誰かが餌を持ってくるのか、ガロの毛並みは日に日に艶やかになった。頼りなかった足取りも今は問題ない。噴水の縁に腰かけたぼくが揺らすつま先にじゃれついてくる。
「はあ」、これで二十五回目の溜息。
鼻水でぐちょぐちょになったハンカチーフをポケットに突っ込んだ。もう泣かないぞ。
ぼくは、整理しなくては。
何を知った。
何をまだ知らない。
落ち着かなくては。
深呼吸。
だけど気づいたら溜息に変わっている。ほら二十六回目だ。
ぼくは膝の間に顔をうずめた。遊び相手を失ったガロは噴水の縁にあがってくるとぼくに全身をこすりつけた。
「うう、ごめんよ、ガロ。でもぼくはきみの相手をしている場合じゃないんだ。そんな気分じゃないんだ」
涙が次々に溢れ出て、膝頭が濡れてしまった。もう何も考えたくない。今は泣けるだけ泣きたい。何が何だか分からないし、分かり過ぎてしまったし。
次にぼくが再び顔を上げたのは、ガロまでが鳴き始めたからだ。
「何だよ、おまえまで泣くことないだろ。ううっ。ぐすぐす」
その時ふと、アーチの向こうに人影が見えた。
こ、こんなところ見せられないや。
相手が誰だか分からないけれどぼくは体育座りの状態から慌てて立ち去ろうとしてバランスを崩し、噴水の中へひっくり返ってしまった。
「ぎゃっ」
五月になって日中は暖かくなったとはいえ、夕方はまだ肌寒い。噴き上げられた水の落下を頭で受け止めながら、ぼくはざぶざぶと縁に上がった。う、うう。ツイていないにもほどがある。
「何をやっているんですか」
し、しまった。見つかってしまった。こんな姿を見られるくらいなら泣き顔見られたほうがまだましだった……ぼくは無言で縁の上に立った。犬のように体を振って水気を飛ばそうとする。
「あの」
心配なんてしないで欲しい。
どっか行って欲しい。
もうみんなぼくを放っておいてくれ。
「き、気にしないでよ。みんな嘘つきで大嫌いだっ」
「あの、……どうしてくれるんですか」
「えっ?」
そこでようやくぼくは顔を上げた。
第一学年のクラウス・ランデイが濡れた顔をハンカチーフでぬぐっているところだった。
「く、クラウス! きみか! ご、ごめん。それ、ぼくのせいだね」
「いえ、別に怒ってませんから」
って、すごく怒ってるじゃないかっ。しかもこの上もなく爽やかな笑顔で。ぶるぶる。
ぼくは自分のハンカチーフも貸してあげようと取り出したけど、すでにびしょびしょだった。
「くすっ」、クラウスが吹き出す。「ほんと、何やってるんですか。面白いひとだな」。
「き、きみこそ何やってるんだ。今日はエーベルと一緒じゃないんだな」
唐突にぼくの背後に回ったクラウスが「どうぞ」と云った。何が「どうぞ」なのか一瞬分からなかったが、どうやら「ガウンを脱げ」ということらしい。そ、そうか。ぼくはクラウスに手伝ってもらい、水を吸って重くなったガウンを脱いだ。幸いなことに季節はずれのガウンを羽織っていたおかげで下のセーラー服はそこまで濡れていない。靴下は、まあ、被害に遭ってるけど。これくらいなら我慢できる。
「四六時中いつも一緒だとは限りませんから」
とは、意外なことを聞いた。
その間にもクラウスはぼくのガウンをぎゅっと絞り、少しでも早く乾かそうと広げて近くの木の枝に吊るしてくれた。てきぱきした動作。うっかりすべてをゆだねてしまう。
「あ、ありがとう。クラウス」
「お礼を云われるようなことは何も。それより、良かったらこれどうぞ。あなたのは使い物になりそうに見えませんから」
そう云ってクラウスはポケットからまた別のハンカチーフを取り出してぼくに差し出してきたのだ。いったい何枚の予備があるんだろう!
そういえばクラウスがエーベルの身だしなみを整えてあげる光景を日常的に見かける。あまりに日常的すぎて自然になっていた。服を整えたり、髪の毛をとかしてあげたり、取れかけた靴ひもを結んであげたり。気にも留めなかった一つ一つの仕草。いざ自分がしてもらえるとは思ってもみなかったので、ちょっぴり感動してしまった。と同時にまた哀しい気持ちがこみ上げてきた。誰かに優しくされると、涙脆くなる。これはぼくの、きっと甘えなんだ。
ぼくは生徒会室での出来事をすべて話したくなってしまった。新聞記事のことも。クラウスって、ひとりでいると、エーベルと一緒にいる時よりずっと大人びている。ぼくがどんな話をしたって落ち着いて静かに聞いてくれそうだった。勿論、後でエーベルに話さないって保証はないんだけど。
赤い夕陽が中庭を照らし出す。
いつの間にかガロはいない。
ぼくはぽつぽつと話し出していた。一応名前は伏せて人物を特定できないように。あたかも空想上の物語として話したつもりだったけれど、その途中でぼくの頭にはやっぱりユリウスの顔が浮かんできて、テオの顔が浮かんできて、思わず名前を出してしまいそうになった。
クラウスはぼくが話している間は一言も口を挟まず、時々は静かに頷いていた。
「と、いうお話なんだ。分かりづらかったかな」
「いえ、大まかには分かりました。それは、つまり、ユリウス・シーザーとテオ・ベッセルのことですよね」
「う、うん……」
そう、そう。
まさにその二人のことなんだよ。
って。
「え、ええっ! どうして分かったの!」
ぼくは思わず飛び上がって彼の前に回り込んだ。身長はほとんど変わらないと思っていたけれど、クラウスの方が少し高い。ぼくをやや見下ろしながら「顔に書いてあります」と云う。慌ててほっぺたを擦った。い、いつの間に顔に書いてしまったんだろう。
「じゃ、じゃあきみは知ってたんだね。ユリウスがラインハルトを……」
「いえ。今初めて知りましたよ。知っているわけないじゃないですか。赤の他人ですよ。学年も違うし」
「え、じゃ、じゃあ、どうしてそんなに落ち着いていられるんだよっ」
「感情表現にも個人差はあるんですよ。誰もがあなたのようにオーバーリアクションするものと思わないでください。だいたい、どうしろって云うんです。取り乱せば取り乱すほど、その分なかったことにできるんですか。過去は変えられない。既に起こってしまったことに慌てふためくなんてナンセンスです。いや、ナンセンスなだけならまだしも、時間と体力を浪費します。つまりは無駄です」
クラウスって、なんとなくテオに似ている。いやみなくらい落ち着き払って見えて、しかも問題はそれが本人にしてみればちっともいやみじゃないってところがだよ!
「そ、そうかもしれないけどさ。で、でも」
「あなたが動揺するのも無理はないです。ぼくもとても動揺しています」
「そ、そうなの。ほんとかな。そうは見えないけどな」
「しています」
鳴き声が聞こえて、どこからともなくガロが戻ってきた。口に小鳥をくわえている。首筋に牙を立てられた小鳥がまだ逃げようともがき羽ばたくので辺りに羽根が散った。ガロは逃がすまいとして翼の付け根に鋭い爪を立てた。なんてひどいことをするんだ、とガロを叱ろうかと思ったけれど、それはひどいことでもなんでもない。自然なことだった。
ぼくは見えているものだけしか見ていない。
小鳥が殺されかけている。血が流れている。可哀想だ。なんてひどいことをする黒猫だ。
だけど見えない部分を想像することができたら、見ることができたら、そんなふうには思わない。思わないだろう。これは生命の輪なのだ。美しい形だ。ガロが小鳥を食べてしまうことは弧を輪にするための一点にすぎない。
「それに」、クラウスもガロを見ていた。小鳥に同情する様子などちっとも見せない。だけどまだぼくは彼ほどになれなくて、違う方向に目をやった。花が咲いていた。しかしそれだって同じことだ、と思う。その花が咲いたのは、隣の花が枯れたからだ。ほら、同じ。同じことだろ。
「それに、殺したという云い方は正確ではないでしょう。ユリウスはラインハルトを死なせてしまったのであり、殺したわけではないですよ」
「ど、どういう違いが」
「あなたの認識の上では、特に」
ぼくには分からなかった。
その時、アーチの向こうからまた新たな人影が見えた。
「エーベル!」
咄嗟に立ち上がったクラウスが名前を呼ぶ。クラウスの姿に気づいたエーベルは笑顔になって駆け出した。この二人にはぼくのことなどまるで見えていないみたいだ。うう。
エーベルを待つ間クラウスはぼくを見ずに云った。
「お節介かも知れませんが、ぼくからあなたに一つだけ云っておきます。本当にその人を思っているなら正しいことを諭すべきだ、と教師は云いますね。しかしぼくの信条はこうだ、」
愛する者が犯すなら、汝はその罪をも愛せ。
「今のは喩えですけど。それとも、あなたの愛って所詮その程度のものなんですか」
「クラウス!」
そばまで来たエーベルはやっとぼくに気づいて首をかしげた。
「……あれ、フィガロ。どうしてあなたがここにいるの。ぼく、クラウスとだけ約束したんだけど」
「ぼ、ぼくは。た、ただ、話していただけだから」
慌てて木の枝にかけてあったガウンを掴む。まだ乾いていなかったけれど。
へんなの、とエーベルの声が聞こえた。
そのとおり、とクラウスが答える。
うう。
ううう。
「幸せ者のふたりには、わかんないよっ」
ぼくはここへきてようやく仕事を思い出し、案の定てんてこ舞いになっているアロンを助けるべく図書館へ走ったんだった。