ここからは星が見えない、ということにチハヤが気づいたのは、サクラダ邸のベッドで寝た日々を思い出したからだ。
あの窓からはうっすらとだが星が見えた。もしも空がつくりものであるなら星は必要なかったろうし、必要と感じてつくるのならもっと輝かせても良い筈だった。
あちらの星にも同じような家があって窓があってベッドに寝転んでこちらを見て同じことを考えている誰かがいるかも知れない。そんなふうに考えては舌を動かしたが、隣で眠るジオに伝えることはできなかった。
自分が誰かの隣で眠る日がくるなんて、チハヤは考えたことがなかった。
アイル33Iでは誰もチハヤに寄り付かなかった。チハヤはそのことを気にしなかったが、ナナタと知り合ってからは考え方も少しずつ変わっていった。知らないふりをしていたのではなく、自分がひとりであるということを本当に知らなかったのだ。レンやナオに比べると及ばないものの、アイル33Iで唯一喋ることのできたDGとしてのナナタは常に他のCTやDGに囲まれていた。タバタでさえナナタに対しては格別優しかった。しかしそれはナナタが喋れたからではない。喋れるようになったのは、結果なのだ。原因は、近づこうという気もちそのもの、近づくという行為そのものだった。チハヤはそのことに気づいた時もまだ、喋れることを羨ましいと思ったことは一度もなかった。もしも自分が喋れたら、と意識し始めたのはジオに出会い一緒に過ごすようになってからだ。喋りたい、という明確な意志にはまだならない。もしも喋れたら、とたまに仮定するだけだ。ジオは自分との時間をもっと楽しんでくれるだろう。しかしその一方で、今の状態が一番良いのだ、と考える自分もいる。喋れないことを理由に、触れることができなくなってしまう。もしくは、すぐ喧嘩になって仲直りできないかも知れない。チハヤはジオに嫌われたくなかった。少なくとも、ジオに構ってもらえると何故だか自分は嬉しくなるものなのだ、という認識はしていた。
それを何と呼ぶのかは知らない。
「恋だって」
隣のベッドからナオが喋りかけてくる。
タバタは隣の部屋で眠っている。もともとチハヤが使っていた部屋だ。ルーイチとはやはり別に暮らしているようだ。もう一ヶ月も三人暮らしだった。
仰向けの体をナオに向け、チハヤは枕の下に手を入れた。その冷たさが気持ちよかった。あるいは、自分が火照っていたのかも知れない。
「レンの名前には、記号があって、それを別の読み方では、こい、って読むんだって」
手術から一ヶ月経過しても、ナオはちゃんと生きていた。
タバタからも、一ヶ月越せばもう平気だ、ということを云われて喜んでいた。
チハヤもレンもあれから行くあてもなく、今までこの2DKに居候している。最初は邪魔がっていたタバタも食べ盛りの同居人ふたりにねだられ手料理をするようになり、眠りにつくためにラジオのノイズも必要なくなった。
チハヤはふと、ジオはどうしているだろう、と考えた。
あの日サクラダ邸を飛び出してから一度も戻っていない。連絡もしていない。
もう自分のことなど忘れただろうか。
嫌いになって、覚えているだろうか。
どちらでも仕方がないことだと思った。
「あの夜にさ、ここまでチハヤが一緒に走ってくれた時、おれ、すごくうれしかった」
ナオの話は脈絡がない。
寝とぼけているのだろうか、とチハヤは薄暗がりに目を凝らした。
「本当は、もっと前から、うれしかったんだ。チハヤが、追いかけてきてくれた時。いや、違うな。もっと、もっと前だ。お前はおれの友だちだ」
相槌を促された気がしてチハヤはこくりと頷いた。
「そうだ。だから、もう、ジオのとこ戻れよ」
「・・・?」
「友だちは、離れても友だちなんだ」
「・・・」
「おれはあの家に戻れないよ。結構な確率でミセス・サクラダとそりが合わない」
そう云い、ナオは小さく笑った。
「もう少ししたらここも出て行くから。その為に手術してもらったんだ。自分だけでも生きていけるように、って。早く仕事を探して、家を見つけて、友だちもたくさんつくるよ」
また相槌を促されチハヤは頷いた。
「だから、お前はジオのとこ戻れ」
「・・・?」、チハヤには、何が「だから」なのか分からなかった。
「だって、お前、自分で気づいてないもん」
そう云ってナオはくすくす笑った。
チハヤはわけが分からずナオを見つめた。
最後の夜に、ふたりは三つの約束をした。
一つ、しばらく会わなくても名前を忘れないこと。
二つ、ずっと友だちでいること。
三つ、この約束を守ること。
特に始めの約束は、モールの最上階でチハヤが自分を思いだしてくれなかった出来事に起因している。
翌朝、ふたりは2DKを出てターミナルへ向かっていた。
橋の上でナオが立ち止まると、別れる場所はここなのだ、とチハヤも気づいた。
「しばらくはターミナルに近づかない方が良いと思うんだ。ごめんな、見送りできなくて」
ゆうべできなかった分、と云って差し出されたナオの小指をチハヤは不思議そうに眺めた。
「指切りだよ。約束を守るっていう誓い」
それでもチハヤは相変わらず小首を傾げているので、ナオは少し強引にその手を取った。
「何もかもありがとう。本当は、もっと早くお前のこと信用していれば良かったんだ。そうしたら、」
ナオは首を横に振って苦笑した。
「未練がましいな、おれも」
ふたりは小指をほどいた。
「行けよ」、急につっけんどんな物言いでナオがチハヤの肩を押す。
「おれは、泣き虫なんだ」
数歩行ったところで振り返ると怒鳴られたので、チハヤはもう立ち止まらなかった。
ターミナルに近づくにつれ人が多くなる。
広がっていくふたりの距離を、人が、CTが、DGが、RBが、まばらに埋めてゆく。
振り返ったとしてもきっとナオはもう見えなかった。
その時、チハヤと黒塗りの車がすれ違った。
ふいに寒気がした。
気のせい。
あんな車、どこにでもある。
お金持ちは、たくさんいる。
橋を渡り、ターミナルの入り口が近づいてくる。
その時、後方から銃声が聞こえた。
チハヤは立ち止まった。
一瞬だが見えたのだ。
見てもいないものが鮮やかに見えた。
黒塗りの車から降りた人物、ミスター・ノーザン、橋の中央に立っていたナオの腕を取る、ナオは彼の首に噛み付く、思いも掛けない抵抗に驚いたミスター・ノーザン、内ポケットから取りだした護身用ピストルでナオに発砲、橋の上からナオが落下。その後、哀しい水音。
事実ではない。
確認されていないことは事実と呼べない。
想像に過ぎない。
理由などない。
確かでは、ない。
しかし哀しい水音は、した。
確かに、した。
チハヤは立ち止まりも振り返りもせずに歩いた。
そんなことをすればまたナオに怒鳴られるからだ。
人ごみの彼方であってもナオはきっとチハヤを見つけたからだ。
あるいは、泣いている顔を見たくなかったのだ。
友だちの泣いている顔は見たくない。
誰だってそうだ。
見られたくもないだろう。
戻って行って慰めるのは面倒だ。
それに、泣き虫への慰めは、きりがない。
だからチハヤは前だけ向いて歩き続けた、人の流れに逆らって。
立ち止まって振り返れば、きっとナオに怒鳴られるから。
投入口に小銭を入れるため背伸びしようとすると、ふいに体が浮いた。
「きみ、えらいねえ」、チハヤを抱えた後ろの客がそう云ったが、チハヤは何が「えらい」のか分からなかった。
切符を買うことがそんなにえらいことなのだろうか。
チハヤは14番ホームに入り、向かいの13番ホームにいる人々を端から端まで見て歩いた。
その内に懐かしい姿を見つける。
ずっと探していた姿だった。
チハヤは椅子に座ると膝を抱えた。
何も感じず通り過ぎてしまうだろうか、そうしたら、こちらのホームに入るモノレールに乗ってひとりでどこまでも行こう。
それとも気づくだろうか、そうしたら、あちらのホームに入ってどこまでも一緒に行く。
これは、賭けだ。
ずるくてずるくて、震えが走る。
だけど、信じるものが本物なら、こんなずるさ、これくらいのずるさは。
だいじょうぶ。
念じながらじっと見つめる。
歩いていたジオが足を止めた。
彼は耳を澄ませる。
誰かが自分を呼ぶ声がした、いや、そんな気がしただけだ。
このまま通り過ぎてしまえない、そんな気がしただけ。
その時ふたりの視線はきっと同じ線上にあった。
しかし入ってきたモノレールが断ち切る。
何も見えなくなる。
人の流れが速くなる。
チハヤは椅子から立ち上がって、けたたましく鳴り出した胸を押さえ付ける。
おさらいするように唇を動かした。
もしも自分に言葉が喋れたら、最初に何を伝えたい?
何を伝えられるか、じゃなく。
何を伝えたいって、感じてる?
呼吸が不自由になるほど。
鼓動が全身に広がる。
思考が不自由になるほど。
ずっと云いたかったんだ。
手の中で潰された切符が音を立てた。
このモノレールが去ったら。
このモノレールが去って、まだ同じ線上にふたりの視線が合うなら、ぼくはきっと大きな声で叫ぶんだ。