FORBIDDEN LOVER


 まるで親鳥の気分だ。

 匙を待っている口のなかへスープを流し込む。喉元を見て嚥下を確かめ、味に問題なかったか表情を窺った後で再び匙にスープをすくう。
 窓の外は真っ暗で何も見えない。白くぼんやりと浮かんだ電球に照らされ、月夜の海原を漂う小舟のようだ。
「そっちのも食べたい」
 要求を受けたタッソは新たな器を手にした。食器を取り換える音が小さな部屋に響く。銀色のフォークに掬いあげたものを自分でも確認してから先ほどの動作で口元へ運ぶ。
「こういうのって、憧れてた」
 看病されているって感じが。そう云ったユリウスは三口目で食べるのを止め、ベッドの背凭れに身を任せた。右腕は布団の上に投げ出し、包帯の巻かれた左腕は腹上にのった。
 ドアの外が少しずつ騒がしくなってきた。医務のコットが対応に追われている声を聞きながらやはりユリウスはくすりと笑みをこぼした。その笑みを見ていたタッソは彼の頬を打つ。
「笑っている場合か。どうしてあんなことしたんだ。俺のことなんかほっとけば良かっただろ。二人やられるくらいなら一人がやられとけば良いんだ。ララの罠だと分かってのこのこ現れるとは思わなかったよ、莫迦だろ、あんた」
 反対側へうなだれたユリウスは何も云わない。
 しばらくして咳き込み始めたのでタッソは慌てて席を立とうとした。
「いま、コット先生を呼んで来るからな」
「待て」、その袖を掴みユリウスが顔を上げる。
「さっきの質問だろ。いま教えてやるから、待て、タッソ」
 しゃべった拍子に咳がひどくなったのでタッソは動こうにも動けなくなってしまった。静かに腰を下ろし、その咳がおさまるまで背をさすってやる。
「どうして、って、ルーズベリーを卒業するためだ。おれが一緒でだめなら、タッソだけでも。これは何度も云ってきたことだろ。計画の通りだろ」
「喋んな。また、咳が出る」

 数日前、依存性の強い香物質を生成する百合を栽培し販売していたかどで彼等の保証人であるニアガーデン氏が逮捕された。氏本人も依存症にかかっていると判断され、街の病院に入院することを余儀なくされた。その香物質の症状や危険性などはまだ定かではなく、今後の経過が注目されるが、初期症状として空咳が挙げられるらしい。

 寮の部屋で発見した精油のことをタッソはユリウスにまだ云っていない。タッソが気づいていることに気づいていることを、ユリウスもまだタッソに云わない。

 しばらくして落ち着いたユリウスは顔を上げ、タッソではなく窓の向こうを見た。
「ごめんな。タッソ」
 従兄のその沈んだ声にタッソの胸は張り裂けそうになる。
「ふん、もういい、何も喋るなって云ってるだろ、くそ。この、ばかが。いい加減にしないと殴るぜ」
「……それは、痛そうだ」
 強がっているそぶりさえ感じさせないほどいつもは強がりな従兄が、今ばかりは素直になることしかできず、従弟の広い胸にぐったりと体を預けていく。
 次第に呼吸は落ち着き、深呼吸を二度三度と繰り返した。
「ゆっくり、吸え」
「……うん」
「ゆっくり、吐くんだ」
「……うん、うん」
 病床の幼患者が医者の云うことに従うのと同じ従順さでユリウスは深呼吸した。
「……なあ、タッソ」
「いちいちうるさい。何だ」
「おれ達、どこから駄目だったかな。どこがいけなかったかな。何かをし過ぎたのか、し忘れてこうなったのか、どっちだろうな」
 冷えた肌は薄ら汗ばみ、その体からは切ないような懐かしいような甘く優しい香りがした。
「そうだ。ユリウス、覚えているか?」
 タッソはユリウスの質問には答えず、唐突に小さい頃のことをいくつか話し始めた。
 初めて会った時のこと。
 子供だけで暮らし始めた日の天気。
 ユリウスがうつ伏せでしか眠れなかったのは背中に傷を負っていたからなのだと気づいた時のこと。
 秘密の隠れ家。グラン・タウンのいたるところにあった我が家。
 今まで忘れていたような出来事が一つずつ鮮やかに蘇ってくるのをタッソは淡々と物語にする。
 体力の回復を待ちながらユリウスは時々くすくすと笑った。
 この時、タッソには神の不在がはっきりと感じられた。
 だが、神などに頼らずとも自分はこの人物をいつか世界でいちばんの幸福にしてやろうと思った。

「なあ」
 廊下のざわめきもほとんど聞こえなくなった頃、ユリウスが云った。窓の外で月は群青色の遥か空に遠く、二人の事情など知らない。
「タッソ。教えようか。おれがフィガロ・ルーイッツを気にかけた理由を教えようか。入学前、この学校ではお互いしか信じないと云ったのに」
「ああ。あんたは鈍感で気づいてないかも知れないけど、これで結構妬いているんだぜ。ぜひ教えて欲しいもんだな」
「ごめんな、賭けていたんだ」
「賭け?」
「煙草一本。火が尽きるまでに誰かが話し掛けてくれたらセーフ。もしも誰も気づいてくれなかったらアウト」
「何の話だ。セーフとアウトってのは一体」
「西の窓。あそこからなら、飛べるような気がして」
「飛べるような、って。おい、まさかあんた」
「だから、ごめんって、タッソ」
「なに謝ってんだよ」
「おまえを、ひとりにしようとした」
 顎の高さでペリドットの瞳が、今までになく澄んで自分のことをじっと見つめている静かな眼差しに気づいたタッソは言葉を失う。
 言葉になる前の言葉を孕んだ湖の表面は凪いでいる。湧き出たばかりの水は水底を覆う苔の一本一本さえ見通させる。深い森の、人の立ち入った過去のない樹木のそのさらに奥で空気は真冬のようにキンと冷え、青白い頬の痩せた幼子に出遭った。
 タッソ。
 そんな名前で呼ばれたことはなかったが、自分の名前はそれで良いと思った。月夜に現れた幼子は語らずしてタッソの手を取ると街のはずれにある家を出て行った。それまで一緒に暮らしていた男には何も告げなかった。
 夜道の先は誰にも知ることができなかった。勿論、幼い従兄弟にだって。
 しかし二人は夜を恐れない。長く続く闇に怯まない。
(ほうら。まっ暗い場所で手を握っていようよ。このまま余計にあたたかいよ)
 星はふたりを見かけたことだろう。
 背に傷を負ったユリウスに、その晩家出してきたばかりの弟タッソ。
 一見似つかない二人にも実は血の繋がりがあり、彼等は汚れた町で震えながら野たれ死んだりはしない。あらゆる手を使って生き伸び、いつか笑顔で大人になっている。
 星たちはささやかな光で彼等の進む道を照らした。
 ユリウスとタッソ。
 罪深い二つの子供らよ、いつかきっと大人になれ。
 星は瞬くことで彼等のための音を奏でる。

「タッソ。あの星に見覚えがある気がする」
 ふかふかの枕に埋もれて窓の外を見ていたユリウスが寝言のように囁く。明日の準備をしていたタッソは云われた方角を仰ぐが言葉の意味に到達しなかった。
「俺は知らない。それとも、忘れてしまったのかな」
「そうだろうな。でもおれが覚えていた。そういうふうに、やっていけたらいいな。一方が忘れたことをもう一方が覚えている。そういうふうに、お前とは。……忘れないで、生きていけたら」
 まどろんだ瞳に目を奪われたタッソは服の皺を伸ばしていた手を思わず止めた。
「ユリウス、俺、ずっと前から、」
「ふああ。お腹一杯になったら、なんか眠たくなってきた」
「……。だったら寝ろよ。明日はいよいよ本番だからな」
「寝坊してしまうかも知れない」
「おれが起きておく」
「どうだか」
「起きておく。あんたが起きるまでは絶対に寝ない。約束だ。おれがあんたとの約束を守らないことが一度でもあったか」
 むきになって云い返してくるタッソを見上げたユリウスは目の下まで毛布を引き寄せたが、その顔が笑っていることは明らかだった。
「なあ、タッソ」
「今度は何だ」
「おれは、お前のことなんか考えていないよ。ほら、さっきの話で分かっただろ。おれは、自分が哀しければ死んでしまえば良い、って、簡単に考えるんだよ。そんな情けないやつだよ」
 簡単に考えたわけじゃ、ねえだろうが。
 タッソは自分のふがいなさが悔しく、眉間に深いしわを寄せた。
 そういえばあの頃ユリウスは何を話しかけても上の空だった。一番近くにいて、理由に気づかなかったなんて。もう少しで、手遅れになってしまうところだったなんて。しかもそれを、今本人の口から聞いてやっと知るなんて。ユリウスのことだから、罪はすべて背負っていく気だっただろう。
 タッソは奥歯を噛み締めた。
「うん、そう。タッソ。おれはお前のことなんか何も考えちゃいないんだ。大事だとも、思わない」
「何が、云いたい?」
「だから」
 ユリウスの手が伸びてくる。
「だから、おれがお前のために苦しんでいるだなんて、そんなふうに考えるの、もうやめろよ」
「……」
「もうそんな泣きそうな顔、すんな?」
 云われるまでタッソは自分がそんな表情をしていたことに気づかなかった。
「逆だよ。お前がいるからおれは苦しくないんだ」
 いつもなら云い返すところだが今回は黙っていた。
 この一瞬を、永遠より長く続けたい。

 隠し事をしないこと。
 ルーズベリーに入学する前日、ユリウスはタッソにそう約束することを迫った。「学校生活で困ったことがあったら何でも云うんだぞ。必ずおれが何とかしてやるから。お金のことなら心配いらない。ニアガーデンからいくらでも出させるし」。
 生活が離れ離れになるのが嫌で、しかし嫌だというのは格好悪く、ただ不貞腐れ、背中の傷についてタッソは訊ねた。
「だったら、あんたこそ教えろよ。その傷、どうしたんだよ」
 この時ユリウスは初めてタッソに傷について話した。
「アンナは自分が殺されるかもしれないと思った時、おれの体を押し出したよ。おれが避けなければアンナは逃げ伸びたかも知れない。使えば良かったのに逃げた。その時おれの命は、世界の中で一個余計に余ったんだよ」
 余った、命。
 どう返事をしたら良いか分からなくて黙っていた。
 その数週間後、ラインハルト・ベッセルの死亡。
 グラン・タウン住民同士の殺傷事件であれば介入してこない警察が、やがて運転手を捕まえるだろう。それがグラン・タウンの人間だと分かれば死刑になる。ならなくても、正当な処分は下されない。タッソを逃がしたユリウスは身代わりとなり、ニアガーデンの要求を飲むことで彼に引き取られた。引き取る際には、少なくない額の釈放金が支払われた。
 その際、ニアガーデンから提示された交換条件。タッソとユリウスの生活を保護する代わりに、ユリウスは毎週きめられた曜日、ニアガーデンの家に通うこと。期限は、七年分の学費を支払う間。

「タッソ。愛してる」
 タッソは思わず払いのけた。
 ユリウスはその反応を見てにやにやと笑っている。
「どうした、タッソ。顔、赤いぜ」
「じょ、冗談云うんじゃねえよ」
「冗談にでもしないと本当のことって云えないだろ」
「だから、ユリウ……、ちっ。相手によってはそういうの本気にするんだぜ!」
「ああ、そうかもな。じゃ、おやすみ。タッソ」
「……。ああ、おやすみ。ユリウス」
 閉ざされた瞼の上にできたくぼみにキスを落としたタッソはふとグリルパルツァーの言葉を思い出し、何事か一寸考えた後で布団の上に投げ出された右手首をそっと裏返し、「今さら、愛してる、ってか」、その掌にもまたキスした。
「ふん、……俺なんか、ずっとだ」

 他人なんて敵ばかりだと思っていた。
 第二学年図書委員長の小さな少年を思い出し、だけどあの不器用さは自分に似ている、と感じて少し嬉しくなった。無意識にとはいえ従兄の命を救ってくれたチビのフィガロに、いつかありがとうと伝えられる日がくるだろうか、とタッソはやっぱり眠くなってしまう頭でぼんやりと考えた。
 無茶な約束をしてしまった、と今更ながら後悔する。

 長い夜になりそうだ。
 しかしなんだか子どものようにどきどきとした。
 緑の祭典最終日は、いよいよ明日だ。



He said, God is nowhere.