ローレンツに後押ししてもらったぼくだけど、あの日ぼくは結局音楽室へ行けなかった。
(ほんと、だめすぎるフィガロだな……)。
弱気なぼくを責めるように尻尾を立てていた黒猫のガロに謝りながらも、ぼくは、あの日から一度も足を踏み入れていない音楽室という場所でユリウスと話をする気にはなれなかったんだ。それに、やっぱり最初は、指揮者という立場上ほとんど合唱団リーダーのテオに話をしておかないとね。
月曜の朝、いつものように見回りを終えてマーカス寮を最後に出るテオをぼくは待ち伏せした。
「おはよう、テオ!」
「そうかな、さっきも会ったけど」
驚かせるつもりでふいを狙ったのだけど「凍りついた人形」であるテオ・ベッセルは動じない。ぼくは恥じつつ、制服に付いた葉っぱを一枚ずつ摘み落とすと、早速合唱団の話を切りだした。
「そ、それでね、ぼくがエーベルの代わりにということなんだけど」
「ああ、良いよ」
「えっ」
「だから。エーベルの代わりを、きみがやってくれるんだろ。違うのか、」
テオには悪気は微塵もないのだろうけど、そういう目で睨み返されるとぼくはやっぱりきみが怖い。宿題を忘れた生徒に罰を与える時の教師のような目で、ううん、それ以上に厳しい目つきでぼくを見下ろすんだから。ミントグリーンの瞳は澄んでいてとても綺麗なんだけれど、今ではその色すらテオをいつも以上に酷薄そうに見える。実際そうじゃないってことはぼくもよく知っているんだけれど、そう見えるのだから仕方がない。そう見えてしまうってこともまた事実なのだから!
「そ、そんな顔しないでよ、テオ」
寮から教室棟までは渡り廊下を通れば数分もかからないけれど、今日は良い天気だったので、ぼくたちはやや遠回りになってしまうけれど庭の小径を歩いた。一時限目はポール先生だから時間通りには始まらないだろう。仮に遅刻してもテオと一緒なら疑われることもあるまい。教師達のテオに寄せる信頼はぼくの比じゃないのだ、当然だけど。
腰の高さまで積み上げられた煉瓦塀の向こうにはぼくたちの街が見下ろせる。赤い屋根、くねくね曲がる小径、パン屋の煙突からのぼる煙、その向こうには緑の山々と、どこまでも青い空。たなびく白い雲が悠々とその空を流れていて、ぼくはまたしてもユリウスを思い出してしまった。昨日の夜、あれだけ我慢したことの反動かも知れない。ユリウスのことを考えちゃいけない、って。もうこれ以上は考えちゃだめだ、って。ああ、でも。あの白い雲、まるで煙草の煙。図書館の三階で初めて彼と言葉を交わしたあの日。
ぼくが初めてユリウスを見かけたのは、秋の入学式。
パパ、ママ、級友からもチビだチビだと云われ続けたぼくからしてみれば、ユリウスの体型って本当に夢のようなものだったんだ。祝辞の言葉に退屈していたのか、さも眠たそうに目をしばたたきながら前髪を掻き上げる仕草もよく決まっていて、彼のことを気にしてちらちら盗み見ている生徒は少なくなかった。何せ彼、隣の生徒に何事か耳打ちされれば不良の割に案外おっとりと優しく笑うものだから。挨拶すればきっと親しげに微笑んでくれるんだよ。でもね、微笑まれるとそれはそれできっと辛い。ぼくなんかはそう考えてしまう。だから、見ているだけだった。
第一学年の頃ぼくは、今だって決して社交的とは云えない性格だけれど、今以上に引っ込み思案だった。一日の間で言葉を交わすのが同室のアロン一人だけってことも珍しくなかった。本があるから暇の潰し方に悩んだことはないけれど、人との付き合い方にはぼくなりにいつも悩んでいた。
ぼくがこのセント・ルーズベリー音楽宮に来たのだって、パパが、ぼくの内向的な性格を少しでも外向的に変えたいって願ったからなんだ。寄宿寮なんて話を初めて聞いた時ぼくはそれこそ家出したいほど恐怖したけれど、結局パパの云う通りに入学してしまった。ぼくはパパを相手にさえ自分の意見を述べることができない。こうしたい、って思っていることがあっても、ちゃんと相手に伝えることができない。そうしている間に、どんどん自分の意見が小さくなってって、じゃあもういいか、ってなっちゃうんだ。たぶんよくないのにね、ちっとも。
それでもぼくがセント・ルーズベリー音楽宮に入学を決意するのに自分なりの慰めを作らなかったわけじゃない。それがこの学校の図書館。美術館みたいな凝った建築様式で、蔵書数も国内有数なんだ。もちろんこの街のどの図書館よりも大きい。高い窓を持つ壁、宝箱みたいな書庫の数々。ここには無限に広がる世界がある。初等の頃から、級友と走り回るよりも本を膝に抱えている方を好んだぼくは、入学すればこの図書館をいつでも利用できるんだ、という慰め一つを自身に云い聞かせ、パパの期待を裏切ることのないように、このルーズベリーに入学した。そして、第二学年に進級した頃、念願の学年図書委員長になった。
ところでこの学校の委員会は一つの委員会に一つの委員長を設けるのではなくって、まずは学年ごとに学年委員長を決め、その中から(ほとんどの場合最上級生が担うのだけれど)委員長を決める。これは寮の監督生を決める際にも用いられる方法。だから、入学してまだ二年目、ぼくと同学年のテオが監督生を努められるというのもそういう仕組みがあるからなんだ。テオの上に、監督生全部をまとめる生徒がさらにいるということ。もっともテオなら卒業まで監督生だろう。
ちなみにこの学校、寮は三つある。ぼくやアロンやテオ、ローレンツのいるのはその一つ、マーカス寮。他二つはそれぞれジューダス寮(エーベルやクラウスはここに在籍)、ペトロス寮(ユリウス、タッソが在籍)っていう名前が付けられている。どの寮に入るかは入学前に決定されている。ぼくがアロンと同室になれたのって本当に偶然の幸運なんだ。アロンっていい加減なところがあるけど、そのいい加減さがぼくにとってはありがたいところでもある。委員の仕事をちゃんとしないとかまあ多少腹の立つこともあるけれど、いつまでも一緒の部屋だと良いなって思っている。最初の一年間は本当、アロンぐらいさ。話しかけることができる相手って。ユリウスなんてそれこそ雲の上。寮こそ違えど同級なんだから話しかける機会なんかいくらでもあるのに、あの頃ぼくにそんな勇気なかった。ユリウスに限ったことじゃない。初対面の相手に自分から話しかけるなんて考えられない。だからこそぼくは冗談めかしてユリウスの肩を抱き寄せる他の生徒を羨んだし、妬んだし、軽口叩き合える関係を夢に見たりした。でも夢は結局夢でしかなくて、あの日、図書館の窓枠にてたったひとりで遠くを見ていたユリウスに声を掛けるまでは、叶うはずもない願いそのものだったんだ。
ユリウスはぼくの名前を覚えていてくれた。ぼくが図書委員長だ、ってことも。どもっていることを笑ったりもしないで、注意されたことに特別腹を立てるようなこともしなかった。それどころか、これはぼくの思い過ごしかも知れないのだけど、ユリウスは、ぼくに声を掛けられるのをずっと待っていたように見えたんだ。自分に声をかけてくれる、誰かを。ずっと。そうじゃなきゃ彼はいつまでも遠い場所を眺めて、思いは果てしなくなりすぎて、きっとこちらへ戻ってこられなかった。窓枠の向こうと、その内側。つながっているのにつながっていない世界。白いカーテンは折れた翼みたいにユリウスの背後ではためいて、口から吐く煙は言葉にできない何かをぼくに伝えようとしていた。振り返った眼差しはきっと誰も知らない、だけど本当のユリウス。そういえば、彼が「魔女の息子」「死神の息子」なんて呼ばれるようになったのって、いつからだったっけ。きみは本当に魔女なの。きみは本当に死神なの。きみは本当は誰なの。きみは何故きみなの。きみは、本当に、きみなの。
「ああ、もう。どうしてこんなに考えなくちゃいけないんだ」
誰かを気にするということは、目や耳に入る物すべてが、その人につながってしまうということなのかな。
星を見てもユリウス。花を見てもユリウス。
ぼくは自他共に認める本の虫だけど恋愛小説をほとんど読まない、というより意識的に避けてきた。だから、そのあたりのことがよく分からない。背表紙をなぞってみて読みたくない本を避けるように、避けきれるものだと思っていた。だって、自分がしたくない恋ならしなければ良いんだ。それなのに、ユリウスのことを考えないようにするのって至難の業だ。
本と恋って、世界中に星の数ほど溢れているって点では似ていて、実はぜんぜん違うんだな。
ぼくは誰かとこういった話がしたい。こういう気持ちって誰にでもあるものなのか、ぼくのはちょっといびつなのか。寝ても覚めても胸が苦しいのはどうしたら良いの。彼のことを考える度に息が辛くなるのって、本当は、彼のことを嫌いだから? 好きならどうして幸福になれないんだろう。考えただけで幸せな気持ちになれるはずじゃないのかな。答えなんてどこにもない。ぼくは本当に何一つ知らない。誰か、相談相手が欲しいけれど、テオが相手では、って、いや、ぼくは今ユリウスのことじゃなくて合唱団の話をしているんだ。断じて、ユリウスと仲直りしたいってことをテオに打ち明けて協力してもらうようなつもりは! ぼ、ぼくは!
「フィガロ。おれの話を聞いているのか」
テオが怪訝そうな顔で振り返った。
「ご、ごめん、テオ! ぼうっとしちゃって。ええと、で、何だっけ」
テオは無言になると顎をやや引き、絶対零度級ミントグリーンでぼくを見下ろした。
「あは、は」
うう、誤魔化しきれなかったようだ。
「まったく。だから、きみが合唱団に入ることをおれが承諾する理由を説明していたんだよ」
「理由、」
ぼくが横に並ぶのを待ってテオは再び歩き出した。今度はぼくのペースに合わせてくれる。
「フィガロ、きみ自身だよ。近頃のきみは以前に増して暗い。暗すぎる。緑の祭典を控え周囲が盛り上がっているために相対的に彩度が落ちている分を差し引いてもどうも目に余るんだ。そこに存在しているのかいないのかはっきりしてくれ。まったくきみときちゃ、死にかけみたいな目、そうでなきゃ自分の殻に完全に閉じこもっていながらなお下界への興味を完全に棄てきれない中途半端な暗鬱の隠居みたいな目線を彷徨わせているんだから不気味で仕方がないったらありはしないよ」
「うう、テオ、そんな」
「早く、」
「え?」
「早くアイツと仲直りしたらどうなんだ」
そう云ったテオの横顔は苦々しく歪んでいる。
テオ・ベッセルとユリウス・シーザー。「凍りついた人形」に「死神の息子」。まったく対極的な二人。みんなが思っているほどテオが堅くはないのだとしても、ユリウスと親しくできるほどに軟派ではないだろう。
「アイツって、ユリウス?」
「ああ。きみは他にも仲違いしているのか」
「う、ううん。ユリウスとだけ」
「そうだろう、長引けばあちらも伴奏に支障をきたす。おれぐらいしか気づかない程度のミスでも積み重なれば旋律を乱すんだ。それにきみはアイツを好きなんだろ」
最後の言葉をテオは吐き捨てるように云う。一瞬ぼくは愚かにも「もしかしてテオはぼくのことが好きなの?」なんて思ってしまったけれど、それはありえない。テオが大切なのはローレンツ、病弱で健気で、誰にでも平等に優しいあの子だよ。あんな美少年が幼なじみだったら、ぼくならもう他の誰のことも美少年なんて呼べなくなるだろうな。
「って。ぼ、ぼくが、ユリウスを好きだと?」
「自覚がないなら教えてやるがきみほど分かり易い人間は捜して見つかるもんじゃない」
嫌味じゃない、とテオは付け足した。
「焦れったいんだ。フィガロ、きみごときが自分の内面をひた隠しにしようなんて考えるんじゃない」
「い、嫌味じゃないことは分かったけれど、テオ、きみの云い方ってやっぱり棘があるよ」
「直す努力はしているさ」
とても本当とは思えないけれど、これ以上何か云えばぼくの心はテオの毒舌で蜂の巣にされてしまう。
「フィガロ。おれは、きみみたいなやつが羨ましい」
思わず歩みを止めてしまった。
この言葉、前にもどこかで。そうだ、ローレンツだ。彼もぼくを羨ましいと云った。ぼくのことを幸せだと云った。
「ど、どうしちゃったの、テオ。ぼくの方こそテオ・ベッセルになりたいぐらいだよ。成績優秀で監督生でさ、ローレンツみたいな優しい幼馴染がいて、先生からも生徒からも一目置かれてさ、同級生にできてテオにできないことなんて何もないじゃないか。できることが何もないぼくとはまさに正反対、うん、正反対だよねっ」
テオが少しだけ笑った気がしたけれど、横に並んでいなかったために見損ねてしまった。
二人の間を羽化した蝶が横切る。
と、その時突風が吹き、舞い上がる埃に目をつむった瞬間、ぼくは見失う。
テオはこちらに背を向けていた。
柔らかな陽ざしに色彩の淡くぼやけた庭園の中心、テオの姿は溶けきれない。そよぐプラチナブロンドが少し、その輪郭を分かりづらくさせているくらいで。
「フィガロ。きみ、こども。単純なんだ。すぐ赤くなったりどもったりするのだって、そうさ。ちょっとの間違いを恥ずかしく思ったり、また失敗しちゃったなって顔をしたり、どきどきしたらうまくしゃべれない、誰かに笑われることが怖くてしょっちゅうびくびくしてる。ま、どちらにせよ結局笑われるんだけどな。嫌味じゃないから誤解しないでくれ」
「そ、それ嫌味だよね、どう考えたって。うう、」
一足先に教室棟の入り口に先に立ったテオは、その日陰から、いまだ日向に立つぼくを振り返ると自分の胸元のリボンタイに指を掛け引き抜いた。
「さて、問題」
「も、問題?」
「おれがこの格好で教室に入ったらどうなると思う?」
「どう、って。リボンタイをはずしただけでしょ」
「そうさ。だけど教師は青ざめてこう訊ねるのさ。テオ・ベッセル、今朝は一体全体どうしたんだ? ってね」
ぼくが何も答えられないでいるのを見、テオは苦笑した。
「すまない、フィガロ。愚痴をこぼすつもりは」
「あ、謝ることないよ。ぼ、ぼくはべつに、」
「でも、すまない」、リボンタイを正しく結び直し、テオはぼくが日陰に入るのを待って云った。
「恥ずかしいものは恥ずかしい。怖いものは怖い。それで良いんだよ。きみの感情はおれの懐中時計みたいに正常に動いている」
「テオ……」
「何でも、ないんだ」
テオはぼくのリボンタイのずれまで丁寧に整えてくれてから、廊下を歩きだした。ぼくはしばらく黙ってその後を付いて行っていたけれど、途中で我慢できなくなって云ったんだ。
「ぶつけてよ!」
「……え?」、ぼくの大声にテオは振り返った。
追いかけて追いついて、低温の両手を取る。あまりに勢いよく握ったためか、後ずさったテオの眼鏡が少しずり下がった。ぼくは構わず続ける。
「テオが怖いものって、何。テオが恥ずかしいことって、どんなこと。一番の失敗を教えて。テオは何をされたら赤くなる? 凍りついた人形、きみが話すきみのこと、ぼくにたくさん聞かせてよ。ぼくが訊くよ、だから何でもないなんて云わないで。ほんとに何でもないならわざわざ何でもないって云わないで。テオ・ベッセル、きみは凍りついた人形なんかじゃないよ、ちゃんと歩けて温かいんだ、だったら、生きてる人間だろ!」
一気に云い終えて肩で息をしているぼくを、テオは何度もまばたきしながら見ていた。
「フィガロ、きみは時々、その、何て云うか、とんでもないな。いつもが頼りないだけに」
と、ぼくの手を下ろさせ、眼鏡の中央を中指で押し上げる。
「え、何」
「喩えだよ。隠れた勇者、きみの中には眩しい光源が眠っている」
そう云ってテオは、少なくともぼくに対し今まで一度も見せたことのない顔を見せた。
思わず、見とれた。
「え? ゆ、勇者? こ、光源?」
「喩えだよ」
それきりテオは表情を引き締め、ぼくの追究を煩わしそうにはらい、正面の階段を昇り始めた。だけどそれは教室へ続くものじゃなかった。ぼくは戸惑いながらテオの後へ続く。
「おれはユリウス・シーザーが憎いんだよ」
顔を上げると膝裏に視線がぶつかる。
踊り場の丸い窓から朝の光が差し込んでぼくは目を細める。
優等生のその場所の白さを知らなかったように、ぼくは、彼が誰にも見せない黒さについても何も知らない。ぞっとした。テオのユリウスに対する嫌悪の原因が、ぼくが勝手に想像していたものよりずっと根強く深いものだと勘付いたからだ。
強く握った手すりが冷たい。
「ユリウスのことが? 何故?」
自分の声は微かに震えていた。
「云えない」
テオはうっかりぼくに零してしまったことを後悔したように、一段飛ばしで階段を上った。
少しずつ遠くなる。
とおく、とおく。
「云えないの? どうして? ねえ、テオったら」
ぼくは縋った。振り返ったテオはぼくを見下ろしてしばらく考えた後で、首を横に振った。
「ユリウスをこんなにも憎んでいる自分を、一番に憎んでいるから。いつまでも彼を許せない自分を、醜いと、感じるから」
プラチナブロンドが目の上で揺れて瞳を隠してしまう。ぼくにはその瞳が今どんなふうに光っているのか見ることができない。ぼくが、今はまだテオの本心に触れることができないみたいに。
「だから、云えない」
「……テオ」
「云えないんだ」
ぼくはテオを引き寄せた。だけどテオはよろめかなかった。自分の足でしっかり踏ん張って、ぼくの力ではどうにも動かすことができなかった。
「さあ、フィガロ。だけど合唱団に関しては話は別だ。きみはユリウスとレッスンに入る前におれと事前レッスンだ。ついて来いよ、」
「えっ、え、今から? 授業はどうするの」
監督生、という言葉をぼくは慌てて飲み込んだ。
テオはすたすた階段を上がってゆく。ぼくは引きずられるように付いて行った。
「たまには怠惰なテオ・ベッセルになったっていいだろ」
さっきと一変したテオは悪戯っぽく口端を上げ、辿り着いた音楽室の扉を開けた。そういう年相応の表情にさえ何の不自然もないことを知って、ぼくは、本当のテオとぼくの知っているテオはまだまだ遠いのだろうな、と思った。きっとどれも本当のテオなのだろうけど。そしてぼくがテオのすべてを知ることはずっとできないのかも知れないけれど。
ぼくはこの学校に来て、哀しい天使を知った。彼等は互いに相容れない。片方は片方を憎んでいるという。もう片方はいつからか死神と呼ばれている。二人はどんな結び目で結ばれていて、ぼくはどこまで立ち入ることを許されているの。
朝の音楽室は涼しい。
世界中から哀しみを消すことが不可能でも、少なくともここには哀しみなんて存在していない。
「きみに弾こうか」
椅子に浅く腰掛けたテオは、膝を支点にして爪先の位置を決めた。無駄のない仕草の一つ一つが正確。ピアノの端に眼鏡を置くと、天を仰ぐ。雨水を浴びる若葉のような眩さがそこにはある。
そのまま数十秒が経った頃、テオはようやく鍵盤の上に柔らかく手をのせた。
Chopin / Nocturne Op. 27 no. 2
冷えたぼくの頬を大粒の涙が、ぽろろん、とこぼれた。