14


 ふわふわと漂っている。
 ぼくはくらげでここは海の中かな。
 それともぼくは雲でここは空の上かな。
 両手両足を動かすとぼくの体は思い通りに進んだ。
 ああ、気持ちが良い。
 このまま一体化してしまいたい。
 だけど、少し苦しいな。
 ぼくの体は下降し上昇する。
 い、息ができない。
 地上へ向かって落ち、地上へ向かって昇る。
 駄目だ、間に合いそうにない。
 うう、く、苦しい。

「ぶはあっ!」

 ベッドの上で体を起こしたぼくは傍らに立っているアロンを睨んだ。何故かもう制服に着替えている。リボンタイまでしっかり締めて。
「く、苦しいだろ。何するんだよ、アロン!」
 アロンはついさっきまでぼくの顔に押し付けていた枕を自分のベッドにぽんと投げ戻し、悪びれない態度で「遅刻だぜ」と、わざとらしく腰に手を当てた。
「ち、遅刻?」
 息を整えて枕元の時計を見る。
「何だ、まだ始業前じゃないか。驚かすなよ、アロン」
「待て待て。フィガロ、今日から始業前にも合唱練習するってテオが云ったの忘れたわけじゃないだろ。初日から遅刻はやばいって。フィガロ、何回声掛けてもゆすっても起きないんだもんなあ。昨夜は一緒くらいに寝たはずだろ」
 始業前、合唱練習。
 はっ。
 そうだ、思い出した。
 ぼくは無言で起き上がると慌てて着替えを済ました。鏡を覗き込みかなり目立つ寝癖に気づいたけれど整えている暇はない。指揮者テオから氷の雷を落とされるに比べれば寝癖なんかほんとどうだっていい些細なことだ。
「おっ。この調子だと遅刻せずに済みそうだぜ」
 アロンが入口で急かす。すでにぼくの譜面も準備してくれている。
「あ、ありがとう」
 寮を出て小走りに音楽室へ向かいながら、アロンが昨夜のことを訊ねてくる。
「え? な、何」
「だから。フィガロ、ゆうべ何かうなされてなかったか。寝不足、そのせいだろ。おれが寝坊するなら分かるけどフィガロが寝坊っていうのはちょっとびっくりしたよ」
 満月。
 ぼくは昨夜のことを思い出してひどい罪悪感に襲われた。ユリウスにキスされる夢を見て、あんな感覚を起こしてしまうなんて。
「気にしないで。アロン。別に何ともないから」
「ふうん、それならいいんだけど」
 アロンは大して気にしていたわけでもないらしく、すぐに別の話題に移った。
 ぼくは顔が熱くなるのを感じた。

 音楽室に辿り着いたぼくとアロンはドアの前で歩みを止めた。向こう側から漂ってくる異様な気配を感じ取ったのだ。顔を見合せ、もう一度ドアに目をやる。
「な、何事だろう」
 しかしこのまま立ち尽くすだけでは分からないばかりなのでぼくたちはようやく音楽室に足を踏み入れたんだ。
 空気が、どんよりとしていた。
 こ、これじゃまるで誰かのお葬式みたいだよ。
 グランドピアノの周辺に少年達が全員集まっている。まだ練習は始まっていないのに。いったい何をしているんだろう。 いつもなら窓際から様子を窺うだけのエーベルとクラウスもその輪の中にいる。どうやらピアノの内側に何かあるみたいだ。
 ぼくは輪の外でうずくまっているローレンツを見つけて声をかけた。
「ローレンツ、大丈夫。気分悪いなら医務室に、」
 ゆっくり顔を上げたローレンツの目には涙がいっぱいに溜まっていた。
「ど、どうしたの、ローレンツ!」
 彼は黙ってぼくに抱きついてくると肩の上に涙をこぼした。襟の内側に落ちた涙が熱い。
 ローレンツが泣く理由も、音楽室一体に漂うこの異様な雰囲気の原因も、あのピアノの中にあるんだろう。
「一体、何が」
 ローレンツに抱きつかれてぼくはすっかり身動きが取れなくなってしまい、アロンが輪の中に押し入っていくのを見ているだけだった。
「な、何だっていうんだよ。ねえ、アロン」
「フィガロ、こりゃ先生呼んできたほうがいいぜ。よし、おれ呼んで来る。あ、でもその前にアレどうにかしたほうがいいのか。いや、先生が来るまでは動かさないほうがいいか」
「アレって何だよ」
 事情が分からずもどかしく思うぼくの耳元でローレンツが嗚咽混じりに喋る。
「死体だよ」
「死体?」
「ガロだよ」
「え?」
「ガロが、殺されているんだ。口に白百合を詰め込まれて」
 そこまで云ってローレンツはぼくの体にますます強くしがみついた。
 背筋が凍る。
「だ、誰がそんなひどいこと」
 ガロが。
 黒猫のガロが。
 殺されて、いる?
 口に、白百合?
「何事だ」
 その時、入口にテオが現れた。口々に喋っていた生徒達がまるで条件反射のように一斉に口をつぐみ、それからは誰からとも云い出しにくそうにもじもじと俯いた。
「いきなり黙るなんてさらに怪しいな」
 そこでテオは力なく座り込んでいるぼくとローレンツに気づいて眼鏡の奥の目を鋭く細めた。
「おい。誰が、ローレンツを泣かせたんだ」
「黒猫を殺した犯人だよ」
 最初に口を開いたのはエーベルだった。顔色はやや青ざめているものの、もういつもの調子を取り戻している。
「黒猫を殺した犯人、だと」
 そこでテオは全員の視線の行先を辿ることでピアノの内側に何かあると気づいたらしく、つかつか歩み寄り中を覗き込んだ。
 ぼくは彼の表情を注意深く観察した。しかしテオが眼鏡の中央に中指をあてたためはっきりと変化を見ることはできなかった。
 ぼくは横でまだ何事かぶつぶつ云っているアロンに訊ねた。
「ね、ねえ。本当にガロだったの」
「ん? ガロって」
「猫の名前だよ」
「ああ、名前なんかあったのか。フィガロ、あの猫知ってるのか」
「あの猫って云われてもぼくは見ていないから確かか分からないけど、黒猫っていったらガロのことが咄嗟に頭に浮かんで。ガロは裏庭に住んでいるんだ。ユリウスが助けて、」
 気配に顔を上げるといつの間にかテオが傍に立っていた。
 ぼくは彼のミントグリーンの瞳をじっと見上げた。硝子の向こうの瞳には動揺も怯えの色も見えない。いつも通り落ち着き払って冷静だ。
 テオはぼくの腕からローレンツを受け取ると、初めて表情を和らげた。
「大丈夫か。ローレンツ」
「ううん、だめ。まだ怖い。震えが止まらない」
「ほら、俺がいるだろ」
 そうやってテオがローレンツを抱いたので第一学年の子供たちはとても恨めしそうな顔をした。
「先生への報告は?」
「まだだ。おれ、行ってくるよ」
「頼む、アロン」
 てきぱきと指示を出し、テオはメンバーを合唱台の上にいつも通り並ばせた。早朝の音楽室で起こった残忍な事件に戸惑っている少年達はテオを頼りきり素直に従う。
 椅子に座らせたローレンツが落ち着くのを待ってテオはみんなに告げた。
「このことは先生方にお任せしよう。詳しいことは犯人を捕まえてから本人に聞けば良い。自分達は今なすべきことをしよう」
 テオがそこで話を切り上げようとすると合唱団のメンバーのうち、ペトロス寮生の一人が声を張り上げた。
「犯人? それは誰のことを云ってるんだ。テオ・ベッセル」
 テオは広げた譜面に目を落としたまま答える、「特定したつもりはないが」
「ユリウスだ、って云いたいんだろ」
 音楽室の空気が凍り付く。
「指揮者と伴走者の不仲は有名だぜ。なんたって人形と死神の因縁だからな」
 ぼくは震える手を握りしめ、呼吸を止めた。
 沈黙の数秒後、テオは譜面からゆっくりと顔を上げた。
「俺が黙れと云ったんだから黙れよ」
 で、出た。
 氷点下の落雷。
 圧倒的に威圧感のあるテオの視線にひしがれて反論もできなくなったそのペトロス寮生のことをぼくは気の毒にさえ思ったくらいだ。よく聞けば理不尽な云われようだけど、それもテオの言葉だからこそ凄味と説得力がある。

 やがて音楽室のドアが開き、「連れてきたぜ」とアロンがピースサインをした。
「校長先生!」
「来る途中でアロンから話は聞いています。あなた達は心配せず練習に専念してください」
 私立セント・ルーズベリー音楽宮の現宮長リンド・ルーズベリーは恰幅の良い白髪の男性で、彼もまたルーズベリーの卒業生だ。貫禄あるリンドの到着は少年達に安心を与えた。
「おや。この花は何だ」
「百合です」とクラウスが発言した。
「この学校に咲いているものじゃありません。この学校に百合は植わっていませんから」と、園芸室で植物の世話をするローレンツが補足する。ぼくはローレンツの肩がまだ小刻みに震えているのを見る。
「じゃあさ、学校の外から来たやつの犯行かな。もしくはこいつ、自分で挟まったんじゃないのかな。ドジな猫だよなあ。よっぽどピアノ弾きたかったんだ。これぞほんものの猫ふんじゃった、だな!」
 アロンの推理には誰も反応しなかった。
 しばらくピアノの内側にじっと目を落としていたリンドがふと何かに気づいたように手を伸ばした。そこに死骸があることを知っている少年達は口々に小さな悲鳴を上げた。
「きゃあっ」
「おや、これはこれは」
 リンドが黒い塊をひょいと摘まんで持ち上げる。
 他の臆病な生徒達同様ぼくは両手を顔に当てそれを見ないようにしたけれど、ずっと注視していたらしいテオの「あ、ぬいぐるみだ」という呟きではっと顔を上げた。
 確かにそれはよく見るとただのぬいぐるみだった。
 毛色が黒い上に血糊と見せかけた色水がいやにリアルでみんなまんまと騙されていたのだ。
 脱力すると同時に溜息が洩れた。
「まったく、誰の悪戯だよ」
 驚きと安堵の空気が流れたのも一瞬のことで、生徒達の話題は自分達を一時でも恐怖に陥れた悪質な遊びの犯人捜しに移っていた。
 ぼくはうんざりした気分で床に滴る半透明の赤い液体を眺めるともなく眺めていた。
「はあ。何だよ、もう」
 溜息とともにふと見ると、向かいの窓際に身を寄せたエーベルが下唇を噛み締めていた。ぼくの視線に気づくと明らかに狼狽し、隣のクラウスに寄り掛かる。制服の袖口に赤い染みが見えた。クラウスにしな垂れかかったエーベルは、釦を留めるように見せかけてそれを隠した。



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