梯子を移動させながら本を整理する。
目録と照らし合わせ、揃っていない本は後で確認しておこう。
作業の合間にふと窓の外に目をやると、ここ数日の雨のおかげで緑がいっそう茂っている。初夏。夏へと続く長いようで短い一本道。甘い春の風は土地を去り、サイダーの清涼に似た爽やかな空気が、木の葉を、飛び方を覚えたばかりの小鳥を、生徒の頬を撫でてゆく。
どんな出来事があったって、人は忘れたように笑い合える。
音楽室の黒猫事件が少年達の話題にのぼることはもはやほとんどなくなっていた。今となってはいよいよ三日後に控えた緑の祭典のことで頭がいっぱいなのだ。合唱団のメンバーはもちろんのこと、切手を売りに出そうと考えている生徒や、劇を演じる生徒、朗読する生徒、展示会をひらく生徒、それぞれが自分の発表準備に夢中になっている。この時期ばかりは授業中の昼寝も多めに見てもらえる。先生たちだってわくわくしているんだ。
そんな周囲の盛り上がりとは反比例して、ぼくの気持は日に日に沈んで行った。
ぼくは合唱の練習のない間は図書委員の仕事に没頭した。以前のように人から遠ざかり、一人で物思いにふけるようになった。結局自分はそれを好きだと思った。人と付き合うことが必ずしも良いことだとは限らないように、集団から離れてひっそり思索にふけることが必ずしも悪いわけではないように。
「でも、じゃあどうして思い出してしまうんだろう」
何をしていても仕事が手につかない。
美術室で見たユリウスの姿が頭をちらついて離れない。自分自身あんなに弱っているのに、タッソのことを打ったんだ。ユリウス、何をあんなに必死だったのだろう。
忘れようとすればするほど意識することになる。すべてがユリウスに繋がってしまう。するとぼくは余計に、忘れなければ、と気持ちを押し殺すことに必死になって、もうこれは悪循環だ。
「ル……イッツ」、
ぼくはもう恋などしたくない。
誰かを好きになると不幸になる。
届かないんだもの。
叶わないんだもの。
自分が非力であることを確認するだけだもの。
誰のためにもならない。
誰の糧にもならない。
そんなちっぽけな自分が、誰かを好きだと云うなんて。
タッソの云ったことは正しかったかも知れない。ぼくはユリウスに近づかないほうがいいんだ。だって、こんなの。何も手につかないなんて病気みたいだ。ぼく、気持ち悪いよ。こんな自分、もう、嫌だよ。
「ルーイッツ。フィガロ・ルーイッツ」
ぼくはようやく自分を呼ぶ声のあることに気づいて作業の手を止めた。けだるく感じながら見降ろすとそこにいたのは、なんと、学校長。
「は、はいっ」
「きみは毎日仕事を頑張っているね。図書委員長からも聞いているよ。フィガロ・ルーイッツは仕事熱心だと」
「え、あ、はいっ?」
バランスを崩して梯子から落ちそうになるぼくを支えて学校長は「しかし危なかしい子だな」と苦笑した。
「す、すみません」
「いや、いや。ところで少し話をきいてもらえないだろうか」
ぼくは慌てて梯子を下りるとそれを邪魔にならないところへ寄せた。
戻ってくると学校長は窓辺に立っていた。ぼくは歩調を抑え身だしなみを整えるとその横に並ぶ。
「は、はい」
「ルイーザというんだよ」
いきなり云われぼくは戸惑ったが学校長はすでに話し始めていた。
「ルイーザ。ルイーザ・マーカー。黒い髪と、何より瞳の澄んでとてもきれいな少年だった。わたしの親友だったんだ。泳ぐのが得意で、夏の暑い日に私と彼とはしょっちゅう二人して湖へ行ったものだ。誰も知らない場所でね。波紋のない時に覗き込むと、底にある石の一つひとつまでしっかりと見えるんだよ。今日みたいな日はまだ肌寒く感じるだろう。もっと暑い日でなければ。湖を覆う緑のおかげで、真夏にあってもその水は凍るように冷たいんだよ。ルイーザは湖の端から端まで何度も泳いだ。私は実のところ泳ぐのがあんまり得意ではなくてせいぜい一往復だ。そのあとは浅瀬から、湖に住む魚のようなルイーザの泳ぎを眺めたよ。彼は息が長かったから、波紋が随分少なくなるまで潜っていることができる。あまり長いこと上がってこない時には、水に溶けてしまったかに思われた。そうやって人を驚かせるんだ」
「ぼ、ぼくも泳ぐことは嫌いです。湖を往復できるなんてすごいですね。羨ましいなあ」
「ああ。私もそうだったよ。ルイーザが羨ましくてたまらなかった。泳ぐことだけじゃない、彼は何でも器用にこなした。ダンス、音楽、暗唱に悪戯。私は彼といると退屈しなかったし、いつも楽しませてもらっていた。彼が自分といてくれることが不思議でならなかった。何故って私には特技なんてものは何一つなく、面白いこと一つ云えなかったからね。とても不釣り合いであるように感じたんだよ」
「でも、一緒にいたんですよね」
「両親に反対され、疎遠になってしまうまではね」
学校長は遠いところを見ていた。
窓辺に立つと誰もがそうなのだろうか。人と向き合わなくて済む時、人は本当の人になるのだろうか。空と対面する時、人はもう偽れなくなるだろう。その人自身に戻ってしまうのだ。
と、すると、ぼくはどんな顔。
空を見て意識してみるけれど、自分で自分の顔を見ることなんてできないよ。
「反対されたのはどうしてですか」
「ルイーザは、グラン・タウンの出身だったんだよ」
グラン・タウン。
その町の名を聞いたぼくは目を伏せた。
「当時の私はまだ無知な子供でね。グラン・タウンについて、親が教えていた通りの場所だと信じていたんだよ。暗くて恐ろしい場所。希望も何もない場所。悪いことをしたらグラン・タウンに捨ててしまうぞ、なんて云い方をされることもあったね。私の中にはグラン・タウンという場所に対する知識があまりに乏しかった。だからルイーザがそこの出身だと分かった途端、こちらから一方的に関係を絶ってしまったんだ。夏が来ても湖へ遊びに行かない。その年の秋、最後に会った時、私は彼に対しとても酷いことを云ってしまった。人間の言葉じゃなかった。あれは悪魔の言葉だ。そんなことを云った後だからまともに顔を見ることはできなかったけれど、間違いなくルイーザは傷ついた顔をしていただろう。いつまでも待っているよ。彼は最後にそう云った。いたたまれなくなった私は彼を置き去りにした。さよならの一言も伝えなかった。それ以来、私は二度とルイーザの美しい泳ぎを見ることはなかった。古来より湖に住む、老いることのないその場所の主のように水と戯れ風景に溶け込んでいた彼の姿を。そして、それきりだ。私はルーズベリーに入学し寄宿生活になったから、ますます疎遠になった」
「あ、あの。ルイーザは、今どこで何をしているんですか」
窓の縁に手をかけて再び学校長の顔を見上げる。
皺の刻まれた顔に少年の面影を見る。
この人もかつて一人の少年。窓から遠くを眺めた日があったんだろうな。ルイーザのことを考えた日が、あっただろうな。
口を開きかけた学校長の目が一層、凛と澄む。
ぼくはその答えをどこかで分かっていた気がする。
「約束の湖で見つかった。雪が降る季節だよ」
緑の湖面に浮かぶ白い死体。
その上に雪が降り積もってゆく。
学校長の後悔が伝わってきて、ぼくまで哀しい気持ちになった。
凍りついた黒い髪。
見開かれたペリドットの瞳。
ペリドットの、瞳? あれ、そんなこと云ってないよ。
「その時私は気づいたんだ。彼の愛に。不安になることなんてないくらい、私のほうがずっと、彼から愛されていたことに」
似ていたのだ、と学校長が零した。
「似ていた?」
「ユリウスだよ」
「ユリウスが? ルイーザに?」
「絶対に神のいたずらだと思った。黒い髪に、澄んだ瞳。ルイーザを彷彿とさせる少年を、ルイーザの死から何十年も経ったあの時、私に突如巡り合わせたのだ。もちろん彼等は赤の他人同士だ。親子でも何でもない。ルイーザに子供はいない。第一ルイーザは自分が子供のまま死んだからね」
学校長は天を仰いで目を細めた。
だがすぐ穏やかな目元に戻り、ぼくのことをちらりと見下ろして微笑んだ。
「ところで、知っているかな。ユリウスとタッソ。あいつらはとんでもない方法で受験したんだよ」
「とんでもない方法」
「警備の目をかいくぐって、学校長室に直接忍び込んできたんだ。驚いたよ。会議を終えて部屋に戻ってみると、机の前に子供が二人立っている。一見してグラン・タウンの子供だと分かる身なりをしていた。ユリウスは私を見ると駆け寄ってきて足元に袋を置いた。すりきれた入学要綱と一緒に。それからあの瞳で、あの大きな瞳でだ、私のことを切実にじっと見上げるんだよ」
袋を開けると中にはたくさんの硬貨や紙幣が入っていた。
グラン・タウンでこれだけ稼ぐには一日や二日じゃままならない。二年、いや、三年はかかる。
ルイーザを思い出したんだ。と、学校長は遠くの方を指差した。おそらくその方角にグラン・タウンがあるのだろう。目を凝らすけれど見えない。見えないけれど、あるのだろう。
「彼等のしなやかな不屈の精神はいつか必ずあの街に残る多くの子供たちに夢を与える」
しなやかな。不屈の。精神。
「そういう精神を持つ者は、美しい背中を持つ。私が入学を許可した」
「美しい、背中」
「そう、美しい背中だ。入学式まではまだ時間が残っていたから、空いた時間を使って私が文字やら数学の基礎を教えた。彼等の意欲とやらは実際凄まじかった。時間を惜しんで質問してきた。教えるこちらがくたくたになるんだよ。涸れた土が水を吸うようにぐんぐんと吸収した。ある時私はついに訊ねたものだ。何がきみたちをそんなに突き動かしているのか、と。すると彼等は答えた。勉強だけは産まれに関係しない、というような主旨のことを。産まれてくる場所は選べない。選べるものならば誰だって恵まれたい。けれど実際はそうはならない。裕福な家庭に産まれる子供もあれば貧しいところ、あるいは産まれてすぐ孤児になってしまう子供もある。けれどそんな中にあって自分たちを隔てないものがあるとすれば、それはきっと学問だ。と。……フィガロ、きみも知っているだろうがユリウスとタッソの成績は毎回上位にあるだろう。あの成績を維持するために彼等がどれほどの努力を重ねてきたか。どれほど、考えられる以上の、どれほどの犠牲を払ってここまでやってきたのか。誰にも想像つくまい。私はそういう生徒になら喜んで学習の場を提供する。いくらでも。できることなら学費さえ受け取りたくはない。しかしそれでは他の生徒に不平等だからな。しかし、彼等だけがこの学校の生徒ではない、という大切なことを時に忘れてしまいそうになる。校長であることを忘れてしまいたく、なる」
美しい背中。
ぼくの脳裏にユリウスの白い肌がちらつく。
「私は、見てみたいんだよ。彼等がどのように成長してゆくのか。さまざまな問題にぶつかりながら、どうなってゆくのかを。困ったことがあったら何でも相談しなさい、と最初に云ってある。もし助けを求めてくるならばこちらも全力で応える。だが彼等は甘え方を知らないな。まだ二人きりで頑張るつもりのようだ」
「あ、あの。どうしてぼくにこんな話を」
「ユリウスが、笑っていたからな」
「え?」
「きみのことを話しながら、笑っていたんだよ。自分のお気に入りの生徒が幸せそうに話すのを見ている時ほど嬉しいものはない。しかもそれが、かつての親友に似ているともなればなおさらだ」
堂々と贔屓宣言した学校長の言葉にも関わらず、ぼくは顔が熱くなるのを感じた。
「友のためにその命を捨てるほど大きな愛はない。……フィガロ・ルーイッツ。この言葉を聞いたことがあるかね」
「は、はい。聖書の中にあります」
「きみなら、できるかね。友のために自分の命をさえ捨てるような行動が、きみにできるかね」
ぼくはもじもじと下を向いた。
「私は知っているよ。それが、ユリウスだ。ユリウスは、タッソのためなら何だってしでかす」
「えっ? 何ですって?」
「おっと、会議の時間だ。また遅れて怒られてしまってはかなわん。まったく、さいきんのイデア先生の怖さといったらあれはもう……ぶつぶつ」
腕時計に目を落とした学校長はそう云い残し、図書館を去っていった。
緑の祭典まで、あと三日。