私立セント・ルーズベリー音楽宮。
一世紀の歴史を持つこの寄宿制学校には三つの寮食堂と一つの大食堂がある。
寮食堂はその名の通り各寮の一階にあり寮生の三食をまかなう。
音楽室や美術室を含む学術棟の一階にある大食堂が使われるのは主に「食事会」でのこと。ここでは、三寮の料理長がそれぞれその月の新作をお披露目する場で、生徒達にとっては交流の場でもある。食事は立食形式となっており各自手に取り皿を持ち、自由にテーブルの間を動き回る。
その食事会を一週間後に控えた真夜中のこと、ペトロス寮の料理長セナは頭を抱えていた。
彼の前には灰皿代わりの割れたミルクポットがあり、もうこれ以上は入りきらないほどの吸いがらが積まれている。テーブルの上の紙には何も書かれておらず、水仕事で荒れた手の間で羽根ペンがくるくると回っていた。
「うう、ちっくしょう。あと一週間しかねえってのに、まるで何も思いつかねえよ。びびってんじゃねえよ」
セナは自分を叱責する。
その時、食堂の入口に立つ者があった。
椅子から立ったセナは訪問者を手招きながら、今晩が約束の夜だったことを思い出した。
多少鬱陶しく思ったものの自分がしたのだから約束は守らなければ。
ぼさぼさの髪を適当に整えたセナはむりやりの笑顔を作って椅子からぱっと立ち上がり、
「よう、タッソにユリウス。相変わらず勉強頑張ってるらしいじゃねえか。前回の試験の学年順位、両方とも見せてもらったぜ。ったく、夜更かししながらいつ勉強してんだか知らねえが、すげえな」
お辞儀をしたタッソはまっすぐに厨房へ入ると必要な調理器具を取り出し並べ始めた。
その後ろから入ったユリウスはセナの向かいの椅子に腰を下ろすと背もたれにふんぞりかえり脚を組んだ。
「おい。お前らなあ、ここは自分の部屋じゃねえんだぞ。愛想ってもんがねえよなあ」
「こんばんは、セナさん。ご機嫌いかがですか」
「だからっておまえに敬語で話されるとかえって見下されてる気分になるんだよ、ユリウス!」
「それは酷いですね」
「だから、そういうところが!」
くすくすと笑い出したユリウスを見てセナは怒る気を失った。年相応に子供の笑い顔だ。昼間はそういう顔を見せない。だからセナは怒ることもできない。
毎週金曜日の夜、タッソはセナから料理を習っている。この習慣のきっかけとなったのは、二年前の夜だ。
翌朝の下ごしらえを終えて窓際で一服していたセナの目に、木立を歩いて行く生徒の姿が目に入った。
寮の就寝時間はとうに過ぎている。
どうもおかしいぞと後を追ったセナは楠の下で生徒を捕まえるとその顔を月の光にさらした。
「こんな時間にどこへ行くんだ」
樹皮の上で左手首を戒められた少年はちっともうろたえずに右手でポケットの中を差し出した。
「ん? 何だ、鳥か。こいつ、巣から落ちたのか」
押さえ付けていた手の力を緩めると左腕は力なく垂れていった。
「親に捨てられたんだ。だけどもう飛べる」
生徒の掌の上で小鳥は今にも羽ばたくような動作をした。
しかしもう片方の手がそっとかぶせられ、小鳥は不思議そうに首を傾げている。
「離してやるんじゃないのか」
「もう一晩だけ一緒にいてやる」
だけどさみしいのはお前のほうだな。
長身のセナは身をかがめて少年の顔を覗き込んだ。ペリドットの瞳はつとそらされ、セナの指摘を否定した。
「さみしくなんか。放せよ、」
どちらが有利かなど莫迦でも分かるだろうに。
その気丈さにかえって好奇心をそそられたセナが、名前は、と訊ねると少年は「要らないんだよ」と答えた。
「いや、その鳥のじゃなくて、きみの」
「あ、おれ。おれは、ユリウス。ペトロス寮の第一学年。毎日、おいしい食事、ありがとう」
小鳥の上に落とされていた不安げな眼差しがふいにセナを見上げると思い切ってほほ笑んだ。思わずくしゃみをしたセナは、うまく立て直したな、と少年を見直す。
秘密を抱く者はすぐに分かる。
その額にしるしが刻まれているから、セナにはすぐに分かる。
しかし月の光を吸い込んだ瞳は自らの嘘が暴かれることなどあるはずもないと疑っていなかった。だからこそセナはそれ以上の追求ができず、こんな時間にここを歩いていることこそが間違いだと、ただでさえ立場的に不利なユリウスを追い詰めてまで諭すことはできなかった。
「寮に戻ろうにも正門は閉まっているよ」
小鳥をポケットにおさめたユリウスはその言葉に不快な顔をした。裏門から出入りしているから平気だ、とはさすがに云えないだろう。セナもわざと云ったのだ。その時ユリウスのお腹が鳴った。「よるごはん、食べ損ねたか」。フライパンをふるジェスチャで、何か食べるかい、と誘った。セナの目をじっと見つめたユリウスは「ありがとう。でも、ちょっと待って」と引き返すとしばらくして図体の大きな従弟を連れてきた。
当時、第二学年のタッソ・トルーバー。
タッソについてはセナもよく知っていた。入学以来喧嘩で負けなし。ユリウスが来てからは毎日のようにつるんでいる。ウワサ好きのルーズベリー生は一日一個は新たなウワサを立てる。これまで誰ともつるまず、それでいてルーズベリーの不良の頂点に君臨していたタッソが、新入生で従兄だという似ても似つかない美貌の少年の云うがままになる。これだけ材料が揃っていれば新たなウワサが立つのに時間はかからなかった。当の二人は平気な顔で毎日一緒にいた。まるでウワサを楽しむように。あるいは、それどころではないかのように。他を寄せ付けないオーラ。この世で心を許せる者とは互いに他ならないと云わんばかりだ。
その晩セナは残りの食材で夜食を賄った。一つのテーブルに向かい合って座ったタッソとユリウスは言葉一つ交わさずもくもくと食した。舞台劇を見ているようだ、と感じた。細い蝋燭の灯一本を隔ててふたりの横顔は非対称に食事をしている。途中でユリウスはポケットから小鳥を出すと開け放した窓辺に置いた。タッソの顔がそちらを向いた。小鳥は一度きり甲高く鳴くと夜へ向かって飛んでいった。その姿がどこまで行けるか確認もせずにユリウスは窓を閉め食事を再開した。残りを平らげると二人は顔を見合せ立ち上がった。ぼうと光景を眺めていたセナに見向きもせず二人は食堂を出て行こうとした。だが忘れ物を思い出したかのように立ち止まるとユリウスは振り返り、たった一言「とてもおいしかった」と述べた。
まんまと欺かれたな、とセナには分かっていた。しかし不思議と悪い気はしなかったのだ。
タッソがセナを訪れるようになったのはその次の晩からだ。料理を教えてほしいと云い出され一瞬迷ったが、これも何かの縁だろう、と、とにかく二三日教えてみる。見かけによらず手先の器用なタッソはセナの教えをみるみる吸収していった。もともと頭が良いのだ。話を聞いた後は云った通りに実践して見せる。教えを乞うタッソの目は真剣だった。セナの言葉を一言ももらすまいと耳を傾け、セナの動きを一つさえ見落とさまいと一足一挙に注目した。
それから二年が経った今晩、タッソはセナに勝負を挑んできた。
タッソが作った料理をユリウスがあてることができれば自分の勝ちだと云うのだ。
今晩がその勝負の日だ。
「じゃ、始めるか」
タッソに促されてセナは厨房へ入った。
窓辺でユリウスは煙草に火を点けた。その姿、二年前とまったく同じとは云い難かった。当時よりずっと研がれ、澄まされ、艶を帯びた。しかしそのまま口にすれば変態のようでセナは云わない。
「おっ? 何やってんだ」
料理を盛り付けているとマーカス寮のコックが入って来た。ペトロス寮の食堂に灯りが見えたためまだセナがまだいるものと思いやって来たらしい。同じ理由でジューダス寮の料理長もやってくる。
料理が完成する頃に食堂の中はちょっとした夜会のようになっていた。仕事を終えた料理人達が次々に入ってきては、生徒から料理戦を挑まれたセナを冷やかしながら戦況を見守った。
やがて、見た目はまったく同じの料理がユリウスの前に並べられた。
「で、何賭けてんだ」、マーカス寮の副料理長に浴びせられた質問にセナは「俺は自分の首だ」と返した。食堂がどっと沸いた。観客の間にはいつの間にか料理用ワインが配られている。
「じゃあ。まず右の料理から」
近くの一人がウエイターの真似をした。とは云えルーズベリーの寮食堂に入る以前は実際にカフェでウエイターをしていた者だったので動作は自然だ。右手にナイフ、左手にフォークを握ったウエイターは温かな肉を一口大に切ると、目隠しを施されたユリウスの口元に運んだ。
「で、タッソは何を賭けてんだ」
ユリウスが味わっている間にジューダス寮の料理長が若き料理人に問いかける。パスタ専門高級レストランでの職歴がある彼は物腰までが穏やかだ。金持ちの息子が多いジューダス寮に限って、料理に対する意見が多い。幼い頃から一流シェフの味に舌が慣れてしまっているせいだろう。だからといって何でもかんでも生徒達の要望に応える必要はないのだが、この料理長は「生徒とは云え食する者に満足してもらわなければ料理人として半人前と云わざるを得ない」ものだと信じている。寮食堂の雰囲気は料理長の考え方でずいぶんと変わってくる。その点、ペトロスはアルコールが多い。セナが酒好きのためにだ。そのことをこのあいだ学校長に忠告されたばかりだった。
「進路」、ここへ来て初めてタッソが発した言葉だった。
取り囲む料理人達は喜んで口笛を吹いたり手をたたいたりした。
「ああ、タッソは少し前にも料理人になりたいと云っていたもんな」
「ルーズベリー出身の料理人。予想以上にちやほやされるぜ」
「ピアノの一曲でも完璧に弾きこなせば尚更な」
「料理は最高だ。どんなに口べたでも人を笑顔にすることができる」
「いいところに目を付けたな、タッソ」
「おいしい料理を食べて怒るやつなんていないしな」
「もっとも、まずい料理を食べて怒るやつはごまんといる」
周囲がひそひそ声でそんなことを話している間に左右二枚の皿の料理を咀嚼し終えたユリウスが、分かった、と片手を上げた。
セナが話し声を鎮める。
目隠しを外されたユリウスはゆっくりと目を開けるとセナとタッソ二人の顔を見比べた。
全員の目がユリウスの唇に吸い寄せられている。
「この勝負、左の皿が勝ちだ」
一瞬の沈黙。
「左……なんでだ?」、セナが青ざめた。
「左がタッソ。右がセナだからだ。おれはタッソを勝たせる」
解答したユリウスは自信ありげに微笑むとコップの水をあおった。
「余裕だな、ユリウス」
「ああ。間違いないさ」
すると、後からやってきたマーカス寮の味見専門家が左右の料理を一口ずつ食した。
「参ったな。ほとんど差がない」
それにはセナが抗議の声を上げる。
「おいおい。俺は足掛け十年。タッソはたかだか二年だぜ。それに、教えてやったのは俺なの!」
「だからだろう。だから似たんだ。で、ユリウスの回答は正しいのか誤っているのか」
合ってるよ、とユリウスが繰り返し、とうとうセナも不貞腐れたように頷き正解であることを認めた。
「ああ。合ってる。合ってるよ、ほら俺の負けだ!」
取り囲む料理人の輪から大きな拍手が上がった。カチン、カチン、とあちこちでグラスの触れあう音が響いた。
「しかし、ユリウス、どうして分かったんだ」
マーカス寮の味見専門家が誰もが疑問に思っていたことを口にする。左の料理を口に運んでいたユリウスは「簡単さ」と目を上げた。
「俺が左の料理を食べようとしたとき、タッソがゴクリと唾をのんだ。それだけ。味の違いなんか分かるかよ」
一瞬ぽかんとした一堂が再びどっと湧き、図星のタッソは顔に手をあててそっぽを向いた。指の隙間から見える面は蝋燭の灯のあたり具合のためか真っ赤になっている。誰かがそれをひやかした。
「良かったじゃねえか、タッソ! ともあれお前の料理だって気づいてくれたんだからさ!」
「虚勢張ってても俺達に比べりゃまだまだ子供なんだな、タッソ! かわいいじゃねえか!」
「これからも精進しろよ。そうだ、今度はマーカス寮食堂に習いに来い。大歓迎で教えてやる」
「次は緊張すんなよ」
見物に満足した料理人達ががやがやとペトロス寮食堂を出て行く中で、ユリウスはタッソの裾をちょいちょいと引いた。
「タッソ。いい加減にこっち見ろよ。勝ったんだろ」
「嫌だ。俺、自分で気づかなかった」
「はは。かわいいやつ!」
半ば腰を浮かしたユリウスはタッソのリボンを手繰り寄せると自分の方へと強引に引き寄せた。
「おいしかったよ。ごちそうさま、タッソ。ほら、ご褒美だ」
がたがたン! と大きな音がして今まさに食堂を出ようとしていたセナが振り返るとそこには何故か机ごとひっくり返ったタッソと、着席し平然と残りを平らげているユリウスの二人が目に入った。
「あ、賭けは無効です。あなたがいないと俺達の食事がなくなってしまうんだ」
ユリウスに見送られながらセナは食堂を後にした。
相変わらずいいようにされてるよな、と実感しながら。
外へ出て夜風に吹かれ、初夏の星座を覚えている限り天空に見つけた。視線と光はどちらが早いだろう。仲間の背中が、少し離れたところにぽつぽつと見える。
セナは、数年前ようやく念願のルーズベリー寮食堂に就職してからの日々、そして、自分が卒業したペトロス寮の料理長を任されるまでの日々を回想した。
「卒業しても思い出してもらえるような料理を作りたいです。か、」
過去の自分が記憶の中ではきはきと明確に答える。
自分の料理が誰かの口に入る瞬間、味が合うだろうか、おいしいと感じてくれるかどうか、もう一度食べたいと云ってくれるかどうか、あまりに真剣に緊張して息をのむ。そういう感覚を久しく忘れていた。
(あ、浮かんだ)。
セナはその場にしゃがむと土の上にレシピを書き出した。バッグから筆記具を取り出す暇も惜しまれた。
数分が経過し、大天空の下に小さな星座が新たに誕生した。
完成した新作料理レシピを眺めながらセナは、一週間後の食事会を心待ちにしている自分に気がついた。