ANSWER


1 現在

 葉擦れの音。
 机の時計で午前三時過ぎを確認する。広げた教科書類を棚に戻し、ノートに残された数式には適当な答えを記入した。
 外は春先の嵐。
 突然、室内に風が吹き込み、窓から物音の犯人が滑り込んできた。
「ただいま」
「ああ。おかえり」
 帰寮者の前にホットココアを差し出す。気が利くじゃないか、と彼は一寸迷い、コートの袖口で覆った両手で受け取った。冷気にさらされた指先にはまだ温度が高かったか。
「こんな時間まで明かりをつけて勉強しているなんてお前くらいだよ、タッソ。部屋を見誤らない」
 さっきまで俺が向かっていた机に目線を流した従兄ユリウス・シーザーは淹れたばかりのココアを口に含んだ。猫舌の彼は案の定、熱い、という感想とともにサイドテーブルに置く。冷ましておくべきだった。
 白いシャツの袖口を片方ずつ緩め、首元までとめていた釦を三つほどはずす。ユリウスが鍵のネックレスをはずすとそこには緑色の石だけが残る。
「まだそんなもの大事にしてな」
 銀の鍵と一緒に持ち歩かれていることへの皮肉も込めたが、ユリウスは微かに笑っただけだった。

 氏は神経質な人だ。
 毎週の決まった曜日、邸宅にユリウスを呼び付け、あの部屋で時間の許す限り「仕事」の「手伝い」をさせる。たまに気まぐれを起こし、定めた曜日以外で呼び付けることもある。拒む権利はこちらにない。先日はその突然の「呼び付け」のせいでチビのフィガロとの約束が直前になって守れなくなってしまった。伝言を頼まれた俺は裏庭にて初めてチビの姿を見て正直脱力したものだ。最近になってユリウスがやけに嬉しそうに話していたから一体どんな男かと思って行ってみれば。安堵の気持ちから揶揄ったら真に受けやがって、あの事件だ。報復のつもりか合唱団選抜の会場でこちらに恥をかかせやがった。
 閑話休題、氏の仕事とは白百合の栽培だ。氏の家には「白の庭園」と呼ばれる広場があり、そこでは新種の百合をつくるために昼夜交配を繰り返している。
 一部から百合御殿とも呼ばれる氏の邸宅の所在地は、北のはずれ。人が犬のようにいなくなる場所だ。俺とユリウスがここルーズベリーに入学するまで暮らしていた地域。
 最果ての異名を持つ。
 名は、グラン・タウン。


2 過去

 氏は今から数年前、俺とユリウスが生活を送っていたグラン・タウンへ突然にやってくると地域の一角を買占め、邸宅建設を開始した。
 強奪することにもされることに慣れているグラン・タウン住民は、富める者は少数派であるにしてもその力が自分達より圧倒的であることを、それまでの歴史から、また日常の生活からさえ敏感に感じ取っていた。
 御殿が完成すると氏は次に庭園を造らせた。
 グラン・タウンに生活するほとんどの子供がそうであったように教育を受けていなかったため暇を持て余していた俺とユリウスは、塀の外側に具合の良い木を発見すると毎日のように通い庭園が完成に近付く様を毎日観察した。
 庭園造りはまず土地を平らにすることから始まった。雪の中で解体されていくいくつものあばら屋を見ていると、自分達の住みついていた建物は雪の結晶などよりずっと脆かったことが分かった。
 すべて取り除かれ地面が平らになると職人達がやって来て骨組みを作った。
 日に日に形を成していく家屋を見下ろしつつ、あの部屋は日当たりが良い、あの部屋の壁紙は悪趣味な花柄だ、などと会話した。口にしたところで実現するわけでもないのに、自分の部屋をどこにするかで引っ掻き合いの争いにもなり、日が暮れると汚水が流れゆく川面を眺めながら橋の下に身を寄せ合って眠った。
 そうだ、あの時のユリウスはまだ寝返りが打てなかった。
 背中の傷が癒えるには月日を要した。どれだけ歳月を経ても完治することはない。尖った肩甲骨から始まる無残な白い傷。幼い頃に毟られた赤い跡。
 そうだ、彼、きっと鳥だったのだ。

 数か月後、庭園は完成した。
 人々が横一列に並んで球根を植えていたが彼等の身なりは一様に貧しく、タウンで雇われた連中だと知れた。
 俺とユリウスは木の上でパンを齧りながら作業を見つめた。
「あ、タッソ」
「何だ」
「見ろ」
 毎日よじのぼっていた梢の先に、淡い膨らみがあった。季節は春になっていたのだ。
 俺は蕾の一つを千切って手渡したが、何が原因かユリウスはひどく拗ねてしまい、その機嫌はなかなかなおらなかった。


3 現在

「綿菓子に怒られた」
「ああ、第一学年のローレンツ・シュルーズか。タッソ、何を怒られたんだ」
「もうちょっと右を歩いてください、だと」
「右、」
「気づかず花壇を横切っていた」
 俺の言葉にユリウスが小さく吹いた、「お前、そういう、無頓着なところ、変らないよな」
 すぐに笑い止むだろうと放っておいたがいつまでもクツクツと聞こえてくるのでいっそ心配になって顔を上げ、
「そんなにおかしいか、」
 ぎょっとした。
 服を脱いだユリウスが、明日の俺が着て行くのに準備しておいた新しいシャツをさっさと羽織ってしまうところだった。
「お前を怖がらない下級生もいるって、うん、安心した」
「あ、安心したら笑いが止まらなくなるような体質だったか」
 そう云う俺の声は情けなく震えている。
 何てことはない。そう何てことはないのだ。
 入浴はいつものように氏の邸宅で済ませてきたのだろう。風と共にこの部屋に入ってきた時、同じ石鹸の香りがしたから。
 俺が、ただ少し、どうかしている。
 向かいのベッドに腰を下ろし、釦を留めていくユリウスの表情は幼い。
 あんたこそ、変わっていない。
「よし。良いサイズだ」
 持ち主が許可していないのにそのまま寝巻にするつもりなのだ。以前も同じようにシャツを取られたことがあって、あの翌日は朝から大変だった。まず、寝坊したユリウスがぐずってなかなか脱ごうとしなかったのでこちらが脱がせなければならなかったし、次に、ユリウスの匂いが一日中鼻腔をくすぐった。もう二度と貸したりするものかとあの時誓ったものだが、今回もやはり寝巻を準備しておかなかった自分が悪いので結局貸すことに。
「……怖がらせているつもりはないんだぜ。あいつらが勝手に逃げて行くだけだ。俺にそんなつもりないのに」
 他には、とユリウスがせがむ。
「そうだな。チビがあんたを捜しに寮の入口まで来ていた」
 その時に預かったノートを手渡す。
「これを、フィガロが?」
 驚きの表情を浮かべたユリウスがノートをぱらぱらとめくるのを上からひょいと覗き込むと、その日の授業の内容がまとめられていた。
「フィガロがこれをわざわざ? 嬉しいな」
「あまり懇意にするな。親切ほど信用できないものはない」
「嫉妬してくれるのか、タッソ」
 にやにやしながらユリウスは枕の下から取り出した煙草に着火する。その口から煙が吐かれるまでの沈黙を俺はずっと俯いてやり過ごす。掌に爪が食い込むほど拳を握りしめて。
「……そうだよ、嫉妬しているんだよ。チビにも、氏にもな」
 この学校じゃ誰も知らない。
 ユリウスが煙草を手放さない、手放せない、本当の理由。
 俺しか知らない。
「俺は辞めたって良いんだ。こんな学校なんか、もう」
 恥ずかしさをやり過ごすためさりげなく云ったつもりの言葉が大きく響いた。
(学校なんか卒業できなくたって、あんたがあの頃みたいに笑っていれば)。
「駄目だぜ」、唐突にベッドから立ち上がったユリウスが煙草を持っていない右手で俺の前髪を引っ張る。普段の彼からは想像もつかないほど激しい目つきをしている。何も答えずいるとそのことで一層強く前髪を引っ張られ、抵抗しないまま前のめりになった。額で触れた鳩尾が柔らかく凹み、咎められ痛めつけられる感覚も忘れて目を閉じた。
「じゃあ、タッソ。戻りたいか、あんな暮らしでも」
 冷たい手が首の後ろに添えられる。
 あんな暮らし。ユリウスは云うが俺は嫌いじゃなかった。あの頃の俺にはユリウスを笑わせる方法がいくつもあった。ユリウスも屈託なく笑った。
 白百合の香りがすべてを支配してしまう、あの日までは。
「良いじゃないか。生きてさえいられれば、もう良いじゃないか。な、ユリウス。グラン・タウンへ帰ろう」
「本気で云っているのか」
「ああ」
「おれを裏切るのか」
「あんただけ苦痛を強いられることが耐えられないだけだ。夜ごと寮を抜け出してニアガーデンの家に通う。睡眠時間は削られる。煙草の数は減らない。良い成績をおさめても不正だと疑われ、お金のためならどんなことだってするやつだとまで茶化される。ほら、痩せたな、ユリウス」
「誰が苦痛だと云った」
「あんたは弱音を吐かない。だから余計に無理している」
「無理でもしなきゃまた逆戻りだぞ」
「それでも良いって云っているんだ、俺は」
「良いわけ、ないだろ」
 ユリウスは吸い始めたばかりの煙草を皿に押し付け、空いた両掌で両耳をすっぽりふさぐようにして、俺の目がちゃんと自分を見るよう頭を上向かせる。

 目の前のユリウスと、幼いユリウスの幻が重なる。

 柘榴のように割られた背中。
 長いこと仰向けで眠れなかった。
 その背にあった白い羽は悪魔が毟り取って消えたんだ。
『おいで』。
 幽霊なんだろ。
 だからこんなに冷たく美しいのだろ。

「タッソ。おれはあんな生活に戻りたくない。誰も失いたくない」
 アンナの、ようには?
「だからどうしてもルーズベリーを卒業してくれ」
 いなくならないで、アンナのようにはもう誰も、おれの前から。か?
「学歴があれば街で職をもらえるんだ。お金はものと交換できる。物物交換とは違う。自由って、そういうことだ。タッソ。選べるってことだ」
 考え込む俺がいつまでもむっつりしていることをからかうみたいに肋骨を小突いてくる。
「タッソ。最善の選択なんだ。今に分かるさ」
 グラン・タウンでは非合法の職に手を染めたり人身商品となる子供が大半である、という現実に照らし合わせれば俺達のこの状況は例外に過ぎる。それにしても。
「余所見するなよ」
 久々に幼児じみたじゃれ合いに没頭するけれど体はもう幼児のままいられなくて。
 変化を悟られたくなく唐突に体を離した俺を不思議そうに見たユリウスはどういうふうに誤解したのか、何となく淋しそうにした。
「ごめんな。タッソ」
(違う、変わってしまったのは不純な俺のほうなんだ)。
 言葉にならない言葉。

 誰も知らない。
 産まれながらの罪人で、その罪だけが二人を縛り付ける。それなのにユリウスは、俺だけは微かでも安全であるようにと自らの身を汚水に浸す。しかもそうすることで彼はようやく安心するのだった。

 枕から飛び出した羽毛が舞い上がりまた降ってくる。深刻に落ち込んでしまいそうな日々を、モザイクの一つひとつを剥がすみたいに剥がしていって、こういった、取るに足らない冗談であたらしく埋め尽くせたら。
 そうしたら、どんなにかまだマシだろう。

 遊戯の終焉を知ってどちらとも各自のベッドで仰向けになり、上がった息を整える。降り終わらない白い羽はゆっくりと近づいて鼻先に落ち着いた。
「掃除、しなきゃ。羽毛だらけだ」
 両腕をひろげたユリウスは放心したような表情で天井をまっすぐ向いている。
「なあ、タッソ」
「何だ」
「生きてさえいられれば良いだなんて云い方はやめろよ。おれは本当に生きたいんだ。死んでいるのと変わらないように、じゃなくて。もちろんお前にも本当に生きて欲しい。冗談でも、学校を辞めるなんて云うな」
 朝四時のペリドット。
 意識は甘く洗脳され、過つこと知っても近づいてしまう。
 どうして否定できる。
 あんたのやっていることは間違っているから俺は降りる、などと云える。
「無駄な喧嘩はするな。弱い者いじめも。また何か厄介事を起こしたら、おれがお前をみっちり教育してやる」
 俺だって喧嘩なんかしたくない。今こそ不良の頂点と云われるけれど目指してこうなったわけじゃない。気づいたらなっていた。保護者の出資で寮に住まい、休暇には帰省、家族と食卓に笑い合い、明けからまた惰性で勉強に戻るような連中が暇つぶしにユリウスを中傷する。我慢できるわけがなかった。
 やがて俺は自分の立場を利用してユリウスを庇うことを思いついた。悪さをしようとする俺をユリウスは見逃さず粛清するだろう。すかさず教育しようとするだろう。それを見た誰かが、たった一人でも、ユリウスの本当の姿に気づいてくれたら良い。
 これは俺の発する小さなメッセージ。
 ユリウス・シーザーは、優しいやつだ。
 優しすぎて、汚れてしまったんだよ。
 ちゃんと伝わるか、分からないけれど。俺がただの乱暴なやつだってことにしか、ならないかも知れないけれど。
「ここでの学歴があれば、街で十分に働ける」
 天井を向いていた顔がゆっくりと俺に傾く。
「グラン・タウンを抜け出すんだ」
「……」
「な、タッソ。がんばろうな? あとちょっとだぞ」
 ああ、くそ。
 反則だ、そんな笑顔。
 俺は、あの使徒のように、自分を導こうとする者を棄てたりしない。自分のほうが苦しみたい。分かち合うことさえできないのなら。俺のほうが磔に処されたい。俺のほうが彼のために血を流したい。だけど彼は望まない。どんな望みでも叶えてやりたいと思う。しかしその望みというものが、彼自身を傷つけることと同意であるとするなら。俺が彼のために血を流すことを望まないことであるとするならば。
「ああ。ユリウス。約束だ」
 もう後戻りできない。この従兄を前に後戻りなんて、いつだって、俺はできないんだけど。
「うん。約束だな、タッソ」
 届く場所に浮く白い手を握ると、それはまだ少しひんやりとしていた。窓硝子が強風を受けて音を立てた。ココアの香りが満ちていた。聞き取れないほどの声量でユリウスが何か告げた。不覚にも目頭が熱くなった。
 その信頼に対し俺がなしうる唯一のこと。
「絶対に、裏切らないよ」
 そう、絶対に。
 もう二度と、このうつくしいひとをうらぎらないこと。


4 過去

 庭園に白百合が咲き住民の誰からともなく「白の庭園」と呼ぶようになってから地域には良い香りが漂い始めた。初めこそ邸宅建築に良からぬ顔をしていた連中も、その香りによってほだされてゆくように時には庭園の様子を見てみたいからと俺に木の登り方を教わりにさえ来た。またある者は庭園で雇ってもらおうとその門をくぐった。
 空が青く澄み渡り誰の叫び声も聞こえてこない日というのがその地域にも確かに数日おきくらいにあって、そんな時に白の庭園から百合の良い香りが漂ってくると、誰もが天国を信じた。
 氏は子供を愛した。とりわけ貧しい身なりの子供を愛した。時に門は広く開け放たれ、少年少女に限り邸宅と外側を自由に行き来することができた。

 その日は朝から雲ひとつなかった。
 空は青く地は白く、後ろからついてきた老犬さえ庭園を駆け回った。
 俺は、足取り重いユリウスを振り返った。
「なあ、ユリウス。なんだよ、暗いぜ」
「どうしても行くのか?」
「気に入られて養子になれるかもしれないし?」
「だけど、タッソ。やっぱり別の日にしよう。何か、怖い」
「何だ、びびってんのか」
 俺は笑ったがユリウスは笑わなかった。
 しかし今更引き返そうにも、得体の知れぬ紋章の付いた扉はもう目の前にあった。
 人は、どうしてだろう。どんなに不吉を予感しても、いざ扉を目の前にしては足を踏み入れずにいられないのだ。それは、それこそが、扉の持つ魔力なのだろうか。

  「はじめまして」
 窓辺に立った影、若白髪の目立つ頭、いかにも紳士らしい挨拶は身にしみているのだろう、子供相手にも慇懃にふるまった。神経質そうに痩せてはいるものの、食べ物が良いのか肌には艶がある。
 瞬間、何故だか俺はふと、直前に廊下ですれ違った、褐色の肌に金髪碧眼の少年が、シャツの釦を一番上まできっちりと留めていたことを思い出した。見知らぬ少年だった。瞬きの合間に俺とユリウスを一瞥すると何かを呟いたのだが、それが何だったのか聞き取れなかった。
「やあ、よく来たね。掛けなさい」
「あ。はい」
 氏は、マシマロのように柔らかな椅子に深く身を沈めた俺達に色々な形のクッキーをすすめた。
 入口付近には俺達を部屋まで導いた男が置物のように立っていた。黒の法衣に身を包んだ長身の男。髪の間から覗いた瞳が白濁化していた。あの目に見つめられるとぞっとする。見てはいけないものを見たふうに目を逸らした。
「ユリウスも食えよ。これ、おいしいって」
 無口になったユリウスの手にクッキーを握らせる。
「……うん、おいしい」
「だろ?」
 氏は身振りで「もっと食べなさい」とすすめた。
「ところできみたちは友人同士なのかい」
「兄弟だよ」
 俺がそう答えると、氏はどこか納得のいかない顔をした。
「実に美しい」
 そう呟く氏の目はユリウスを射ていた。
 俺はそばかすだらけの痩せっぽちで目つきも悪く、身長ばかりひょろひょろ高くてかわいいところなんか一つもない。それに比べてユリウスは、痩せ気味であるものの骨格的に均整の取れた体つきと、そして何より、美しいペリドットを眼孔に二つも持っていた。
「百合に似ている」
 それから氏は、自分が百合を愛するわけを延々と述べ始めた。俺は次々と出されるお菓子に夢中になり、それどころではなかった。気づくと氏の手がユリウスの肩にあり「見せたいものがある」と隣の部屋へいざなうところだった。
「あちらの部屋で未公開の新種を栽培しているんだ。今のところは特殊な硝子越しでしか生育できない。直射日光は、アレには強すぎるんだよ。朝がたようやく待望の一輪が開花してね。今日出会えたのも何かの縁だ、特別に見せてあげよう」
 きみはまだ空腹だろうからここで食べていなさい。氏は俺に向かってそう云うとテーブルの上の鈴を鳴らした。入口に立っていた黒い男が頷き部屋を出て行く。また何かおいしいものを持ってきてくれるんだろう。
「タッソ」
 氏に導かれたユリウスが肩越しに俺を振り返った。
 俺はお菓子に夢中になっていたので、食べた後で行くよ、とだけ告げた。そう、お菓子に夢中になっていたので。
 ……いや、本当はそれだけじゃない。
 ある日いきなり目の前に現れて兄貴面を始めたユリウスのことを、その時の俺はまだ少し鬱陶しく感じていたのだ。
 俺がユリウスに付き合わなければならないわけはなかった。だと云うのにユリウスは、自分は年上で何でも知っていて何でもできて、だから、年下で弟にあたる孤児のお前を守ってやる、と。そういう態度で接してきた。
 煩わしかった。
 だから、ユリウスが不安そうに俺を振り返った時、俺はほとんどその状況を楽しんでいた。
 楽しみ、見棄てた。
「おい。タッソってば」
「はいはい。全部食べたら後で行くってば」
 しばらくの間ユリウスは俺のことを見ていたけれど、諦めたように隣の部屋へと入って行った。
 二人を飲み込んだドアが閉まると広い部屋は静かになった。
 黒い男が持ってきたカップに口をつけ、中を飲み干す。クッキーの食べ過ぎで喉が乾いていた。香り高い飲料は喉元を通過し胃に流れ込んだ。胃の中にあるクッキーにもその飲み物がしみ込んでいくのが感じられた。

 タッソ!

 その時また呼ばれた気がして顔を上げるがそこには行く手を阻むかのように立ちはだかる無表情の男しかいない。こいつが? いや、そんなことはない。今のは間違いなくユリウスの声だ。ユリウスが、閉ざされたドアの向こうで叫んだのだ。
 その時、部屋の奥で硝子製の何かが続けざまに一つ二つ割れるような耳障りな音がした。
「ユリウス!」
 不吉を感じ咄嗟に椅子から立ち上がろうとして俺はその場にペタンと座り込んでしまった。
 足、動かない。
「案外早くに効いたな」
 黒い男は俺が動けないことを確認すると隣の部屋へ続くドアへと向かった。
 眼球だけ動かし男の動きを追う。男がポケットから何か取り出すのが見えた。
 鍵。
 足元のおぼつかない俺は毛足の長い絨毯の中に横たわったまま男のことを睨みつけた。
 庭園から響いてくる子供たちの笑い声を遥か遠くに聞いた。もしかするともう二度と自分達はああいうふうに笑わなくなるかも知れない。それこそがユリウスの感じていた恐怖の正体であることに俺はようやく気付いたのだった。


5 現在

「タッソ。眠れねえよ。そんなにじっと見つめられちゃ」
 浅い眠りから目を覚ました、私立セント・ルーズベリー音楽宮第二学年のユリウス・シーザーは呂律の回らない舌で云った。半分まどろみの中にあるんだろう。焦点の定まらないままゆっくりと瞬く。
「仕返しする隙をうかがっていたところだ。毎回やられっぱなしじゃ割に合わないからな」
「授業、さぼんなよ?」
「あんたに云われたかないよ。常習者のユリウス・シーザー」
「お互い様だな。不良のタッソ・トルーバー」
 枕に流れる黒髪を窓から射し込んだ最初の光が輝かせる。
 夜が終わる。
 終わらない夜を抱えた俺達の日常でもちゃんと。
「あ、日の出だな。タッソ。久々にこの部屋で迎えた気がする」
「そう云われたら、そうか」
「タッソさ、ちゃんと眠ってないだろう」
「俺のことは気にするな。ふん」
「タッソ」
「何だ」
「ターッソ?」
「……。今から俺はタッソじゃない」
「ははっ。おまえ本当にかわいいよな」
「寝ろってば」
「寝たら襲うだろ」
「あのな、あんたな」
 もしもあの記憶がまとわりついてこなければ、俺だって云えるのに。
 白百合みたいだ、って。
 皮肉な花ことばも皮肉になることもなく。

  ユリウスが閉じ込められ俺が睡眠薬で眠らされたあの日から数日間、日々はそれまでと同じく怠惰に過ぎた。だが一時期だけユリウスにこんなことがあった。自分から強烈に百合が香ると聞かないことが。まず腕を掻き、頬を首を胸を腹を脚を、ひどい時は血が出るまで掻き毟った。俺は、汚れているというのは気のせいだよ気のせいなんだよと云い聞かせ、身辺にある刃物やその他切っ先の鋭利なものすべてを隠し、一緒に眠った。朝になってユリウスがたてる規則正しい寝息を聞くとき俺は、疑いようもなく世界一幸せな少年。

 ユリウスがブランケットから手を出した。
 握られていたのは緑の石のペンダント。
「これ、やる。タッソ」
「って、それはずっと前、俺があんたにやったやつだぜ」
 ユリウスはお構いなしに「こっち、こっち」と手招き、自分の手の届く位置に俺の首を持ってこさせた。両腕の皮膚からほんのりとぬくもりが立ち上ってくる。

 あの日、俺とユリウスが氏の邸宅を初めて訪れた日の帰り道。「タッソ。おれ」、太陽が沈む最後の瞬間に、半歩後ろで歩みを止めたユリウスはたっぷりと濡れた幼い目で俺のことをまっすぐ見てきっぱりとこう云ったのだ。
「タッソ。おれ。あの花のにおい、きらい」。
 その翌日から今日まで、ユリウスは一日たりとも煙草を欠かさない。
 肌に染みた白い花の香りを消すための、灰色の煙。

「……っ、」
 素肌から直接に立ち上ってくる芳しさに吸い寄せられてうっかり上体のバランスを崩した俺は、慌てて枕もとに手を付いた。
「忘れるもんか。これはタッソがおれにくれたいちばん最初の誕生日プレゼントだからな、ほら」
 首から垂れた石は朝の光を受け、ユリウスの顔に薄緑の反射を散らしている。
「……ユリウス」
「どうした」
「あんたは綺麗だよ。本当に、世界一、綺麗なんだよ」
「兄貴を口説いてどうすんだ」
「嘘じゃ、ないんだ」
 ユリウスは一瞬の不思議そうな顔を笑顔に変えて、
「そうだ。今日、誕生日だろう。タッソ」
 頬に唇の感触を受けたのは、その直後。
「おめでとうな。で、これからも、よろしく」
 耳朶に唇が触れる距離、掠れ声が囁く。
 この従兄、悪戯が過ぎる!


6 過去

 氏の邸宅から帰って数日間、ユリウスは姿を見せなかった。橋の下、いつも隣にあるはずの体分のスペースに不安を抱えながら俺は、もし見つめる川面に見慣れた体が浮いているようなことがあったらその時は氏の邸宅に放火するつもりだった。いっそグラン・タウンごと燃やしてやろう。それくらいのことで誰も損をしないだろう。
 しかし数日後ユリウスは何食わぬ顔をして帰ってきた。
「見ろ。人生を変える切符だ」
「はあ? 何だ、これ。文字なんか読めないぜ」
 文字が読めないのは学んだことのないユリウスも同じだ。切符、と云われて電車の切符しか思い浮かばなかったが、何やら文字がこまごま書き連ねられている。街頭でこれを配布していた人が云うところによると、それは、とある学校の入学要綱らしいのだが。
「おいおい、学校だって? 誰に何を吹きこまれたんだよ」
 だいたいそんな重要なもの道端で配るかよ普通。
 俺が云うとユリウスは、だからだよ、と目を細めた。
「だからだよ。これはな、セント・ルーズベリー音楽宮の入学要綱なんだ」


7 現在

「ユリウス。朝のピアノ練習、今日はやめとくか? 顔色、悪い」
 昨夜から今朝にかけてユリウスの睡眠はほんの数時間。入学してからこんな日が続く。
「顔が悪いお前よりましだ。当然行くから準備しとけ」
 はあ。云わんこっちゃない。休養を取るよう暗に誘導しても決して弱音を吐かない。その性格はもとからだったが、ルーズベリーに入ってからますますその性質が強くなったように思う。
「ああ、分かった。準備しておく」
 でもあとちょっと寝かせろ、と欠伸混じりに云うユリウスの体にブランケットをきちんと掛け直し、制服の準備をした。白いシャツと紺色のズボン。
 ルーズベリーには服装に関する厳しい規律はない。外来者を招いての行事が催される日は全員セーラー服での出席が原則だが、これが買うとなるとなかなか高価な代物だ。俺もユリウスも持っていないので出席が認められない。その時期は授業も削られることが多く、存分に惰眠をむさぼっている。
 だが緑の祭典だけは別だ。これに限ってはセーラー服でなければならないという決まりがない。ユリウスが張り切って合唱団の伴奏に立候補した理由もこれだ。合唱団の伴奏役なんかガキの世話込みでろくなもんじゃない、と止めたがユリウスがどうしても参加したがった。応援してくれないのか、と残念そうな顔をされると俺は応援する他なくなってしまう。
 ユリウスに哀しい顔をさせるくらいなら存在しない方がマシだ。
 もし俺の命に、この存在に何か意味があるとするならばそれは、もうユリウスを哀しませないこと。ユリウスを哀しませる可能性のあるものを彼の周辺から排除していくこと。何を懸けても。だって、それくらいのことを、俺はユリウスに以前してもらったから。
「であるとするならば、死さえ至福。……なんてな」
 シャツの皺を伸ばした後で青のリボンタイも忘れず準備する。入学式で新入生全員に配布されたものだ。これだけは毎日着用することになっている。「ルーズベリーの誇り」と呼ばれるものだ。
 出席できるか分からないけれど、一応すべての授業の教科書やノートも準備する。
 フィガロのノートが存在を主張するように床の上に落ちた。
「まったく余計な世話だぜ」
 あのチビが何を企んでいるのかは分からないが俺があんまり手酷く扱い寄り付かなくなるとユリウスががっかりするおそれがある。監視しつつもある程度は許容する必要がありそうだ。
「ふん、くだらねえ」
 すべての準備を終えてもまだ時間があったのでお湯を沸かす。
「こいつ実は手先がすっごく器用なんだ」、ユリウスが誰かに自分のことをそう紹介する度に 料理のレパートリーが一つずつ増えていった。お陰でルーズベリー食堂のコック連中とは随分仲良くなった。彼等は、ペトロス寮からコッティ・カップのお墨付シェフを輩出するぞ、と意気込んでいる。冗談だろうと流すけれど、たまに本気で考えないこともない。
 もしも。
 もしもいつか自分のレストランを持つことができたら、店は街を見下ろす丘の上に建てる。外壁は日差しを照り返すほどの白。内装は青が基調。窓を広く取り、家具はアンティーク調のものを揃えよう。すべての食器に店名を小さく入れ、テーブルには一輪ざしを置くのだ。店の一角にピアノを置いても良いかも知れない。従業員にはユリウスの顔を覚えさせる。贔屓させるためだ。店の二階は住居にするから、ピアノは何時間弾いても構わない。夜通しでも構わない。月の見える夜は飲み物を持ち出してバルコニーで、過去について語り合えば良い。こんなことがあったな、あんなことがあったな、って、笑って話せていれば良い。いつか。
「周りが呆れるくらい、いつか甘やかしたいんだ……」
 キスの感触が消えない頬を撫で、緩みそうになる表情を引き締める。ばか、朝っぱらから浮かれ過ぎだ、俺。
「でも、本当に、良かった」
 本当に生きたいんだ、そう云ったペリドットの瞳。一度決めたら二度と迷わないまっすぐな眼差し。
 歪められて、どうして歪まなかったんだろう。

 本当に生きたい、か。そうだな。
 そうだよ、あんたはいつだって俺の正解なんだ。
 この先何が待ち構えていても、本当に生きたい。ルーズベリーに誘ってくれたユリウスを裏切ることのないように。靴磨きや煙突掃除などを二人で数十か月続けて稼いだお金。たまにユリウスは一人で夜に出かけた。朝になるとひょっこり帰ってきて「おれすごいだろ、いっぺんにこんなに稼いできた」と自慢げに数枚の紙幣を振って見せた。そんなにも多くの金額をどこでどう稼いできたのか、あの頃ユリウスは決して教えてはくれなかった。お前が真似したらお前まで稼いでしまって困る、だとか、訊ねるたびにはぐらかされた。だけど今なら分かる。ユリウスがどんなことをして一晩で「いっぺんに」あれだけのお金を稼いできたか。そうでなきゃ、貯まらない。靴磨きや煙突掃除で稼げる額なんてたかが知れている。
 先に俺だけを入学させてからグラン・タウンで一人になって、あの後ユリウスはどうやって生活したのだろう。住処としていた橋は大雨があった際に流され、移動を余儀なくされた。色々と案じていると「ルーズベリーで三食付きだってな。お前の貧弱な体もやっとどうにかなってきたぜ」と云ってユリウスは、俺の、当時は今より痩せていた脇腹をつついておちょくった。
 勿論、子供の稼ぎで七年分の学費を賄えるわけはない。入学してから今もユリウスが氏の「仕事」を「手伝」い続けることで俺達の学校生活は成り立っている。認めたくはないけれど、氏のおかげで俺達はこうしてルーズベリーでの生活を続けていられるのだ。ふかふかのベッド。おいしい三食。守られた聖域。学習と音楽。ユリウスと一緒。
 俺が入学する前と、入学する時と、入学してから約二年後のあの事件の日と。ユリウスは三度も俺を救った。
 そう、決して忘れてはならない、俺の入学二年後のあの事件。
 それこそが、俺とユリウスと、そして、ベッセルの秘密。
 あの事件以来ベッセルに謝罪し続けている。今までも、これからも。一方ベッセルは俺達を公衆の面前で非難するようなことはしない。もしもベッセルがすべてを暴露したならば、俺もユリウスも、もはや一日だってルーズベリーにいられなかったろう。だけどベッセルはそれをしない。ただじっと忘れないでいる。何度謝罪しようが、何度夜を越えようが、俺とユリウスのしたことが許される日などくるわけがない。きてはならないんだ。
 あの日あの時、俺はベッセルを見た。
 ミント・グリーンの瞳。
 澄み渡った空の下、ほんの一瞬だけ目が合った。
 それは、咎めてくるようなものではなくむしろ咎めを恐れる者の目つきだった。

「今日は、何も、これ以上思い出すな」
 自分に云い聞かせ、首に垂らされた緑の石を握りしめる。
「……咲いているな」
 窓を全開にした。
 暖かな風にユリウスが身じろぐ気配がある。
「おい、ユリウス。そろそろ時間だ」
「うん、いや」
「どっちだよ。このままじゃ遅刻だぞ。ほら、だらだらしないでさっさと着替える」
「タッソが脱がせろよ」
 春、偽り続けることを隠して。ほんの少しだけ。
「俺を殺す気か」
 突然にユリウスが激しく咳き込んだ。
「どうした、ユリウス」
「何でもない」
「ないわけないだろ。何だよ、今の咳」
「本当に、何でもない」
 平然を装うユリウスを睨み俺はあることを思い出した。
 氏の家で改良種を栽培しているのだと聞いた。
 それが原因か。
「なあ、タッソ」
「おう」
「神はいるのかな」
「いないが、それがどうした。おかしな夢でも見たか」
「いや、どうもしないよ」
「なんだ、嬉しそうな顔して」
「嬉しいんだ。ありがとうな、タッソ」
 ルーズベリーの青いリボンが、壁にかかった制服の胸元で柔らかな風に揺れていた。

 ユリウスが再び寝息を立てたのを確認した俺は、サイドテーブルの抽斗を開けてみた。手元に精油の小瓶が一つ転がってくる。栓を抜き中を嗅いでみる。疑念は確信へ近づき、ユリウスの机の前に立った。ちらりと振り返り確認するが本人が目覚める気配はない。思いきって探ってみるがそれらしき物は見当たらない。安堵し床に座り込んだ。確信へ近づいていた疑惑は単なる疑惑の位置に戻ってきた。
 だが俺は見つける。
 ベッドの下に小箱があり、腕を入れて引きずり出した。蓋を開けるとそこにはさきほど見た小瓶が一ダースは並んでいた。
 俺は黙って小箱を元の位置に戻し、サイドテーブルの抽斗も閉め終え、ユリウスの寝顔を見下ろした。睨もうとしたけれどどうしてもできなかった。

 だって、ユリウスの寝顔はあの頃から変わっていない。
 悪意も疑惑も。
 深刻な軽率も怠惰に見えるほどの一途も。
 その成長の無さを前に無垢に戻ってしまう。
 誓った以上。
 俺は、この正解を固守する。
 正しくないことが妥当であるくらい、分かっているんだ。

 大丈夫、裏切らないよ。
 あんたが何であろうと。
 絶対に、俺だけはぜったいに裏切らないよ。



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