早朝、ぼくは音楽室の前でもう何分も立ち尽くしていた。もちろん、立ち尽くす必要なんてどこにもないんだけれど、座っていても壁に寄り掛かっていても落ち着かないものだから残る選択肢として立ち尽くすしかなかったんだ。
廊下の窓を開けてみる。顔が出る分だけ外に出すとぼくがいつもいる図書館が見えた。校内にはまだ誰もいない。何か動いているものがないかしら、と目を凝らすと図書館のある校舎の一階に人影が見えた。
「あっ」
第一学年のエーベルハルト・ローゼン。一緒にいるのはクラウスかな、と思いきやどうやら違う。彼よりずっと背が高い。第六、七学年ぐらいかな。褐色の肌に琥珀色の短髪。瞳の色? さすがにここからじゃ分からないよ。何か話し込んでいる様子。こんな時間に。
しばらく観察しているとエーベルが熟考の末に首を横に振ったのが見えた。どうやら上級生がエーベルに対し何かを要求しているようだ。そしてエーベルは彼からの要求に対し乗り気ではない。何度か首を横に振っているけれど、どうも弱腰だ。強く出られない相手なのかも知れない。同級生だけじゃなく上級生相手にも怯まないことで有名なエーベルなのにな。
「あっ、これってもしや脅迫現場じゃ……」
なんとかしなければ、というよりも、見つかったら自分の身も危ないな、という考えが先に働いてぼくはさらに身を縮めた。
それにしてもあの上級生、遠目にも雰囲気が凛としている。立ち居振る舞いから自信があふれている感じ。
ついに、エーベルが頷いた。
見届けた上級生はエーベルの肩を叩いて去った。残されたエーベルはしばらくその場所に立っていたけれど結局上級生の後を付いて行った。
ぼくは屈していた膝を伸ばしながら、窓を閉めかける。
「うーん、こんな朝っぱらから、一体何話していたんだろ、っと。ん?」
その時、すっ、と視界が白くなった。
それが誰の手かを確認するより先にほのかな白百合の香りが鼻腔をくすぐる。
「なあにが見えた?」
「ぎゃっ。ゆ、ユリウ、ス! ひ、ひさしぶり」
いろいろなパターンを考えた結果、何事もなかったかのようにふるまうのが一番だろうということでアロン相手に何度も「さりげない挨拶」の練習を重ねたのだけれど、結局名前すらちゃんと呼ぶことができなかった。深夜にまで及んだ練習ではうまくいったのに。もちろんそれは相手がアロンだから、ということもあるのだろうけれど。
「えっと、ぼく、あの、ユリウスに云いたいことがあって待っていたんだ!」
数日前の合唱団選抜では、たくさんの生徒の前で、仲直りを求めて差し出されたユリウスの手を払いのけてしまった。入り口ですれ違ったローレンツの言葉も無視して、踊り場でひとり後悔して泣いたんだ。
それからのぼくはテオが云うようにまったく陰鬱だった。基本的に明るい性格ではないといった自覚はあるものの、ぼくだって人間なのだから喜怒哀楽の波はある。しかし今回の下降具合はちょっと尋常じゃなかった。そりゃあテオが苛立つのも無理はない。(宿題も手に付かない状態で、毎回のようにテオのノートを写させてもらっていた。正解率の高さが不自然で却って先生に怪しまれてからというものは適度に不正解を紛れ込ませるまでになった)。そんなぼくを見かねてか、テオはぼくがエーベルの代替で合唱団に入ることを許可してくれ、事前レッスンまで設けてくれた。
「あとはきみがアイツに会って、云いたいことを云うだけだ」。
万全の状況を作り上げてから、テオはそう云ってくれた。本当に、ママみたいにぼくの性格をよく読んでいる。ちょっとでも隙があったら、ぼくは野兎のように逃げて行くよ。
「おれに、云いたいこと?」
「う、うん」
ぼくは思い切って顔を上げた。
ユリウスがぼくをじっと見下ろしている。
目線が合っただけで、全身が、かあっと熱くなった。
「あ、あのっ。……お、おはようございまさあっ」
ああ、ユリウスに挨拶できたよ、アロン。
(絶対なんかおかしかったけど! うう)
朝の光の中でおそるおそる見上げた彼は自然に微笑んでいて、ぼくは俯き、ぎゅっと目を瞑る。
「うん。おはようございまさあ? フィガロ?」
ユリウスがくすくす笑っているのでつられて笑った。
挨拶した相手から挨拶がかえってくる。それだけのことがどうしてこんなに嬉しくて、それだけを夢見ている間はどうしてあんなに心細く不安だったんだろう。
「き、今日から、ユリウスのレッスン、受けて良いかな?」
「どうぞ。話はアロンから聞いているよ」
ユリウスは閉めかけの窓を閉めようとぼくの頭越しに手を伸ばした。体がかぶさり、首から垂れたリボンタイがぼくの鼻先を掠めた。
白百合。
洗いたての首筋。
「云ってくれれば早く来たのに。ごめん、待たせたね」
真上から掠れた声が降ってくる。窓硝子に右手をついたユリウスがぼくのことを見下ろしていた。こすった跡か目の縁が赤い。それに、今更だけど目の形が本当に綺麗。下向きに生えた長い睫毛が瞳の上にかぶさって、切れ上がった目尻にも優しく穏やかな印象を与えている。
ユリウス、あんまり寝てないのかな。
「う、ううん。ぼくが勝手に待っていたんだよ。えっと。あ、謝らなくちゃと思って。ぼく、あの時きみに対してひどいこと云ったよね。本当はすっごく嬉しかったんだ。きみがぼくの名前を覚えていてくれたことも、手紙を読んで笑わなかったことも、それから、話しかけてくれることも。そういうことぜんぶ嬉しくて、きみと約束を結べたことも嬉しくて、舞い上がっちゃって、だから、きみの事情も聞かず、約束を破ったことだけ責めて一方的に怒って、本当に、ごめ、」
ごめん、と先に謝ったのはユリウスだった。
「約束を守らなかったのはおれだよ。本当に、ごめん。また話し掛けてもらえて、嬉しい」
目を伏せたユリウスが静かに笑った。
それを見たぼくの胸は一度に千本の針に刺されたように痛んだ。だってユリウスは笑うほど淋しそうに見える。きみがそこにいるだけで嬉しい人間が目の前にいるよ。そう伝えてあげたい。伝えたらきみはどんな顔をするかな。伝えたら、もうそんな淋しそうに笑わないかな。
「ぼ、ぼくの方こそ、ユリウス、あの、ありがとう!」
「どういたしまして。さ、入ろうか」
踵を返したユリウスはポケットから取り出した鍵で音楽室の扉を開ける。早朝の練習を理由に先生から預かっているらしい。思えば音楽担当のラウエル先生もユリウスをすごく気に入っている。この学校の先生は生徒への態度がはっきりしている。そんな中でもテオのようにすべての先生からかわいがられる生徒もあれば、ユリウスのように一部の先生からは嫌味の的にされる生徒もいる。
そもそもユリウスってこの学校に特別な経路で入学したんだ。アロンに聞いた話だけど。アロンって人脈があるから色んな裏話を知っているんだよね。それを悪用するような人物じゃないけれど、よくもそんなことまで知ってるよな、ってくらいに知っていることがあるので、彼の発言に関して真偽のほどは常に定かでないと肝に銘じておいた方がいい。そんな「真偽のほどが定かではない」アロンの話によると、ユリウスとタッソは正規の入学試験を受験せずにルーズベリーに入学したみたいなんだ。
歴史と実績あるルーズベリーの入学試験では通常入学、途中入学かかわらずすべての受験者に対し、筆記・実技・面接試験が行われる。もちろんぼくもこれらをすべて受けた。(今となっては自分でもよくこのプレッシャーに耐えたなと思う!)。
じゃあユリウスとタッソはどういうルートをたどったかというとテオに確認したところによると「正規」であることに変わりはないらしいけれど、実際の入学者の比率としては特殊。入学要綱に記される入学条件の項目第三条「Ⅲ 何らかの事情によりⅡを受験できないが、学校長との面談で適性を認められる者」として合格したんだ。この場合受験者は筆記も実技も面談もパスできる。学校長の一存で入学できちゃうんだ。
ユリウスが特異な存在とみなされる理由って、そういうところにも根拠があるらしい。もちろん喫煙(ユリウスにとって煙草はトレードマークですらある)をはじめとして他の日常態度も決して褒められたものばかりじゃないけれど、下級生からは人気だし学校長に贔屓されているし、校内における独立組織であるところの生徒会もそうあからさまに険悪な態度をとることもできない。
ルーズベリー音楽宮が他の音楽宮と異なっている第一の特徴は、入学時に何よりもまず生徒個人の素質を見てくれる、っていうところだ。そもそもルーズベリーの初代学校長が孤児院出身の方なんだ。(入学式で手渡された「ルーズベリーの歴史」で読んだ)。そういうわけで、かえって幅広い視点が養える、と、例えばエーベルだとかクラウスだとか、上流階級の令息が興味を持って入学してくることもある。この二人、初等過程は専門の家庭教師に自宅で教えてもらったらしい。道理でちょっと集団生活に慣れていないっていうか、わがままなところがあるんだよな、特にエーベル! クラウスはまだ周りが見えている方なんだけど。
それにしてもエーベル、さっきあの人と何を話していたのだろう。
「あっ」
ぼくはふと、エーベルと話していた上級生の正体が分かった。
「ララ・クロウ。生徒会会長だ!」
ルーズベリーのベイシック・セーラーカラーってネイビーだけど、彼の肌には白が似合う。瞳の色は南国の海。そうだ、あの青だ。褐色の肌、琥珀の短髪、マリンブルーの瞳。彼、三年連続で生徒会会長をつとめている。
そのララ・クロウが第一学年のエーベルと一体どんな接点があって何を話していたというのだろう。
もやもや考えながら、後でアロンに報告してすっきりしよう、と決めた。
今は、ユリウスとのレッスンに集中したい。二人だけの貴重な時間を、一秒も無駄にしたくはない。
ふたりだけのレッスン……どきどきするなあ。何を話そう。ああ、これからはユリウスと普通に話していいんだ。だってさっき仲直りできたんだもんね。えへへ。
ユリウスに付いて音楽室に入ろうとしたところでぼくはふと背後に巨大な気配を感じ振り返った。
「ん? ……ひぎゃあああっ!」
「……せわしない奴だな」
しまった、ユリウス・シーザーの陰にタッソあり、の大原則をすっかり忘れてしまっていた。何もやましいことはしていないはずなのに、一部始終タッソに見られていたと考えるだけで顔から火が出る。ユリウスと会話できたことで頭が混乱しており、半径一メートル以内のものしか見えていなかったみたいだ。タッソも黙ってないでなんとか云ってくれたら良いのに……って、気づかないぼくもぼくか。
ぼくがあたふたしているのを不思議がったユリウスは振り返ると、ああ、と何てことないように呟いた。
「おとなしく自習するだけだから。気にしなくて良いよ」
って、気になるよっ。
びくびくしながら音楽室に入るぼくの後に、二人分の勉強道具を抱えたタッソが続く。
三人だけの音楽室は広く見える。(タッソを普通の生徒二人分と換算しても)。
この空気、とユリウスは思いっきり背伸びをして天井を仰いだ。なんか、猫みたい。一つ一つの動作に目を奪われてしまうぼくを、タッソがいかにも不快そうにじいっと睨んでくる。
「ふん、ユリウスは連日寝不足で疲れてんだ。それをお前のレッスンなんかにつきあわされちゃたまんねえよな」
うう。
「さ、歌い方に関してはベッセルに習ったんだろ?」
ぼくらの対立になど無頓着なユリウスはピアノの前に腰かけて首を傾げた。
(あ、今回はちゃんと椅子に座ってる)。
鍵盤の白と黒。ユリウスの肌と髪。早朝の清廉な空気の中で色彩の対比が高価な絵画のように整っている様子に、はっとなる。
それから、ユリウスがテオの名前を呼ぶ響きにも。
テオは、ユリウスのことをアイツとしか呼ばないのに。ユリウスは、テオに引け目を感じているような節がある。それがぼくの勘違いでなければ。
「フィガロ? 何をぼうっとしているのさ」
「あ、ごめん、ユリウス」
「もしや待ちくたびれたな」
ぼくが急に暗い顔をした理由を誤解してユリウスは、
「それでは、きみの目覚めのために」
彼の膝からその白い手が、風に舞うハンカチーフみたいにふわりと持ち上がる。
Por Una Cabeza
指先よりもその横顔から目が離せなかった。
「アンナがよく聴いていてね。覚えてしまった」
最後の一節を弾き終えた手を膝上に戻しユリウスが語り出す。
「アンナ?」
「母親だよ」
へえ。ユリウスのママか。きっと綺麗なひとだろうな。
「今は、いないんだけど」
「いないの? 旅行? お仕事?」
「アンナは、」
「ごほん!」、タッソが咳ばらいする。ユリウスはアンナについての話を止め、ぼくに体を向けた。背もたれに片肘をのせ、話をせがむ子供の目をする。
「フィガロ。きみに兄弟は?」
「えっ、ぼ、ぼく?」
人の話を聞くのは好きだけれど、話すのは苦手だ。でもせっかくユリウスが質問してくれたのだから頑張る。
「え、えっと。ぼくを入れて四人。こう見えて弟が三人いるんだ。最悪に頼りない兄だよね。弟達の方がしっかりしているんだよ。ああ、いっそぼくが末っ子だったら良いのに。そうしたらもっと気楽な人生……」
四人、とユリウスが目を輝かせた。
「家はさぞ賑やかだろうな。赤ん坊の世話には慣れて?」
「やむなくね。寮に入ってからは世話する機会もないけど」
「家に両親はいるのか」
「う、うん。そりゃ、いるけど」
「食事は毎日一緒に?」
家についての質問を重ねるユリウスの表情はだんだん明るくなってくる。ぼくは不思議に感じながらも答えていった。
「えっ、食事? う、うん。一緒に食べるもんじゃ、ないの?」
当然だと思っていたことを当然のように答えるとユリウスは満足そうに笑った。
「道理でフィガロからは家のにおいがするわけだ」
「えっ。ぼ、ぼく、なんか臭い?」
「いや? おれの知らない、良いにおいだよ」
それでもぼくは心配になって服の袖をくんくん嗅いだ。一応毎日替えているんだけどな。もしかしてぼくってすごく体臭があるとか。うう、後でアロンに訊こう。
「あ、でも、兄弟の多さではアロンが上だよ。彼のところは弟が六人もいるんだ」
ああ、ぼくのばか。アロンの家族構成まで披露する必要ないじゃないか。隠す必要もないけど。
「そ、それに、ユリウスも良い匂いがするよ。白百合の匂い……なんだかユリウスにぴったりの匂いだよね」
あ、あれ。何か変なこと云っちゃったのかな。
乗り出していた姿勢を正したユリウスはポケットから煙草を抜き出すと立ち上がった。一体何を、と思っているとタッソが擦ったマッチに火をもらうところだった。
「フィガロ・ルーイッツ。きみに夢はある?」
「えっ。今度は、夢? 今日は質問が多いね」
フィガロの話を聞くが楽しいんだよ、とユリウスは投げキスの仕草で煙を吐いた。まったく、ぼくの気持ち分かっているのかいないのか。ユリウスって鋭いようでいて天然なところもあるし一喜一憂しているとこっちの身が持たないよ。
「ぼく、作家になりたいと思っていて」
「へえ。素敵な夢だな」
長い脚を組み直しユリウスは云い直す、「いや、夢ってやつがそもそも素敵なものなんだ」。
手紙を読んだ時と同じ。あの時もユリウスは同じように云ってくれた。
ぼくはきみのそういうところこそ素敵だと思う。
「ゆ、ユリウスにも、夢が?」
「あるよ。でもその前にここを、ちゃんと卒業しないと」
「卒業のことまでもう考えているんだ!」
ぼくは目の前の試験とか行事でいつも手一杯で、一年先のことさえ考えられていない。まして卒業なんて、まだまだ先のことであるような気がする。
「夢って、どんな?」
「まだ教えない」
ただの夢さ、と呟いたユリウスの手がタッソの寝癖を弄ぶ。
その様子を見せつけられたぼくは思わず叫んでいた。
「そ、その夢、実現できるよ、絶対!」
「聞いてもないのに分かるの? きみ、すごいね」
一瞬呆けていたユリウスは目を細めて首を傾いだ。自分の発言のあいまいさに気づいたぼくの体温はじわじわと上昇したのだった。