合唱の本番日。
ぼくは染みひとつない白衣の袖に腕を通す。
夢にまで見た今日なのに気分が晴れない。
本番を一時間後に控えた舞台裏の緑の庭、練習を共にしてきた二十数名のメンバーが自分の白衣を手に取りその場で着替えている。着替えを済ませてはしゃいでいる小さな子を見つけて年長者が注意していた。
エーベルハルトの姿は見えない。当然クラウスもこの場にいない。
アロンがガーデルの直前インタビューに答えている。
ぼくは誰と喋る気もなく、何を語るつもりもなく、仲間の様子を横目に見ながら少し離れた木影に腰を下ろした。
少年達の白衣は初夏の日差しを受けて眩しい。互いの服の皺を伸ばしあったり寝癖を抑え付けあったりしながらそのままじゃれ合っている。
一際ざわついたほうに目をやるとテオだった。
指揮者のテオはメンバーと同じ白衣ではなく黒のタキシード姿だ。ただでさえ落ち着いているのがいつもよりさらに大人っぽく見え、もう一人の彼を知っているぼくなどは、やっぱりこっちが本当のテオ・ベッセルなのかも、と定義をあいまいにする。
癖のないプラチナ・ブロンドは黒に映える。
ぼうっと見ていると目が合った。彼はぼくに向かって何か云おうとしたけれど、別に呼ばれてそちらを向いた。
「はあ」
思わず溜息が出てしまう。悪い癖だ。
ぼくは膝に顔をうずめる。明るい場所をじっと見ていたので目の奥がチカチカしていた。目を閉じた分だけ敏感になった聴覚が風の音に少年達の歌声をのせてくる。笑い声は弾け、小鳥は囀り、木々は母親のようにぼくたちを見下ろしている。
それらの音にまじって、ぼくは懐かしい声を聞いた。
「ガロ!」
呼ぶやいなや木の上から黒い塊が、ぼくの腕の中に、ぽとり、と収まった。
「ガロ。ひさしぶりだね。きみ、こんなところにいたんだ」
ぼくが話しかけるとガロは返事をするように鳴いた。
そういえば、初めて出会った時より一回り大きくなったようだ。思えばあの時はまだほんの子猫だったものな。
元気に成長しているガロを見て、ぼくは少しだけ明るい気持ちになった。
お腹を撫でてあげるとガロは気持ち良さそうに目を細めた。しかしすぐに使命を思い出したふうに頭をもたげると辺りを見回した。けれど対象を見つけ切らずぼくの顔を見上げて問いかけるように鳴く。
「ユリウスは、いないんだよ」
そう伝えてみるもガロはあきらめなかった。少年達の方へ歩いていくと一人一人の顔を見上げ確認し、それでようやく納得したらしくぼくのところへ戻ってきて爪先の前に座り込む。
「だから云っただろ。ユリウスは、伴奏できるかどうか分からないんだよ」
ガロはぼくの膝の上で再び器用に丸まった。
「どうしてか、って? えっと、腕を怪我しちゃったんだよ」
その時、騒いでいた少年達の話声がぴたりとやんだのでぼくはユリウスが来たのかと思いガロが膝の上にいたことも忘れて思わず立ち上がった。けれどユリウスの姿は見当たらず、全員の目はテオに向けられている。ざわざわとし始めたので近寄って聞いてみると、もしもの時のために代わりの伴奏者を決めておかなければならないとのことだった。
「ぼくたちはユリウスの伴奏じゃないと唄わないよ」
一列になって意見を主張したのは第一学年のメンバーだった。
中には「誰でも良いじゃないか」と嫉妬する上級生などもいたけれど、小さい少年や多くのメンバーが駄々をこねるように反論したので黙ってしまった。
「そろそろ準備を始めてください」
舞台の方から呼び声がかかって、ぼくらはぞろぞろと舞台裏へ入って行った。そこにもユリウスの姿は見当たらなかった。ぼくはそわそわし始めた。
メンバーがなかなか静まらないのでもしユリウスが時間までに現れない場合は伴奏無しで歌う、とテオが決定した。
文句を云う者は誰もいなかった。
「あっ、ガロ。入ってきちゃだめだろ」
いつのまにかメンバーに紛れ込んでいたガロはぼくを見上げて高く鳴いた。
その声に全員が振り返って入口のところを向くと、ちょうど最後の一人が入ってきたところだった。
「ユリウス!」
ああ、その時ぼくがどんなに安堵したか知れない!
幕が上がるまであと数分という時になってすっかりテンションの落ちてしまったメンバーを持て余していたテオが安心した表情になったのは、全員の心が今までになく一つになった瞬間を実感したからという、それだけじゃない。
「どうして。おれが遅刻するのなんて、日常茶飯事だろ」
周りの騒ぎにまったく無頓着なユリウスが、メンバーが何を理由に落ち込んでいたのか解せない、とでも云いたそうな、いつも通りのんきで平和な目で全員を見回したからだ。
真っ先に歩み出たテオがユリウスの腕に目をやる。それからわざと意地悪に、
「この時に至ってまで遅刻癖は治らないか。使い物になるんだろうな、それ。せっかくの本番をだいなしにされたら困るんだが」
「ああ。今日以降、一生使い物にならなくなっても良い。絶対に弾き上げるから」
「そうか、それなら良いんだが。あと、覚えておけ。ユリウス・シーザーを傷つける権利があるのは世界でただ一人、このおれだけ。テオ・ベッセルだけだ。生徒会長だろうが誰だろうがおれ以外のやつに触らせるな。お前を殺しても良いのは、このおれだ」
ぼくは驚いてテオを見た。
ふん、と眼鏡をはずしたテオはもう何も云わなかったけれど、その表情は辛辣な言葉とはまるで裏腹に穏やかに微笑んでいたんだ。
白衣のぼくたちはテオの指揮とユリウスの伴奏、それに、ソプラノ最前列のローレンツの独唱からの導入で、モーツァルト作曲Laudate Dominumを歌い上げた。
"Laudate dominum"
Laudate Dominum omnes gentes,
laudate eum omnes populi:
Quoniam confirmata est supernos misericordia ejus.
et veritas, veritas Dominum manet, manet in aeternum.
Gloria patri et filio et spiritui sancto,
sicut erat in principio
et nunc et semper et in saecula saeculorum.
Amen.
タクトを下ろしたテオはスタンディングオベーションの湧く場内に向けて眼鏡を放り投げた。この日を境にテオは「優等生」であることをやめた。もちろん、五年後に卒業するまで成績は首席を維持したのだけれど、この日以来彼が「凍りついた人形」なんて呼ばれることはなくなった。
腕の痛みに耐え伴奏を終えたユリウスは退出するテオと軽く抱き合った後で観客席やぼくらに向かってキスを投げた。指揮者と奏者の抱擁に浮かれたアロンが調子に乗って夜の女王のアリアを唄いだしたので会場はたちまち笑い声に包まれた。もちろんアロンは後で、来ていたアロンのママにこっぴどく叱られた。
会場の外ではエーベルがユリウスに対して謝罪をした。ユリウスはエーベルを責めるどころか「おれのせいで辛かっただろう」と、彼がようやく事実を話してすっきりできたことを慰めてあげた。
その数日後にエーベルが黒猫事件の犯人は自分だったと校長に告白した。
この日のことは思い出すたびに胸が痛いほどに熱くなる。間違いなくぼくの体験したことなのだ。