ランプの光がちらちらと揺れる
ふたりの行く手は闇で見えない
主よ ぼくには分からないのです
イエスは何故ユダを救ってくださらなかったのですか
イエスは何故ユダが自分を裏切ることを知っていながら
その裏切りを阻止してくださらなかったのですか
主よ……
緑の祭典二日目の夜は嵐になった。
お昼まであんなに晴れていたのに、踊り場の窓を見上げると木の枝が窓を叩きつけている。その様子は、墓から起き出してきた死者の体が次々とぶつかってきているみたいだ。
その考えにぞっとして目をそらした。
足取りが重い。
部屋を出てくる時クラウスが云った言葉を反復する。
「きみが正しいと思うことをすれば良い」
突き離された、と感じた。
そう感じたのは、止めて欲しいと思っていた自分がいたからだ。自分の行動に自分で責任を持つことなどしたことがない。ぼくが間違えばそれは侍従の間違いであり、家庭教師の間違いであり、クラウスの間違いであり、ぼく以外の誰かの責任として帰納してきた。今までは。
嵐がいっそう激しさを増す。
ぼくは涙をこぼしそうになるのを必死でこらえながら歩いていたため、自分が連れて歩いている人物がぼくへ向かって声をかけてくるのがまともに聞こえなかった。
「エーベル。雷って平気か?」
のんきな声。
何も。何も知らないくせに。
自分がこれからどうなるか。
ぼくがあなたをどこへ連れて行こうとしているのか。
「おれは、怖いな」
ぼくは、夜を出歩くために買った黒のフード付きマントを深くかぶって、振り返りもしない。
それでも後ろの人物は懲りずにぼくへ向かって色々なことを話し掛けてきた。
「ユリウス」
三回目の踊り場で立ち止まると、ぼくはようやく振り返った。
「あなた、自分がどういう立場にあるか分かってるの」
「どういう立場、って」
鈍感さに嫌気がさす。
ララの牽制を無視するからだ。
ぼくの親戚にあたるララは一族内でも賢くて優秀な少年であることで有名だった。ぼくなぞはパパやママからしょっちゅう「ララのようになるのよ」と云われて育った。ルーズベリーへ入学させられたのも、ララが在校生だったからだ。
ぼくの中にはララへの強い憧れがあった。明るくて統率力があってまっすぐなララお兄様。クラウスはぼくのように慕わないけれど、ララに対して特別反感を抱いている様子でもなかった。クラウスってやつは、いつだってそうなんだけど。誰かに対し特別の好意や反感を見せたりしない。ぼくに対してだけ。
雷が光った。
ユリウスの唇が動いているのを見たけれど何を云っているのか聞き取れない。
「あなた、ララの反感を買ったんだよ。ララはね、何でもできて誰からも愛されて、特にニア伯父様には誰より懐いていたんだよ。あなたはそれを壊したんだ。あの家に生まれついたララにとって、グラン・タウンなんて名前を耳にするのも嫌な場所なんだ。それなのにあなたが、グラン・タウンのあなたが、伯父様の心臓を奪ってしまった」
何を語っても自分の弁解だと思った。
ぼくは今までララに要求されたとおりに動いてきた。ララがユリウスに接触するよう云ってきたので接触した。近づくよう求められて近づいた。
それはこの日この瞬間のための下準備に過ぎなかった。
ぼくは彼を導かねばならない。ゴルゴダの丘へ。
その時、俯いているぼくの頭上から、ふ、と笑い声のようなものが小さく聞こえた。
「怖がらなくて良い。エーベルハルト」
何もかもを見透かすようなペリドットの瞳はぼくを見下ろし、慈しむようなまなざしを投げかけている。
あ、と思わず声が漏れた。
(このひと、全部分かっていた……!)。
そう悟った瞬間、足の力が抜けて、ぼくはもう立っていられなくなった。
ぼくの導いた先でララは彼を拷問する。
それは後に悪戯だと弁明され闇に葬られるだろう。ララにとってはそれくらいのことなのだ。落ちぶれたニアガーデンが貧窟で出会った子供に心奪われた。かつて自分が慕い、尊敬した大人が。しかもそれが一度の過ちでは収まらず、ルーズベリーに在籍する学費を保証するくらいの間柄にまで発展した。そのことでララは自尊心の一欠けらが汚されたように感じ、それを清めたい。卒業を半年後に控えた第七学年のララが、例えば卒業記念と称し、自分のことをおとしめた、と彼が感じている相手の肌に烙印の一つ与えたいと思うのは、彼のその恵まれ過ぎた生い立ちを思えば当然のことなのかも知れない。
この時ぼくの脳裏にとある言葉が浮かぶ。
流れる。
(お前のしたいことをするがいい)。
窓をつたう雨水の影は青白い筋となって彼の頬を涙のごとく流れた。
「な、何を云っているの。ぼくは何も恐れてなどいないよ」
「へえ。そんなに震えていても?」
ぼくの手からランプを取り上げたユリウスはぼくのことを小さい子供みたいに撫でて「怖かっただろう。誰にも云えなくて、辛かっただろう」と繰り返した。
前にも同じようにされて涙ぐんだことがあったのを思い出す。
「怖がらなくて良い。エーベルハルト」
二回そう云われたらもう我慢できなくて、ぼくの両頬を、大粒の涙が零れおちていった。一度感じたら止めることなどできるはずもなく後はただただ迸らせる。
目線を合わせてしゃがんだユリウスは、突然胸の中に飛び込んできたぼくを受け止めて仰け反った。
「うわっ。おい、エーベル」
結局支え切れなかったユリウスは尻もちをつく。
ランプの灯は揺れながらも無事だった。
「ユリウス、ごめんなさい!」
「おれはどこへ行ったら良い? ララはどこにいる」
「し、知らない」
「音楽室?」
「い、行っちゃ駄目」
「音楽室だな」
「……行っては、駄目だってば」
シャツを握る手に力を込めたらユリウスは少しだけ待つことにしたみたいだった。ぼくがしゃくりあげていると背中をぽんぽんと叩いてくる。
「エーベル。エーベルハルト」
「ほんとに、だめだよ!」
「うん。駄目だな。こんなところをクラウスに見られたら、おれ、怒られちゃうな」
「ララはあなたに嫉妬しているんだ。嫌がらせをしようとしているんだ。これは計画なんだ。ぼくはずっとあなたを騙していたんだ。この日までに親しくなって、どうにか連れ出さなければならなかったんだ。ぜんぶぜんぶ、最初から決められた行動だったんだ」
「ごめんな、エーベル。おれのせいで辛かったな。だけどもうここで終わり。終わりの終わり」
「あなたはぼくの気を軽くしようとしてそんな嘘を吐くんです」
「どうして」
「だって、あなたは嘘吐きだから」
「ふうん」
「優しいくせに、本当は、優しいくせに!」
「違うよ」
「嘘」
「嘘じゃない。その証拠に、おれの命は、余ってる」
「……ユリウス?」
すっと立ち上がったユリウスはぼくの肘を掴んで立たせ、
「帰れ、エーベル。良いか、緑の祭典、最終日前夜、おれはたまたま音楽室へ行ったんだ」
イエスはユダを見棄てたわけじゃない。
救わなかったわけじゃない。
彼の愛は深く。
磔の上でも損なわれないようなものだったから。
貴きよりも尊く。
荒野に咲く白百合のような心は。
自らに降りかかる痛みに他者を晒さなかっただけ。
ユダの手で裏切られることを、恐れなかっただけ。
臆病なぼくは雨の中を走りながら、雷に打たれてしまいたかった。去年のグランド・パーティ、ユリウスのおかげでクラウスと仲直りができて、記憶に残るような夜を過ごせたことを思い出す。
ぼくから誘ったキスを拒んだユリウスを思い出す。その後で強引に口づけて、ぼくの望みを叶えて、何もぼくのせいにはしなかった。
ララ・クロウが何と云ったって。
あいつこそがニアガーデン伯父を誑かした悪魔だと耳元で繰り返し囁かれても。
ユリウスは、聖人だ。
ぼくは降りしきる雨の中で立ち止まる。今頃ユリウスは音楽室へ入ったところだろう。そこではタッソが捉えられている。猛獣のように束縛されている。ユリウスはぼくの名前を出さない。人質を取られ黙って従う。ララは意地悪な選択を迫る。ユリウスはいつもタッソを優先する。ララの問いにも意志を曲げないだろう。
ぼくは体の向きを変えた。
何もできないユダになりたくない。
銀貨を跳ね返されて首を吊ったりしたくない。
ぼくはぼくだ。
ララ・クロウのことなど構わない。
だって。
クラウスと喧嘩して淋しかった時、ひとりぼっちになったと感じていたあの頃、傍に来て話を聞いてくれたのは、ユリウスだったじゃないか。ララ・クロウじゃなくてユリウスだったじゃないか。