緑の祭典は一日目からたくさんの人で賑わった。
飾り付けされた校内を街中の子供から大人までが歩き回る。彼等は手に手に風船やキャンディやジュースを持って、おじいちゃんやおばあちゃんまで子供のように楽しんでいる。
合唱団の練習も最終日までは行われない。前日に合わせた衣装を受け取るため、ぼくとアロンは音楽室へ向かっていた。途中でローレンツと連れ立ったテオが合流する。二人の手首には編まれた花輪がそれぞれ結ばれてあった。
「何だい、それ」
ぼくが見つけるとローレンツは嬉しそうに「おまじないだよ」と云い、一方のテオはやや恥ずかしそうに、下がってもいない眼鏡を中指で押し上げた。ぼくは一体何のおまじないかを聞きたかったけれど、先に訊ねたアロンがテオに睨まれたところを見て、ああ訊かなくて良かったなあと胸をなでおろした。
抗議の声を上げるアロンを引きずりながら教室棟の廊下を歩いていると、エーベルとクラウスのお店を発見した。第一学年の教室の一角で机を並べ、その上に切手を拡げている。家から持ち出してきたのだろう、珍しい切手も多く、熱心にのぞきこんでいる客に向かって何事か話し掛けている。もちろん、切手目当ての客ばかりじゃないんだけど……。二人が並んで座っている様子を見に来ているだけの人も多いみたい。なんたって、ローゼン家とランデイ家の子供、だからね。もともと両家はあんまり仲が良くなかったみたい。けれどどういうわけかこの二人は、云うまでもなく互いがなければ成り立たないからね。他校の制服を着た上流階級の子息だろうか、机の周りを囲んで、なんだかすでに大人のサロンのような空気を漂わせている。客から逆にもてなされて満足そうにふんわりとしていたエーベルはぼくの視線に気づいて顔を向けた。ばっちりと目が合ったというのにエーベルは気まずそうに俯いた。
うう、どうしてだよ。
「相変わらずおかしなやつだな」
無自覚に観察力のあるアロンが、ショックを受けたぼくのことを慰めるように云ってきた。
そう、確かに最近のエーベルはおかしい。
誰から見ても分かる程度ではないけれど、以前のような奔放な感じが減って何かに怯えているような感じがする。廊下ですれ違った時などまるで哀しそうな眼をしてぼくを避けたためずっと気になっていた。隣にいるクラウスの表情からは何事も推測できなかったんだけど。
「はあ。いったい何だってんだろ」
せっかくの祭典一日目だというのにぼくはすでに脱力してアロンの腕にもたれかかった。
「どうしたんだよ、フィガロ」
「ううん、何でもない」
「もしかして人に酔ったか? あ、これ飲めよ。さっきおふくろと会ってさ。自家製ジュースなんだ。会うたびに手渡される。まずいのなんのって。健康には良いらしいけどさ」
アロンのママ。ぼくも会ったことがあるけれど、大所帯を切り盛りするだけあって肝っ玉が大きいというか、何でも笑い飛ばしてしまうようなパワーのある人。物事を深く考えないでいられるところ、アロンは受け継いだんだろうな。
「ほら、な。元気出せって、フィガロ」
「うう。ありがとう。もう、ぼく、アロンのことだいすきだよ」
「おう、分かってるって!」
教室棟を抜けると幾分か人の数がまばらになった。一日目のメインは教室棟を街に見立てた、生徒達による出店展だ。来訪者の多くは教室棟に集中している。
ぼくらは渡り廊下を通って音楽室のある芸術棟へと向かう。
ふと中庭へ目をやり、いつの間にこれほど緑が繁茂していたろう、と驚く。
雲ひとつない快晴の空のもと、木々の若葉や芝生の青が太陽の光を受けてきらりきらりと輝いている。前日に雨が降ったため空気は澄み渡り、遠くを歩いている少年たちの姿まではっきりと見て取れる。白いブラウスに青のリボンタイ。祭典中の服装は自由だけれど制服姿の生徒が大半を占める。というのもルーズベリーの制服、とりわけ青のリボンタイは生徒達の誇り、ルーズベリーに関わる街の人々全員にとっての誇りであり憧れでもあるからだ。
ぼくたちはこの学校で出会う。
出会い、知り合い、分かり合おうとする。
そうして過ごす七年間が恵まれていないだなんて、誰も思っちゃいない。
たまに退屈なふりをしても、落ち込む出来事があったとしても、やっぱりルーズベリーのことが大好きで、ここにいられることを幸せに感じているんだ。
そうでなきゃ、緑の祭典がこんなに盛り上がるはずはないよね。
「フィガロ」
遅れたぼくのことをテオが振り返る。振り返ったその頬に初夏の日差しが眩く、淡いミント・グリーンの瞳が視線でぼくを急かす。
ローレンツとアロンは何事か笑い合いながら棟の入口に差し掛かっており、遅れたぼくらに気づかぬまま中へと入って行った。
「テオ」
立ち止まって見合うのは二人きりとなり、ぼくは常々思っていたことを口にしようとしていた。
「テオ、」
歩み寄って手を伸ばす。
横から風が吹いてプラチナブロンドを揺らし、聡明な額を一瞬だけ露わにした。眼鏡越しの硝子のような瞳が、砂埃を避けて瞑られ、もう一度大きく開かれる。
ぼくはさらに近付く。
「テオはどうして眼鏡をかけるの。悪く、ないでしょ」
細縁に手をかけ、拒まれる前にすっとはずした。防具を奪われたかのように、あるいは拘束から解き放たれたようにテオは束の間、全身の力を抜いた。
逸らされそうになったミント・グリーンが一瞬のうちに潤んだのを、ぼくが見逃さないよ。
「どうして気づいた」
テオは厄介なものを見るような目でぼくをじっと見下ろした。
「図書館でひとりで本を読んでいる時にだけ眼鏡をはずすからだよ。授業中に教科書を拡げている時は眼鏡をかけたままなのに。黒板の文字が見えづらいのかな、とも思ったけど、そうでもないみたいだった」
テオは斜め上に視線を流し、自分の行動を顧みた。
「それは、気づかなかったな」
「そうでしょ」
「教えてくれた礼として、その理由を教えようか」
ぼくの手から眼鏡を取り返したテオはやや首をかしげて悪戯っぽく口角を上げた。
先ほどより強い風が吹いて再びテオの額に髪が流れた。
ぼくはなんだかうっとりしてしまって、その髪が、湖に映った月光のように白く眩いのや、ぼくを映している瞳の奥やらにじっと目を凝らしたりした。
テオ・ベッセル。
成績優秀の監督生。先生からも同級生からも、生徒会からも下級生からも慕われ見本にされる模範少年。意図的に着崩さない制服。吹かれても歪まないリボンタイ。清潔に白く引き締まった膝小僧。冬の早朝の空気のような横顔。
いつも、いつも、不思議だと思っていたんだ。
どうしてテオは、本当の自分と反対のことをするんだろう? って。
「やっぱりフィガロはただものじゃない」
眼鏡をかけたテオはぼくのおでこを指先でピン、と弾いた。
「い、痛っ。何するんだよっ」
「おれとラインハルト。太陽と月のような双子。お行儀が良くて親の云い付けをしっかり守る兄のテオに、勉強嫌いで悪戯ばかりの弟ラインハルト。誰もが、両親でさえそうやっておれとラインハルトを区別した。だけど二人は本当はよく似ていた。おれだって悪戯好きだし、実際、一緒になって考案した悪戯を実践したこともある」
「どうしてわざわざ正反対のふりをしたの。そんな面倒なこと」
「だから、それこそが悪戯なんだよ」
まだ首をかしげるぼくに向かってテオは説明した。
「二人同じじゃつまらない。まったく正反対のふりをしてみよう、って。おれが優等生のふりをするから、お前はそれと逆の役をしろ。けれどいつしかそのイメージが、その役割が、周囲だけでなく自分たちをも騙し始めた。自分たちでさえ、作り上げたイメージから抜け出せなくなった。勿論、幼馴染のローレンツでさえ見抜けない。まるで俺達が成長の過程で自然にそういう性格になってしまったものと思っている。大人たちだってそうだ。そうしている間にラインハルトがこの世からいなくなってしまって、優等生役の双子の片割れはひとり残された。それでも悪戯を続けることはおれとラインハルトが双子であったことの証であり、一緒にいたことの記憶そのものであり、おれがおれであるためのアイデンティティ、なのかな」
最後を濁したテオは、何もかもを理解し弁えた優等生のテオ・ベッセルではなくって、年相応に困ったりうろたえたりもするテオ・ベッセルだった。
ようやくしっくりときたぼくは堪え切れず笑いだし、テオもつられて笑った。
「ラインハルトから奪ってしまおうかな。悪戯の天才、だっけ。その称号を」
「やっぱりテオはすごいよ。優等生の役をできるなんて、それって本当に優等生なんじゃないか!」
「正直、いつまでもつかな。だけどフィガロ、きみはおれの秘密を知ってしまった」
ぼくの額を覗き込んで、ほらさっきはじいたところが赤くなった、と何故か嬉しそうにテオは云った。
「きみは凍りついた人形なんかじゃない。生きてる人間だろ」
「えっ?」
「フィガロが云ってくれた言葉だ」
「そ、そうだった」
「嬉しかったよ。正体を分かっているやつのいるってことが。ずっと、ずっと、自分は正体がばれてしまうことを怖がっているのだと思っていた。だけどフィガロにそんなふうに云われて、嬉しかった。嬉しいと感じたという自分が、嬉しかった。まあ、キスしていいだろうか」
「えっ! 何でそうくるんだよっ」
「冗談だ」
「うっ」
「まさか本気にしたのか」
「う、うっ」
「キスの相手として、きみに興味はない。これっぽちも」
「う、う、うっ」
だったら誰なら興味あるんだよっ、と云い返したい気持ちをぐっと堪えた。
ぼく達の遅れに気づいたアロンとローレンツが二階の窓から顔を出して呼んでいる。「ああ、今行く」。振り仰ぐ直前にテオの表情がいつものテオ・ベッセルに戻った瞬間を見てぞっとした。
「ぺ……ぺてん師」
「うん? 何か云ったかな、フィガロ・ルーイッツ」
「い、いいえ。いいえ。何も云ってないです。テオ様」
それならばよろしい、と満面で笑んだテオがくるりと踵を返して歩いて行く後を小走りに追う。その背中が、ぼくのいつか見たラインハルトに重なる。
テオはいつかローレンツに告げるだろう。本当の自分がもう一人いること。こちらが偽物なのでなく、それはもう一つに溶けてしまっているんだよね。ラインハルトとテオ。双子だった二人はもう一人になってしまったんだよね。
ね、テオ。
ほっとしたためか足元から力が抜けそうになる。
ぞくぞくするほど生き生きとしたテオが、目の前に現れたから。
「そうだ、フィガロ」
「こ、今度は何だよっ」
「ユリウスのこと、おれはもう憎んじゃいない」
ユリウス。
その名前を聞いただけで、あの指が、目が、香りが、瞬時に思い出される。
こわくの幻影。
ぼく自身、もう、だめなんだ。認めちゃってるんだ。分かってるんだ。
会わなきゃ、だめ。
「あいつは、タッソを庇ったんだ」
何かに気づいたように中庭を向いたテオにつられてそちらを見る。何もなかったため目を戻すけれどテオはまだそれを見ていた。ぼくには見えない何かを。だからぼくはテオを見つめた。ぼくに見えない何かを見ているテオを。
「タッソ、を?」
「ラインハルトが事故に遭った時、運転していたのは、本当は、タッソだったんだ。一緒に乗っていたユリウスがタッソだけ逃がした。誰も知らない。おれだけが見ていた。警察にも嘘をついた」
顔を前に向けたテオが階段を登り始める。
するすると紡がれる言葉にぼくの方が遅れている。
「ど、どうしてテオまで嘘を吐いたの。その時は他人同士で、知りもしなかったんでしょ」
あの朝と同じように、ぼくはテオのあとをついて行っている。目の前に膝裏の白さ。その場所の白さ。彼が誰にも見せない黒さ。ぼくはいつか知ることがあろうか、そう思っていたあの日。もう追い縋ったりはしない。そうしなくたってテオは話すことだけ話してくれる。どうしてそれ以上を望める。
「同じだからだよ。おれだってラインハルトを見殺しにしたからだ。……どうして、か。そうだな、強いて云うならおれは、共犯が欲しかったのかも知れない」
テオの笑顔にはキズがある。
無傷な少年なんて、いない。
二人の意味が、やっとわかった。