目を覚ました私は、自分が、二階にある自室のベッドに寝ていることに気づいた。
サイドテーブルには未完のレシピが数枚だけ載っている。大部分は床に散らばっていた。
視線を上げると窓が開いている。自分で開けた覚えは無かった。しばらく開けていなかった窓だ。錆びた錠は開けようとすると嫌な音を立てる。すぐに直せばなんということは無かったのだがそのままにしておいたものだ。
自分で開けた記憶が無いのだから誰かが開けていったに違いない。それにしても自分はその物音に気づかなかったのだろうか。だいたい、この肌寒い季節に一体誰がわざわざ開かずの窓を開けていくというのだ。
床に散らばったレシピを拾おうと私はベッドから抜け出した。
最近めっきり足腰が弱った。しゃがむ時と立ち上がる時に実感する。
ようやくすべてのレシピを拾い集め体を起こした私は姿見に映った自分の姿に気づいた。顔には皺が刻まれ髪の毛は白い。思い通りに手足を動かせる若さは失ったが、歳月を経て悪いことばかりではない。その一つとして、若い時分に多少なりともコンプレックスを感じていた目つきも今ではほとんど気にならなくなった。年齢と共にまぶたが落ち、以前のような鋭さが軽減されたからだ。それに、もう一つのコンプレックスだったそばかすもいつしか薄れた。仕事としてフライパンを振ることで鍛えられた腕の筋肉は全盛期に比べると随分削げたが、三ヶ月ほど前に産まれた孫を抱く力は十分残っている。
その孫が泣き出す声が聞こえた。一階はレストランとなっており、孫の声はレストランのバルコニーから聞こえてきた。娘のあやす声。彼女の旦那である料理長が慌てて駆け寄って来る気配がした。調理中のところを飛び出してきたのか、他のコックが慌てて追いかけて来た。
「店を任せるにはまだ危なっかしいな」
それでも若い後継者におおいに期待する気持ちで私は窓を閉めた。
やがて部屋を振り返った私は、つい今しがた拾い集めたレシピの束を再び足元に落としてしまった。
「……まさか、そんな、そんな莫迦な事が、」
誰もいないはずのベッドに座っていた少年に、私の目はゆっくりと見開かれた。
意思とはほとんど無関係にして。
「なんだよ、そんな、幽霊でも見たような顔をして」
少年の喋るのを聞いて、もしかすると自分が間違っているのかも知れないと思う。しかし姿見で確かめたところやはり自分は老人の姿だ。
驚いたのは、少年の姿がそこに映っていなかったことだった。
「……そうか。あんた、幽霊なんだろ」
ようやく出せた声は擦れていて自分の物ではないような気がして落ち着かなかった。
心臓が早く鳴り出し、近寄って真相を確かめたくとも足がそれ以上進まなかった。
そこに目には見えない壁が立ちはだかっているように。
「え、幽霊? 真顔で失礼なヤツだな。ま、いいか。今日はお前に礼を云いに来たんだから」
「礼を?」
私は瞬きさえできなかった。咽喉も目も乾いていく。だけど瞬きをしたら終わりそうで、もう二度と会えなくなりそうで。
だってそれは何度も望んだ姿。
何度も呼んだ名前の主。
追憶と再生の繰り返しの中、少年のまま凍結されていた彼が。
今頃になって、目の前に現れたのだ。
そんな私の気持ちなどつゆほども知らない少年はふいに微笑んだ。
彼の瞳の中でペリドットの色彩がきらりと煌めいた。
「窓際、いつも空けといてくれてありがとな。実はおれ、全部に座ってみたんだよ。もちろん店が閉まった後にさ。全部のテーブルから見える景色を眺めてた。でも、やっぱあの窓際の席が一番だったよ。まず海が見える、そして街も、それから、ルーズベリーの建つ丘も」
ルーズベリー。
私立セント・ルーズベリー音楽宮。
私と、この目の前の少年の母校。
二人の運命を大きく変えた場所。
「特等席を、ありがとう。良くしてくれて、ありがとうな」
「……私には、それくらいしか、できなかった」
自分で云うのも何だが、久々に卑屈な発言を吐いた気がする。
そう、この少年の前で自分はいつだって弱くて愚痴と不満ばかりだった。
信じていなかったからだ。
自分たちのしていることがいつか報われるだなんて。
願いは脆く砕け、夢は儚く散って当然。
それだったら無意味だと思った。目指すこと。努力すること。何かを、誰かを信じてそしていつか一緒に生きていくこと。
何も信じていなかった。
だって、信じなければ、少なくとも裏切られることはないだろう。
「それくらいしか、って、何だよ。お前は街中で一番有名な料理人。そんなお前のレストランの特等席って云ったら、」
すっかり寛ぎ胡坐をかいている少年の喋りを私は遮った。
「……ユリウス」
「うん?」
私がよっぽど思い詰めた様子だったのか少年は口を噤むと首を傾げた。
覗き込んでくるような仕草。
思い出した、そう、些細なこと一つ一つ今すべて思い出した。
あんたはいつだってうそつきだった。
あんたはいつだっておせっかいだった。
あんたはいつだって悪者になりたがってた。
あんたはいつだっておれの心配ばかりだったそして。
あんたはいつだってあんた自身の心配のために時間を割かなかった。
「ユリウス。今から私の云うことをよく聞いてくれ」
私は今から自分のしようとしていることがこの世界を創る何某かに背くことになるのか自問自答した。
しかしその背く相手を信じていない私にとってさほど重要ではない。
目前に立ちはだかっている見えない壁を強引に押し進む気持ちで少年に一歩だけ寄った。
「あんたは今から十数年後、とあるパーティーに招かれる。内容は、そう、まあ、ある若き料理人の表彰式だ。料理人の名を仮にTとしよう。表彰が行われる時、あんたは会場の入口付近からステージを見ている。ステージ上で表彰されているT、実はあんたの良く知る人物で、Tはあんたの姿を見つけて手を上げる。あんたも軽く手を上げて見せる。表彰式は終わり、Tは招待客に囲まれる。あんたはそこで黒服の人物に声を掛けられる。この話の要は、その黒服の人物からの話をことごとく無視して欲しいというところにあるんだ」
少年は私の話を目をぱちぱちさせながら聞いている。
まるで私がその話を話す相手を間違っているのを自分で気づいていないかのように。
しかし私がこの話を話す相手は間違ってなどいない。
何故ならこの少年は、Tを称える晴れやかな栄光の舞台袖で、その出来事をきっかけに命を落としたようなものだからだ。
「無視するのか、どうして」
「黒服の人物は、あんたがTの親族だろうと推測して、悪意を持って近寄ってきたんだ」
「悪意、どんな」
「強請だ。Tは、その出身を知られてはならなかった。少なくとも次の大会で金賞を獲得するまでは、どうしても伏せておきたかったんだ。何せその大会の審査員長でもある料理界の大御所が、古風な考えの持ち主でね。不純に聞こえるかも知れないが、やはりTも自分の出身地が料理の評価に影響を及ぼすだろうことを危ぶんだんだよ。黒服の人物はそこに目をつけた。そしてあんたに接触を図った」
「ちょっと待てよ。どうしておれなんだ。Tを直接強請れば良いものを」
それは、と私は寸分口ごもる。
黒服の人物、それの正体を私達は知っていた。
褐色の肌。
南国の海を思わせる瞳。
かつてルーズベリーの生徒会長を務めた男。
「……とにかく、黒服の人物は、Tとあんたとの、その、何ていうか関係をよく知っている。黒服の人物は、あんたが、強請られたとしても決してTに打ち明かさないことを、分かっていた」
「ふうん。おれはTのことが好きなのか?」
私は思わず吹いた。
げほ、げほ。
「……い、いや、それは、そうだろう。いや、そうであると願いたい、といったところか。と、とにかくだ。黒服はあんたを個人的に、そして徹底的に困らせたいんだ」
ふうん、と少年は視線をめぐらせた。
今の説明で分かってもらえただろうかと私は固唾を飲んだ。
しかし返ってきた少年の反応は、私の期待を大きく裏切る類の物だった。
「ま、誰を相手にしようがそれはおれの自由だろ」
「黙って私の云う通りにするんだ、」
思わずきつい口調になってしまった。
少年の顔に一瞬だけ嫌悪の色が滲んだ。
「……簡単なことだろう。黒服の話になど耳を貸さないでくれ。私が云いたいのは、それだけなんだ」
口調を変えて、半ば請うように頭を下げる。
返事を待つおれの頭上から、ふ、と声が聞こえた。
「ん、何がおかしい……?」
顔を上げると少年が口に手を当てて笑いを堪えているところだった。
「……タッソ」
少年が私の名前を、そう、私を呼ぶ。
その瞬間、長い魔法が解けたように私の身も心も少年に戻っていた。もしくは、長い魔法の始まりみたいに。
皺が伸び、肌にハリが戻る。
白髪に色が戻り、頬にはそばかすが現れた。
体も軽い。
「頼むから」
「でもな、タッソ。お前はその事件のあったおかげで、将来の家族と出会えたわけだろ」
「頼むから」
「おれの行方を追う内に、お前はとある喫茶店に入るんだったな」
「頼むから、ユリウス。そうだあんたの死因を教えてやる。あんたは黒服の人物に、……」
「その喫茶店で働いていた女性が、現在のお前の奥さんだ」
「その小瓶の中には依存性の強い物質が数滴だけ入ってた、あんたはすぐに魅了された、すぐにもう一つが欲しくなった、あんたは黒服の人物と何度かやり取りを繰り返した、そして、事件が起こったのは、ある冬の夜だった、……」
「そしてお前の娘の母親、」
「あんたは通りを渡ってた、それは新月の夜だった、とある文房具店の前に差し掛かった時だった、あんたはいきなり出て来た車に轢かれた、……あんたは血塗れだった、それなのに死因は凍死だった」
「そしてお前の孫の、おばあちゃんじゃないか」
最後の台詞は重なり合った。
私はついに見えない壁を突き破り少年の、ユリウスの方へ飛び込んで行った。
しかしそこにユリウスの体は無く、私は一人でベッドに伏せていた。
「一緒に家族を、作ってきた人じゃないか。そういう人に出会えて、良かっただろ」
すぐ傍からユリウスのそんな言葉が聞こえてきたことは確かだが、姿はとっくに消えていた。
私は、
おれは、
目を覚ました。
「タッソ、タッソ」
誰かがおれを呼んでいる。
起き上がりたいのに、体が動かない。それに風が冷たい。ここは寮の部屋だろうか。横たわるおれはベッドの上で寝ているんだろうか。それにしては床が硬いような。
「いい加減起きろって、タッソ。じゃなきゃまたフィガロに怒られるだろ、」
なんだ、ユリウスだ。
おれは体を起こすときょろきょろと周囲を見回した。
棚に並ぶ本。
図書室か。
「一度行ってみるって云うから図書室に連れて来てやったら、おれがちょっと目離した隙にお前寝てんだもんな。こんな場所で」
ユリウスは冷やかす時の目に似た目でおれを見ている。
「そうそうタッソ、寝言、云ってたぜ」
「……なっ、どういう寝言だ」
「秘密」
「……」
おれはさっき見ていた不思議な夢の内容を思い出す。
おれは孫を持つ老人だった。
その部屋に今目の前にいるユリウスと同じユリウスが現れて、そうだ。
「なあ、ユリウス」
「うん?」
「おれがじいさんになった時の姿って想像付くか?」
しばらくの沈黙の後、ユリウスが吹き出した。
「え、何だよ。すごく洒落てんの? おれ好みに?」
「……またそういう冗談を」
おれが立ち上がるとユリウスは腕を組み壁に体を凭せ掛けた。
「そうだなあ、じいさんタッソには孫がいそうだな。家族が」
(「一緒に家族を、作ってきた人じゃないか」)。
ユリウスにとってのおれ。
ユリウスが欲しかったもの。
ユリウスがずっと欲しかったけど。
おれが手に入れることになるそれ。
どうしておれにとってのそれの中に。
おれにとってユリウスはいないの。
垣間見えた未来。
もしくは垣間見ている過去。
おれはユリウスがもしかすると。
おれをユリウスが願ったものの一種だと。
思い込んでそれはとても幸せで。
最初から最後まで幸せなことが本当に大切なのかどうか。
分からなくなる。
罪の呪いは罰を下す。
でも太陽と月はあいかわらず背き合って。
くだらないと吐き捨てたものの上にも。
光は与えられるんだ何度も。
未来だろうが過去だろうが。
おれは今を生きるだけで。
おれは今以外の何でもなくて。
それはユリウスにおいても同じことで。
易かろうが難かろうが今この今を生きているだけ。
「なあ、タッソ」
ユリウス、あんたは若くして死ぬ。
「何にやにやしてんだよ、ユリウス」
おれは長生きして、あんたが欲しいものを手に入れる。
「おれがおじいさんになったらどんな感じだと思う」
すべて思い通りになるものならば世界は今ほど輝いていただろうか。
「そうだな、百歳まで生きていられればあんたは世界一の美食家だ」
「百歳! あと何年かな」
「何年でも良い。何年でも困らせろよ、おれを」
望みがすべてかなうなら今は今ほど輝いていただろうか。
「では、お言葉に甘えて。ま、タッソが思っているより更におれはわがままだけどね」
「構わない」
「じゃ、煙草」
「ふん、おやすい御用だ」
「あ、あとノート取って来いよ。部屋に忘れた」
「……ああ、分かった」
「それから、」
駆け出したおれをユリウスが呼び止める。
「それから?」
「それから、ガロに食事与えて来てくれないか。昨夜はあげられなかったから」
「……」
「どうした」
「……分かった。じゃ、行って来る」
完全に雑用係だ。
何か微妙に伝えたいことズレたか、とがっかりしつつもおれはその「雑用」をこなすために奔走する。
偉大じゃない。
実際は微小だ。
幸福も不幸も。
連続じゃない。
それどころか断続され続ける。
その断続を含めて連続していく。
透けて見えた未来なんかより。
覗き見する過去なんかより。
おれは今がこの今みたいに。
たとえばあんたがそのあんたみたいに。
煌めいてるならそれで良い。
もう、何も他に必要無いと思えるから。
「……やっぱただの雑用係だな」。
潔く云い放った後で、煩悩の成就を、たまに夢見る。