは、ユリウスと初めて会話できた日を思い出していた。
 図書室の窓枠に腰を掛け、はるか遠くを眺めていた。鈍色の光が雲の隙間から射し込み、それは肩越しに二枚の白翼に見えた。
 折れた翼。
 うつくしい光景。
 だけど一瞬にして色彩は反転する。

 白い翼は黒く染まる。空は暗雲に覆われる。
 風にカーテンがはためく、はためく、はためいて。
 ぼくに気づいたユリウスが振り返る。
 その顔を見てぼくは、あっ、と声を上げる。
 彼の目に溢れていたものは、死んでしまったラインハルトの、まだぬくもった鮮血だったのだ。

 悲鳴を上げる代わりにぼくはぎゅっと目を瞑る。

 今度は別の場所だ。
 あ、ここはぼくとアロンの部屋。
 テオが向かいのベッドに腰かけて両手で顔を覆っている。この光景、やはり以前に見たものだ。つい先日だ。愛している、小声でそう云ったテオはゆっくりと顔を上げる。ぼくはまたもその目から血が溢れているのではないかと恐れる。しかし澄んだミント・グリーンの瞳が二つあるだけだ。

 そう、このお話は終わっちゃいない。
 まだ何かが、ぼくから隠れている。
 目を凝らすとそこにあったのは。
 十字架に磔にされたイエスの幻。

 ぼくの中に聖書の中にある次の一節が流れ込んでくる。

   彼はぶたれても
   じっと忍び
   その口を開かなかった

   屠り場にひかれる仔羊のように
   毛を切る者の前の雌羊のように

   だまって
   口を開かなかった



wrriten by F