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 試験用紙の上、鉛筆が意味のない曲線を描く。無意識に手が動いていたことを知り、慌てて消すのにまた手間取った。空白を埋められないまま時間ばかり刻々と過ぎていく。これではいけない、と気を取り直し、もう一度まっさらな気持ちで試験用紙に視線を落とすものの、文字が軟体動物のようにくねくねしてしまって、問題を読ませてさえくれない。
 教卓の上に置かれた時計の針がこちこち進んでいるのを眺めながら、ぼくはさっきから幾度となく自分に送られるユリウスの合図を無視した。
 今回の試験に関しては早くも諦め、窓の外の風景に目を遣る。
 運河の河岸に溜まっていた茶色い雪はもうほとんど解けきった。校庭の土も少しずつ顔を出している。もう少し暖かくなればガウンも必要なくなるだろう。冬眠していた球根が芽吹く季節だ。小鳥たちが梢の実を啄みに来る。ぼくたちは彼等のために小屋をつくってあげて、その中でヒナが育つのを見守るんだ。
 春、それは蘇生の季節。
 長い冬の間地上を覆い尽くしていた白の眠りは巨大な太陽の放つ熱に退散し、廊下にも食堂にもサロンにも真新しい光が降る。
 そして、セント・ルーズベリー音楽宮の一年でもっとも賑やかで胸躍る行事、緑の祭典が開催される。
 祭典は三日間に渡って盛大に行われ、ここでの学習の成果を親や兄弟に披露できる場ともなっている。もちろん他校の生徒、商業高校の女の子たちや、お世話になっている街の人々、将来のセント・ルーズベリー生、卒業生の実業家たちも大勢見学にくるから、この時期の生徒達の盛り上がりようときちゃ他の行事の比じゃない。その祭典の最後を飾るのは、選ばれた生徒による合唱だ。合唱団員として選ばれた生徒は、商業高校の女の子達の手によって、毎年新しく白の衣装を作ってもらう。それを着てステージに立つということは、音楽宮の制服の特徴である青色のリボンタイを揺らしながら初めて街を歩いた時と同じくらい気分の良いことだそうだ。ぼくは自分が合唱団に選ばれ白い衣装を身に纏っているところを想像し、堪えきれずにやにやした。
 試験終了の合図が鳴ったのは、ちょうどそのときだった。

「フィガロ!『メッシーナの花嫁』の作者って誰だっけ」
 試験終了後ざわつく教室を横切って、すでに絶望的な声でアロンが訊ねてくる。
「ぼくも今回は出来が悪い。テオに訊いてみる?」
 一週間前のあの夜、噴水の傍らで一緒に紙屑を拾い集めて以来、ぼくとアロンとテオは以前のよそよそしさが信じられないくらいに仲良くなっていた。最初のうち、特にアロンはテオのことを警戒しているようだったけれど、テオがそんなに堅いわけじゃないと分かるとすぐ打ち解けた。アロンってもともとそういうやつなんだ。相手の本性が理解できさえすれば、誰とでもすぐ仲良くできるタイプ。だからこんなぼくとも仲が良いんだけれど。
 テオと一緒に行動しているお陰でぼくたちはローレンツとも喋る機会が増えたし、上級生からお誘いの声が掛かる回数も増えた。もっとも、上級生の狙いはローレンツだけれど、普段は飲めないようなおいしいお茶を飲めたり、高価なケーキが食べられることは嬉しかった。ぼくはそんなケーキがあることさえ初めて知ったんだ。
「メッシーナはシラーだよ。お情けにも引っかからない生徒を持って、先生方は可哀想だ」
 アロンに縋られたテオは斬り捨てるように云った。ぼくとアロンは顔を見合わせ「ああ、そういえばそういう感じの名前だったな」と手を打った。ほんとは、ちっともピンとこなかったのだけれど……。
「まあ、とにかく試験は無事終了したことだし、これからは緑の祭典の準備に打ち込めるんだな」
 ぼくと同じくらいわくわくしている様子でアロンが云う。
「無事終了したかどうかはともかく、合唱団の選抜の方は早速今日の昼休みから行われているらしい」と、テオ。
「ええっ、今だよ!」
「音楽室へ行ってみようか。選抜の様子が見学できる」
 アロンのように分かり易くはないけれど、テオも少なからずわくわくしている様子だ。そうじゃなきゃ自分から人の多い場所へ足を運んだりしない。
「テオは何でも知っているんだな。合唱団の選抜ってどういうふうに行われるの」
「前年の合唱団のメンバーの有志が集まって採点するんだ。当然、贔屓目で見られる。まあ、だからこそ目玉演目になっているという節もあるんだけど、」
 そう云ってテオは珍しく笑った。ローレンツのことを思い出したのかも知れない  その時ぼくとアロンの間を、見慣れた二つの影が割って行った。先を競うように音楽室へ向かって行く。
「エーベルとクラウスか……あいつらも受けるんだな」、はしゃぎながら追い越していった下級生二人に両側から肘をぶつけられたアロンが舌打ちして云う。
 エーベルは曲がり角のところで少し立ち止まってぼくらの方をちらっと振り返ると意味ありげに笑った。
「はん、いつか痛い目見ろよ」、アロンは悪態を吐いた。
 ぼくとテオは顔を見合わせて苦笑した。
「ところでテオも合唱団の選抜を受けるの?」
 まさかな、と思いつつ訊ねると、テオは「伴奏の方でね」と答えた。それでぼくは納得した。テオが大勢の中の一人になって誰かの指揮に従っているところなど、想像がつかない。

 音楽室は教室棟の三階の端、陽当たりの良い位置にある。入り口から入って右手側にピアノが一台、正面の壁には歴代の音楽家たちの絵付き略歴の紙が年代順に貼られ、その前に合唱隊が練習で使う木の三段が置いてある。ぼくが去年観客席で見たものより幅が広く見えた。
 あの台に、選ばれた二十名が等間隔に立つ。
 指揮者が右手のタクトを魔法のステッキみたいに一降りするとピアノの前奏、そこで聴衆はもううっとりしてしまう。指揮者が体の向きを元に戻し、アルトに合図する。糸を紡ぐように。テナー、バス、ソプラノ……上質な絹のように滑らかな糸が互いを追いかけ合うように絡まり合い、魔法のタクトに均され、一枚の布となる。春の衣は耳を傾けるすべての人々を慈悲で包み、愛を被せ、感動で濡れた瞼をそっと拭う……
「やあ、やあ、フィガロ!」
 頭の中を流れていた歌声にうっとりしていたぼくは、今もっとも聞きたくない声に夢を邪魔されて、隠しきれない不機嫌さの滲む面持ちをそちらへ向けた。
「……ユリウス」
 相変わらず彼には椅子に座るという考えがないらしい。ピアノの後ろに置かれた古い机に腰掛けたまま、何食わぬ顔でぼくに手を振っている。傍らにいたのは、あの夜ぼくのラブレ……いや、ぼくの手紙を散り散りにしてくれた三人の上級生だった。
 ぼくがそっぽを向いて教室の奥へ歩き出そうとすると、ユリウスが足早に近づいて強引に腕を掴む。
「この前はごめん、本当に、ごめん。約束を破る形に」
「わざとなんだ」
 ぼくはユリウスに掴まれた腕を振りながら、タッソのいる方を指さした。
「ほら、きみたちは仲間なんだ。約束を守るぼくのことをからかったんだ」
 ぼくの剣幕にユリウスは少なからず驚いたようだった。ぱちくりと瞬きするとペリドットの瞳が輝きを増す。
「え?」
「何も知らないなんて云わせない」
「……え?フィガロ、きみ」
「もう、ぼくはきみの言葉なんか何も聞きたくない!」
 音楽室中の視線がぼくとユリウスの一点に集まっていた。
「フィガロ。誤解しているよ」
「誤解?誤解なんていいわけは止してくれ。ぼくが誤解していようがいまいが問題じゃない、きみはぼくと約束をした。そして守らなかった。守らなかった。ここが重要なんだ、きみは、約束を、守らなかった!」
「おいおい、喧嘩か?フィガロ・ルーイッツ、相手はなんとまあ死神の息子ときた」、誰かが囃し立てた。
 ぼくはユリウスから一歩後ずさった。そうしないとまっすぐ見ることができないからだ。何だってユリウスはこんなに長身、いや、何だってぼくはこんなにチビなんだ。チビの図書委員長。チビのフィガロ。内気なフィガロ。弱虫なフィガロ……ああ、まったくだめなフィガロ!
 ぼくがこれだけ落ち込んでいるという時になんとユリウスは、何がそんなに嬉しいのか顔を輝かせて、今しがた振り解かれたばかりの手でもう一度ぼくの両手を取ってこう云ったんだ。
「フィガロ、きみ、今日はどもっていないじゃないか!」
 背後でアロンが吹き出すのが聞こえた。
「どもっていない、どもっていない、おめでとう!」
 窓際でひそひそやっていたエーベルとクラウスまでが声を揃えて云う。
 くそっ、あの下級生にまで、ぼくは……。
 ガウンの下で両方の手をぎゅっと握り締める。
 それまで黙って様子を見ていたテオの手が、ぼくの肩を後ろからそっと握った。
「……フィガロ。挑発に乗るな。つまらない」
 ガウン越しに伝わるはずもないテオの低めの体温が、爆発寸前のぼくに少しだけ平常心を取り戻させてくれた。
 この時ユリウスは初めてそこにテオがいることに気づき、微妙な顔つきをした。
「……フィガロ、約束を取り付けたのはおれの方なのに、行けないことになってしまって悪かった。本当に、ごめん。だから、タッソたちにそのことを伝えてくれるように頼んだんだけど、どうやらあいつら、きみを見て悪戯したくなったみたいなんだ。そのことを弁解しようと思ってたんだけど、きみはなかなか取り合ってくれなくて、それでまた拗れちゃったみたいだ」
 そこまで云ったユリウスは、タッソを振り返って見ておっとりと笑った。
「あいつも今じゃ反省してる」
 ぼくはユリウスがそういうふうに笑うのを初めて見た。酒樽のタッソのことを話す時はきっとそうなるんだ。
 何故かはわからないけれど、ぼくにしては珍しいくらいに、いらいらした。
「図体でかくて夜に見るとそりゃ怖いかも知れないけど、面白いやつらなんだぜ」
「ユリウス、きみが約束を守れなかった理由って何」
「それは、」
 ユリウスは一寸口ごもって、
「突然呼び出されたんだ」
「誰に。ぼくとの約束を破るほど」
 ぼくの矢継ぎ早な質問を遮るようにユリウスは再びタッソを庇った。
「まあ、とにかく。あいつらに悪気はなかったんだ。な、許してやってくれ。これを機に友達になれる。あいつ、不器用そうに見えるだろ。でも料理が大の得意なんだ。あいつにパイを焼かせたらルーズベリーで右に出る者はいないな」
 音楽室に集まった生徒全員がぼくの反応を、興味深そうに見守っている。
 モーツァルトやベートーヴェンまでがぼくの反応を待っている。
 エーベルとクラウスだけはいつものように肩を寄せ合って何事か囁き合い、くすくす笑っていた。
 右肩に置かれたテオの手がぼくの腕をそっと滑り落ちる。ここは、ぼくが反応するしかないのだ。
 ぼくは少しずつ顔を上げた。
 ユリウスは相変わらず能天気に苦笑いしていた。
「ごめんよ、フィガロ。仲直りしよう」
 差し出された手を、ぼくは払った。
 せっかくの仲直りの機会を、はたき落とした。
「『悪気はなかったんだ。許してやってくれ』、『面白いやつらなんだ。許してやってくれ』……きみは仲間思いの人格者だ。きみはいつもそうやって罪を犯した方を庇うのか。だとするときみは随分とずるいんだな。謝られたぼくの方が情けない気持ちになるってことをちっとも考えてやいないんだ。どうして許さなきゃならない?どうしてお利口に納得しなきゃならない?ああ、もう、本当に嫌いだよ。うそつきなきみのことなんか、ほんとうに大嫌いだ!」
 ユリウスがどんな表情でぼくを見るのか、それを見るのがぼくは怖くて、目を背けた。しんとしてしまった音楽室の静寂を破ったのは、音楽室の扉の開く、からからという乾いた音だった。不安げに中を覗き込んで、ただならぬ空気を察知したローレンツと目が合う。
 そうか、彼も選抜を受けるんだ。ローレンツなら合格間違いないだろう。白い衣装を着たローレンツ、きっと天使そのものだろうな。 「ローレンツ」、テオがローレンツを迎えに扉へ向かって行った。それが合図だったみたいにぼくも踵を返す。
「嫌いだ。……ユリウス。きみを本当に大嫌いさ」
 しばらくの静寂の後、音楽室がわっと盛り上がる。
 アロンまで「よく云ってやったぜフィガロ!」とぼくの頭をめちゃくちゃに掻き回す。ぼくはその手を払い除けたけれど、アロンだけじゃなく見学者全員の興奮はもうしばらく収まらないようだった。
 ぼくはローレンツのようになれない。
 ユリウスを困らせて、困らせて、困らせて……嘘を、吐いた。
 駆け出したぼくを誰も追いかけてこなかった。入り口でローレンツとすれ違う際、ローレンツは心配げな目をして「どうかしたの、フィガロ?」と訊ねてくれたけれど、何も返事することができなかった。音楽室を去るぼくの背後で、テオが「彼ならだいじょうぶだ」とローレンツに云っているのが聞こえた。ぼくの気持ちは余計に沈んだ。階段を降りてすぐの踊り場でぼくの目から涙が溢れた。
「嫌いだ……大嫌いだ」
 嘘が積み重なっていく。
 ぼくはこうしてエデンから追放された。
 素直になってユリウスの手を取って白い衣装を身に纏い仲間と歌声をそろえれば、天使にだってなれたんだ。それなのにぼくは嘘を積み重ねて逃げ出した。エーベルとクラウスの小さな笑い声がどこまでも追いかけてくるようだった。
 嘘を吐くほど真実が胸を切る。
 忘れようとすればするほど、諦めようとすればするほど、本心は隠しきれず浮き彫りになるんだ。鮮やかに匂い立つ花となって、芳香で胸を満たしてしまう。
「好きだ……嘘だ、大好きだ」
 ユリウスの手をはたいた手を口元に運んで、ぼくはひとりぼっちで嗚咽した。



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