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 冬の暮れは早い。
 図書室の鍵を先生へ返し、ユリウスと約束した場所へ行く頃には星空となっていた。
 こんな時刻まで部屋に戻らなかった例のないぼくが、親しくなって間もないユリウスの云いつけに従う形で規則を犯している。
「アロンのやつ、見回りの時ちゃんといいわけをしてくれるだろうな……ぼくだって毎回世話をしてやってるんだからそれくらいの恩返しは当然……」
 裏庭の入り口に立つ。
 月明かりで見るアーチは昼間とまったく別物であり、その奥に広がる噴水庭園もまた、初めて踏み入れる異世界のように、ぼくにとっては未知なるものだった。
 円形の噴水の周囲を一周し、ユリウスがいないか確かめる。どうやらぼくの方が早かったみたいだ。彼、待つのが似合わないタイプだものな……。
 ズボンのポケットに手を突っ込み、あの紙切れを処分しておかなかったことを思い出した。取りだして掌の上に拡げる。ユリウスの目に触れた文面を今一度自分の目でなぞり返すことは自虐行為でさえあった。それでもぼくはこの手紙に視線を落としていた時のユリウスの真剣な表情を思い出しては、胸の中が柔らかなピンクの羽毛でいっぱいになるような、甘ったれたじれったさ、風邪の治りかけの午後に見上げる初夏の青空に感じるのと同じような真新しい爽やかさを感じていた。
「彼、ぼくの詩を読んでも笑わなかった……」
 噴水の縁に腰を下ろすと、ユリウスと図書館で初めて言葉を交わした時のことを思い出す。
 はためくカーテンの向こうで、ユリウスは遠くを見ていた。
 鈍色の空の向こうから一瞬だけ銀光、真冬の太陽が射して、ぼくの声に反応したユリウスがゆっくりと振り返った時。
 その光は彼の肩胛骨越しに表れ、まるで……飛んでしまえそうだったんだ。
 どこへでも。どこまででも。
 瞳はあの時何を見ていたの。まだ青くない冬の空はきみの瞳に何を語りかけていたのだろう……。
 それに、あの時の言葉。「死神のキスを?」。死神、ユリウスは自分で自分のことをそう云ったんだろうか。あれはぼくへの問いかけだったんだろうか、それともただ、からかわれただけ?頷けばきみはキスをくれたのか……それとも、また笑われるだけだったかな……。
 ぼくがぼーっとしていると、書きかけのラブレターは風に吹かれ木の葉のようにくるくる周りながら水面に落ちた。
 慌てて手を伸ばすけれど届かない。おろおろと辺りを見渡し、手頃な枯れ枝を発見するとその端を握り、精一杯紙切れへ近づけた。もう少しというところで紙切れはぼくの手に再び戻ることを厭うように回転を続け、ますます遠ざかってしまう。噴水の周りをあっちへ行ったりこっちへ戻ったりしながら、ぼくは紙切れを回収することに必死になった。
「あと少しなのに!」
 つついている内にインクの文字が滲む。たかが紙切れ。また書き直せば良いだけなのに、その文字が滲んでいるのを見ている内に、ぼくは本当に泣きたくなってしまった。さっきまでの温かな気持ちはどこかへ消えてしまった。ピンクの羽毛も初夏にしか見られない青空も。滲んでいってしまう。今、黒いインクに戻ってしまう。
 ぼくの気持ち。
 ぼくの鼓動。
 ぼくだけが見た一瞬の彼の残像も。
 そんなの、いやだ、ユリウス……。
 たとえきみが死神でも、魔女でも、それでもぼくは……!

 ぼくは思い切って靴と靴下を脱ぐと噴水の縁に立ち上がり、凍えそうに冷たい水に右の爪先を浸そうとした……その時、横から伸びてきた長い手が紙切れを先に掴み、ぼくは水へ入るタイミングを失った。
「あ、ありがとう、ユリウス……!」
 ぼくは完全にそう信じてしまっていたのだけれど、そこにいたのはユリウスではなかった。見るからに悪そうな三人組。中でもひときわ体格の良い生徒については、いくら校内に疎いぼくでも知っている。
 通称、「酒樽のタッソ」。
 間近から見降ろされると威圧感がある。そばかすだらけの顔、細められた目はあざけるように笑っている。両脇に家来を従えた高慢ちきな王様みたいだ。
 タッソは、拾い上げた紙切れとぼくの格好とを見比べながら訳知り顔でにやにやした。タッソの手に握られた紙切れは錯覚で電車の切符ほどの大きさになる。ぼくの心臓も今まさにそのようだよ!ううん、切符よりもっと小さい!
「親愛なる春の君……こいつはユリウス宛か?」
 二人の家来がタッソの調子に合わせて口笛を吹く。
 ぼくはなけなしの勇気を振り絞って手を出した。
「か、返していただけませんか。そ、それはたぶんぼくのものですので」
 緊張で不自然な敬語になりながら、ガウンの下のぼくの体は寒さのせいだけじゃなく、ひどくがたがたしている。三人ともぼくよりずっと喧嘩は強そうだ。ううん、強いに決まっている。まあ、ぼくより喧嘩の弱い生徒なんてこの学校にはいないんだけど……。タッソなんて他校の生徒としょっちゅう諍いを起こしている。彼が何故一度も停学にならないのか、ぼくにはまったくもって分からない。
「ユリウスは来ないぜ」、タッソの右側にいた生徒が云う。
 ぼくは「来るさ」と答えた。根拠なんてどこにもなかったのだけれど。すると今度は左側の生徒がぼくの前髪を引っ張る。
「来るさ。ああ、来るさ!あさってに、な」
 ぼくはガウンの袖の下で両手を握り締めると、紙切れを取り返そうと背伸びをした。
「何だ、このチビ。ぴょんぴょんして、うさぎになったぜ」
「紙切れが欲しいらしい」
「ほら、こっちだ。取り返してみな」
 ぼくは上級生三人を相手に飛び上がったり走ったりした。裸足のままだったことも忘れて、紙切れだけを追って鼠のように駆けずり回る。
 あともう少しで手が届く、と思った途端。
 紙切れはびりびりと破られた。
 ぼくが気力を失いその場にへたり込んだ時、アーチの方からランプの灯りが、勇者の剣が放つ輝きのように射し込んできた。

「どこの寮生だ。消灯時間はとっくに過ぎてるぞ」

 灯りを持った人物が明瞭に問いかけてくる。
 その威厳に気圧された三人は足早に反対側のアーチから逃げ出して行った。
「じゃあな、チビのフィガロ!」
 ぼくは立ち上がることもせず、あちらこちらに散らばった白い紙切れ、いや、ただのつまらない紙屑を拾い集めた。
「フィガロ!ぼくだ、アロンだ。大丈夫か。あいつらに何されてたんだよ」
「アロン!……ああ、別に、何もされていないよ。どうしてここに?」
「きみが規律を守らないなんて考えられなくてね、心配で捜しに来たんだ……その、ごめん、ええと、監督生と一緒なんだけど」
 アロンは気まずそうに、彼の隣にいる人物を見やった。
「監督生って……テオ・ベッセルが勇者!」
 ぼくは反射的に立ち上がると、ピン、と背筋を伸ばした。
「……勇者?何を云っているんだ」
 学年首席にして寮の監督生でもあるテオ・ベッセルは、自分の持つ灯りに下から照らされて、いつも以上に彼を敬遠したい感じに見せた。淡いミント・グリーンの瞳にしたって氷そのものだろう。
 ううう、こんなテオ・ベッセルを見るくらいなら、幽霊の方がまだ我慢が効きそうだ……。
 テオはぼくの顔とタッソ達の走り去った方向、それから、足元に散らばる紙屑に目を遣ってから、最後に、ぼくの顔の真ん前に灯りを持ち上げた。
「フィガロ・ルーイッツ。消灯時刻は?」
 夜の読書時間を削られたことへの苛立ちも混じってか、テオの視線は鋭角の氷柱以上に冷たく硬く尖り、ぼくの顔面を隈無く突き刺す。さすが「凍りついた人形」の異名を持つだけはある……と感心している場合じゃない。こんな目つきを作れるテオが、あのローレンツと幼なじみ?ローレンツは多くの上級生から「神様の綿菓子」って呼ばれるような柔和で穏やかな子なのにな、神様はいったい世界をどうしたってんだ!
「じゅ、十時……」
 ぼくは再びアロンに目配せする。彼は顔の前で両手を合わせたまま目を瞑っている。心なしかその両手や両肩が震えて見えるのは、テオが規律にことさら厳しいことを身を以て知っているからだろう。ぼくの体はガウンの下でまた小刻みに震え始めた。
「では、現在の時刻は?」
「……さ、さあ?」
 テオはガウンの内側から取りだした懐中時計をぼくの目の前で振り子のようにゆっくりと振った。「十時半だ」。
 懐中時計の蓋がパチンと閉じられる音を聞きながら、ぼくは「十時半……十時半……十時半、ね……」と弱々しく繰り返した。
「きみは、……いや。きみたちは、」
 とテオはアロンにも釘を刺すように、
「きみたちは、十時までに自室にいなければならないという寮の規律を破った。アロンはきみを捜しに来たと云ってる。だから、きみがそうしなければならなかった理由を聞かせてもらう義務がおれにはある。理由によっては先生に処罰してもらわないとならない。おれに嘘は通用しないからそのつもりで」
「……あ、あの、テオ、ぼくはね」
 そこまで云ってぼくは改めて自分がここへ来た事情を思い出した。
「その、ユリウスが……そうだ、ユリウスだ、どうして来てくれないんだろう……自分で云っといて、あいつ……ぶつぶつ」
「ユリウス?」
 その名前を聞いた途端、テオは眉間に皺を寄せた。一瞬、場の空気が凍りついた感じさえした。確かにテオからしてみれば、遅刻欠席当たり前、喫煙や無断外泊始め規則違反を当然のようにやらかすユリウスなんて目に余りすぎる存在なんだろうけど、だけど。そんなにも露骨に厳しい顔をするものだろうか。まるで、仇の名前を聞いたみたいに。ぼくが過敏なんだろうか。ぼくが感じすぎているだけなんだろうか。ううん、空気は確かに凍りついた。
「ユリウス?彼がきみを違反するよう唆したのか」
「ち、違うよ。唆されたわけじゃない。同意して約束したんだ、十時にここへ来るって。彼、ぼくに見せたいものがあるって云ってた……それって、何だったんだろう」
 テオは慎重に辺りを照らした。だけどどこにもユリウスの姿なんかない。テオは今度はぼくを疑う目つきになった。
「約束をしたというのは本当なんだな。約束の相手は何故だかいまだに現れないようだけれど」
「本当だよ。何故って、ぼくの方が訊きたいよ……」
 テオはそれきりユリウスのことには触れてこなかった。
「ふうん、で。さっきの三人と何を話してた」
「わからない」
 テオは溜め息を吐くとようやくぼくの顔の前から灯りを下ろしてくれた。
「……じゃ、最後の質問。これは?」
 テオが灯りを向けたのは散り散りになったラブレターの下書きだった。
「それは……ごみだよ」
 ぼくはしゃがんで紙屑を拾い集めた。
 テオはしばらく立ち尽くしていたけれど、「手伝うよ。きみはまず靴を履け」と云うと灯りを噴水の縁に置き、早速紙屑を集め始めた。アロンが「はあ?」と素っ頓狂な声を上げたけれど、ぼくは嬉しかった。
 やっぱりテオって、堅いだけじゃない……。
「あ、ありがとう。優しいんだね、テオ」
「庭を汚したまま帰れない。勘違いするな」
「うん、そうだね……」
「アロン、どうせならきみも手伝えよ」
「ん?あ、ああ、分かったよ、テオ。……それにしてもこの紙切れは何だ」
「あっ、み、見るな!」
「んー、なになに……ええと、親愛なる春の君……」
「ばか、返せ!そんなこと書いてないだろっ」
「……フィガーロ?アローン?黙って拾って速やかに部屋へ戻るんだ。違反を発覚させたいなら話は別だけどな」
「……はい」

 この夜の出来事を、テオは先生に通告しなかった。
 それはテオ・ベッセルがユリウスに抱いている個人的な感情のせいだと、その時のぼくには知る由もなかった。
 満天に散らばる星座をかき集めるように、ぼくたち三人は春も間近な冬の紺碧の下、黙々と紙屑を拾い集めたんだ。



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