今年の街の流行色は白だ。
海外沿いの小高い丘に建つカフェレストランを訪れている客のドレスにもやはり白を用いた物が多かった。特に若い女性は料理のソースなどで汚れることを予想して濃い色を選ぶよりも流行を優先させたいらしかった。片目が半分ほど隠れるように絶妙の角度で頭にのせた帽子は日除けというよりもファッションの意味合いが強く、ひさしの上はシルクのリボンや生花で大胆に飾り付けされ、彼女達は初対面の相手でもあっても帽子のデザインやセンスに対する褒め言葉を挨拶代わりとしているようだ。
昼下がり、時間の流れは緩やかだ。店内には紅茶とスイーツの甘い香りが漂っている。
ドアが開き、一人の若い男が颯爽と入って来た。
おしゃべりを止めた女性客の視線が一瞬そちらへ向けられ、数秒後に再開する。しかし彼女達の会話の内容は中断される前とは別の物に代わっていた。
白いスーツを難無く着こなしているのは、彼の引き締まった体つきと鳶色をした髪と瞳が理由だろう。ただし瞳の片方は黒い眼帯で覆われており、両目を確認することはできない。
彼は人を捜すように視線をめぐらせた。
その時、厨房から出て来たオーナーシェフが彼に声を掛ける。
「おい、タング。何しに来た」。
ぞんざいな扱いから知人だろうと思われる。オーナーシェフは彼が来店することをあまり喜ばしく思っていないらしい。露骨な拒否の言葉がその口から漏れてくるのを、女性達は耳を済ませて聞き取ろうとした。
「毎回云うように、ここにはお前に食わせる食事は無いからな」。
背幅はオーナーシェフの方が上回っており、見下ろす形で睨み付けられれば相当の迫力があるには違いないが白いスーツの男は飼い猫をあやすように手馴れている。怯えるどころかどこか面白がっている様子でさえある。
「相変わらずだな、タッソ。だが心配しているような面倒は掛けない。今日は一本だけ、吸わせてくれれば良い」。
ポケットからシガレットケースを取り出しながら、テラスを示す。
しばらく見合った後、オーナーシェフは根負けしたように舌打ちをした。
「勝手にしろ」。
隻眼の男は、ありがとう、と礼を述べる。
レストランは海側にテラスを持ち、この時期になるとテーブルを並べるようになる。
デッキでは青年と老人がショパンについて語り合っていた。親子のようでもあり、師弟のようでもあり、今ここで出会ったばかりの友人のようでもある。
テラスからは青い海と青い空、街と港のパノラマが広がり、潮風を感じることができる。
右手奥にも高い丘があり、そこに茶色い建物が建っている。目印の時計塔。街の名門、私立セント・ルーズベリー音楽宮だ。タングとタッソの母校でもある。
白い煙を細く吐いたタングは目を閉じた。
あの日、生徒会室に射す夕陽を受け止めていた体。床に黒髪が流れていた。差し出した手に縋らない少年の瞳。ペリドット。もう、いない。
「……ユリウス」
「おい。忘れ物だ」、タングが目を向けるとコックコートを脱いだタッソが立っていた。手に灰皿を携えている。
「ああ、悪いな。……どうだ?」
タングはシガレットケースの収まっているポケットを叩く。タッソは首を横に振って隣に並ぶ。
「ここを選んだのは、ルーズベリーが見えるからか?」
タングの言葉にタッソは「いいや」と答えた。
「そんなこと考えていなかった」。
しばらくの間、沈黙が続いた。
「やっぱり、くれないか」
タッソの言葉にタングはシガレットケースとマッチを差し出した。煙草に火を点けるところまでは良かったが、吸い込んだ途端、咽る。
「おいおい、まさか初めてかよ」
驚いたようなタングに向かってタッソは「煙草は大嫌いだ」と感想を述べた。それを聞いたタングは小さく笑う。
「それでよく、あのルームメイトだったな」
「あいつは部屋では吸わなかった」
「そうだな。証拠を残すような奴じゃなかった。器用過ぎたくらいだ、かえって」
器用過ぎた。
タッソの中にその言葉が残る。
果たして本当にそうだったのだろうか。
「ま、自分に対して無頓着なところが瑕だったな。それから、一人で抱えてしまうところとか」
タングが二本目を取り出して火を点けるのをタッソはわざと見逃した。
「あれからもう、二年になるのか」
二年前の今日、タッソは従兄を喪った。
このカフェレストランを持つきっかけともなった大きな賞を獲得した時期とも重なる。
(幸福ほど恐い物は無い)。
ある夜、タッソは従兄に告げたことがある。ルーズベリーを卒業して暫くの頃だ。タッソはあるレストランに住み込みで働いており、ユリウスはまだ在学中だった。白いシャツの首に青いリボンがいつものようにだらしなく結ばれていたのを覚えている。従兄の瞳を直視できないタッソの視線はたまにその辺りを彷徨っていることがあった。特に、自分の意見を述べる時は。
(おれは幸せになるのが恐い)。
(何でだよ)。
贅沢な悩みだ、と彼は笑っていた。
タッソは笑わなかった。
(おれが幸せになっている間、あんたはいつもおれの隣にいない、一人で隠し事をしている、犠牲になっている、おれの幸福と引き換えに、あんたは何も云ってくれない、苦しいからきついから、だから一緒に背負って欲しいと云ってくれない、二人分以上の重荷をあんたは一人分に見せかけようとして嘘を吐く、)。
苦しかったが最後まで一息で云った。
(……おれに何も守らせてくれない)。
あの後、自分は泣いただろうか。怒っただろうか。黙ってしまって、それきりの会話だっただろうか。ユリウスはどんな顔で自分を見ていただろう。どう感じただろう。
タッソは視線を海へ投げた。
沖に帆の白いヨットがいくつか浮かんでいる。人も見える。波立った海面は太陽を反射して輝いていた。
「……綺麗な子供だった」
「子供、」
「窓際の席に座っていた。知り合いか?」
タングの言葉にタッソは頷いた。
「ふうん。少し、似ているな」
ユリウスに、ということだろう。タッソは眉を動かした。
「空似だ」
「分かってる。あの子、お前に気があるんじゃないか」
「莫迦な。ただ、学校へ行っていないだけだ」
行き先が無いんだ。タッソは付け足した。
「ただ、いくら似てると云っても決定的に違うところがあるな」
タッソの困惑に気づかないのか気づかないふりをしているのか、タングは声のトーンを微かに上げた。
自分が質問されているのだとタッソは悟った。
「違うところ、」
思わず振り返る。先週から二階で寝泊りしている少年は名前をリジュという。黒髪とペリドットの瞳は同じだ。もっとも、瞳の色合いに多少は違うところはあるものの、決定的と云われるほどではない。
「降参か」、タングが答えを云いたそうにしている。タッソは「降参だ」と云ってやった。
「さっきあの子に云ってやった、お前なんかの色じゃここのオーナーシェフは落とせない」
「……色?」
「学生時代に寮の同室だったやつから免疫を受けているからな、って」
タングの言葉の意味にようやくタッソは気づいて顔を上げた。
「おれにとってユリウスはそういう対象じゃない」
「まあ、怒りなさんな。冗談だ。もっとも、ユリウスに色があったのは事実だな。あいつがちょっと瞬きするだけで何かのメッセージかと思った。そういう生徒は、少なくなかったと思うぜ」
「……ふん。くだらん。そういうあんたはどうなんだ、」
「何だ」
「……あの野郎と同室だったじゃないか」
「ああ、ララ」
「そうだ」
「こっちこそそういう対象じゃない」
「どうだかな」
「本当さ。あそこの家の養子なんだよ、おれは」
初めて聞く内容だった。タッソはタングの横顔を見下ろす。学生時代は前髪で隠していた目元は黒い布地の下にある。タッソはそこにある傷口をはっきりと見たことはない。
「この目もララにやられたんだ」
「……どうして」
タッソの問いかけにタングは煙草を吸う仕草で時間を稼いだ。
「ララの家は孤児院から子供を引き取るんだ」
「まさか、あんた」
「ああ。孤児だったよ。産まれて間も無く、院の前に置かれたんだ。いわゆる捨て子さ」
「……」
「ララは孤児院の庭に遊びに来てた。もっともララは院長に用があった親について来ていただけだけど。そこでおれ達は出会ったんだよ」
タッソは二人の幼少期を想像してみる。ララの方はできたが、タングが難しかった。聞くところによると何しろその頃のタングにはまだ両目があったのだから。
「ララはおれに、お前を選んでやる、と云ってくれた。だが孤児院にはたくさんの子供がいる。その中から誰を選ぶかなんて分からない。ララが云っても親が承諾しないかも知れない。おれはどうしてもララと一緒に暮らしたかった。その時ララが提案した」
そうだ、一番かわいそうな子供になれば良いんだよ。
「どういう意味だ?」
タッソが首を傾げる。
「議員も輩出するララの家系が孤児院から子供を引き取るのは往々にして街の人々に対するイメージアップの為だ。その点、不具や異人種だとか、目に見える特徴が強いほど“都合が良い”。ララが云ったのはそういう意味だよ」
「ちょっと待て。あんたの親父は警察官じゃ無かったか。そんな噂を聞いたことがある」
「ああ。間違いない。ただし、血縁関係の無い親父だ」
「ララの家の者か」
「そうだ」
「なるほど」
タッソは頷いて先を促した。
「一番かわいそうな子供になれば良い。そう云ってララは教室へ入って行った。おれはその後を付いて行った。教室の棚に裁縫道具が入っていた。洋服のボタンが取れたりすると、先生が縫い付けてくれる。その時のための裁縫道具だ。中に裁ち切りバサミが入っていた。ララはそれをおれの顔に振り下ろした。その時の傷をきっかけに、おれは孤児院を脱出したんだよ」
タングが話し終えてからしばらくタッソは声が出なかった。ようやく息を吸い込み、
「……そんなに、孤児院って場所は酷かったのか」
タングが笑う。
「おれからお前に云わせれば、そんなにグラン・タウンって場所は酷かったのか、ってとこだな」
二本目の吸殻を灰皿で潰したタングはポケットから何かを取り出した。小さなノートだ。それをタッソに差し出す。
「これはユリウスのノートだ」
タッソは思わず受け取った。中には数字が書いてあるが何のことだか分からない。
左側に書かれているのが日付であることは分かったが、右側の数字の意味は。改行につれて数字は小さくなっている。何かの数が減っていることを記録していったものだろうか。減り方は規則的では無かった。
「学費を示してる」
タッソの疑問を察知してタングが云う。
「ユリウスは“仕事”を始める直前まで、ベッドの上でそのノートに計算していたらしい。これがあくまで“仕事”だということを、相手にも自分にも認識させるための方法というか、宣言のつもりだったのかもな」
「……じゃあ、これは、ニアから?」
「いや、生憎と別の客だよ。ユリウスがそいつの部屋に忘れていったんだ。その人物は次回会った時に返そうと思っていたが、返す機会はついに訪れなかった。保管しておいたんだけど、今日おれがここへ来ることを聞いて託したんだ。……タッソに、と。どう処分するかはお前次第だ」
タッソはもう一度メモ帳をめくってみた。
日付は“仕事”のあったことを示している。週に三回から四回だ。何ページも何ページも続いた。学費が増えている行があるのは、年度が更新されたからだろう。一年分の学費だけ数字が増加している。
タッソはそれすら初めて知った。
「……やっぱり、持って来ない方が良かったかな。ユリウスは文字通り、身を削ってた。そのノートを保管していた人物もおれに零したよ。彼には生き急いでいるようなところがあった、って。まるで自分の商品価値がそう長くないことを分かってたみたいに、って」
「……おれからもたまにそう見えることがあった。恐かった」
タッソはノートを閉じた。
「欲目だと嘲笑されるかも知れないが、あいつは綺麗だった」
「異論は無いな」
「時々恐いくらい、」
「分かるよ」
「今ならおれは思うんだ。一人に与えられた光の量は最初から決まってる。ユリウスは短い時間でそれを使い切らなきゃいけなかった。だからあんなに綺麗だったんじゃないか、って」
「なるほどね」
ただそれには反論がある、とタングは云った。
「健康で長く生きた人間は鮮やかでないみたいな云い方じゃないか」
そうだな、とタッソはあっさり受け入れた。
「しかしユリウスに関してはそれを認めざるを得ないかもな。おれはいまだにあんな目で睨まれたことがないから、なかなか恋に落ちない」
また失恋話を聞かされるのか、とタッソがうんざりとした顔を作る。
その表情を見て安堵したタングはポケットから一枚の写真を取り出した。
「もう一つ渡しておくものがある。これは良い話だ。ある日この店に現役を引退した写真家が来ていた。彼はちょうど、あそこの席に座っていた」
タングが示す場所には誰もいなかった。
先ほどまで青年と話していた老人がいた場所だ。
「ここに、ユリウスが立ってた」
タッソの立っている場所を示した。
「空はちょうど、こんな青空だった」
上空を示した。雲一つ無かった。
「黒い髪が、風に吹かれてた」
タングの指がタッソの髪を摘んだ。
「その時、向こうから白い鳥が飛び立った。鳩だ」
タングの指がルーズベリーの建つ丘の方角から街の上をぐるりと海の方角へ滑る。才能枯渇の恐れを知らない若い絵描きがキャンバスに絵筆を滑らせる大胆な動きに似ていた。
「写真家は思わずレンズを向けた。……その時の、写真だ」
タングはタッソの手に裏返した写真を握らせた。
「生涯で最後の一枚になったそうだ」
「現役を引退した写真家がどうしてカメラを持ち歩いてる」
「人に気づいてもらえるからさ」
吸わせてくれてありがとう。タングがそう云って踵を返す。視界の端で彼の髪が潮風に揺れて銀色に光った。
写真家が座っていたという席に座ったタッソはゆっくりと写真をめくる。
(空はちょうど、こんな青空だった)。
背景にターコイズブルーが広がっている。それが写真全体のコントラストを強め、鮮やかな絵画のように仕上げている。
(黒い髪が、風に吹かれてた)。
写真の中央にユリウスが立っている。さっきまでタッソが立っていた場所に寄りかかって、遠くを見るような目をしている。指の間には煙草が挟まっている。煙を吐いた直後なのか、唇が軽く開いている。歌を唄っているようにも見える。吐かれる煙は見えない。風に消えたところだったのだろう。
(その時、向こうから白い鳥が飛び立った。鳩だ)。
ルーズベリーの方角から飛んできた鳩の群れが、ユリウスの背景に見える。ユリウスの場所から見ればちょうど右側からやって来て左の視界で消える頃だろう。
何十羽もの白い鳩が羽ばたく姿が、奇跡的にある形を取っている。
そしてそれは実際、ユリウスの背中から生えているように見えた。
(写真家は思わずレンズを向けた)。
タッソは写真を持った手を伸ばす。写真に写っている場所と実際の場所とを照らし合わせるように、その時と今を重ね合わせるように。
過去と今は不思議と違和感無く合致した。
同じ色の空のお陰か、タッソの視界がぼやけたからか。
「……その時の、写真だ」。
その時、右手側から白い鳥の群れが飛んでくる。羽音がはっきりと聞こえる。
タッソの心臓が高鳴る。
ばかばかしい、そう思いながら写真を少しずつずらす。
果たしてその場所にユリウスはいない。
空の色もまったく同じではない。
白い鳩は模様を保ちながら羽ばたいていたが、それはもう翼の形ではなかった。