1 before before the party
第一学年  クラウス・ランデイ


 私立セント・ルーズベリー音楽宮。
 下は九歳から上は十八歳までの少年が寄宿して学校生活を送るこの舞台では、年中、行事が絶えない。中でも最大と云ったら五月の三日間に渡って行われる『緑の祭典』がそうなのだけど、今ぼくらが心待ちにして止まないパーティも、その『緑の祭典』に次ぐ、もしかするとそれ以上に楽しみにしている催事の一つ。と云ってもぼくら、目前に控えればいつだって、それが何だって、この世の何より甘くてすてきなものだと声を張り上げるんだけど。

「ねえ、聞いているの、クラウス」
 ここは中庭を突っ切ったところにある煉瓦塀の上。ぼくらのいつもの溜まり場所。
 ぼくの肩を押した本人は不機嫌な目で、何を考えていたの、と問い詰めてくる。
「べつになにもかんがえて」、
 ないよ、と応えようとしたところで後ろから声を掛けられた。駆け寄ってくる同級生たち。つい今までぼくの顔を覗き込んでいたエーベルハルト・ローゼンは彼等の姿を見て露骨に嫌な顔をした。
「なあ、クラウス。仮装何にする? 僕たち、みんなで何かグループのようなことやりたいと思っているんだけど」

 ルーズベリーでは毎年ハロウィンと試験日程とが重なる。そのかわり、というわけで、クリスマスパーティとハロウィンパーティが一緒くたに行われる。名づけて年末のグランド・パーティ。ぼくら最下級生にとって入学以来最大の祭事となる。当日の仮装をどうするかという話で試験期間中も持ちきりだった。
 もちろん、仮装に関してだけじゃない。パーティは交流の場でもある。それぞれがお目当ての上級生との接触を願っている。人気は、ユリウスとテオ・ベッセル両名。性格から素行からまったく正反対の二人。

 まず、ユリウス。
 ルーズベリーの不良という不良を取り仕切る大柄なタッソとは従兄弟同士(ユリウスがタッソの従兄にあたる)、かつ同部屋で、幼少期からの上下関係なのか、タッソでさえこのユリウスには頭が上がらない。ユリウス本人も校則なんてどこの法律? といった顔で、喫煙、遅刻、欠席は当たり前。授業中ふと窓から外を見ると、草むらに寝そべっているユリウス・シーザーを見つけられたりする。草むら、もしくは、木の上。寝心地は訊ねてみないと分からない。
 それにしても、昼寝と称してあの睡眠量。おそらく昼夜逆転の生活。容貌が美しいだけに夜遊びに関するウワサも一つや二つどころじゃないけれど誰も証拠をあげられない。ユリウスとタッソの在籍するペトロス寮の寮長でさえユリウスの無断外泊を立証できないでいるのだ。それくらい彼が狡猾なのか、それとも黙認されているのか。どちらにせよペトロス寮っていうのはどうも問題のある生徒が集まる寮で、どこで不正が行われているか分かったものじゃない。関わりたくない連中だ。
 一部では「魔女の息子」だの「死神の息子」だのと呼ばれるユリウス。彼への評価は人によってさまざまだけれど、下級生からは抜群に人気だ。特に、寮に入りたてで甘やかしてくれる年上を求める傾向にある同級生なんかはしょっちゅうユリウスを捜している。不良の頂点に君臨するタッソを意のまま操っていながら、弱い者や自分を慕ってくる生徒に、ユリウスは優しい。それに、ユリウスのまわりには他の生徒と明らかに違う雰囲気といったものがあるんだ。それは例えば、堕落的なものへの憧憬とでも云おうか。箱入り息子に限って魅力的に感じる、それまで自分を取り囲んでいた環境や人間関係、それらとまったく異質なものへの、好奇心とでも云うのかな。ぼく個人としてもやはり、この上級生に対しては退廃的な印象をぬぐえない。得体が知れない。
 そういえば学校長も、どういうわけか彼に甘い。いくらなんだって一日の授業の大半を居眠りに費やしている生徒なんか。成績が悪いわけではないからか? そう、タッソとユリウス。支持者も多いぶん、敵も多いこの二人。腕力に物云わせるタッソと、そのタッソを支配するユリウス。この二人、授業にほとんど出ない割に成績が落ちないそうだ。教師陣が強く出られない理由もそこかもしれない。なんたって、入学以来学年首席のテオ・ベッセルに次ぐ席次を維持しているってんだから! となると素行を注意する他ないんだけれど、そこもどうやら学校長の「御贔屓」で大事に至らない。

 そして、テオ・ベッセル。
 こちらは「凍りついた人形」だのって囁かれることもある、首席にして監督生。風紀が服を着て歩いているようなものだ。まったく隙がないったら。きっちり結んだ胸元の青いリボンタイは強風にあおられても形一つ変えることないんじゃないか、って本気で思えてくる。艶のあるプラチナブロンド、眼鏡の奥のミントグリーンをした瞳。一瞬でも睨まれたら体の芯まで凍りつくようで、校則を違反しようなんて思えなくなる。(タッソらを除けば、ね)。
 だけど、聞いたことがある。テオ・ベッセル、双子の弟を交通事故で亡くして、その時から変わってしまって。以前は、今よりはもっと笑っていたって。噂にしか聞いたことがないけれど。何たってぼくらが入学する頃に彼はもう今の彼でしかなかったから。 弟のラインハルト・ベッセルは、現在ぼくの同級生でもある彼の幼馴染ローレンツ・シュルーズを見舞いに行った帰り道で、暴走車にはねられて亡くなった。即死だったそうだ。運転手は酒に酔った未成年。年は、なんと、今のぼくらと変わらないくらいだったそうだ。
 たまたま近くの文具店へ買い物に来ていたテオ・ベッセルは弟の死体を見て何を思っただろう。自分とそっくりの死体を見て、運転していた少年を見て、何を。

 白と黒。星と闇。雪と花。日向と陰影。
 まったく異なるからこそ二つは対で語られる。片方が存在することで必然的にもう片方も存在しているかのように。(あるいは、そうなのだけれど)。ただ、傍目に見て明らかなのは、繰り返すけど、この上級生両名の仲が悪いってことだ。。一つの瓶に入れられたって水と油は分離するように、太陽と月が同時刻に決して一つの方角に無いように、まったく相容れない二人。魔女の息子と凍りついた人形。
 しかしそんな関係性もまた、下級生の注目を浴びるに十分な要素、か。

「だめだよ。クラウスはぼくのロミオをするんだ」
「誰がおまえのロミオをするって。何事においてもクラウスを困らせるのはやめろよ」
「ぼくは誰に迷惑をかけたこともないし、クラウスもぼくに困らされたことはないよ」
 ね、クラウス。とエーベルに問いかけられ、ぼくは曖昧に笑った。これじゃ、ぼくもぼくだな。
「ほら見ろ。困っているじゃないか」と、スロファ。
「そうだ、そうだ」、両隣でパティスとブルソースが声を揃える。

 ところでぼくとエーベルとの付き合いはルーズベリー入学時に始まったものじゃない。云ってしまえば先祖の代から続いているものなんだ。エーベルの一家は王族傍系。ぼくの一家は王宮近衛の傍系。親族同士の集まりで初めてエーベルを見かけたのは、たしか、互いが四才の時。
「この子、人見知りが激しいの」。
 エーベルのママはぼくのところへエーベルを連れてきてはじめにそう云った。
「これから同じ学校に入ることになると思うけど、仲良くしてあげてね。さ、エーベルハルト。ご挨拶。出てらっしゃいな。あなたと同じ年の子よ。クラウスっていうの。新しいお友達」
 ぼくは、エーベルのママがぼくのことをまるでぬいぐるみか何かのように「新しいお友達」と決め付けているところに多少むっときたけれど、ちっちゃなエーベルのおっきな青い目が泣き出しそうにぼくを見上げていることに気づくと、何も云えなかった。あの青い瞳にお願いされて、首を横に振ることなんてできない。きっと誰だって、勿論ぼくだって。今だって。

「なあ、クラウス。お前ももうちょっと厳しくしてやった方がこいつの為だよ」
 スロファが云い、パティスとブルソースは打ち合わせたように同じくして首を縦に振る。
「ぼくとクラウスのこと何も知らない癖に。あなた達こそ余所へ行ったら」
 目障りだよ、と、エーベルが啖呵を切る。
 いつもなら双方の言い分を聞きつつ間を取るぼくだけど。今日は試験中の疲れも出てか、それとも積もり積もったものがグランド・パーティ目前にして開放的になっていたぼくの体から発せられる予兆だったのか。
「そんな云い方はないだろ。エーベル、謝れよ」
 エーベルに対して、エーベルがもっとも忌む云い方を選択していた。
 何か云い返してくるだろうと思ったのにエーベルは何も云わなかった。すッとぼくから離れると煉瓦塀から下りる。コートのポケットから何か紙切れのようなものが落ちた。
 手紙?
 スロファが拾い上げたことに気づいたエーベルはひったくるようにして取り返した。
「きたない手。触らないで」
 その後ろ姿を見たスロファは「なんだよ、あいつ。感じ悪いの」と唾を吐く。
 今に始まったことじゃない。
 ぼくはエーベルの駆けて行った方を見つめながら、もう一度深い溜め息を吐いた。


2  before the party
第一学年  エーベルハルト・ローゼン


 二限目はサボタージュ。
 着席すればクラウスの背中が目に入るから。
 広げた両手でバランスをとりながら、煉瓦塀の上を歩く。
 教室の窓からクラウスが心配そうにぼくのことを見ている。ふん、足を滑らせて落ちてやろうかな。

 空気が冷たい。もう十二月なのだから無理もない。ガウンの前を開けると風が入って、背側で羽みたいにひろがる。ルーズベリーのリボンタイをほどき風に放つ。校風に沿って服装の自由も保障されているルーズベリーだけど、青いリボンタイだけは生徒全員の必須アイテムだ。青はルーズベリーの証。青はぼくらの誇り。指先をはなれ後方へ飛んで行く、誇り。自分で選んだものなど何一つない。
「前略。親愛なる、ぼくの太陽、あなたは誰からも愛される、届かない楽園、神のわざと地上に落としたもうた一つの林檎、もしもあなたが禁断であっても、口にすることはおろかぼくには手を差し伸べることさえ赦されないものであったとしても、やっぱりぼくは、罪を犯したでしょう、罰を恐れもせず、恐れ多くも、夜としてのぼくは、」
 ポケットの中、一通の手紙。
 誰が誰へ宛てたものか分からないけれど。図書館の本に挟まっていた。古い秘密。繊細で、けれど迷わない筆跡。丁寧な折り目。
 夜と名乗る差出人。
(届かないものだと分かっていても、赦されないものだと分かっていても、自分は手を伸ばすだろう)。
 ぼくもそんなふうに愛されてみたい。届かないなら仕方がない、と諦められるよりも。赦されないなら仕方がない、と距離を置かれるよりも。何もかもめちゃくちゃにしてくれたら良いのに。
 ぼくが云わないからかな。
 本当はそうされたいと願っていると。
 云わないからかな。
 窓辺のクラウスはもう教壇に向きなおっている。
 その横顔が怒っているようにも見える。
「彼は、ぼくの夜になれない」
 呟いたその時、何かに足元を掬われた。
 あっと思った時には体勢を崩し、次の一歩を空に踏み出している。落ちる、と思った時、体はもう投げ出され。
「チェック・メイト!」
 周囲から複数の笑い声が上がった。
「おや、おや、おや。空から降ってきたのはジューダス寮の姫君じゃありませんか!」
 上級生が六、七名。
「ただ、たとえ姫君でも陣地を間違えばただの侵入者」
 他、見るからに不良ばかり。少し離れた所からにやにやと様子を見ているだけのやつもいる。
「侵入、それはルール違反だ」
 におい。煙草。アルコール。まずいな。
「これは、丁重にもてなさないと」
 ぼくを抱えていたのは、そばかす面の上級生だった。云うまでもなくこれが「酒樽のタッソ」。校外にも名の知れた不良だ。
「あなた誰に許可を取ってぼくに口をきいているの」
「俺を知らないのか?」
「何がそんなにおかしいの、タッソでしょ。ぼくにはあんたの顔の方がよっぽど面白いんだけど」
 思ったことを口にする癖が直らない。クラウスに何度も注意されるんだけど。病気じゃないから、治らないんだ。玩具じゃないから、直せないの。
 そうだ、クラウス。
 ぼくは仰ぎ見るが煉瓦塀が邪魔をしてあの窓はもう見えなかった。
「姫君は状況が分かっていないらしい。教えてやろう、我々のやり方で」
 背後の上級生に体を抑えられる。誰かが囃し立てるような口笛を吹き、タッソが指の骨を鳴らした。
「なんだ。その体、骨もちゃんとあるんだ」
「減らず口はそこまでだ、エーベルハルト・ローゼン。どっちの頬が良い。右か左か、選ばせてやるよ」
 無遠慮に近づくタッソの顔にぼくは唾を吐きかけた。
「下がれ、酒樽。視界が腐る」
 周囲の上級生から歓声が上がり、タッソの顔に血が集まる。眉の上がぴくぴくと痙攣している様子まではっきりと見て取れる近さ。
 ああ、殴られるんだ。
 ふとクラウスの手を思い出す。
 ぼくがどんなに無愛想な時でも繋いでくれた。そうだ、あの手。初めて会ったのは、五才の時かな。いや、四才だったかな、あれは。

 背を屈めた大人達に覗き込まれる。分からない言葉で挨拶をされる。みんなにこにこしていて同じ顔。ママも同じようでぼくは不思議だった。ぼくは泣きそうだった。それは本当だった。みんながにこにこと笑っている中で、ぼくは何故だか泣きそうだった。 その時だった。
「退屈だったら、あっちでいっしょに遊ぼうぜ」。
 ぼくはあの時、ああこの少年の姿、いつか彼がこの時のぼくを忘れてもぼくは忘れないだろうな、と思った。ママには同じ年だと紹介されたのに自分より凛々しく整って、そう、騎士みたいだった。この少年がこれからもぼくを守ってくれるんだ。この少年だけがぼくを見捨てない、一人にしない、唯一の騎士なんだ。ぼくは、信じるだけだった。教えられたことを。云われたことを。望まれたとおりに。信じるだけの、大人たちにとって「とてもかわいい子」だった。あの時クラウスが握手してくれて、それからずっと繋いでいてくれて、ぼくはとても安心だった。この手を離さなければ、ぼくはずっと、この先もずっと、こうやって安心した気持ちで過ごせるんだ。初めて、教えられたものじゃないものを信じた。自分の内側から湧き出てくる声を、信じた。
 だけど今ぼくを殴ろうとしている拳は大きくて凶暴。
 物語ならここでタイミング良く騎士が助けに来てくれるはず。
 だけどクラウスは遠い。
 つまりクラウスじゃない。じゃあ誰も助けてくれない。ぼくのことをみんな嫌い。ぼくだってみんな嫌い。きらい。
 だいきらい。

「主君カエサルは従弟に下級生を殴れと伝えただろうか」

 その時、唄うような声が聞こえて、タッソの動きが後方から見えない操り糸に引かれたようにぴたりと止んだ。
 ぼくは歯を食いしばったまま声のした方向、つまり頭上の木の上にゆるゆると顔を向けた。
「いや、伝えなかった」
 猫のような身のこなしで声の主は下りてきて、なんとタッソの頭上に着地した! 衝撃でタッソが地面に倒れ込む。だ、だいじょうぶかな。ぼくの体を拘束していた上級生も弾かれたように後ずさる。
 声の主は足でタッソを地面に抑え付けた。
「おれ、暴力きらいなんだよね」
 辺りをぐるりと見回した声の主、ユリウス・シーザーは最後にぼくの上に目をとめると安心させるように笑った。
 でもまあこの二人の間に限っては変わらぬ従兄弟愛があるから痛くはないんだよな、と付け足してユリウスはタッソのこめかみからようやく靴の踵を下ろす。
「な、タッソ」
「あ、ああ。平気だ」
 のそのそ上体を起こしたタッソはきまりの悪い顔をしてしょんぼり項垂れた。
 どうやら首の骨は丈夫にできているらしい。
 しかしこれじゃ、母親にこっぴどく叱られた子どもと変わらない。いや、主に叱られた番犬かな。それとも、借りてきた猫のように、ってやつ? さっきとは別人のように急に大人しくなってしまった。ぼくでさえ一瞬気の毒に思ったくらいだ。
「教育」、云うが早いかユリウスは右手でタッソの汚れた顎を固定し。空いている左の掌で、ぱん、とその頬を打ったんだ。
「くっ」、タッソの頭が打たれた方へうなだれる。
 ぼくが見上げたユリウスは退屈な本を読む時のような目つきをしていた。
「わ、悪かった。ユリウス。本当に殴るつもりはなかったんだ。ただこいつがあんまり生意気だったんでちょっとだけ怯えさせてやろうと、」
「もうしない。誓え」
「あ、ああ、誓う。もうしない。すまなかった、ユリウス」
 って、謝る相手はこっちだろ、タッソ!
「よし。じゃ、あっちへ行け?」
 タッソは連中を引き連れ、ユリウスが指差した木立の方角にたちまち消えたのだった。

「許してくれな。本当は優しいやつだから」
 一段落ついたところでユリウスがぼくに謝る。優しいのにあんなことできるなんて信じられない。
 ぼくとユリウスは草の柔らかなところを選ぶと並んで腰を下ろした。膝の高さが随分と違う。ぼくは、布地に覆われて見ることのない膝小僧に馳せた。
「そう云うあなただって、ずいぶん意地が悪いです。ユリウス・シーザー。上から一部始終を見ていたくせに」
「止めたよ」
「遅かったです」
「でも、止めたさ」
「だから、遅いです。べつに、感謝もしないです」
「タッソ相手に弱腰にならなかった。立派だ。さすが王族の血を引いているだけのことはあるね」
 頭を撫でられたぼくは怒っていたことを忘れてうっかり涙ぐんでしまった。
「おや。そんなに怖かった、」
「いいえ、ちっとも怖くなかったよ」
 どうやらぼくが歩いていた煉瓦塀周辺は、あの時間帯、タッソ達の溜まり場になっていたようだ。それを知らず足を踏み入れたぼくは、幸運にもユリウスが木の上で昼寝していなければ格好の餌食にされてしまうところだった。どうやらここルーズベリーにはぼくのまだ知らない暗黙の了解事がごろごろしているらしい。今後気をつけなくては。今回はたまたま運が良かっただけだ。
 それにしてもぼくは今、あのユリウス・シーザーと一緒にいるのか、と思って心臓が甘く締め付けられるような感じがする。
 あ、何か香るぞ。これは、白百合。
 そういえば、百合の花ことばって、純潔、だったっけ。
 純潔、か。
「きみがなかなか泣いてくれないから登場するタイミングを失ったんだよ」
「嘘ばっかり。そんな寝ぼけた顔で云わないでください。あなたなんか睡魔と結婚したら良い」
「笑ったな」
「うふふ!」
「でもさ、ほんと良いやつだよ。悪さばっかするけど。裁縫できるし料理は上手いし力はあるし器用だし、な。便利だろ」
「矛盾しています。良いひとは悪いことをしません。それに、そこまで弁護しなくても。あんなやつ! あなたと彼とは従兄弟同士だそうですが全く似ていないんですね。しかもあなたのほうが兄なのに彼より学年が二つ下です。事実だと云うなら却って作り話みたいだ。もっとも、ぼくの親戚にも似てない兄弟がいますが、あ、結構です」
 目の前に差し出された煙草を断った。
 ぼくの前を掠めた指先から再び白百合が香った。ルーズベリーのどこかに百合なんか咲いてあったっけ。それともこれは熱で彼から立ち上る香水なのか。確かにこの目に映るのは綺麗な指。ぼく含め同級生にありがちな幼児的ふくよかさから完全に脱した細さ。植物の茎みたい。きっと、磨かれた鍵盤が似合う。あるいは、ナイフ。善事も悪事も器用にこなす。一見冷徹なほど整って、時折陽だまりのようにあたたかい。
 でも哀しいの。
 どうしてだろう。このひと、ふと、なんておそろしく何もない目をするのだろう。虚ろな目から零れおちそうな悲愴は、ぼくの思い違いなの? この冷たい風の中で少し、ただちょっと、生き物の熱が潤んで見えているだけなの?
「どうして庇うの。そうでなくたってあなたには好ましくないウワサがたくさんあるんですよ。なのに、どうして」
「どうしてって、弟だからだ」
 ユリウスが毅然と答えたので、余計にぼくは自分の発言を恥ずかしく思った。
「そのタッソをぶったこと、後悔している?」
 ユリウスは首を横に振った。
「エーベルハルトはお子様だね」
 笑ったユリウスの目が優しく弧を描いたのを見る。
 ウワサは尽きないけれど。
(ララ・クロウ)
 ぼくには。
(ララ・クロウ、あなたが彼をどう云ったって)

 ぼくには、聖人に見えたんだ。

「ねえ。ユリウス?」
「どうした」
「まだお子様だけど、味、知りたいな」
 自分の膝を抱き寄せ、思い切って云った。
 煙を細く吐いたユリウスが遅れて微笑む。
 青みがかるほどの黒髪が風に吹かれ、その目元を隠す。
「ね、ねえ、教えてよ。それって本当に苦いのか。たしかめたいな。あなたは煙草がとても似合うよね。それはどんな味がするの」
 焦って口数が多くなる。
 こんなにあっさりと拒まれたことは今までになかった。ぼくの言葉を拒絶する相手がいるなんて信じられない。
「この煙草はちょっと甘いよ。ただしこの場合、相手による」
「ぼくが試すチャンスは」
「さあな」
 もし今キスしてくれたなら、クラウスの莫迦に自慢してやろうと思ったのに。「そうやって何でもかんでも自分の恋路に利用するなよ」、伏せた目のままユリウスがいじけた声を出す。白い瞼に木漏れ陽が揺れる。髪色との対比で青白くさえ見える頬にも。煙草を挟む手の甲にも。
 断り方までもがそんなに優しくなければ、自分の誘惑を拒絶した上級生としてぼくはずっと覚えていてやるつもりだったのに。だのにユリウスは、伏せた目のまま笑っただけで。ぼくにはこの人を恨むことなど到底できそうになかった。
「あなたの唇を知りたかったのは本当です」
「しろと云われてできないさ。おれは春じゃない」
「春。それをどういうものだか知っているの」
「まあ、ほとんどそんな中で育ったわけだから」
 ほとんどそんな中で、だって。
「だから、おれの名は魔女の息子ですが」
 さっきまでの穏やかな雰囲気とは一変して今度のユリウスは心底意地悪そうに笑った。瞳のペリドットは雨上がりの新緑のようにまるで澄んでいる。
 見惚れていると顎を上向かされ、固く結んでいたはずの唇が自然と開く。息を吸うと、煙草の煙の中に、もう疑いようもなく白百合が香った。
「な、なに?」
「ほら。ろくに知らないやつ相手に油断なんかするから」、遊びみたいで、大人みたい。後頭部から滑ったユリウスの手は背骨から腰へ落ち、ぼくは全身を硬く強張らせて彼の背中にしがみついた。十分な息継ぎができない。後ろへ倒れそうになるのを、腰にあてがわれた手と、顎を掴む手とが支えている。
 知らない、こんなの、知らない。
 自分じゃない。自分の声や体じゃない。
「ご所望の、お味は?」、しばらくしてやっと顔を離したユリウスの、今度は機嫌をうかがってくる子どものような上目づかい。一瞬のイジワルを終えて安らいだ目元はもう神様のように微笑んでいる。長い睫毛、ペリドットの瞳。
 ながいまつげ、ペリドットのひとみ!
「な、なに。いまのは、あなたの魔法?」
 ぼくが思ったまま云うとユリウスは俯いて、しかしこらえきれない様子で吹き出した。
「ごめん、ごめん。つい、癖でやっちゃう」
「く、癖で」
「お味は」
「あ、甘くなかった」
 だから人によるんだって、と云ってユリウスは手元の紙切れを読み上げ始めた。
「前略。親愛なる、ぼくの太陽、あなたは誰からも愛される、届かない楽園、神のわざと地上に落としたもうた一つの林檎、もしもあなたが禁断であっても、口にすることはおろかぼくには手を差し伸べることさえ赦されないものであったとしても、やっぱりぼくは……」
 ここに至ってようやく、ぼくは、さっき腰に落ちたユリウスの手はポケットからその紙切れを抜き取るために動いていたのだと知った。まったく気づけなかった。なんだよ、もう! って、何かを期待していたわけじゃないけれど。そんなわけじゃ、ないけれど。
「返してください」
「もちろん。それ、きみが書いたの」
「違います。本の間に挟まっていたの」
「本、何の」
「シェイクスピア」
「まさか、ロミオとジュリエット?」
「はい。古い本の方です。だからこの手紙、ずっと見つけられず残っていたんだ。今、新しいのと古いのと二冊あるから」
「さっき、塀の上歩きながら口ずさんでいたね。夢の中で聴いていた。あれはきみの声だったんだ。全部、覚えているんだ?」
「何回も読んだから」
「自分もそういうふうに奪われたくて、」
「うん」
 と答えて、ぼくの胸はまた痛んだ。本当に伝えなくてはならない相手には、こんなに素直に云えないのに。どうしよう。もしも、これが、ぼくの運命だったら。本当に伝えなくてはならない相手には、素直になれない。っていう、ぼくの変えられない運命だったら。
「きみは、エーベルは、誰にでも好かれたい?」
 云われて考える。ぼくは自分に友達が少ないことを知っている。周りはぼくのことを好きじゃないだろう。あるいは、嫌いにもならないほどぼくに無関心かも知れない。だけどぼくはぼくのことを好きな人が少なくても、それはそれで良いと思う。それはそれで良いよ。だって、ほんとうにたいせつなのは、
「ストップ」、ユリウスはぼくの口を手で塞いだ。
 ほら、やっぱり百合の香りがするよ。冷たくてあたたかい掌から。煙草で隠そうとしたって無駄。骨の髄から染み出しているんだもの。気高い植物の色香。白百合の蕾が。花粉が。茎が。それはもうあなたに染み付いているの、ユリウス。秘密、消せない血筋のようにね。絡まって二度とほどけない、固結びの呪いのようにね。
「そこから先は、クラウスに伝えるんだ」
 ちょうどその時、二限目終了の鐘が鳴った。
「次の授業に遅れるぜ」
 先にユリウスが立ち、差し出されたその手に掴まってぼくも立った。
 薄く冷たい。
 熱はどこ。
 誰に与えてあなたはこうも冷たいの。
「ねえ、ユリウス。いっそ次もサボタージュしようよ。キスのお礼をしてあげるよ。キスよりもっと体が温まるようなこと、ふふ!」
「駄目だ。欠席しちゃいけないんだ、授業は」
「む。あなたが云うほど説得力のない言葉です」
「悪かったな」
「でも毎回試験の成績が良いですね。勉強していないのに」
「している」
「信じられません。そんな時間、あなたに無いでしょう」
 ユリウスは無言で微笑み自分のコートについた草を軽くはらい、それから、ぼくの肩の枯葉もつまんでくれる。
「ま、信じなくても問題ないさ。それより、エーベルハルト。きみも思うだろ。やっぱり、いちばんたいせつなひととするのが一番だと思うだろ」
 ぼくは思い出して全身が熱くなった。
「お、お子様にしたくせに」
「若気の至り」
「む」
「衝動。悪癖。日常茶飯事」
「む!」
「いや、嘘。戻れそうな気がしたんだよ、きみの一途に触れたら」
「む……?」
 戻る?
 ペリドットの瞳は寂しそうに逸らされる。どっちが本当なのだろう、この上級生。
 どこへ。ねえ、どこへ戻りたいと云うの。
 ぼくは彼を愛しているわけじゃないけれど、彼の愛するひとを妬ましく思った。
 妬ましく思った、その秘密に触れてもゆるされるひとなら。

 ぼくとユリウスは煉瓦塀の端で別れた。「これは大切にしろよ」、別れ際、ユリウスがポケットに何か忍ばせてきた。わくわくしながら教室に戻って、ポケットをさぐると、出てきたのはやっぱり、と云うか、ぼくが自分でほどいて風に飛ばした青色のリボンタイだった。それだけ。ああ、たったそれだけ!


3 go to the party
第一学年  クラウス・ランデイ


 パーティ前日は朝から慌ただしかった。
 年内の試験をすべて終え、心身共に解放された生徒達、のみならず教師、学校長までもが校内の飾り付けや校庭の真ん中に立てた樅の木にリースを巻き付けることに懸命になる。食堂のコックさん達も特別メニューの下ごしらえに取りかかり、寒さなんて吹き飛ばすほどの活気でルーズベリーが満たされる。外部から来校する人々の為に案内図を描いたり、手配りのチラシを刷ったり。仮装の衣装や小道具に不具合がないか、お目当ての上級生の動向はチェックできているか、などなど。ここで楽しめない生徒はルーズベリーにいる資格がない。
 と、云ってしまいたいところだけど。
 正直ぼくには気がかりが残っていた。そのたった一つの心配事のためにぼくはこのグランド・パーティを純粋に心待ちにできず、それどころか、今日に至るまでの数日間を苦痛に感じながら過ごした。
 もちろん、エーベルのこと。
 あの日煉瓦塀の上でスロファたちを庇う形になってしまって以来、エーベルとは一言以上口を聞いていない。こちらから話しかけてもつんとそっぽを向くだけだし、周りからはそのことで冷やかされるし、自分達が仲直りできる日がくるのかどうか神様にでも問いただしてみたい気分だ。

 エーベルは、どうなんだろう。
 ぼくばかりがこんなになって。
 エーベルは、平気なんだろうな。
 そんな燻った気持ちを抱えたまま、ついにグランド・パーティ当日がやって来た。

 飾り付けされた廊下を仮装した生徒たちが行き交う。デコレーションケーキみたいに彩られた窓、室内、入り口、ここがいつも歩いている校内だとは思えない。あちらの教室では映画が上映され、こちらの教室では手作りのお茶とお菓子がふるまわれる。夕方には大きな樅の木がライトアップされ、教室棟一階では立食会が始まるんだ。そこではセント・ルーズベリーが誇る合唱団の歌い上げるクリスマス・ソングが響き、次次とおいしい料理が運ばれ、仮装した生徒が浮かれて戯れる。作りつけた暖炉では煌々と火が燃え、別の一角ではバイオリンの音色がもの悲しく響き、そっと抜け出して図書館へ行く生徒達、校庭で雪投げを始める生徒達、商業高校から訪れる女の子にデートの誘いを申し込む者、あちこちできらきら星が弾ける。
「テオ・ベッセルは、あっちだって」
 目の前を数名が駆け抜けて行くが、興味がない。
 ぼくは、妹を捜してくると云ってスロファたちと離れ、辺りを見回した。でもステファニーのことだから、迷子になって不安になるなんてことはないか。それに、こんな場所で行方を見失ったら探すだけ損だろう。そう思い直す。しかしスロファ達のところへすぐには戻らず、一人で人の波を縫って歩いた。
 大広間と称した場所を抜けた廊下の先に、妙に人だかりのできている場所がある。テオ・ベッセルの取り巻きだろうかと思ったものの、どうやらもう一方のようだ。
 黒いマント姿のユリウス・シーザーが、商業高校の女の子らと楽しげに談笑している。見ないふりで素通りしようとするが、そこで足が止まってしまった。
「あら、クラウス兄さん。こんな所で何やってるの」
「ステファニー。こんなとこにいたのか」
「ねえ聞いてよ。この人ね、自分は仮装なんかしていないって云うの。面白いでしょ」
 そう云われて見るとユリウスの傍らのタッソの格好はいつもとあまり変化がない。というよりむしろ、そのままだ。
「ねえ、こんな格好をしていて、仮装していない、って云うのはあんまりよね。そうでしょ」
 この、怖い物知らず。
 ぼくは冷静を装いながらステファニーをタッソから引き離そうとするが、タッソはいつになく穏やかな笑顔で「いいんだよ」と云う。どうやら背中に羽の付けたステファニーを妖精だと勘違いしてしまっているらしい。まあ、これはこれで良いとしよう。グランド・パーティなのだし。
「じゃ、ステファニー。八時になったら大広間に戻って来いよ」
「時計持ってないもん」
「ああ、そう。じゃ、この時計貸しといてやるから」
 ぼくは腕時計を外し、ステファニーに手渡す。
「いや、兄さんが填めてくれないといや。難しいことはきらいなの」
 ああ、どうしてぼくの周りはこう、わがままばっかりなんだ? やれやれと思いながらステファニーの手首に腕時計を巻く時、ふと視線に気づいた。
 顔を上げるとエーベルが踵を返したのが見えた。
 何だ、あいつ。そう思いながらステファニーの手首に目線を落とす。十二時の位置に光るサファイア。入学前にエーベルと二人で揃えて買ってもらった時計だ。もう一度、エーベルの去った方角に目をやる。きっと誤解したんだろう、と思う。ステファニーも随分エーベルと会っていないし。
 だけど、それが、何だっていうんだ。
 こんなことでいちいち勝手に誤解されていちゃ、こっちの身が持たないんだ。だいたい、本当はもっと楽しむはずだったんだ。最初にして最大のグランド・パーティ。台無しにしてくれちゃって。腹が立つ。
 もう、あんなやつ、知らない。

「おい、待てよ」
 ぼくの肩を誰かが掴んだ。振り返ると、ユリウス・シーザーだった。
「用ですか」
「心を無視した行いはいつしか癖になる。後はどんどん慣れ、最後には誰からも愛されない人間になるんだ」
「何のことです」
「もしかするとおれの経歴」
「ユリウス・シーザー、あなたの?」
「もしかするとね。きみにはそういうふうになってもらいたくない」
 ユリウスはそこで言葉を切って、エーベルの去った方角を見た。帽子の中に手を入れると、何やらごそごそして、紙切れのようなものを差し出してくる。ぼくは受け取って読む。
「……届かない楽園、神のわざと地上に落としたもうた一つの林檎、もしもあなたが禁断であっても、口にすることはおろかぼくには手を差し伸べることさえ赦されないものであったとしても、やっぱりぼくは、罪を犯したでしょう、罰を恐れもせず、恐れ多くも、夜としてのぼくは……。なんですか、これ」
「エーベルが持ち歩いていた手紙だよ。おれが記憶して書き写したものだけど。ほら、ここ」
 ユリウスは文章の最後を示した。
「差出人。あなたの、夜より? へえ。夜、ですって。誰です。おかしな名前ですね」
「前に一文字消えているのが見えないか」
 ぼくは薄暗がりの中で目を凝らした。
「夜、いや……これは、騎士?」
「伝説のように聞いたことがあるよ。その昔、ルーズベリーに一人の少年があってね。彼は王宮騎士の傍系出身で、王族の傍系出身である少女に恋をした。入学前のことさ。傍系とはいえ少女は王族の血を引く高貴な身分。特に当時の社会は今以上に階級意識が顕著だった。側近の血を引く自分と少女とはどうしても結ばれることがない。やがて少年は寄宿寮に入った。ルーズベリーで学習したいという意志があったのはもちろんのこと、少女から自分を断ち切るために若い彼がとった決断だった。少年は模範生として教師からも生徒からも愛された。しかし彼は少女を忘れることができなかった。そこで手紙を書いた。届くことのない手紙。郵送されることのない手紙。だけど誰かに読まれることを願って、彼は自分の思いを紙に書いた。思いを伝えられない自分の存在を、月さえ出ない夜になぞらえて。そして彼はその手紙をシェイクスピアの本に挟んだ。家同士の確執から悲恋に終わった、結ばれない男女の物語の中に」
 ぼくは最初のうち、ユリウスが何の話をしているのかまったくわからなかった。何故いきなりこのような話を始めたのかも。しかし次の言葉には否が応にも反応せざるをえなかった。
「その少年の名は、リバー。リバー・ランデイ。へえ、きみと同じだね、クラウス・ランデイ?」
「リバー・ランデイは、ぼくのパパだ。どうして」
「ちなみに少女の名は、エリーゼ。エリーゼ・ローゼン。こちらはエーベルハルト・ローゼンと同じだね」
 ここに至ってぼくは一瞬で分かった。
 エーベルと初めて会ったあの日。周りの大人達が一様ににこにこと笑っていた光景を。そんな中でエーベルが泣きだしそうにしていた光景を。今目の前に見ているように鮮やかに、思い出していた。
 あの日、ぼくのパパとエーベルのママは奇遇にも再会したんだ。
 互いに同じ年の子どもを連れて。
 エーベルのママが見ていたのはぼくじゃない。エーベルでもない。視線はもっと上の方、ぼくの、パパだった。
 あの日、帰りの馬車の中で、パパは泣いていた。
「新しいお友達」。
 エーベルの背中を押しながら、エーベルのママは、もう一度再会したんだ。結びつけたんだ。ぼくのパパと、自分とを。ぼくと、エーベルとを結びつけることによって。もう一度、結びつけた。拒まなかった。微笑んだ。
 時が流れて思いが変わっても、一度はちぎれた糸があっても、切れ端が残っていれば、もう一度結びつけることはできるんだ。何度でも、何回でも、結びつけることはできるんだ。
 パパ、愛してた。エーベルのママを。
 そして、エーベルのママも、パパを。
 愛、していた。
 たとえ結ばれなくても。
「ごめん、ステファニー」
 ぼくは妹の手から腕時計を取り返した。
「この時計、貸せない」
 ステファニーが不満げな声を上げるが無視。
 ユリウスが首を傾げる仕草で「で、どうする?」と問いかける。
「当然だ」、ぼくはエーベルを求めて走り出した。


4 under the tree
  第一学年  クラウス・ランデイ


「エーベルハルト!」
 煉瓦塀の上にエーベルは座っていた。
 明るく賑やかなところへは背を向けて、たったひとりで。
「エーベルハルト、ぼくずっと考えていた。きみを切り離せたら楽だろうな。って。だってきみはわがままで自分勝手だ、思ったことをずけずけ云う、優先されないとすぐ拗ねる、遠慮を知らない、人任せ。ついでに協調性もない。だからぼくはあの時きみの誘いを断って、スロファ達の味方した」
 ぼくは振り返らないエーベルの背中に向かって呟いた。
「でも、ずっと気になってた。何してても、勉強してても、他の誰としゃべってても、エーベルのことばっかり考え、」
 その時、鼻先に冷たい感触があった。
 手袋の上に雪の結晶が落ちる。仰ぎ見ると、黒い空から無数の結晶が舞い降りてきていた。魚になって深海の中を進んでいくみたい。プランクトンにも似た結晶の群れ。白い小さなかけらはぼくの肩にも、エーベルの肩にも降り積もるだろう。
「中に入ろう、エーベル。今夜は特に冷えるよ」
 息を整え、静かに囁く。
 返事はない。
 コートも羽織らない背中は闇に溶けて消えてしまいそう。ひとり黒猫の仮装をしたエーベルの後ろ姿は触れば雪のように溶けてなくなってしまいそう。
「エーベル。エーベルハルト・ローゼン」
 ぼくは、ぼくの声も雪と同じように、口を出たそばから地面に落ちてしまっているのではないかと案じた。伝わっていやしない。届きやしない。云うだけ無駄。ただ落ちてただ溶けてゆくんだから。
「エーベルハルト」
「もう、いや」
 聞き取れないほど微かなエーベルの声が聞こえる。届いてはいたのだな、と安心した。
「クラウスのことでこんなに考えなくちゃいけないの、もう、やだ。眠れない。いや。もう、いや。しんじゃうの」
 胸が苦しくなる。
 ぼくがエーベルのことで勉強も手に着かないとき、試験の問題も頭に入ってこないとき、夜一睡もできないとき、エーベルも同じだった。あの苦しみは自分だけじゃなかった。同じだった。おなじだったんだ。
「ぼくとクラウスは一緒にいちゃいけないんだって、分かってるよ。ぼくだって分かってるよ」
 エーベルの掠れた声が淡々と告げる。
「このままじゃいつか駄目になるよ。いつか喧嘩し尽くして、ほんとの心が解らなくなって、めちゃくちゃになるよ」
「エーベル」
「同級生になろうよ。ただの、同級生みたいに。クラウスはいつかぼくよりも気になる子を見つけるよ。その子のわがままをぼくのわがままより優先させるよ。ぼくが不機嫌になっても構わない。そしていつかその子と結婚するんだ」
「う。極端、だな」
「クラウスは人気者だからね、みんなのこと考えてあげられてすごいなっていつも思っている。ぼくは、自分のことしか考えられない」
 ぼくは驚かさないよう少しずつ歩み寄って、ついにエーベルの背に手の届くところまで来た。
「うん、そうだな。エーベルは、自分のことしか考えないよな。うん、いっつも、そうだ。……でも、すきだよ」
 両腕に力を込めたら、エーベルが震えたのが分かった。
「いやだよ。放して」
「駄目だ」
「いや、痛い。しんじゃう」
「そんな簡単に死なないからぼくの話を聞け、エーベル」
「……。うん、分かった」
 こんなに素直なエーベルは久しぶりだ。ご褒美として、抱き締める力を少しだけ緩める。ほっと息を吐く。
「エーベル。確かに、未来のことは分からないよ。ぼくはきみより気になる子を見つけるかも。その子のわがままをきみのわがままより優先させるかも。きみが不機嫌になって駄々をこねても、もう何も感じないかも知れない。修復しようとも思わなくなるかも知れない。そしていつかその子と結婚するのかも。でもね。どうしよう、すきなんだよ。今のぼくが今、今のきみを今、エーベルを好きだと思っていて、それは、いけないことなのか。すきだと感じることさえ、そしてそれを伝えることさえ、だめなこと? もしかしたらこうなるんじゃないかって不確定の未来を思い描いて、それを恐れて、今確かにわき出してくる、この自分の心も涸らしてしまう? そうしなきゃいけない? 今すぐ? 涸らしてしまって平気なの。ぼくは嫌だ」
「もう、わからない、もう、何も考えたくない。クラウスは、怖くないの」
「何が」
「幸せになるってことが」
 すっかり解放してやるとエーベルは体を返し煉瓦塀の上から下りてきた。
 向かい合ったぼくたちはしばらく見つめ合い、やがて感じる寒さをどうにかするためにお互いから抱き合った。そこには愛だの何だの、甘いものは何一つなかった。とても淡々とした一連の作業。雪が地面の色を覆っていく。何も分からないままもう赦されて、凍ってしまえたらいいのに。
「幸せになることがどうして怖い」
「後は終わるだけだから」
「終わりにも、終わりはきちんとくるよ。始まりが、始まったように」
 少し体を離して、エーベルがぼくを見上げた。
 その瞳に、それ以上もう奥はないんだと思える。
 ぼく、辿り着いた。
 ああ、今、辿り着いている。
 きみの、最奥に。
「繰り返すんだよ。終わりと始まり。始まりと終わりは。人の気持ちも。時代も。途切れながら、終わったように見せかけながら、まだまだ続くんだ。ぼくは、エーベル、きみと繰り返したい。莫迦みたいで、いつかめちゃくちゃになっても、何かもうわけわかんなくなっても。同じこと繰り返すだけになっても、繰り返したい。そしてそれを今から始めたい」
「じゃあ、これからも一緒にいてくれる」
「うん、今そういうような話をしていたと思う」
「ぼくがどんなわがまま云っても?」
「十分云ってきた」
「これからもっと云っても」
「ここまできたら大差ないよな」
「ぼくがクラウスの友達にきらわれても」
「クラウス本人がすきじゃないか。友達が何だ」
「じゃ、いつかぼくがクラウスをきらいになっても?」
「仲直りできる」
「仲直り、もうできないくらいになっても?」
「それくらいきみと喧嘩できりゃ満足さ」
 じゃ、とエーベルはようやく明るい声になって、
「ぼくの騎士になって」
「もう、なっている」
「ううん。従順なだけじゃなくて」
 エーベルの手がぼくのコートを引っ張る。
「証明して」
 全校生徒によって飾り付けされた樅の木の前。間もなく明るく点灯する時刻。その時にはここから見える全員が注目するだろう。 こいつ、駄々をこねたりしてわざと時間稼ぎしていたんだ。悪魔かよ。
「証明、って?」、鈍感なふりをしてぼくは今一度確認する。
「うん、ぼくはわがままで嫌われ者。でもそれは、クラウスにだけ伝われば良いって思うからだよ。だから、きみも証明して。きみが、退屈なだけの騎士じゃないってことを今、」
「静かに」
 半ばやけくそになり、自分の首に巻いていたマフラーをほどく。
 もう喋らないで、言葉では到底届かないところへ行くんだから。
 エーベルが幸せそうに微笑む。

「もう二度と離れないよ」。そんな約束をしたんじゃなくて。「いつか離れてもこれがぼくらの幸せな記憶だよ」。そんな約束を、したんだ。
 少し大人になった気がした。
 そんな錯覚を起こすほどまだお子様のぼく達は、ぱっと光り輝いた樅の木の前で、雪の冷たさ、冬の寒さにも感謝しながら、人目もはばからず、いつまでもいつまでも抱き締め合ったんだ。

「えへへ。クラウスは、甘かったよ」
「ん、何か云ったか」
「ううん。ひとりごと」
「やけに嬉しそうだな」
「スロファに浮気したこと、許すよ。ぼくだって、あのユリウス・シーザーと」
「え、何。聞こえない」
「だから、ひとりごとさ。ねえ、そんなことよりもう一回して。クラウス」
「へえ。わがままエーベルハルトとしたことが」
「何だよ」
「たった一回で、良いのか?」

 いつまでもいつまでも、抱き締め合ったんだ。


5 letter

 前略 親愛なる ぼくの 太陽

 あなたは誰からも愛される
 届かない楽園
 神のわざと地上に
 落としたもうた一つの林檎
 もしもあなたが禁断であっても
 口にすることはおろか
 ぼくには手を差し伸べることさえ
 赦されないものであったとしても
 やっぱりぼくは
 罪を犯したでしょう
 罰を恐れもせず
 おそれ多くも
 夜としてのぼくは

 だから
 どうか
 信じていて
 ぼくがあなたを忘れても
 あなたがぼくを忘れても
 二人が結ばれることがなかったとしても
 これがぼくらの幸せな記憶だったと
 どうか、どうか、信じていてください

 そうして
 ずっと
 信じていたら

 凍土にも芽吹く草木あるように
 この思いも
 いつか誰かの芽吹く思いに
 必ず、必ず、繋がりますから

        your knight, あなたの 騎士より



wrriten by C.L & E.R