月の七日、放課後の懺悔室は緑色の瞳をした少年のために空けておく。
白髪のリンドより三十分ほど遅れて入ってきた少年の姿が青い光の中で浮き上がる。
扉を閉めると部屋の中は再び薄闇になり、ステンドグラスを通して床に落とされる三原色の色彩が視界の隅でちらつく。
外より気温の低い室内へ一歩足を踏み入れたユリウスは暗がりに目が慣れるのを待って辺りに視線をさまよわせた。
黒のレース越しにその姿は眼差しの行方まで知ってしまうことができる。
イブニング・エメラルドとも呼ばれるペリドットの瞳が自分を見つめる視線の出どころをとらえ歩み寄ってくると、向かい合った椅子に腰を下ろした。
「ユリウス・シーザー。ポール先生から聞いたんだが。先月、君はラテン語の授業を三回も遅刻したそうだね」
「ええ、まあ」
「理由は」
「とうに御存知なのでしょう」
「わたしは何も知らないよ」
「どうして」
「ラテン語ばかりでない。他の授業もだ。それでいて成績が良いのだから、今回の事件のように一部の生徒から不正を疑われても仕方あるまい。以前もこんなことがあったな。その時はタッソ・トルーバーが黙らせたようだが、そういう暴力行為は、」
「……あいつは自分から手を出したりしない」
強い語気に遮られる。
ユリウスとタッソ。
学年の違う従兄弟同士。このふたりに共通して云えることは、片側が追い詰められたり非難や叱責を受けるようなことがあった時、躍起になって否定をするということ。
ユリウスが入学してすぐの頃は、酒樽タッソの似ていない従兄だということで全校生徒から注目を浴びた。その人気を良く思わない一部の生徒が寮で盗みを働き従兄弟に濡れ衣を着せたことがある。双方個別に話を聞いてみると奇妙なことにタッソとユリウスのどちらも自分ひとりが犯人だと云い張る。不審に思い問いただすと尋問した教師が「片方が自白した」と鎌をかけていた。数日後に真犯人が判明し、該当生徒ならびに尋問役の教師には相応の処分が下された。
そんな出来事があってからというもの、ユリウスとタッソの関係は、噂好きなルーズベリー生達にとって格好の話題となった。
体格は大きいがそれまでどちらかというと大人しい性格だったタッソはユリウスの入学と同時にペトロス寮の不良連中からも恐れられる存在となった。ユリウスを中傷した生徒はことごとくタッソの制裁を食らうという噂が流れた。
「不正などしていません。今ここで解いてみせても良い」
「ユリウス、私は君がとても賢いことを分かっている。しかし、他の生徒達が」
「云いたいやつには云わせておいてください。おれはそんなことでいちいち傷ついたりしない。それとも、おれとタッソの入学を許可したあなたの名に傷がつく?」
リンドが黙ったままでいるとユリウスの瞼が痙攣した。
「お金が欲しいわけじゃない、おれは。学校を卒業したいだけ。あの町を飛び出して生きていけるような羽が欲しい」
リンドは立ち上がって懺悔室を出た。
黒レース越しでないユリウスが彼のことを見上げた目には誰のものとも一致し得ない哀しみ、苦しみ、そしてそれ以上に一途さが秘められていた。
「着込んだ鎧は重かろう。君は自ら身につけた鎧で、産まれ持った羽根までもを駄目にしてしまっている」
「おれを可哀想だと思うの」
「ああ、思う」
「どうして」
「まず親がいない」
「親がいない子供はおれだけじゃない。グラン・タウンの子供はそんなのばかりだ」
「学費を払うために赤の他人に出資者になってもらった。その代償としてきみは若さを売っている。貴族を追放された独身の奇人を相手に。実に哀れだよ」
「哀れというのは、奇人のことが。それとも、おれの売るおれの若さのこと」
「そういう質問の仕方をすること自体がだ」
「誰だって何かを犠牲にしている。あなただってどこかではそうだよ」
リンドは云い返せなくなる。
ペリドットの瞳はあたかも紋白蝶の卵のように澄み、言葉の真意以外の感情を込めない。それゆえに一言が真実味を増し、リンドの胸に迫った。
誰もが同じように何か犠牲にしている。
確かにそうかも知れない。
その個々を取り上げて悲哀で語るなんて、他愛も無い。
「ぜんぶ嘘だね。あなたは憐れむふりをして、本当はおれを愛したいんだ」
いつかどこかで見たような皮肉な笑顔でユリウスが首を傾ける。
確信犯でも計画犯でもなく。
それは相手へ何かを伝えるための記号ではなく、単純な動機にもとづく些細な仕草。
頬に流れた黒い髪の隙間から白く薄く、それでいてとても柔らかそうな耳朶がふっくらとのぞいており、それは絶対に違う、と否定できないリンドだった。
その時すぐ下から猫の鳴き声がして、ふたりとも驚いて飛び上がった。
見下ろすとユリウスの足の隙間に、いつからいたのか黒い子猫がちょこんとお尻をつけて座り、赤い口を開けてあくびをした。
「みあみあ。みあみあ」
「わっ、ガロ!」
片手でひょいと胴を掬ったユリウスはガロを顔の高さまで持ち上げ「いつから盗み聞きしていたんだ」と怖い顔を作り、だらりと伸びきったその体を揺らした。
ガロは首を伸ばすとざらついた舌でユリウスの鼻先をちょいちょい舐める。
「こら、ばか。おれはおまえの大好きな角砂糖じゃねえぞ?」
虚を突かれたユリウスの目がくすりと笑い絶妙の弧を描く。
見ていたリンドは呆然とした。
(そうか、ユリウスは、生きていける)。
そのような考え、考えにもならない直感のようなものがリンドの体内を駆け巡った。痛みにも似た強烈な痺れが四肢の先端から始まり、心臓の鐘を大きく鳴らす。
突然笑い出したリンドをいぶかしんだユリウスはガロに頬ずりしながら眉をひそめた。
「何だよ、校長。とうとう狂っちまったか」
「そうかもな、狂ったかも知れない。そいつはガロというんだな」
「そうだけど?」
リンドは、神はいないのかも知れない、と思う。
言葉を喋れない猫がその小さなとげとげの舌で一舐めする。
たったそれだけでユリウスがいま救われた。
そして、誰かが救われた瞬間を目の当たりにして救われた自分がここにいる。
問題は、ちいさな息継ぎを何度繰り返していけるかだ。
劇的な救済の妄想など幸福の足しにはならない。
何億の言葉より一瞬のふとした仕草。
もしもガロが人間だったらユリウスはその人間のことを気に入っただろう。
リンドは白髪頭を掻きながら、そういえばうちの学校にそっくりの生徒がいたような、などと壁にもたれて呟いた。
「いいな。私もガロになりたいな」
「は。何云ってんだよ、老いぼれ校長。あんたはつやつやの黒猫にはなれない。白髪頭の白猫だ」
「ユリウス。きみは口の利き方というものをもう少し学ぶべきであって、」
「はい。喉を撫でてんだから云って。ごろごろ、って云って?」
「……ユリウス!」
七月の懺悔室は充ちている。
光と何かでできている。