青い瞳の生徒会会長、彼の追憶から始まる物語


 木箱を手にした少年が、弾む足取りで広い廊下を歩いて行く。
 天井近くまで張った窓から差し込む光と影が交互に表れ、嬉しそうに頬を紅潮させた少年の小麦色の肌と眩い金髪を見せたり隠したりした。
 木箱の中には、一羽の生きた蝶が閉じ込められている。
 大きさはカサブランカほどで体の中央から外側にかけて青緑のグラデーションになっており、上羽根には黒の斑点がある。今朝、庭で見つけた蝶だ。今の時期、屋敷の庭園には白薔薇が群生し、どこから迷い込んだのか辺りを彷徨っていた青い蝶は、家庭教師の目を盗んで勉強部屋から抜け出してきた少年の目に留まった。茂みに身を隠すようにしながら少しずつ近づいて行く。警戒していない様子の蝶は風に吹かれるままふらふらとなびき、疲れたように葉の上に休んだ。見ると羽の片方が千切れている。それで不安定だったのだろう。
 少年は近頃庭園で見かける黒猫のことを思い出した。
「犯人は、あいつだな」。
 人間の手が近づいても蝶は羽ばたこうとしない。完璧な擬態を成し遂げたとでも思っているようだ。やがて少年の掌が蝶の真上と真下に位置し、ぱたんと閉じればいつでも挟みこめる形になった。図鑑や標本で見ることはできない左右非対称の蝶に見惚れた少年がやや躊躇っていると、彼を探しに来た家庭教師の声が近づいてきた。
「仕方ないんだ」、掌は軽く合わさり捕らえたが、蝶は逃げだそうともしなかった。
(まるで自分がこうなることを知っていたみたいだ)。
 南国の海のような瞳の少年は、なんだか面白くなかった。

「伯父様、驚かれるだろうなあ。ぼくだってこんな蝶を見たことはないもの」
 木箱の中で青い蝶は、庭先で見つけた時よりもますます濃度を増しているように見える。死ぬのかも知れない。
 少年は服の下に木箱を隠し、伯父を驚かそうとドアをそっと開けた。

 中の様子を窺うと、窓際の長椅子に腰掛けた伯父の姿が真っ先に目に入る。まだ二十代前半だというのに若白髪が目立つ。機嫌が悪いわけではないのだが神経質な彼の眉間には小さな皺がとりわけ一つくっきりと癖になっていて、初対面の相手に彼を気難しそうに見せた。
 その性格は昔から陰気なものだったらしい。親戚が一堂に会す席でも一言も発さず、にこりともせず、差し出された料理を黙々と口に運ぶだけだった。食事が終ると庭園で語らうのが一族の常だったがその時も彼は自室に籠もり、時折カーテンの陰から賑わう庭園を窺っていた。と、これは少年が父親から聞かされた逸話だ。
 少年の父親は兄の陰気さを厭うのを隠さず、食事の席ではしょっちゅう冗談の種にしたものだ。密やかな趣味や、兄弟間でしか知らないようなことを公にされてもしかし兄は黙って、まるで耳が聞こえない者のように自分のするべきことに没頭していた。少年の父親はそんな兄をますます卑下した。
 しかしどれだけ自分の父親が親戚に対し後継者候補である兄の印象を悪くしようとそのように努力しようが、少年は伯父を慕っていた。伯父のほうも自分を慕う甥に対しさまざまのことを教えた。蝶や昆虫の生態、植物の生育方法、古い文明や天体について。少年は家庭教師から学ぶよりも伯父から多くを学んだ。人付き合いが苦手で、少年に対しても最初はぎこちない態度しか接してこなかった伯父が次第に心を開き時折微笑みかけてくれることが少年にとって何より幸福だった。父親や親戚が彼のことを蔭口して笑うたび、自分だけは知っている、といった優越感がいっそう募り、ますます少年は屋敷の角にある伯父の部屋に足を運ぶのだった。

「フレデリック卿がついに床に就かれた」。
 その台詞で少年は部屋の中に伯父の他にもう一人、つまり父親のインテル・クロウのいることに気づくと慌てて身を縮めた。
 部屋には伯父の好きな音楽が流れており、微かの物音は気づかれなかったようだ。
 僅かに開けた隙間から少年は片目だけ覗かせてみた。
 声の主は確かにインテル・クロウだった。
 その褐色の肌と金髪は少年が受け継いだものだ。
「お前が失脚させたのだろう」、図鑑に視線を落としたまま伯父のニアガーデン・クロウが云う。
「人聞きの悪いことを」、インテル・クロウは大袈裟に頭を振る。
「冗談だよ」
 言葉と裏腹に悪びれた様子の微塵も無いニアガーデンの表情を見て少年は小さく笑みを浮かべた。
 インテルが不快そうに咳払いをする。
「親戚一同は後継者について論議している。兄さん、論議っていうのはいつも当人のいないところで行われるんだ。フレデリック卿はいまだ御存命だというのに」
「それで、結論は出たのかね」
 少年は部屋の内へ耳を近付けた。
 と、その時、木箱が微かに震えた。
 慌てて衣服の下から取り出して様子を見ると、青い蝶は死に際とは思えないほど活発に狭い箱の内を飛び回っている。それとも、死に際に力を振り絞っているのだろうか。少年は木箱から蝶を逃がそうと思い、硝子の蓋に指をかけた。
 だが、ちょうど耳に入ってきた言葉に動きが止まった。
「ニアガーデン・クロウ。あんたに決まったよ」
 後継者は長子から選ばれる。長男のニアガーデンが選ばれることは不思議ではない。彼が親戚の誰からも見下され、孤立していることを除けば。
「兄さん。おや、何て驚いた顔をしているんだ。もしかしてあなた、本当に私がフレデリック卿を失脚させた犯人だと思っているわけじゃないでしょうね。一族の意見者に手回しし、自分が後継者になろうと目論んでいるもの、とでも」
「いや、すまない。インテル。まさか私が選ばれようとは思ってもみなかったものだから」
「当然でしょうよ。兄さんはこの家の長男ですから」
「しかしお前のほうが人望がある。皆もそちらのほうが納得するだろう」
「ですが本人の意思で辞退できるものではありません。後継者とはつまり莫大な遺産の相続者でもあります。常に誰かから監視され、社交の場へ出て行く機会も増えるでしょうね。兄さんの趣味の時間も激減してしまうことでしょう」
「私は別に遺産など欲しくないのだ。ただ自分の時間が確保されてあれば、それで」
 その言葉を聞いたインテルは体の向きを変え、考え込むようなポーズを取った。
 終わりまで辿り着いたレコードの針を再び最初の位置に置く。それから窓のカーテンをさっと閉め、ニアガーデンの座る椅子の肘かけに腰を下ろした。
「もっとも、どんな原則にも例外というものはありますが。今回の件においてその例外に該当する場合、長子は相続権も後継者としての権利も得られません。もっとも、孤独を愛する兄さんにとってはそちらの方がずっと望ましいことなのかも知れませんが」
「例外とはどのような場合なのだ」
「ええ。任命された長子に、生殖能力が無かった場合のことです」
 少年は木箱に目を戻した。
 蝶の体力が元に戻り弱まっている。人間が浅く息を吐くような速度で羽根を開閉させるたび、燐粉がガーゼの上に零れた。
「しかしあなたは健康な体だ。不健康な生活をしているにも関わらず。任命の儀の夜は後継者の身体検査が行われます。これも我が一族特有の儀式の一環ですね。医師の前であなたは自分に生殖能力のあることを示さなければなりません。つまり、偽ることはできません」
「では、どうしたら」
 ニアガーデンを見下ろしたインテルは内心ほくそ笑んだ。
 兄であるニアガーデンの意思を支配するために、どれだけ早い段階から自分が手を回してきたことか。フレデリック卿含む親戚一同に数々の噂を吹聴し、ニアガーデン当人に対しては時に残酷な手段で、時に唯一の理解者である弟のような顔で接し、この時を待ったことか。
 インテルはこれまでの自分の苦労が必ずや報われると感じた。臆病な兄は自分に協力的だ。相続権よりも一人の時間が欲しいと云う。これは双方を幸福にするための高尚な詐称だ、私は神にも罰せまい。
「インテル、私はどうしたら良いんだ」
「ええ。生殖機能を喪失すれば良いのです」
「一体どうやって」
「ですから、私が手を貸しましょうと持ちかけているのですよ」
 兄さん、とインテルがニアガーデンを椅子の上に横たえ、ポケットから出したハンカチーフをその顔に押し付けた。
「麻酔の一種です。多少の痛みは緩和されるでしょう」
 話しながらインテルは上着を脱いだ。
 いつにも増して青ざめた顔をした兄が抵抗しようとして腕を振り上げるのをそのまま頭上に抑え付けた。
「勝てるわけがないでしょう。兄さんは乗馬さえしないんですから」
「インテル、」
「フレデリック卿はどうして兄さんばかりをかわいがったのだろう。私だって、良い子になろうと努めたのに。私の方が、明るくて美しくて利口だったのに。どうしてフレデリック卿は私よりも、こんな、こんな男を」
「インテル、お前は素晴らしい人間だ。後継者にふさわしいのはお前のほうだと、いつも引け目を感じていた」
「ではなぜフレデリック卿は私をより愛さなかったのだ」
「愛していたとも、インテル」
「黙れっ!」
 首筋に突き付けられた刃物の感触にニアガーデンは口を閉ざした。下から見上げたインテルの目は暗く曇り、呼吸が肌を伝ってくる。
 インテルの口調が突然荒々しいものに変わった。
「知らないとでも思うなよ。お前とフレデリック卿が、父子でありながらどんな関係であるかということを、他の誰が気づかなくても私が気づかないと思うな。夕食の後、お前はいつもフレデリック卿の書斎に呼び出されていたな」
「勉強を教えてもらっていたのだ」
「確かにそういう日もあっただろう。だが、そればかりじゃなかった。お前はフレデリック卿の前では決してその陰気な目つきをしなかった。時折意味ありげに盗み見ては、目が合いそうになると素早く逸らしていたじゃないか」
「インテル、何を云っている。誤解だ」
「誤解。なるほど、誤解」
 鋭い刃の切っ先が首筋から胸、腹を通りその下へ移動する。
「愛されることに慣れた人間が、たった一人の父親から愛されないということがどれだけ惨めか分かるか」
「インテル、落ち着け」
「落ち着くも何も。私はお前の願いどおりにしてやろうとしているんだ」
「すべての息子を愛さない父親などいない」
「そうか? お前の目の前にいるがな。私が妻にララを産ませたのは子供が欲しかったからではない。少しでもフレデリック卿が私を向くようにだ。目的ではない。手段なのだよ」
「ララを愛していないと云うのか」
「フレデリック卿が私を愛さなかったように」
 表情をゆがめて何か叫ぼうとしたニアガーデンだったが、インテルの掌に口元を覆われもはや身動きさえできなかった。薬の作用が彼に急速な眠気を催した。

 少年は光景から目を逸らすために俯いた。
 木箱の青い蝶は生きてはいなかった。
 少年の手から木箱が落ち、乾いた音をたてた。
 硝子の蓋が外れ、中から死骸が飛び出た。
 歪な羽は残ったまま、正常な羽の方が胴体から外れた。
 少年、ララ・クロウは気づく。
 ああそうか、こちらこそが歪だったのだ。
 自分が「けがをしている」と感じていた羽根の形のほうが、実は産まれ持った正しい形だったのだ。
 と。


・ ・ ・ 


 赤いじゅうたん。
 あの部屋のものではない。
 間違うな、ここは生徒会室だ。
 私立セント・ルーズベリー音楽宮の生徒会室。

 今からもう七年以上にもなる入学以前の出来事を回顧していたララ・クロウは自分の下で仰向けになっている少年の顔を真正面に見た。青白い肌。床の上に拡がった黒髪からも香りが立っている。それも自分の幻か、とララは思う。ペリドットの瞳は人形の目玉のようにぶれず、瞬きもしない。呆けたように自分を見上げている。
 まるで汚物。
 まるで純潔。
 まるで呪術。
 まるで救済。
 あれから数年後、ニアガーデンは実弟から多額の手切れを渡され身一つで屋敷を出た。もう二度と一族の前に姿を現さない、その代わりこちらも干渉しない、という約束で。行先は治安の悪いことで有名なグラン・タウン。そこで彼は自分だけの庭園と屋敷を作り、ますます趣味に没頭した。本家では父のインテル・クロウがフレデリック卿を継ぎ、次期後継者となったララにもそれまで以上の英才教育が施された。
 窮屈だった。
 勉強が、ではない。伯父のいなくなった屋敷での生活だ。珍しい蝶を捕まえても喜んでくれる人はおらず、いつまでも子供のように遊んでばかりいてはいけないとかえって束縛がひどくなった。社交に忙しい両親は息子のことは手伝いに任せっきりで、週に数回の食事の席でも親子の会話は少なかった。全寮制のルーズベリーへの入学を希望したのもララ自身だ。一刻も早くあの屋敷を出たかった。父の顔をもう見たくなかった。
 ニアガーデンとは今やほとんど交流はない。人を雇い事情を探ってもらう程度だ。グラン・タウンで彼は少年や少女ばかりを話し相手として招くらしい。庭園造りには大人も招いたが、屋敷の中へは決して入れなかった。招かれる少年少女は日ごとに異なり、謝礼として金額を渡していたらしく噂は広まり、一日中塀の外をうろつく子供の姿が目立った。
 また彼は屋敷の内外で百合の栽培を始め、専門家も顔負けの新種を次々と発表した。その頃からだったろうか。頻繁に一人の少年が招かれるようになったとの報告を受けた。幼い頃のような愛着は忘れたつもりだったが、かつて自分が伯父にとって唯一の少年であったことを思い出したララはどうしてもその少年の存在を気にせずにはいられなかった。さらに詳しく調査させ写真も撮らせた。少年が自分とは似つかぬ、どちらかといえば若い頃のニアガーデンに似通っていることを知った。それは、雰囲気、といったあいまいなものでしかなかったが、まるで出会うべくして出会ったような二人の関係にララは嫉妬した。

 開いたばかりの小鳥の瞳のように黒い髪。
 穏やかなふりした獣の牙。
 人のふりした不埒の堕天使。
 首筋は初雪のように青く無機的だ。
 死界から蘇った復讐者。
 この世の物でない聖性は親愛なるを芳しく惑わした。
 それが今や自分に組み敷かれ身動き一つ取れやしない。
 踏み躙る快楽は他では得難い類だろう。

「どうだい、まいるかい。フィガロ・ルーイッツはお前の過去を知ってしまった」
「そうみたいだな」
「何がおかしい、ユリウス」
 目を細めたララはユリウスのリボンを一気に引き抜いた。
「フィガロはあんたを捨てるだろう」
「伯父を奪った俺から同じように奪いたいわけだな。だとしたら見当違いだ。おれはあんなやつを奪われたくらいで哀しんだりしない。最近付きまとわれて困っていたんだ。それよりおれにはタッソが大切だ。唯一の家族だからな」
「そんな手にのると思うか。あの酒樽とやり合うにはこちらも被害が大きい。それに、あんたがフィガロ・ルーイッツを軽視していないことは明らかだ」
「何故」
「わざわざ朝練に付き合うそうじゃないか。夜の仕事で忙しいのに結構なことだ」
「お気遣いどうも」
「ニアガーデンはあんたに何をする」
「知りたきゃ本人に訊けよ。あのいかれた変態野郎に」
「口の利き方には気をつけろ。ユリウス。お前が春となるかわりにニアがお前とタッソ二人分の学費を負担する契約だってことをこちらは知っているんだ。タッソは学費の出所を知っているのか。自分が学校にいられるのは兄貴が春を、身売りをしているからだ、って。認めているのか」
「生きるすべさ」
「だったら今からすることも生きるすべの一つだな。生殺はこちらの掌中だ」
 ユリウスの全身から力が抜けたのを感じ、ララは不快そうに片目を細めた。
 何故だ。
 何故こいつはこんなにも諦めている。
 簡単に捕らえられた、あの蝶と同じだ。
「優しくなどしない。俺はニアではないのだから」
 そのセリフにもユリウスは鼻で笑った。
 ララには分からないのだ。彼のこれからなしうるであろうどんな残忍な行いも、今なおユリウスの背に鮮やかに残る傷を潰すことはできない。あれを上回る傷を作ることは到底できない、ということを。
 とにかくもユリウスのその態度でララの中から善良な心は消え去った。呆れたような顔をしているタングに合図してレコードをかけさせる。
「見ものだな。終わりまで保つか」
 一本の針が盤上に落ちると、物悲しい音色が室内にゆったりと流れだした。


 窓から差し込む光は昼と夜の間で赤く輝いた。細い窓枠は影になり、光に染まったユリウスの胸部から腹部にかけて歪な十字架を落とす。
「挑発するからだ。あいつ挑発にのりやすいんだよ。昔から」
 仰向けのユリウスが薄く目を開けると煙草をくわえたタングが手を差し出している。
 ララの姿は部屋のどこにも見えなかった。
 あれからどれくらい時間が経過したのだろう。
 体を見下ろし制服を一通り纏っているのを確かめる。全身がだるい。重く感じられる手で首元を触ってみるとリボンタイも元通り結ばれている。
 ペリドットの瞳は独眼の副会長を見つめた。
「あんたか。ありがとう」
「はは。お前、変わったやつだな。気に入ったぜ、ユリウス」
「気に入るな。迷惑だ」
 差し出されている手を無視して一人で立ち上がったユリウスは出口に向かい一歩踏み出したところで膝を崩しよろめいた。
 タングがすかさず支える。
「おい、ちょっと休んでから行け。俺はララとは違う」
「さあ、どうだか」
 しばらく見つめ合った後、どちらからともなく顔を寄せた。残り僅かな距離で無言の駆け引きが行われ、敗北したタングから舌打ちして口づける。
「タング。おれには毒性があるんだ」
「そいつは煽るねえ」
 二人はそれ以上近づこうとはしなかった。
 皺になったシャツの袖でユリウスが唇を拭うのを見ていたタングはがっくりと肩を落とした。
「はあ。ユリウス。学費、他の方法で何とかならないのか。卒業まであと五年もある。ニアガーデンのところへ通い続けるのか」
 じゃあんたが飼えば、と云われればタングは応戦できず気まり悪そうに茶色い髪をかきあげた。いつもは隠されて見えない目元が露わになる。傷痕はララによるものだ。ユリウスはそれを見て関心を示さなかった。
 ユリウスは自分のポケットを探り、煙草が取り上げられたのを知ると舌打ちをした。
「あと三年だ。五年じゃない」
「あと三年。タッソが卒業するまで、か。ニアガーデンの次はタッソに学費を捻出してもらうのか」
 タングは自分の煙草を投げて寄越す。
「おれは中退する」
「だったら何のために入学したことになる」
 その質問にユリウスは答えずただ俯き、一番下のボタンが留っていないことに気づくとそこへ指をあてがった。
「……黙秘権か。ま、話したくないなら訊かないさ。ただ、もったいないなと思ってな。初等の教育を受けてこずによくあれだけの成績を維持できる。お前たちが他の生徒の何倍も努力したからには何か理由があるはずだ」
「べつに。暇潰し」
「潰す暇などないくせに。ま、良いけど」
「けど、何だ」
「あの新聞記事を読んだ時、」
 と、タングは机の上に置かれたままのラインハルト事件の記事を指し、
「おかしな点に気づいたんだ」
 タングのその言葉にユリウスが微かに反応した。
「おかしな?」
「ああ。というのは、ユリウス・シーザーを取り押さえた者の証言の部分だ。発見された時あんたは助手席にいたそうだな。運転席ではなくて」
「反動で飛ばされたんだ」
「ほう。不自然を云うね」
 天井へ向かって煙を吐きだすユリウスの冷え切った指からタングは煙草を抜いた。
「取り返しに来いよ」
「もう、要らない」
 タングは、それを当り前だと思っているユリウスのことが何だか哀しかった。
 奪われることを当り前だと思っていることが。
「ユリウス。推測だが、きみは誰か庇っているな?」
 あえて前置きを省き、思い切って核心を突く。
「どうしてそう思うんだ」
 理由を聞きたがるユリウスのその反応は、推測が外れてはいなかったことをタングに教えた。
「ほら、ユリウス。まばたきが乱れた。動揺したな、今」
「車の中にはおれしかいなかった。文具屋の主人もそう証言しているだろう」
「ああ。しかしそれは発見時のことだ。きみが逃がしたんだ。文具屋が通りの事故に気付き店の奥から飛び出してくるまでの時間に。本当の、運転手をね」
 タングの話を聞いているユリウスの顔が蒼ざめてゆく。
「テオの証言もある。彼は車がぶつかったところから見ていたんだ。おれが嘘を吐いているとして何故彼まで嘘を吐く」
「そこだよね、分からないのは」
「だろう」、ユリウスの表情に一瞬安堵の色が浮かぶ。
 しかしタングは間髪入れず、
「だから、テオ・ベッセルも嘘を吐いている」
 今度は断言した。
「……どうして、そんなややこしいこと」
「きみが嘘を吐いたからだ。嘘を吐いて、身代わりになったからだ」
「だからって、何故」
「ユリウス。きみは知らないか知ってか……。きみの行いは聖書の言葉だ。友のためにその命を捨てるほど大きな愛はない。ここからはあくまで俺の想像だが、その言葉を知っていたテオはきみの行動に胸を打たれた。だから嘘を吐いた。当時グラン・タウンの人間が街の人間に何らかの危害を与えた場合の多くは死刑処分ですまされていた。きみだってグラン・タウンで暮らしてきてそれを知らないわけはないだろう。いや、訊く必要もない。勿論きみはそれをちゃんと分かっていたんだから。だからこそ身代わりになった。子供とは思えない冷静な判断力だ。それとも、子供だからこその一途な判断なのかな」
「そもそもおれは他人に対してそんなに優しくないんだ。身代わりで死刑なんて絶対ごめんだね」
「なるほど。だけどそれが他人でないならどうだろう」
 タングは内ポケットから別の新聞記事を取り出した。丁寧に小さく畳んである。ユリウスの怪訝な顔を見て「父が刑事なんだ。俺も卒業後は同じ道を歩む」と苦笑いした。
「ちなみに、こちらの記事はララにも見せていない」
 記事を受け取ったユリウスはその日付が今から十年以上も前のものであることに驚いた。
 内容を暗記しているタングが読み上げる。
「今から十数年前、グラン・タウンで殺人事件があった。被害者は黒髪の美女。と、その息子らしき幼児。同じく黒髪のね。母親であろう美女のほうは肩から胸にかけて、息子のほうは背中に、鉈のようなもので切り付けられた跡があり、死因は失血だと考えられた。事件が記事になった当時、犯人は逃走中。まあ、ここまでは珍しくもない。グラン・タウンにおいてはね。それが翌日も記事になったのは、奇妙なエピソードがくっ付いてきたからだ」
 語りながらタングはユリウスの表情をつぶさに観察した。
「あわれな母子の遺体は一時的にグラン・タウン内の教会に安置された。しかし翌朝になって鍵番が入ってみたところ子供の遺体だけが消えていた。入る時に鍵が開いていたのだがこじ開けた痕跡はなく、他に入口はない。窓はあるが鉄格子がはまっておりそれにも異常がない。出入りするところといったらやはり正面の扉だけだ。ちなみに鍵番は遺体を預かってから翌朝まで行きつけのバーで飲み明かしており、バーの主人とその他の客からアリバイは得られている。合鍵は作られていない。実際おかしな話だと街の誰もが首をかしげた。まるで子供の遺体が真夜中にむっくりと起き、自ら内側から鍵を開けて出て行ったみたいだな、と」
 そこでタングはいったん言葉を切ると、俯いたユリウスの手から記事を取り上げた。
「どうしてさっき途中でララにうつ伏せを強いられた時、頑なに拒んだ」
 背後に回ったタングはユリウスのシャツのボタンを乱暴にむしり取り、一気に引き下ろす。
 沈みゆく太陽が放つ最後の強烈な輝きが、あらわになった背を映し出した。

 翼をもがれた天使だ、タングは悲痛に目を細めた。

「教会で息を吹き返した君は隣に母親の死体を見つけた。自分が天涯孤独になったことを知った。……タッソとはどうやって出会った」
 暗がりの中でユリウスがゆっくりと長く息を吐いた。
 沈黙は実際わずか十数秒のことだったが、タングは数分にも感じられた。
「父親を、殺そうと探した時」
 自分には話すつもりなのだと悟ったタングはついさっき乱暴に引き下ろしたシャツを今度は丁寧に着せた。
 誰が真実を知るでもない呪縛の痕跡を残した背中。何年か経って大きな痣になろうが、そのけがれのために永遠に美しい背中だろう。
「父親?」
「おれとアンナを殺した男さ」
「……そうだったのか」
「タッソはあいつの家で暮らしていた。一緒に行こうともちかけるとすんなり付いてきた。子供二人で暮らし始めて、三年くらいかな。ニアがグラン・タウンに屋敷を建てたのは。金づるとの御対面、ってわけ」
「そこで知り合ったんだな」
「全部ララに伝えるかい、副会長さん」
「中立者はフェアだ」
 タングがきっぱり云うとユリウスから力の抜けた笑い声が返ってきた。
「はっ。フェア、か。そいつは傑作だな」
 そのまま立ち去る気配がある。腕を掴むが振り払われ、もう一度試しても同じだった。
「離せ。あんたもしつこいな。もう充分だろ」
「すまなかった、ユリウス。許してくれ」
「許すも許さないも知ったことか。グラン・タウン出身ですから手酷くされるのは当たり前。それくらい慣れてる。そんなことより、いい加減、手、離せよ。タッソが下で待ってるんだ」
 タングは思わず腕時計の文字盤に目を落とした。
 まさか。
 そう思うが、ユリウスに待っていろと云われればどれだけでも待っているだろう。それだけの二人だ。二人で耐えることに特化した二人だ。
 つま先に伸びてきた光の筋に顔を上げると、ドアを開けかけたユリウスがタングを振り返っていた。
「良いか、副会長。あんたやララが何を仕掛けようがあいつだけはあと三年で卒業させる。必ずだ」
「何故そこまで」
「弟だからだ。面倒を見るのは当然だろ、兄貴としてはな」
「だからって、どうしてそこまで」
「おれにはもう、タッソだけなんだ。身内の多いあんたには分からないだろ、こういうの」
 タングにはユリウスの声が掠れているように聞こえた。
 二人の間を沈黙が流れる。
「そうだよ。タッソを庇ってる」
 突然の告白は、数秒後だった。
 驚きで言葉を継げないタングにユリウスは、
「身代わりになる時、何も考えなかったわけじゃない。ニアガーデンが引き取ってくれると見込んだんだ。おれなら何とかなる。当時タッソはルーズベリーの第二学年で、学費はグラン・タウンでおれが稼いでいた。事情を知っている校長のおかげで滞納分も大目に見てもらえていたけど、やりくりが相当苦しかったのは事実。ニアガーデンはそのことをよく知っていた。彼からもちょくちょくお金を借りていたからな。そんな時にあの事故だ。休暇を利用して二年ぶりにグラン・タウンに戻ってきたタッソは賭場でおれを見つけた。運悪く詐欺がばれた瞬間。客はそりゃあ怒ったよ。おれは集団に殴られた。気が短いんだよ、グラン・タウンの大人って」
 瞬きを忘れたユリウスの瞳が乾いてゆく。
「その客の輪にタッソが体当たりして一瞬の隙が生まれた。走ったって子どもの足じゃすぐに追いつかれる。その時ちょうど通りに貨物車が停まっていた。運転手は積み荷を降ろしている最中で鍵は付けっぱなし。咄嗟に運転席に飛び込んだよ、後は、記事にあった通り」
 ユリウスの指がテーブルの上の記事を指す。
「それで、ニアガーデンが引き取ってくれた時のことだけど。彼にとっての見返りといったら、おれしかいないじゃないか。彼は屋敷から外へ出られないんだ。絶家された元貴族は孤独な上に性的不能、恋人もいない。おれがいつ来なくなるかといつも怯えていた。援助を口実にすれば繋ぎ止められると思ったんだよ。そしてそれは正しかったんだけど」
「そんなの、全部……作り話だ」
「作り話! あんた到底グラン・タウンでは生きていけないな、とんでもない坊ちゃんだ!」
 ユリウスは笑いを噛み殺した。
「抱くんだったら金出せよ」
 わざとらしくリボンをねじってくる少年をタングはよっぽど殴ってやろうかと思ったが、彼はすでに十分痛みを知っていると思い直した。
「それともグラン・タウンの人間なんて坊ちゃんには聞くのも汚らわしいか?」
「……」
 沈黙を誤解したユリウスが首に腕をまわしてくるのをタングは止めさせた。
 すると、つい先ほどまで妖しく艶やかな笑顔を浮かべていたユリウスの面からすっと表情が消え、声色が一段低くなった。
「そっちだけが正しいふりをするなよ。あんた達だって間違ってるんだ」
 それは自分だけに向けられた言葉ではないような気がタングはした。
 無法地帯グラン・タウン。
 そこから這い上がってきた少年の発する言葉には自分の生い立ちに対する単なる不平不満以上の深刻な重みがあった。
「覚えておくんだ、ユリウス。悪いものだけで占められるほど世界は狭くないんだってことを」
 タングはようやく声を振り絞った。
「フィガロ・ルーイッツはきみを気遣い始めてから随分と変わってきた。以前はルームメイトとしか話すことのなかった彼が今じゃ合唱団で頑張っている」
「それが?」
「きみは生きている。本当はより愛されたい。そうでなきゃ何故俺に話す。他言などする」
「だって、どちらにせよおれはもう、」
「もう、何だ?」
「いや。何でもない」
「……まさかとは思うが、死んだりするなよ」
「今さら死ぬくらいならもっと早くに死んでいるさ」
「そんなこと云うもんじゃない。本当のことでも」
「はあ。あんたって相当なお節介焼きだな。もっとさっぱりしたやつかと思ってたのに見当はずれ。愛は余所をあたってくれ。あんたが惹かれたのは事実おれじゃなくておれの中を巡ってる毒のほうなんだ」
「どういう意味だ」
「何でも比喩と思うなよ」
「できれば、俺を信じろ、と云いたいところだがそれも無理そうだな。もっと早く接触すれば良かった」
「気を落とすなよ。おれはもともと誰も信用しない。どうして誰かを信用したりできる?」
 ユリウスはちょっと振り返り、にっこりと笑った。
「また殺されるためにか? どうでもいい虫けらみたいに」
 一瞬の笑顔は惜しむ間もなくするりと消え去った。
 羽根のない背中が階段の下へ見えなくなっていく。
 残されたタングは壁に体を預けると灯を吹き消し、その場にずるずると座り込んだ。