カメラを首から下げた広報部員のガーデルがマーカス寮101号室を訪れたのは、祭典二日目、合唱本番を明日に控えた夜のことだった。
その日手に入れた文房具やお菓子やカード、植物の種や雑誌なんかをベッドの上いっぱいに拡げて見惚れていたぼくとアロンは、ノックもなしに入ってきたガーデルのことをぽかんと見つめた。
「驚くなよ」
アロンを素通りしたガーデルはまっすぐぼくのところまで来ると、がしっと肩を掴んで云った。
「ユリウスが腕を怪我した。事情を知った校長がご立腹、ララ・クロウは停学決定だ!」
「え」、ぼくより先に内容を把握したアロンがすかさず身を乗り出す。
「明日の伴奏はどうなるんだ」
「分からない。とにかく今、先生たちが大変なんだ」
「ララ・クロウが関係しているのか」
「確実に」
数名の生徒が廊下を走って行く足音が聞こえる。
緑の祭典二日目の夜、就寝時刻通りに寝ている生徒なんていないってことだ!
ガーデルがぼくにレンズを向け、ぱしゃっと写真を撮った。ぼくは顔をそむけたけれど、それはとっくにシャッター音のした後だった。
「ど、どういうこと。ガーデル。ねえ。話が分からない」
ガーデルが再びカメラを向けてきたのをアロンが遮った。
「おい、いい加減にしろ」
いつになく真剣な口調でアロンが怒鳴ったのでガーデルは驚きつつカメラを下ろした。
「す、すまない。フィガロ」
「ひとまず話せって」
アロンに云われたガーデルはようやく一呼吸置いて、
「今夜九時過ぎかな。合唱団の衣装、ユリウスの分だけ遅れていただろう。それがようやく届いたからとエーベルハルト・ローゼンがペトロス寮までユリウスを呼びに来た」
「エーベルが?」
「ララ・クロウの手下にされていたんだよ、あいつは。ユリウスに近づいていたのは自分を信用させるためだ。あいつはユダなんだよ」
「えっ、何。それってどういう……」
「で、待機していたララ・クロウがユリウスを拘束して選択を迫ったんだ」
「選択って」
「明日の伴奏ができなくなるのと、ユリウスとタッソ両名ルーズベリーを退学になるのと、どっちが良いか」
「そんな!」
「ララ・クロウが本気だったか分からない。いや、本気なわけはないだろう。ただ脅したかったんだな。ほら、ちょっと前に音楽室の黒猫事件ってあっただろ。あれももしかしたらその手の脅しの一つだったんじゃないか、ってな。聞いたところによるとユリウスが構っていた猫に似ていたらしいからな。だけどユリウスはタッソまで拘束されているのを見て、ただの脅しだとしても、自分で腕に傷を負ったんだ。予想外だったんだろうか、エーベルが校長へ知らせに来た」
「でも、どうしてララ・クロウが」
「なんでもユリウスとタッソの学費の出資者がララ・クロウの親戚にあたる人物らしく、そのことでララ・クロウは妬んでいる節があったようなんだな。おれの推測が正しければ、学費の出資者とはララ・クロウの伯父ではないかと。ララ・クロウの伯父ってのはもともとクロウ家の後継者だったらしいんだが何があったか一族を永久追放になった後、あのグラン・タウンに居を構えた変わり者らしい。入学以来ユリウスが毎週決まった曜日に欠かさず通っていたのはこの伯父の家だったという説もある。そこで『仕事』の『手伝い』をする見返りとして保証人になっていてもらっていたんだ」
ガーデルが話す内容はほとんど頭に入ってこなかった。
一方でぼくにはエーベルの不可解な行動の一つひとつが思い出されていた。
ララ・クロウとの早朝の密会。
ユリウスへの執着。
そらされる視線。
それは、怯えたような、哀しそうな、青色の瞳。
ぼくは、ぐるぐるする頭で初めてユリウスと言葉を交わした時のことを思い出す。
閉館後の図書館。
窓際に腰かけたユリウスが飛んでしまいそうに見えた夕刻。鈍色の雲間から銀の光が差し込み、その光は、ユリウスの背中に羽を再生した。振り返った瞳のペリドット。いつも大人びてクールな彼。今ならはっきりと思い出せる。
どうして素通りできずに声をかけてしまったか。
どうしていつまでも忘れられなかったか。
どうして、なんて、なんてばかばかしい台詞。
今はっきりと思い出した。視界に入った世界の隅々まで再現できる。時は巻き戻される。白いカーテンが逆にはためく。ぼくを振り返ったところで一瞬停止した映像が目の前に鮮やかに浮かびあがる。
そうだ、その理由のためにぼくは気にかけ、素通りせず声を掛け、いつまでも忘れなかった。きっとあの一瞬のためにルーズベリーに入学したのかも知れない。なんて、本気で思っちゃうくらい。
そう、あの時ユリウスは、迷子の子供みたく泣いていたんだ。
ただしそれは、はぐれたことを怖がっている孤独な子どもではなく。
自分の名前を呼んでくれる誰かを、見つけた子供。