LILLY DREAM


 哀しい夢の後で男は目を覚まし、窓際に天使を見た。
 月光が世界を照らしている。
 開け放した窓から吹き込んでくる冷たい風が、読書にふける少年の髪に吹いている。
 男は静かに体を起こすと、瞬きをしているふうもない横顔に声をかけるのをためらった。
 しばらくすると少年のほうが何かに呼ばれたかのようにはっと顔を上げ、男の名を短縮して呼ぶ。
「ニア・クロウ。やっと目覚めた」
 ぱたんと分厚い本を閉じたユリウスは椅子から立ち上がると、まるで赤ん坊のように自分のことをじっと見つめてくる男のもとへと歩んでゆく。
「夜だよ」
「百年眠った気分だ」
 部屋一体に充満する、むせ返るような香りの正体は室内栽培されている新種の百合だ。雄蕊が放出する芳香は人に安らかな眠りと精神の安定をもたらす。ニア・クロウはこの百合を薬として発売する予定だったが今はまだ試作段階である。
「すごく香る。おれは、百合なんか嫌いだ」
「だけどこうして来てくれる。毎週、欠かさずに」
「学費のためにね」
「ユリウス。きみは、優しいな」
 とんでもない、とでも云いたげに若い目がぱちぱちと瞬きをする。
 藍色の雲から顔を出した月光が夜に照り、ベッドの脇に座るユリウスの黒髪を彗星の尾のように光らせていた。

 初めは嫌悪だけだった。次第に打ち解けてくるとぽつぽつと自分のことを語り出す日もあった。この部屋で過ごした一日一日が、いつでも鮮やかに蘇る。クロウ一族の中でニアガーデン・クロウとして生活していた時には味わえなかったような日々の楽しみを彼は少年と共に過ごすことで味わえた。明日が怖くないということ。であればこそ夜の美しさ、朝の眩しさにも気付くことができる。そのようにして何らかの気づきを感じる度に、世界は自分の感受性の鏡なのだと思い知らされる。自然は普遍的なものとしてそこにあるのではなく、感受した瞬間に自分自身なのだ。
 その中で独りでなかった。
 離れたところに立ったまま、少しずつ頷いてくれる子供。ニア・クロウが一言も喋らない日には黙って傍へ寄った。言葉が通じない時には冷たく小さな手をいつまでも退かさなかった。
 夜道を照らす小さな蛍石のような輝き。
 ペリドット。
「どうして。莫迦だな、こんな年になってあんた、子供よりも子供みたいだ」
 頬に触れた手はあたたかく湿っている。自分が流している涙のせいだとニア・クロウはしばらく気づかなかった。そうしている間にもユリウスはじっと手を添えたまま、離れようとしない。その視界に入ることができればあらゆる傷が癒えてゆく気がした。
「私は醜い人間だ」
「どうして」
「帰る場所のない人間だから」

 ニア・クロウの脳裏をふと、青い目の甥の姿がよぎった。
 昆虫採集が大好きで、自分はしょっちゅう付き合わされた。好奇心旺盛で口は達者、弟に似て人を引き付ける魅力を産まれ持った甥だった。
(ララ。今頃どうしているだろう)。
 会って訊ねたいことが山のようにある。だがもう会えない。自分はクロウ一族を逃げ出したのだ。後継者となることを恐れ、その座を弟に譲り、居た堪れなくなった挙句、血縁関係者も多く華やかな社交界から、自分を知る者の一人もいないグラン・タウンまで逃げ、植物を相手に孤独な生活を始めた。つもりだった。邸宅の周りに集まる人々に気づくまでは。
 彼等はグラン・タウンの住民で身なりは一様に貧しく、纏っている衣類などは道に落ちていても避けて通るくらいに汚れていた。しかし彼等の目は物を見る時は穏やかな獣のように大人しく輝き、それらはみな、目に映った物を何でも信じ込みそうな純粋さを伴っていた。子供も大人も学が無く、犯罪の多さでは近隣街に類を見ない。一見して野蛮に映るこの街にも、やはり人間がいるのだ。人間。生まれも育ちも違う、ある意味で別の生き物のような彼等に、しかし通じる言葉がある。そう感じた瞬間、ニア・クロウの関心は一心に彼等に向けられた。中でも子供たちの瞳の放つ無垢さといったら、大粒のダイヤにも深海のパールにも引けを取らない。
 ニア・クロウは邸宅へ少しずつの子供を招いた。心を閉ざした患者が、訪問者の連れてきた犬に対し数年ぶりに話しかけるように、ニア・クロウは子供達へ語りかけた。彼等は素直だった。慣れてくると小鳥のさえずるようにピイチクやらパアチクやらやった後で、名残惜しそうに帰って行った。
 そう、彼等にさえ帰る場所はあったのだ。
 広い邸宅の一間に残されてさびしかったのはずっと、自分。
 そんなある日、自分と同じように帰る場所を持たない二人の兄弟に出会った。
 一人は美しい兄ユリウス、もう一人はその弟タッソ。顔立ちこそ似ていなかったものの瞳の色に違うところはなかった。
 あの最初の日から、今目の前にある十代のユリウスの、自分を見る眼差しは考えられない。確かに、無責任な衝動だった。語るも無残な虐待から始まった。だが数日かけて肌を重ねるたび、体温と一緒に同じ哀しみが移ってしまったのだろう。
 帰る場所がない。
 この一点で彼等は同朋だった。

 邸宅を訪れるたびユリウスは二階のピアノを弾きたがった。しかし演奏はできなかったので結局、所有者の演奏を聴くことになる。鍵盤の横から指の動きを観察していたユリウスは、席が譲られると大慌てで同じ曲を奏でた。

 半年後、ニア・クロウは一流のピアノを教えてやると約束した。この頃になるとニア・クロウにとってユリウスが邸宅へやってこなくなることは何よりも恐ろしく哀しいことであった。機嫌を損ねてしまわないよう、飽きることのないよう、毎回異なるお菓子を提供し、百合について説明した。ユリウスは大抵つまらなさそうにしていたが、時折興味をひかれたものに出くわすと顎を引いて笑った。中でもピアノ練習はユリウスを邸宅につなぎ止める要因の一つとなった。楽譜を用いない、ただ本当に指遊びのような練習を重ねながらニア・クロウはやはり時々は仲の良かった甥、ゆくゆくは父親の退いた後でクロウ一族の後継者となるであろう少年ララ・クロウのことを思い出した。

 いつかの日々が記憶のかなたへ流れてゆき、目の前に広がる光景を現実だとするならば、直面している現実というものも捨てたものではないな。
 麻痺した半身に神経を集中させるようにしながら、ニア・クロウは堪らなくなる。
「きみに与える。私の財産も、この家も。きみの好きにしたら良い」
「ニア」
「私はそう長くない」
「どうして分かる」
「それは、きみが同じ状況になったときには分かるよ」
 ユリウスはそれ以上問い詰めなかった。別離の近いことを知ってきっと最後の夜に、学費の出資者としてではなく一人の人間として、親しみをこめてニア・クロウの髪を撫でる。
「ユリウス。きみだけはわたしから逃げなかった」
「だから、それは」
「学費のためだ、だろう? しかし、嬉しかった」
「ふうん」
 照っていた月は再び雲に隠れ、秘密の多く孤独なふたりを静かに丁寧に匿った。
 あんたは感謝するが、おれは最悪だった。
 そう云おうとしていたユリウスの唇は、もう一段温かなもので発声以前に遮られた。
「ありがとう」
「嫌いだ」
「ユリウス」
「離せよ。……あんたなんか、だいきらいだ」
 言葉と裏腹に身をゆだねてくるユリウスの薄い背に左手を置き、ニア・クロウは、何と噛み合う体だろう、と思う。同一でないからだろうか。突然傷つけたくなり、そうしたこともあった。抵抗しない体を弄るうち、全裸の背中に深い傷跡を見つけ、ようやく歯止めがかかった。
 それは、ユリウスが実父に殺されかけた時の傷だ。
 安置室がわりの礼拝堂で息を吹き返し、再び歩き出したその夜、暗闇がどれだけ明るいものだったかということについて、ユリウスは絵本を読むように喋った。
「だいきらいだ、ニアガーデン」
 百合の香りはますます気高く、降り積もる雪のように二人の体を覆ってゆく。
 黄色の花粉は一等星の輝きを放ち、開いた窓から外へと飛び立ってゆく。
 その様子を眺めながらニア・クロウは、自分もいつかあの花粉に生まれ変わることがあるだろうかそんな幸福が、などととりとめもなく考えていた。

「あんたを、永遠に、許さない」
「そんな幸福、私には余りあるよ」

 抱き締めるほどに飛散する塊を抱いていた。

 窓辺に置かれた本は何の本だろう、ニア・クロウはどうしても知りたかったがユリウスに覆いかぶさられて敵わなかった。下腹部にまたがったユリウスの顔を下から見上げる。月光が右の頬を照らし、左は暗いまま。マスカレイドでペルソナをつけた踊り子のようだ。しなやかな指が突然ニア・クロウの中心に触れた。
「無駄だよ、ユリウス。何をしたって」
「どうして」
「正常ではないんだ」
「体が正常でなくても気持ち良くはなれるさ。気持ちの問題なんだから」
 感覚がないのは本当だ。何年も前のこと、望んだのは自分。
「え。ニア。どうしたんだ?」
「グリルパルツァーだよ」
「グリルパルツァー?」
「……手の上なら尊敬のキス。額の上なら友情のキス。頬の上なら満足感のキス。唇の上なら、」
 云いながら口づけていって、
「愛情のキス。閉じた目の上なら憧憬のキス。掌の上なら懇願のキス」
「懇願って、何を願うの」
 この頃になるとユリウスも遊戯と把握して身を任せる。
「さあ。欲しいものは無いからな」
「嘘」
「嘘じゃない。……続き。腕と首なら欲望のキス」
「そこ、首じゃない」
「分かっている」
「くすぐったい」
「さてその他は」
「その他は?」
「みな狂気の沙汰」
 何それひどい、と笑って動きを止め、仰向けに寝転んだユリウスに毛布をかぶせる。
「ニアってほんと、子供みたいだな」
「私は大人じゃないよ」
「知ってる。おっさんのふりをしたガキだろ」
「ひどいな」
「あんたには及ばないよ」
 暗闇が、夜にしか会わない二人を近づける。

「ねえ。ニア。そういえば最近やっと仰向けで眠れるようになったんだ。今までずっとうつ伏せにならないと眠れなかった。もう癒えたはずの傷がずっと膿んでいるような気がして。それなのに、ここ最近仰向けで眠れるんだ。どうしてだろう」
「時が流れているということだよ」
「今も」
「そう、この今もだ」
 しばらく静けさを堪能したユリウスは、学校での出来事をニア・クロウに話して聞かせた。
 合唱団の伴奏者に選ばれたこと。
 学食がおいしいこと。
 新しい友人ができたこと。
 名前をフィガロということ。
「表情がころころ変わるんだ。図書委員長を務めてる」
 ユリウスの話をニア・クロウは嬉しそうに聞いていたが、
「タッソと、そのフィガロとやらはうまくやっているのか」
「勿論。タッソはもともとすごく優しいやつだから」
「それしか云わない」
「事実だからさ。それに、タッソは、すごく、かわいい」
「議論の余地ありだ」
「ニア。あんた、見る目ないな。タッソはどんどんいい男になるぜ。あいつは幸せになる。そして……、」
「そして?」
「意地悪で我が儘なだけのおれのことなんか、いつか忘れてしまうよ」
 それでいい、とユリウスは目を伏せて笑った。
 ニア・クロウは納得できなかった。
「そうだろうか。タッソはきみのこととなると周りが見えなくなる。世界さえ躊躇なく壊しそうに思いつめた目をする」
「何云ってんだよ、あんたも大袈裟だな」
「だいたいきみは自分が意地悪の役を演じ切れているとでも思うのか」
「ああ。最善を尽くしている。タッソは、おれのこと苦手だと思うぜ」
「違う。きみは案外鈍感だから気づいていないだけだ。あれは従兄のためなら命も投げ出せる。少なくともそう思っている」
「ははっ、だから大袈裟だって」
「きみが、そうしたように。タッソのために、命を投げ出したように」
「その話は嫌だ」
「じゃあ話題を変えようか。……甥は、ララは、どうしている。元気でやっているだろうか」
「ああ。ララは……立派な生徒会長。皆から、慕われ。人気者だよ。明るくて、頼られ。ホントウに立派な、良い、生徒会長」
 ユリウスの喉元にできた赤い引っ掻き傷をじっと見ていたニア・クロウは少しずつ表情を緩ませ、
「ユリウス。きみは嘘を吐く時、神様のように優しい」
 と、首を小さく振った。
 ユリウスは「どうしてそんなふうに云われなきゃならないんだよ。本当のことさ。あんたの甥のララ・クロウは立派な生徒だよ。だから、安心しなよ」と念を押した。
「……分かった」
「ん。もう帰らないと」
 自分のポケットから取り出した時計で時刻を確認したユリウスは、いつもより長居し過ぎた、と急いでベッドを下りると床に落ちたままの上着を拾い上げ羽織った。
「ユリウス」
 振り向かない背に手を伸ばしたニア・クロウは唯一の切り札を持っている。
「この前あげた香水はまだ残っているか」
 歩みを止めたユリウスが肩越しに振り返り「あれはもうやめた」と云う。
「そこの戸棚に入っている。好きなだけ持って行くと良い」、ニア・クロウはテーブルを指差した。ユリウスは返事せずドアを出て行こうとする。
「さよなら。ニア」
「一度嗅いでしまったら忘れられない。ユリウス、きみはもうあれなしでは生きていけないだろう」
 二度目のさよならはなかった。

 閉じたドアをじっと眺めるも、誰の入ってくる気配ももうなかった。広い部屋にひとりきりになったニア・クロウは窓に目を向け、置きっ放しの本がひとりでにめくれていって最後のページで終わっているところを見た。しおりがわりのリボンが舞い落ち、伸ばした手で捕まえるとそれはルーズベリーの青いリボンだった。名前の刺しゅうが入っている。それを顔に近づけると自分の手からも百合の香りがしていることが分かる。
 前回、ユリウスに手渡した小瓶のひとつに高濃度の精油を混ぜたことを悔やむがもう遅い。 顔に近づけたリボンタイの端を持ち上げ、もう片方の端を舌の上にたらした。
「そうだ、もう何もかもが手遅れだ」
 天井を向き目を閉じ、ニアガーデンは一本の青色をごくりと飲み込んだ。

 深く終わりのない眠りに就く前の彼の脳裏には、少年の白い肌が浮かんでは消えた。
 それが甥であるララのものなのかユリウスのものなのか、それとも自分自身のものだったのかはどうにも分からなかった。



My lilly dream with my lilly.