タッソとユリウスの部屋に辿り着くまで他の寮生に見られやしないかとぼくは気が気じゃなかった。
見つかったからといって罰則があるわけじゃない。自分の寮以外の寮に入ってはいけない、という決まりもない。
ただ、ここはペトロス寮。
三つの寮の中で一番不良が多いところなんだ。入ってしまった以上、用心するに越したことはない。勿論、入らないことが何よりの用心なんだけど。
「うう、アロン。こ、こんな奥まで来ちゃったよ。どうしよう」
「だいじょうぶだって、見つかったって殺されるわけじゃないだろ。それに、いざ問い詰められたらこれを見せれば良いんだ、ほら。ユリウスのリボンタイを拾ったので届けに来たんです、ってな」
その時ぼくたちのすぐ後ろのドアが開き、中から誰かが出てくる気配があった。
「ひゃっ」
ぼくとアロンは咄嗟に目の前の部屋に転がり込んだ。ありがたいことに鍵はかかっていなかった。
「あ、アロンっ。きみ、たった今、見つかったらリボンを見せれば良いって云ったじゃないかっ。なんでこそこそするんだよっ」
「う、うるさいなあ。だいたい今のはフィガロがいきなり背中を押すから俺だって思わずドア押しちゃったんだよ!」
そう、ドアを。
お、押しちゃったんだっけ!
ぼくたちはようやく今いる部屋が誰の部屋であったかを思い出し、がたがたと震えながら顔を上げた。室内の灯りがついていないので様子をはっきり知ることはできないが、暗がりの中からこちらをじっと睨んでいる鋭い視線を感じる。
「す、すいませんでしたあっ」
謝罪もそこそこに素早く回れ右をしたアロンとぼくが互いに足をもつれさせながら我先にと出て行こうとすると、ドアにダートが突き刺さった。
「ぎゃあっ」、膝裏の力が抜けてぼくはその場にお尻をついてしまった。
「フィガロ、早く」
「う、う。アロン。きみだけでも逃げて」
「何云ってんだよ、一緒に行くぞ、立てったら」
「ご、ごめん。で、でも。力が入らないよう」
部屋の灯りがぱっと点いた。
ぼくとアロンは観念するように目を瞑る。
「……ちっ、やっぱりお前らか。こそこそついてきているやつがいると思ったら」
タッソが近づいてくる気配がする。
ぼくはアロンにしがみついた。
「……ふん。他の生徒に見つからないように帰れよ」
え?
ダートが壁から抜かれる音がしただけで、タッソは部屋の中へ引き返して行った。おそるおそる目を開けると、初めて部屋の様子が分かる。
ベッドや机の位置はぼくらの部屋と変わりがない。広さも同じくらいだ。向かいの壁には的が貼られ、ダートが数本刺さっていた。ぼくらから向かって右側のテーブルにはいろいろな食器が並んでいる。食べかけのパイらしきものも見えた。そういえばタッソ、料理が得意らしい。ユリウスが云っていたっけ。じゃああれはタッソが手作りしたものかな。
ベッドではユリウスが仰向けに眠っている。この騒ぎの中で目覚める様子もない。見事に爆睡だ。す、すごい。
タッソは片方ずつユリウスの靴を脱がせた。ぼくとアロンが見ていることなど気に留めない。それからユリウスの背の下に手を差し入れ上体を抱え上げた僅かな隙にシャツを剥ぎ取って寝巻きに着せかえる。
ユリウスの白く浮かび上がった裸の背にぼくは骨の出っ張りとは違った凹凸を認めた。古い傷のようにも見えたけれど。ただの錯覚かも知れない。
膝の調子が戻ったことを確認するとぼくはそのままユリウスの寝ているベッド脇に寄り添った。
タッソが一瞥する。「何か用だったか」。
「ぼ、ぼく、今日の放課後、生徒会室にいた。ララ・クロウとタングが一緒。そこに、ユリウスが来て、色々あって」
タッソは興味を失ったようにぼくから目をそらした。
「それで、ぼく、逃げてきちゃったんだ。ぼ、ぼくだけ逃げてきた」
洗面台へ行ったタッソは濡らしたタオルを手に戻ってくるとそれはもう丁寧な手つきでユリウスの喉に充てた。
「ぜ、全然起きないんだね」
「俺の感触を知っているからな。安心しているんだ。ふん」
「せ、背中、だいじょうぶかな」
「背中のは、昔からだ。今日つけられたものじゃない」
あ。さっき、ぼくが見ていることを知っていたのか。
「……フィガロ。全部聞いたんだな。ラインハルト事件のことも」
「タッソは、知っていたんだ」
タッソからの返事が途絶える。
「お、おい。フィガロ。もう行こうぜ。ここ、危険だって。おれまだ死にたくないよう」
服の袖を弱腰のアロンが引っ張る。
ぼくは最後にもう一度ユリウスを見下ろした。死んでいるんじゃないだろうか、というくらいによく眠っている。ただ眠っている。ぼくは泣いてしまわないように慌てて踵を返した。どれだけ泣いても涙は枯れない。ぼくの中に涙の泉でもあるんだろう。そうでなきゃ、おかしいよ。こんなこと。あんなに泣いたのに。まだ泣けてしまうなんて。何が哀しいのかも分からないのに。
いや、きっと。
ユリウスの寝顔を見ていると、なんだかとても幼くて、ぼくが、ぼく達がいつも見ているユリウスがいかに気を張り詰めているかに気づいてしまったからなんだ。
何でも器用にこなせる能力も、いつだって穏やかに笑っていられる余裕も。
きっと最初から生まれ持ったものじゃない。
「おい、くそチビ。フィガロ・ルーイッツ」
泣き顔を見られたくなく踵を返したものの、呼ばれて反射的に振り返る。
ぼくを見るタッソの目があまりにまっすぐで、こちらも逸らすことができない。
「俺は、ユリウスが望むことのためなら何でもする。誤解を受けようが、何されようが、また他人をどれだけ傷つけることになろうが、本当に何だってする。校則も法も無視できる。もしそれをユリウスが望むなら、だ。俺にとってのルールと正解はユリウスだけだ」
やっぱりタッソは知っている。
知っていて、こんなふうに云える。
それなのにぼくは、逃げただけだ。
タッソの目が細められる、「じゃあ、お前は、何ができる?」
何が、できる。
「ぼ、ぼくはそんな。何ができるとかできないとか。ただ、仲良くなりたいって思っただけで、その」
「ふん、やはりその程度か。だったらもう近付くな」
「え?」
「今後ユリウスに近付くな」
「ど、どうしてそんなこと云われなくちゃならないの」
「忠告だ。チビの手にユリウスは余りある」
ぼくはアロンの制止を振り切り、ユリウスのベッドを挟んでタッソと対峙する形になる。
「何だよ? くそチビ。聞こえなかったのか」
めげずにぼくは顔を上げ、タッソは見下ろす。
時が経過した。
目を逸らしてしまいそうになるのをぐっと堪え、二つの視線がぶつかる地点に青いリボンタイを握る手を突き出す。
「これ、ユリウスの。入口に落ちていたよ」
「あ? ……ああ。ほんとだ。サンキュ」
目線が逸らされる隙を見て、ぼくは。
ぼくはベッドに身を乗り出し、ユリウスにキスした。
「なっ、フィガロ! ちょ、え、おま、何やってんの!」
慌てふためくアロンの声を背後に聞きながら、ぼくは再びタッソと対面した。
「ぼくは、これだけできる。ユリウスのためなら何でもできると云っているきみの前で、ユリウスにキスができる」
後ろでアロンがぶつぶつと祈り出すのが聞こえた。
「主よ、天にましますわれらの父よ、願わくは向こう見ずなフィガロ少年を御救い下さい、彼は彼のなすところを知らざればなり……おお、アーメン!」
アロンの大げさな呟きを聞き流しながらぼくは、タッソを見上げた。
「ううう」
「………」
「うううう!」
先に目を逸らしたのはタッソだった、「……ふん、なるほどな。覚えておく」。
あれ、今、タッソ、ちょっと笑った?
その後どうやってタッソたちの部屋を脱出したか覚えていない。大方アロンに引きずられるように、だろう。後で聞いたところによると、部屋に戻ってからもぼくはぼうっとした顔で何を云っても上の空だったようだ。
その夜ぼくは夢を見た。
窓枠に腰かけたユリウスの夢だった。
彼のもとへ行くためにはいばらの垣根を乗り越えなくてはならなかった。ぼくは怖気づかなかった。まっすぐに彼のもとへ進んだ。すると垣根は案外たやすく道を開けた。ぼくは彼の背後に立つ。以前は赤い涙を流していたけれど、その夜ぼくを振り返ったユリウスは泣いてなどいなかった。蕾が綻ぶように微笑み、翼は折れていなかった。望めば羽ばたくことができる。彼はぼくのそばへ来た。上方からゆっくりと近づいてきて唇が重なった。
ぼくは口吻したまま目を開ける。
ユリウスの瞼は白く、百合の花弁に似ている。
それを知った瞬間体の中心で何かが勢いよく弾ける爽快な感覚があって、目醒めたぼくはその夜もう二度と同じ夢を見ることができなかった。
隣のベッドでは枕と一緒にずり落ちそうなアロンがむにゃむにゃと寝言を云っていた。
見上げた月はさかさまに大きくてまんまるかった。
膜は今にも破裂して真っ黒な夜に白い閃光が迸りそう。
緑の祭典まであと二週間。