雪はすっかり溶け、春の予感に生徒達はガウンを脱ぎ去り、白いブラウスに青色のリボンタイが揺れている姿が校内のあちらこちらで見かけられるようになった。
緑の祭典まで、残すところあとひと月。
定員を上回る応募のあった合唱団に関してだけれど、ローレンツは最前列のソプラノ、アロンとぼくは第二列のアルト、伴奏を立候補したテオは何故か指揮者に、伴奏席にはユリウスがおさまった。彼がテオより巧くピアノを弾けることは知らなかったけれど、彼なら何だってありうるだろう。
アロンとテオの二人が合唱の練習でいないので、ぼくは中休みも昼休みも図書館で過ごした。一人で過ごす時間そのものは嫌いではない。気にかかっているのは、ぼくが選抜さえ受けず音楽室を後にしてしまったこと。
そして、ユリウスの、こと。
あの時ぼくは自分が何を云ってしまったのかはっきり覚えていない。自分があんなに強い怒りを感じることなんて初めてで、そんな自分に自分自身驚いたものだから。
「せっかく、友達になれたと思ったのに。ああ、ぼくは莫迦で最悪だ」
大嫌いだ、なんて云ってしまった。それも、大勢の前で。あれから数日間、学校はぼくとユリウスの話で持ちきりだった。第四学年のタッソがわざわざ第二学年の教室までやって来てぼくに頭を下げたことも噂話に尾鰭を付ける要因となった。ぼくの名前が校内のあちこちであれだけ囁かれたのって、入学以来、初めてのことだ。きっとこれからも起こり得ないだろう。
図書室からじゃ向かいの校舎三階にある音楽室の中は見えない。休憩中なのか、時折誰かの青いリボンタイや髪が見えるたび、ぼくは身を縮めた。
けれど、ユリウスの伴奏を聴いているのは心地よかった。ソプラノ、アルト、テナー、バス、そしてユリウスの奏でるピアノ。ぼくは作業の合間に音楽室の窓を幾度となく見上げた。白いカーテンがはためいている。ユリウスの長い指が鍵盤を撫でている様子は美しいだろう。声合わせをする生徒達。天使の歌声。ぼくの声はその輪に混じらない。
遠くから練習を聴いているだけでこんなに切ないのに、本番で彼等が白い衣装を身に纏ってステージに立っているのを見たら自分の気持ちがどうなってしまうか、ぼくは不安だ。
「祭典の最終日、熱が出れば良いな、」
ぼくは今から計画的に病気になるには何をすべきか消極的な思案を始めた。夜風はまだ冷たいから、一晩中外にいたらどうだろう。だめ、テオに見つかってしまう。今度は見逃してもらえない。じゃあ、部屋の窓を一晩中開けておく? でもアロンまで風邪を引いちゃうよ。ええと、それじゃあ水風呂を浴びてしまおう。うう、考えただけで震えちゃうけど。
そこまで考えたところで、ぼくはふとユリウスの言葉を思い出した。
『それより、フィガロ。見て欲しいものがあるんだ。裏庭の楠の洞に隠してある』
楠は裏庭内ではなく、正面アーチと反対側のアーチから出て灌木の茂みをしばらく行ったところに立っていた。こんなに立派な楠があったなんて、ぼくはこの学校のことを何も知らなかったんだな。
静かな図書館のカウンタに一人腰を下ろし歌声を聴いているのが絶えられなくて、十分間だけと自分に云い聞かせ席を外してきた。どうかぼくの不在が原因で何事も起こりませんように。念じるよう繰り返しながら、幹の周りをぐるぐる廻って、ちょうど人目に付かないところに洞らしきものを見つけた。
「この中に何があるって云うんだ」
おそるおそる手を入れると、真っ先に触れたのはやわらかくて温かな毛糸玉みたいな感触?
さらに深く手を突っ込むと小さな爪に引っ掻かれた。
「痛っ、何だ?」
「猫。怪我しているんだ」
ぱっと振り返ると第一学年のエーベルハルトだった。窓越しや離れた場所から見かけることはあったけれど、近くで見ると確かにかわいい顔。これならつけ上がって仕方ないかも知れない。
「おい、きみ。合唱団の練習はどうした。確かきみもソプラノの第一列だったじゃないか」
「きみ、だって」
エーベルは洞から黒猫を抱え上げ、くすくすと笑った。
「知っているよ、有名人。エーベルハルト・ローゼン。今日は相棒と一緒じゃないんだな」
「有名人って、あなたに云われたくないな。時の人、フィガロ・ルーイッツ先輩」
「うっ。が、合唱の練習中じゃないのか?」
「合唱団は抜けたよ。だって、クラウスと話せる時間が減るんだもの」
「え? せっかく選ばれたのに」
「来年クラウスと一緒に出るから良いよ。二人並んでソプラノ最前列さ」
その根拠はどこから出てくるのだろう。
「根拠なんて。テオに約束してもらったの」
「え、テオに? それってどういう、」
ぼくの質問に答えずエーベルは黒猫とじゃれあうことに夢中になった。あるいは、そのふりをした。
「あ、あのさ。その猫、どこを怪我しているの」
「後ろの右脚。まだ雪が残っていた頃だよ。彼が拾ってきた」
「彼、」
「ユリウス」
ぼくは、体中の神経がピーンと鳴るのを聞いた気がした。
「彼、どこから見てもとってもハンサム。物腰も落ち着いて、良い香り。おとなだね。インテリのテオも素敵だけど、彼みたいな不良も魅力的。キスしてもらっちゃった」
「き、き、キ……? じょ、冗談云うなっ」
「だけど彼は誰の誘いも受けないよ。好きな人がいるのかも」
「だ、誰のことだろう」
「案外あなたのことなのかもね。ガロ。フィ、ガロ。どうしてユリウスと仲直りしないの? ぐずぐずしているとチャンスは行ってしまうよ」
「チャ、チャンスって何のだよ」
「あなたのこと妬む人もいるってこと。ねえ、どうしてまだ仲直りしないの?」
「し、しないのじゃなくて、できない、んだよ」
ぼくの返事を聞いたエーベルは聞こえよがしに溜息をついた。
「一度約束を破られたくらいであんな癇癪を起すなんて彼が可哀想。どうして謝るのを聞いてあげなかったの。どうして謝った時、嫌いだなんて云ったの」
ぼくは顔を上げた。目の前の下級生が、ユリウス側の事情を何か知っているような、それでいて擁護するような云い方をしたからだ。
エーベルの青い瞳は心なしか潤んで見えた。
どうしてきみが。
しかしぼくが切り出そうとするよりも早く、エーベルは話題をすり替えてしまう。
「そうそう、ユリウスの好きな人があなたかも知れないって云ったことだけどね、根拠があるよ」
「え。根拠」
ぼくの目の前にエーベルが黒猫を突き出してくる。お腹までまっくろだということが分かった。
「うん。こいつの名前ガロっていうんだもの。名付けたのはユリウス。チビで非力で、この黒ずくめなところだって、ガウンを羽織ったあなたにそっくり。ね。フィガロ先輩?」
「へっ。そ、そいつ、ガロっていうの」
その時後ろの茂みが音を立て、堪えきれなくなったような笑い声がした。呆然とするぼくの手に黒い小さなかたまりを押し付けたエーベルはくるりと踵を返し、自分もまた腹を抱えて笑い出した。
「へっ。だってさ、ねえ聞いた、クラウス!」
「あっははは! 最高だな、エーベル。彼、本当にぼくらより年上なのか。身長もぼくらと変わらないじゃないか、」
「なっ、せ、背は今から伸びるんだっ。ほっといてくれよっ」
からかわれていたことに気づいてぼくが顔を赤くした頃、悪戯好きの下級生二人は既にアーチの向こうへ遠ざかっていた。
腕に押しつけられた黒猫がぼくに甘えた。
「フィガロ? 誰かと一緒にいるの?」
その時、エーベル達が駆け出したのとは別の方角から声。
「ロ、ローレンツ、きみまで! 合唱の練習はどうしたの」
驚いているぼくの腕から抜け出した黒猫がローレンツの足に擦り寄っていく。ずいぶん懐いている。猫にもローレンツの優しさって分かるんだろうな。ぼくが猫なら、ローレンツみたいな優しい子に飼われたい。うん。さっきの悪戯好きな下級生二人じゃなくて。うん、絶対。
「うん、練習中なんだけど途中で気分が悪くなっちゃって医務室で休ませてもらっていたんだ。だいぶ良くなかったから、少し、歩いてみたくなって。ぼくね、ここ、たまに来るんだよ。ほら、この大きな楠のそばにいると、なんか落ち着くでしょ。あんまり人も来ないし」
「今日はよく来ているほうみたいだね。さっきはエーベルハルトとクラウスがいたんだ。だけど、ローレンツ、本当に大丈夫? まだ寝てた方が良いんじゃない。顔色が優れないよ」
「平気さ。ありがとう。こんなぼくが合唱団に選ばれたこと、今でも夢みたい」
黒猫を抱えあげたローレンツはぼくの前を通り過ぎ噴水へ向かった。身長はぼくよりやや高い。少し見上げた顔は春の陽を受け、マリア様のように優しかった。睫毛なんか、その影で瞳の半分を隠すくらい長くって。体の弱い人って時々、生命の大切さを知り尽くしているような表情を見せる。今はもういないけれどぼくのおばあちゃんもそうだった。美少年のローレンツとぼくのしわしわのおばあちゃんを一緒にするなんておかしなことだけれど。
「一週間前に比べるとガロも元気になったよ。あ、こいつガロっていうんだけどね」
ぼくたちが噴水の縁に腰を掛けると、爪先が少し浮く。膝から先をぶらぶらさせながらぼくはローレンツの言葉に耳を傾けた。
「あの時もぼくは医務室のベッドからこの楠の辺りを眺めていたんだ。ほら、見えるんだよ。ちらっとだけね。最初は数名の上級生が集まって、何かしていたんだ。タッソたちだよ。こいつ、黒いから虐められていたんだね。黒くても白くても猫は猫なのに。その時は何が行われているのか分からなくて、不思議に思いながらじっと見ていたんだ。寝てばかりいると退屈でさ。するとね、木の上から、そう、木の上からだよ。ユリウスがふわりと下りてきてね、しばらく睨み合っているようだったから喧嘩になるんじゃないかと案じたんだけれど、ユリウスがその上級生に一言二言語りかけてね、それだけで上級生は大人しくなっちゃった。幸運にもこいつは助かった」
ローレンツの指に顎をかいてもらって、黒猫のガロは気持ちよさそうに目を細めた。
「ユリウス、きっと木の上で煙草を吸っていたんだ。本当に高い場所が好きなんだな、とりわけ、燃えやすい物の近くで煙草を吸うことが好きなんだ。まったく」
ぼくがぶつぶつ云っているとローレンツがくすっと笑った。
その横顔を見ただけでどきっとしてしまって、たちまち顔が熱くなる。
「フィガロ、ぼくはきみが羨ましいな」
「え、な、何が?」
ローレンツのような少年に羨まれるようなものなど何も思い当たらないぼくは罪悪さえ感じながら訊き返した。
「ぼくなんか、きみに比べれば本当にだめだよ。人とうまく話せないし勉強も運動もできないしうじうじ悩むし、それに、それに、ほら、短所しか出てこない!」
「それでもきみは幸せなんだよ」
悪戯っぽく笑ったローレンツは突然ぼくの鼻にキスした。
「えっ?」
左右の頬にも、一度ずつ。
(ぼく、テオに、殺される!)。
「キスは初めて?」
「は、初めてじゃないよ。その、ママとか、他にも、えっと、ええっと」
そう。珍しいことじゃない。朝起きてキス。夜寝る前にキス。ありがとうってキス。ばいばいってキス。キスってもっと当たり前のことなんだと思っていた。こんなにどきどきするのは相手がローレンツだからかな。じゃあ、テオならどうだろう、エーベルなら、クラウスなら、アロンなら、タッソなら、うっ。この辺りからちょっと気分悪くなってきた。
でも。
でも、ユリウスなら?
ああ、ユリウスならどんなに!
「ねえ、フィガロ。きみの周りは優しい人ばかりだよ」
「げほっ」、ぼくは無意識の内に胸元のリボンタイをぎゅっと引っ張っていた。道理で息苦しいわけだ。
「ぼくたちはね、どんなに努力して不幸になろうとしても、だよ。とっても幸せなんだ」
ローレンツはもうぼくを見ていなかった。
そういう横顔を、以前どこかで見たな。
はためく白いカーテン。
天使の折れた片翼。
鈍色の空から光が射して。
振り返った迷子の目。
さみしそうな天使。
誰とはぐれたの。
どうして、いつから迷子なの。
そして、いつまで、迷子なの?
「ここは暗闇だと云い張っている時にさえ、ぼくたちは光の中にいて、そこから逃げ出すことはできない。どうしたって幸せでしかないんだ。それ以外の生き物へはなれない」
「それは、きみの詩?」
「かも知れないね。つまり、ぼくがそう感じたことがあるんだ。とても強く。この学校に入る前のことだけどね」
「ふうん」
「キスの力ってすごいね。ぼくの命を救った」
「えっ、命を?」
「うん、命さ」
「……へ、へえ」
真に受けて良い内容かはかりかねたぼくは無表情で相槌を打った。まさかローレンツはそんなことしないと思うけど、ついさっきエーベルたちに笑われたばっかりだからね。
「ね、フィガロ。ユリウスは、生きているよ」
「生きて、」
「そう。ユリウスは生きている。ぼくなら、自分の好きな人が生きていたら、もうそれだけですごい奇跡だって思うけどな」
ふむ奇跡、と頷きかけながらぼくは思わず立ち上がった。
「えっ、ぼ、ぼくがユリウスのことを好きだって、ローレンツ? そんな、ばかな!」
反論しながらぼくは、ぼくの胸が柔らかなものでいっぱいに満たされていくのを無視できなかった。誰かが解っていた。ぼくがぼく自身を騙している時にさえ、ぼくの気持ちに気づいて、もう一度掘り出してくれた。暗闇に慣れてしまわないように。ここは光の中だよ、って。ここは、光の中。春の中。あまいにおい。水が溢れる。心は蝶。青色のリボンはしがらみを擦り抜け、もうどこへだって行ける。花を見つけて羽を休め、飲みたい蜜を味わえば良い。ここは、エデンだ。ううん、ここも、エデンだ。ぼくはエデンから追放された少年。他人だけでなく自分の本心さえ欺き、愛しい者を邪険に扱い、そのまま生きていくしかないんだとさえ思っていた。ここはエデンより遠い果て。そう思っていた。だけど、そうじゃなかった。
ここも、エデン。
ここも、エデンだったんだ。
「テオは補欠を捜しているよ。フィガロ、こんなところで時間を潰している場合じゃないんじゃないかな」
そこでぼくはふと、さっきエーベルが話していたことの意味が分かった。来年の参加を約束するかわりに、ぼくを連れ戻そうと。
……そ、それって権力濫用なんじゃないかな。テオ。ぶるぶる。
「で、でも、ぼく」
「だいじょうぶ、フィガロ。きみは天使なんだから。解る? 天使なんだよ。それにさっきぼくが唇にだけはキスしなかったのは何のためだと思う」
「テオに殺されないため」
「え、テオ。テオが何だって? ノン!」
心底驚いたふうに目を見開いたローレンツは口元に手を遣った。
「ああ、これじゃユリウスも大変だね」
「な、なんでまたユリウスが出てくるのさ」
「もう。本当に仕方がないね。緑の祭典は約ひと月後だ。きみは今から楽譜を読むわけだから、ユリウスと特別レッスンをしなくっちゃならないね」
「特別レッスン! うう、かなり気まずいな」
驚くぼくを尻目に勝手に話を進めながら、ローレンツはぼくの体をくるりと返すと音楽室へ行くよう命令した。
「今すぐ行きな」
「そ、そんな言葉遣い。きみさ、天使のはずだろ!」
「天使?」
尻込みするぼくに向かって、黒猫までもが毛を逆立てて威嚇してくる。な、何だ、こいつは何様なんだ、ガロのくせに。
渋々歩き出したぼくの背中へ向かってローレンツが云いかける。
「でもね、ぼくはテオのことだって大好きなんだよ!」
「ローレンツ、」
(それは、テオも分かってくれているはずだよ)。
後押しされるように、ぼくは再び歩き出した。
ユリウスのピアノが聞こえてくるところまでくると今にも平穏な図書館へ引き返したくなったが、踵を返したところで例の黒猫が毛を逆立てていたので慌てて前へ向き直った。
まったく、こいつはほんとに何様のつもりの猫なんだ。
ガロ!