ピアノの使用許可が下り合唱の練習が元通りになってから初めてユリウスが皆の前に姿を現したあれは、小雨がけぶる水曜日のこと。
ぼくは背を丸めて譜面を読んでいるふりをした。盗み見るとローレンツも譜面に目を落としていたけれどどうも別のことを考えているようだった。それからぼくはエーベルにも目を配る。あの日以来、彼の一挙一動がなんとなく不審に思われた。
空いた伴奏席をぼんやりと眺めていたテオが「さあ、もう時間だから始めよう」と立ち上がったその時だった。
「あ、ユリウスだ」
誰かの声で全員の視線が一気に入口に向けられた。
そこには紛れも無いユリウス・シーザーの姿があった。
すっかり静まり返った教室で突然、誰かの嗚咽がした。
見るとエーベルハルトが口を手で覆っている。いぶかしんで見守っていると、とうとう耐えきれない様子で音楽室を出て行ってしまった。
「どうしたんだ、あいつ」
アロンが耳打ちをしてくる。ぼくにも分からない。
「最近、おかしいんだよ。エーベル」
おかしいって、前からだ。
全部、全部がだ。
嘘が嘘を固めている。嘘が嘘を弄んでいる。
「ユリウス・シーザー。練習を休む時や遅れる時は事前に伝えてくれないか?」
ユリウスの首の包帯と顔の眼帯に目をやったテオはそのことには触れず、ただ静かに述べた。
「伴奏者がいないと、……困る」
「ああ、すまない。ベッセル」
テオの声を聞き半分だけ我に返ったようなユリウスは点けたばかりの煙草を一度だけ吸い、残りはタッソにきちんと消火させた。そのあとでユリウスは宙に漂っている煙をできるだけ自分の体にかぶせるような奇妙な仕草をした。臭いを確認するように、実際自分の腕や肩に鼻を押し付けてもいる。
「おい、あの怪我、すごくねえか。喧嘩かな。目のところ、痣になってる」
アロンが耳打ちしてくる。ぼくはそれに返事をしないで立ち上がった。
誰かが「おい、ルーイッツ」と呼び止める声が遠く聞こえる。
取り巻きの不良連中をゆっくりと押しのけてぼくはようやくユリウスの傍に到達した。
気づいたら自分よりずっと背の高い連中に囲まれていたけれど構わない。
最後はタッソの腕を押しのけてぼくはユリウスの前に立った。タッソは本気でぼくを抑止しようとしていたふうじゃなかった。形式上ぼくを一旦防ごうとして見せた、仕草だけ。許可した。うん、大丈夫だ。
「どうしたの、ユリウス。どうしてこんなに怪我したの」
ピアノの蓋に置かれた薄い手に手を重ねる。
ルーズベリーに入学する前のこと。
ある雪の日、ぼくはひとりぼっちでパパとママの帰りを待っていたことがある。
図書館へ出かける時に家の鍵を持って行くのを忘れてしまったんだ。パパ達は夜遅くまで親戚の家に行くということを昼食の時に聞いていたはずなのに。わがまま云って困らせたりしないで一緒に行けば良かった、と後悔した。本当は、いじわるな従兄弟達に会うのが嫌で留守番を申し出たんだけれど。それにしても日は暮れるし雪は降り出すし、本当に最悪な日だった。だけどぼくは実際ちょっとわくわくしていた。そういうのって、誰にでもあることじゃないかな? 不幸なことが起こると、不安な反面、わくわくもするんだ。もし隣の家のおばさんに助けを求めることもせずずっとじっと待っていたら、帰って来た時きっとパパやママはびっくりして心配してくれるはず。優しい言葉をかけてくれるはず。それを思うと最悪って云っても悪いことばかりじゃないね。で、結果は予想通りだったよ。遅くに帰ってきたパパとママはぼくが鍵を忘れて出かけたことを咎めたりしないで、とても心配してくれたんだ。特にママはぼくの手を取って「痛い?」って息を吹きかけてくれた。その時初めてぼくは手の甲が赤ぎれを起こしていることに気づき、痛みを感じたんだ。
ぼく、恵まれて幸せだ。あんなふうに心配してもらえてさ。
そういえばユリウス、以前この音楽室で早朝練習に付き合ってくれた時、ぼくの家族の話になると目を輝かせていたよね。兄弟のことや食事のことや、それからついでにアロンの家族についてもうっかり話してしまった時、ユリウス、何だか羨ましそうにしていたっけな。そういえばあの時はユリウスの家族について訊ねるのを忘れてしまった。ママの名前がアンナだということは聞いたけれど、それ以上は聞くことができなかった。
ぼくがあの寒い日に庭でひとりぼっちでいても凍えずにいられたのは、家族がいたからだ。ちょっと大袈裟だけど、本当にそう。長いことひとりでいた後で、誰かに優しく触ってもらえるっていうのは、とてもあたたかくてうれしいことなんだ。
ぼくはそんな、ちょっと昔の出来事を思いながらユリウスに触れた。
だから、おねがい。
この熱、届いて。
と。
「ユリウス、」
しかしペリドットの瞳はぼくの方を見てくれなかった。なんだか眠たそうにしていて、意識がぼんやりとしている様子でもある。
百合の香りがきつい。久々に近寄ったからそう感じるだけかな。以前の感覚が分からないよ。
(別人、みたい)。
「体調を崩しているだけだから。……心配、すんなよ」
タッソが明らかな嘘をついた。
けれどぼくは頷いておとなしく後ずさった。
とぼとぼと自分のポジションに戻るとアロンが頭をなでてくる。
そこでテオが先生みたいにぱんぱんと手を叩いた。
「練習時間は限られている。私語は終わってから存分にしたまえ。今は合唱に集中すること」
その合図で全員が自分のポジションについた。タッソら不良は窓辺に寄って練習風景を観察するつもりのようだ。というよりも、ユリウスを気にかけているようだ。いつもなら喋り出してテオに注意されるんだけど、今回は誰もおしゃべりを始めようとしない。
音楽室を出て行ったエーベルはそれきりだ。
クラウスはテオと似て表情が乏しいので何を思っているのか分からない。
「準備、」
指揮者の手がすっと持ち上げられた。
全員が揃って楽譜を広げる。
「三、二、」
第一小節を担当するパートが息を吸う。
「一、」
掠れた喉からはいつものような声が出なかった。テオは違いに気づいただろうけれど気にせず続行するつもりのようだ。
四つに分けられた音程が一つに重なり合ってゆく。少しずつ整い始めたところでふいに伴奏の音が外れた。
「……け、ほっ」
ユリウスが咳き込み全体のテンポが遅れがちになる。それでもテオはタクトを振るのを止めない。ついに伴奏が止み、不安げに小さくなっていく歌声とタクトの動きだけが続行した。
「誰が止めと云った」
テオは正確にタクトを振りながら指揮台を降り、ユリウスの横に立った。
様子を見ていたタッソが静かに腕組みをほどく。
一触即発の気配にぼく達まで身をこわばらせた。
「今は、ここ、だ」
テオの左手が鍵盤にのった。
ユリウスが合わせて手を戻す。
「ほら、もう平気だろう、ユリウス」
咳の止んだユリウスはテオの言葉に微かに頷くと鍵盤に両手を戻す。テオの右手に最初は左手を合わせ、慣れてくると両手でいつものように滑らかに弾き始めた。全員の歌声に安堵のため息が混じっていたように思うのはぼくの気のせいではないだろう。
いったいどれくらいが気づいたか分からない。けれど、テオの表情が一瞬、確かに緩んだ。
(テオ、ユリウスを憎んでなんかいない)。
ぼくはもしかすると、テオ本人よりも先にそのことに気づいたのかも知れない。
「ようし、そのままだ。いいぞ、テナー。ソプラノ、ここは弱く。低音を大切に。ほら全員、顔が暗い。表情はおざなりか? 葬列曲なんかを唄っているんじゃないんだぜ」
いつになくテオが冗談めいたことを云うので歌声に明るい笑いが混じった。
「そうだ、みんな、いいぞ」
テオはピアノから去る際にユリウスの顔色をちらりと窺った。怪我のことについてまったく触れなかったけれど、気にはなっているのだろう。
ユリウスは時々こんこんと咳を漏らしながらも何とか最後まで伴奏しきった。最初の一曲を終え、額に浮かんでいた汗を拭う。様子をうかがっていたテオが意図してか休憩を挟んだ。
「五分だ。全員、体を動かせ。顔を洗ってきても良い。声がかたい。歌に血が通っていない」
ユリウスはふらつきながら椅子から立ち上がるとタッソからこっそり何かを受け取った。また、煙草だ。
ぼくは顔を洗ってくるふりをしてユリウスとタッソの後を追った。音楽室のある階の廊下には見当たらなかったのでもう一つ下の階だろうと思う。二階には美術室がある。ドアが開いていたのでぼくは細心の注意を払い片目だけをのぞかせた。
水道のところでタッソに支えられながらユリウスが吐いていた。タッソはユリウスがすっきりするまでその背中をさすっていた。うがいまで済ませ体を起こしたユリウスは、何か云ったタッソの顔を平手で強く打った。タッソが顔を上げるのを待ってもう一度打った。ついでに蹴ろうとしてよろめいた。そんなことを繰り返すうちユリウスの手はタッソに拘束された。観念したようなユリウスの体からふっと力が抜けて、床にくず折れる前に太い腕がしっかりと抱きとめた。
ぼくは耳をすます。
「とにかくグラン・タウンを出るんだ、おれはこれくらいなんてことないんだ、いつものニアの気まぐれだ、ここを卒業してグラン・タウンとはおさらばだ、そうでなきゃ、あんなところにいたら、また虫みたいに殺されるんだぞ、おまえほんとに分かってんのかよ!」
いつもの余裕ある穏やかな雰囲気からは想像もつかないようなユリウスの激しさに、盗み見ているぼくのところまで緊張が伝わってきた。
ニア。
ユリウスはまだ何か叫んでいたけれどその途中で急に咳き込んだ。
岩のようにじっと耐えていたタッソの手は、立っているのもやっとな従兄の背中をさするためだけに静かに動いた。
銀に輝く蛇口から絶えず水が流れていた。
立ち入れない。
ぼくはドアから体を離し、その場を後にする。